第7話 見え隠れする過去

28 逃げたその後



「先程は取り乱してすみませんでしたっ」


 恥ずかしげに俯いて髪を耳に掛ける女。目の前の相手に何と声を掛けて良いか分からず、曖昧な態度で「いえ」と無難に応じる。そんな月に対して女は丁寧に名刺を差し出してきた。


“○○不動産、営業事務 遠野とおの美来みく


 ご丁寧にどうもと恐縮してそれを受け取った瞬間、月は自らの状況を不意に客観視してハッとした。


 私ったらなんで、この人と喫茶店何か入っちゃってるの!? そして、私は名刺を受け取っちゃった手前、どうすればよいの!?


 そう、月は今レックスと因縁深そうな謎の女・遠野美来と喫茶店の奥まった一角で正面から対峙していた。


 どうしてそんな事になったのか。一言で言ってしまえば、美来が月を離さなかったからだった。







 レックスの広告だらけの広場から二人で駆け出し、月は人目の無いところに移動しようと線路沿いの道を駆け抜け、そこから脇道に入った。途中から目立たないようの早足になり、追手や好奇の目が自分達に向けられていない事を確認してやっと立ち止まった。同時にずっと掴んでいた美来の手首を解放する。


 細かい事は気にせず、先ずはレックスの危機回避をしなくてはという一心で走り出してしまった月。美来相手にどう接するかという具体的なプランは待ち合わせていなかった。よって、何と話しかけて良いのかなどさっぱり頭に浮かんでこず、目を見る事も出来ずにオロオロとする事数秒。


「あの、何で私をここまで連れてきたんですか?」


 美来の方から当然の疑問を投げかけてきて、月は頭の中から掛けるべき言葉を掻き集めた。


「無理矢理引っ張ってきてしまって申し訳ありませんでしたっ。あの場所に居たら、レックスさんが退場した後に近くに居た人たちの興味が私と貴方に移る可能性が多かったので、なりふり構わず手を引いて走り出していました。ついて来て下さって有難うございました」


「でも、興味を持たれて人に群がられる事を避けたかったのなら、私の事は置いて行っても良かったんじゃないですか? 私が人に囲まれて質問攻めにされるところをわざわざ守ってくれたんですか?」


「それはその……」


 ツッコまれたくないところをツッコまれ、月は何と答えるべきかとしばし逡巡する。しかし、結局よい誤魔化し方など思いつかず、素直に答えることしか出来なかった。


「ごめんなさい。貴方のレックスさんに対する様子が少しばかり特殊だったのと、レックスさんが貴方に取った対応が厳しめだったので、その……レックスさんに対する悪感情を持たれたまま人だかりの中心に放置するのが怖くて、つい引っ張ってきてしまいました」


「……つまり貴方は、私があの場で松田くんの悪口を言いふらすかもしれないと心配だったってこと?」


「いえっ、いやっ、その……、あくまでリスク回避で、必ずそうすると思っていた訳ではないんですけどっ」


 不快な思いをさせてしまっているかもしれないと月はしどろもどろになって言い訳を考える。けれども、中々よい案が頭に浮かばず、どうしたものかと内心で頭を抱えた時だった。美来が赤い腫れが目立つ目元を取り出したハンカチで軽く押さえて残っていた涙を軽く拭ったかと思うと、柔らかく笑んだ。


「大丈夫。松田君の悪口なんて言わないから安心して。貴方がここまで引っ張って来てくれなかったら、私は一人でぼんやりしたまま質問攻めにあって今頃困っていたかも。だから、助かりました。ありがとう」


 穏やかに礼を言う美来に月は一瞬見惚れてしまった。


 それまで、まじまじと顔を見ていなかったから気が付かなかったが美来はとても整った見目をした女だった。


 セミロングのふんわりとしつつ艶のあるダークブラウンの髪にぱっちりとした二重の目。小ぶりな小鼻と口元にシャープな顎のライン。涙で崩れてしまっているけれど、派手さのないナチュラルメイクは清潔感があるのにおしゃれな印象で、小柄だけどスタイルも良かった。


 こんな美人がレックスに泣いて話を聞いて欲しいと縋っていたなんて、一体過去に何があったのだろう。そう月は勘繰りそうになって頭を横に振ってその思考を振り払った。


 そんなことはどうでもいい。今は目の前の事に集中しよう。


 月は自分にそう言い聞かせて、過去ではなく目の前の美来に意識を戻した。


 内心を読むことは出来ないけれど、一先ず美来はレックスの悪口を言いふらすような事はしないと明言した。それは現状、美来との浅い関係性で引き出せる最良の言葉と言っても良かった。


 となれば、いつまでも美来を拘束しておくわけにもいかない。


「いえ、とんでもないです。適当に歩いてきてしまいましたけど、駅までの道は分かりますか? ここから――――」


 月は美来と駅までの道順を確認をしてその後すぐに、別れるつもりで口を開いた。しかし、途中でその声が遮られる。


「今駅に向かったらあの広場にいた人とバッタリ会ってしまうかもしれません。なのでもう少し時間を潰してから向かった方が良いと思うの。ほら、丁度良くあそこに喫茶店があるわ。良かったら一緒にどうかな?」


 美来が指差した先を見ると確かにそこにはレトロモダンな雰囲気の喫茶店があった。


 それでも、美来と二人きりでお茶をする気には月にはなれなかった。加えてレックスと交わした食事の予定がどうなるかも気になった。


 そんなタイミングで月のスマホが震えた。慌てて鞄の中を覗き込むと震えていたのは仕事用のスマホだった。取り出して画面を見ると『種田さん(松田様マネージャー)』の文字に月は慌てる。以前にレックスの部屋に出入りするなら自分にも連絡先くらい教えろと半強制的に名刺を掻っ攫われた事を思い出す。打ち解ける前だったので月としてはちょっとした恐怖の体験だった。とはいえ、現状種田に対する苦手意識はほぼなくなったので、表示を見て慌てたのは恐怖からではなかった。


 レックスからではなく種田から連絡が来る。それが意味する事が分からない。けれども、さっきの今で掛かってくる電話が平和な内容だとは到底思えなかった。


 それでも電話に出ないわけにはいかず、月はその場を動く気配がない美来に断りを入れ、数歩ほど距離を取って通話ボタンを押した。


「もしもし、五島で――――」


『やってくれたな馬鹿女』


 開口一番からドスの効いた声が耳に入ってきて月は思わず姿勢を正す。ただ、言われっぱなしにもならないのが最近の月だった。


「私は基本的に何もしてませんよ!」


 しっかりと無実を主張したら身も蓋も無い返事がくる。


『そんな事は知っている。俺がしているのは単なる八つ当たりだ。そして、そもそもアンタがどんよりと幽霊みたいな空気を出して広場に居なかったら、今回の事態は起こらなかった。よって、八つ当たりをされるだけの理由はある』


「……うぅ、否定しづらい牙城を造られたぁ」


 これは甘んじて説教を受けるしか無いのかと覚悟した時、種田の声が急に真面目に低められるた。


『冗談はこのくらいにしておくとして、今日の外食は無しだ。レックスがちょっと外に出せる状態じゃ無い』


「えっ?」


 どういう状況だと問えば、現状種田はコンビニに立ち寄ると言って車外に出て、レックスの目を盗んで電話をしているらしい。


「今、松田さんは?」


『人前に出せるような人相じゃなかったから、頭冷やす為にパソコン渡して編集させている』

 

 仕事をさせておけば少しは落ち着くだろうと溜息混じりに言う種田の声には少なからず疲れがあった。黙って話を聞いていると「これだから女は面倒なんだ」と毒づかれる。どう返事をしてよいのか分からず沈黙を貫くと、種田が珍しく月を褒めるような事を言った。


『とりあえず、さっきは怪しい女からレックスをガードしてくれた事には感謝する。あの場からあの女を遠ざけたのも良い判断だった。今のそっちはどういう状況だ?』


「えっと、その女性とあの広場からある程度遠ざかるまで一緒に移動して、今さっき別れようとしたんですけど……」


『けど?』

 

「喫茶店に誘われてしまって、それをお断りしようとしたタイミングでこの電話を取りました」


『となると、さっきの女はまだ近くに居るのか?』


 問われて居ると答えれば、種田の声が一段低くなった。


『さっさと離れて、家に帰れ。余計な詮索は入れるなよ』


 温度低めな忠告に月は頬を膨らませた。


「詮索なんてするつもりは微塵もありません」


『それは殊勝な事だな。……利口な返事が出来たご褒美情報をやろう』


 まるで犬に話しかけているかのような態度に月は眉間に皺を寄せつつ、種田からのご褒美ほど胡散臭いものは無いと身構える。しかし、次いで受話器から紡がれた言葉によって、眉間の皺は無くなった。代わりに目を見開く。


『無理矢理車に引っ張り込んだレックスが出発をする事を渋ってな、どうしたら出発するんだって聞いたら無事にアンタが広場から出たらするって条件を出された』


 あの状況でレックスは自分の事を気にしてくれていたのか。そう思うと、ふわりと嬉しさが込み上げてきた。しかし、直ぐにそれが引っ込む。


『因みに車を出して以降、レックスはアンタに鬼電してたが全く出なくてイライラした挙句、スマホを後部座席にぶん投げてたからな。ザマァ』


「えぇ!? 嘘っ!? 全然気が付かなかったです」


 直ぐにでも着信を確認したかったが通話中ではそれが出来ない。とんだ失礼を働いてしまったと慌てた月に種田は軽い口調で言い放つ。


『アンタがあの場から離れる為に走っている時に電話に気が付けるほど要領が良いタイプかどうかが分からない程レックスは馬鹿じゃない。今は大分落ち着いてきているし、電話に出れない状態だったって事は分かっているだろう、多分な』


 ディスられつつもフォローをされ、月はなんとも形容し難い気持ちになった。


『まぁ、互いに冷静でない時に電話で話したところで碌な事にならなかっただろうから、電話に出なかった事は一先ず気にするな。そんな事よりかアンタには充分以上に気にした上で、重々気を付けて貰わなきゃならない事がある』


「……何ですか?」


『今後レックスの前でさっきの女の事に関しては触れるな、連想させるな、気にさせるな』


 ぴしゃりと言い放たれた台詞に月は息を呑んだ。


「そんなに……タブーなんですか? 松田さん、種田さんから見てもそんなに様子がおかしかったですか?」


 月は先ほどまでのレックスの姿を思い浮かべ、胸が軋んだ。


 聞こえているはずの美来の声を聞こえない振りをして、逃げるようにその場を去ろうとした。けれども途中で戻ってきて、美来に触れている月に『穢れる』というパワーワードを使って接触を止めさせた。その後は他人行儀に鞄を離せと言う以外は、どんなに声を掛けられても無視の一辺倒。


 どう考えても過去にレックスと美来の間に大きな亀裂が入る何らかの出来事があり、それをレックスが未だに引きずり、許容していないことは明らかだった。


 そしてそれらのやり取りの一部始終を見ていた月と違って、種田が車から出て来たのは人ごみがレックスの進行を妨げてからだ。美来とのやり取りも周囲のざわつきに紛れてほとんど耳には入っていないだろうし、見えてもいないはずだった。にもかかわらず現状の牽制っぷり。それは車に乗り込んでからのレックスの様子が通常とは異なることを種田が感知し、美来の存在がレックスにとって毒にはなっても薬にはなり得ないと判断した結果だということが月には直ぐにわかった。故に現状のレックスが心配で堪らなくなる。


『おかしいかおかしくないかで答えるならおかしかったな。さっきも言ったが今は頭を冷やす為に無理やり仕事をやらせているから基本的には問題はない。けれども、確実にあの女はレックスにとってもアレルギー物質だ。しっかり視認出来た訳じゃないが、知らない顔だった。よってここ最近知り合った女である可能性は限りなく低く、過去になんらかの関係があった女だ。しかも、基本温厚なレックスが全身の毛を逆立てて敵意を剥き出しにてしていた。加えてアンタが電話に出ない間の口汚さは前代未聞だったぞ。とりあえず、あと一時間くらいは仕事に没頭させておく。その後はもしかしたらそっちに電話が行くかもしれないが、下手な刺激は絶対にするな。でもって未だにアンタの傍にいる問題の女と下手に関わるな。アンタもレックスの地雷を踏み抜きたくはないだろう?』


「……はい」


 駆け出す瞬間は美来を連れ出す事でレックスの過去に深く関わってしまうのではないかと予想し、それなりの覚悟をした。しかし、現状は下手に触れず、そっとしておくことが最良のようだった。種田のレックスに対する観察眼は信用できる。よって、月は言われるがまま種田の方針に従うことにした。


「この電話が終わったらすぐにお別れを言って家に帰ります。でもって松田さんにはお仕事が一段落する一時間後くらいにこちらから電話に出られなかったお詫びの連絡をします。勿論刺激するようなことは言いません」


 そう言って月は種田との通話を終え、美来に別れを告げるために振り返ったはずだった。


 しかし、だ。


 一緒に喫茶店には行けないと断りを入れた月の前で美来はまたしても号泣した。


 涙をこれでもかという程流しながら「私が悪いのっ、私があの人を怒らせちゃったのっ」と嗚咽混じりに嘆いた後、周囲の視線が集まる中「貴方が最後の希望の光なのっ。やっと見つけた松田君に繋がる糸口なの! お願い話だけでも聞いてっ。聞いてくれないのなら、私明日から生きていけない!」と地べたに膝を突いて縋られ、再び鞄をがっちりホールドされて離して貰えなくなった。


 どうにか解放されるためにあの手この手で美来から離れようとするも上手くいかず、ほんの少し話を聞くだけだと条件を出し、泣く泣く美来と喫茶店に入ることになってしまったのだった。




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