第3話 大食い企画とマネージャー

10 愛想の悪いマネージャー

 “ムーちゃん”という渾名を受け入れられるようになって以降、月はレックスに悪感情を抱くことは無くなった。そして、水曜日と土曜日に顔を合わせている内に気軽に会話に応じる事が出来るくらいに親しくなる。始めのうちは整った顔を見るだけでドキドキしていたが、見慣れてくるとその動悸は徐々に小さくなり落ち着いてきた。


 月の心境と同じように変化したのはレックスの部屋の様子だった。月が家事代行として出入りするようになってから一月ちょっと。物で溢れかえりゴミもまともに処理されていなかった幾つもの部屋が全て清潔さを取り戻し、ショールームさながらの快適空間に生まれ変わった。当然、月が全ての掃除と整理整頓をした。


 ただ、意外にもレックスは整った状態をしっかりとキープし、毎回の掃除と洗濯には然程の時間が掛からなくなった。作業中に何の気なしにどうやってキープしているかを尋ねてみたところ、汚部屋と化していたのは仕事に重きを置き過ぎる自分の性質と、ここ一年くらいでYouTube以外の仕事が増えて忙しくなり過ぎたせいだと語った。本人曰く、本来は割と綺麗好きだし、整理整頓も元々は嫌いじゃないとのことだ。本当かと若干疑った月だったが、撮影用の部屋と編集部屋が他と比べてかなり綺麗だった事を思い出し、最終的に納得した。どれだけ仕事重視なんだと呆れたが、レックスの仕事好きと忙しさの片鱗を見る機会は度々あり、真剣であると同時に楽しそうなその様子に、いつの間にか尊敬の念を抱くようになっていた。


 そんなこんなで、月のレックス宅での家事代行業務は徐々に料理重視にシフトしていった。六月末となった現在、スーパーで買い物の代行を行い、作り置きのおかずを時間が許す限り作る事が主な業務になっている。レックスの好みを加味した上で栄養バランスを考慮したおかずを作る。月はレックスの健康を陰ながら支える存在になりつつあった。


「……今日はこの鶏胸肉を使って料理を作ればいいんですか?」


 水曜の午後三時。梅雨始めの雨に打たれた後、適温適湿にしっかり調整されたレックスの部屋に入り湿気の不快感から解放され直後の月はキッチンの前で困惑していた。「そうだよ」と笑顔を向けてきたレックスにもう一つ重ねて問う。


「……これ全部、使うんですか?」


 ノーの返事を期待しての問いかけだったが、返ってきた答えはイエス。眼前のキッチンカウンターには山の様に積み上げられた鶏胸肉のパック。一人暮らしのレックスにとって作り置きおかずを作るにしても多すぎる量だ。否、四人家族の作り置きを作るにしても多い。それを今すぐ調理してくれと指示される。普通じゃ有り得ないその指示が意味する事が一つだけ月の頭に思い浮かんだ。


「動画を撮るんですか?」


「そっのとーり。今まで避けてきた大食い企画の撮影をする事にしたんだ!」


 にこにこ笑ってとんでもない事を言い出したレックス。しかも、二重企画にして月が家事代行業者の代表として時間内にどれだけの料理を作り出すことが出来るかということも撮影に織り込むつもりだと飄々と説明してきた。


「そんな話聞いてないですっ。やるにしたってどうして事前に教えてくれなかったんですか!?」


「ムーちゃんの会社にはちゃんと話は通してあるよ。でもって色々話し合った結果、最初は料理を動画外で用意してもらうだけの予定だったけど、会社の宣伝になるからって向こうの方から二重企画を提案してきたんだよ」


 またやってくれたな。営業部長と広報部長の顔を思い浮かべた月はそう思わずにはいられなかった。


 即刻レックスに許可を貰って会社に電話を掛ける。電話に出たのは広報部長。穏やかな口調で、会社としては突然のオーダーにどれだけ対応できるかを披露したいから事前に知らせなかったと飄々と言ってくる。それに対して、メイン食材が鶏胸肉だということさえ黙っていれば良いのであって、自分に対して撮影許可を取るなり事前に心の準備をさせるなりの配慮を何故してくれないのだと訴えれば、「必要だった?」の一言。月はその瞬間自らが務める会社をブラック企業認定した。


 よくよく話を聞くと、広報社員が月宛に撮影に関する詳細をメールで送ったつもりで未送信のまま放置してしまっていたらしい。最終的に申し訳なかったと広報部長が謝罪してきた。加えて、だから後は宜しくと懇願された。


 会社と話し合いをしたところで意味がないと判断した月はレックスに直接詳細確認をしようと電話を切った。すると、そのタイミングで声が掛かった。しかし、それはレックスからではない。


「やっと電話は終わりましたか? 今、アンタと会社の連携不足のせいで五分程時間が無駄になった。今後はその点に留意して発言と行動をして貰いたいものだな」


 棘しかない物言いに思わず肩をビクつかせる。しゃべった人物はこの日初めて顔を合わせた見知らぬスーツ男。部屋に到着するなり興奮した様子のレックスにキッチンに来てくれと急かされて多量の鶏胸肉を見せられた。だから玄関にレックスと並んで立っていたこの男が何者かまだ分かっていなかった。威圧的な雰囲気に俯き加減で「申し訳ありません」と言って体を縮こませる。そこにダイニングテーブルでカメラのセッティングをしていたレックスが戻って来た。


「種ちゃん顔が怖いよ。ムーちゃんに電話していいって許可出したのは俺なんだから怒んないの」


 レックスは気軽な様子で男の肩を叩き、月にその男を紹介した。


 男の名は種田たねだまもる。レックスが所蔵している事務所から派遣されているマネージャーだった。主にスケジュール管理やYouTube以外のメディア対応をしているらしい。見た目は長身でガタイもしっかりしている。短髪の髪をワックスで整えスーツを着こなす姿はレックスと並ばなければイケメンと称されるであろうルックスだ。ただ、基本的に笑顔が多いレックスと対照的にもの凄く愛想が悪い。常に眉間に皺を寄せて、鋭い眼光で月を見下ろしてくる。


 月は種田の視線を気にしながらもレックスに向き直る。


「あの、料理を作るところも企画の内と仰いましたけど、私が作業しているところは・・・」


「今回はバッチリ撮りまーす」


「えぇっ!?」

「はぁっ!?」


 上がった声が自分のものだけではない事に驚いた月は発言権を奪われる。


「レックス、何を考えているんだ!? 動画を投稿する事で万が一にも定期的に若い女を家に上げている事が明るみになったら、ファンが暴れ出すぞ! それが例え家事代行業者だとしてもだ!」


 種田の発言は月が言いたい事とは異なったが、内容的には同意するところだった。しかし、種田の怒気を孕んだ声はさらに続き、雲行きが怪しくなる。


「そもそも、こんな若い女が家に出入りしているなんて俺は聞いていない!! レックス、自分が超が付くほどの有名人だという事をもう少し自覚してくれ。ゴシップと炎上を生みそうな軽率な行動をするなんてらしくない。今からでも遅くない。部屋は充分綺麗になった。家事代行業者を雇うことなんか止めるんだ。もしくは他のスタッフに即刻変更するんだ。男か年配の女にだ」


 突然の契約解除もしくはスタッフチェンジ発言に月は焦った。折角ここでの仕事に慣れてきて、レックスとも親しく慣れた今、どちらを言い渡されたとしても個人的な感情では受け入れたくなかった。どうにか思いとどまってもらえるように説得しなくてはと考えを巡らせる。しかし、妙案が浮かぶ前にレックスが取った行動によって月の思考はぶっ飛んだ。


「えー、ムーちゃんが居ない生活なんてもう考えられないからチェンジとか絶対ない。種ちゃんだって部屋が綺麗になって、俺が健康的なご飯を食べるようになったって喜んでたじゃん」


 レックスは種田に対抗しつつも月に歩み寄り、あろう事が肩に腕を回してきた。それは男の友人にするような気軽な動作だった。しかし、男性慣れしていない月にとって固まるには充分な行為だった。香水の香りがすると同時にレックスの体温が肩と背中にじんわりと伝わってくる。


 折角整った顔面を見てもドギマギしないようになってきたのに、何故またこんなにも心臓を酷使しなくてはならないの!?


 そう思う程度に月は近い距離を意識し、頬に熱を集めドキドキした。ただ、その熱は長続きはしなかった。何故なら種田が氷のように冷たく刃物のように鋭い視線で月を睨んできたからだ。


「……レックス、それとこれとは話が別だ。それに生活環境と食事が改善されたのは家事代行業者を雇ったからであって、個人に固執する必要はない。そもそも、俺は元々赤の他人を家に入れることは反対だったと言っただろう。それでもどうしても部屋のビフォーアフターの動画を撮りたいと言うからこっちは一回きりのつもりで許可を出したんだ。にもかかわらず、俺の預かり知らぬところで定期契約を結び、鍵まで預けたと聞いた時俺がどれほど心配したと思っているんだ。そこからまた話し合って家事代行業者を雇うにあたって俺が何と条件を出したか覚えているか? 代行業者は吟味して選び直し、部屋に出入りするスタッフはより慎重に選出すること、だろ。その時ばっちり問題ないとレックスが言ったんだろ? にもかかわらずスタッフがこんなに若い女だったなんて! あの時問題ないと言ったのは嘘だったのか!?」


 視線で時々月を睨め付けつつ、種田はレックスに説教を始めた。しかし、レックスの方は月の肩を組んだままどこ吹く風だ。


「嘘なんかじゃないよ。ばっちり問題ないから問題ないって言っただけじゃん。確かに、ムーちゃんは若い女の子だから心配する気持ちは分かるよ。俺だって最初は部屋に出入りさせてもパパラッチに食いつかれない男かおばさんの方がいいかなって思ってた。けど、一番仕事が出来るスタッフって条件で連れて来られたのがムーちゃんだったんだもん。でもって、あの魔窟を三時間で隅々まで掃除した上に、プロ意識もしっかりしててさ。俺はこの人にお願いしたいってビビビッときちゃったわけ。それに種ちゃんに言われてからもう一度業者も複数チェックして吟味したんだよ。何件かスタッフさんにも会ったし。それでもやっぱりムーちゃんが一番だったから継続して来てもらってるだけ」


 月の知らない事実が浮上して軽く驚いたが、ヒートアップする種田と未だに肩を離さないレックスに月は一人でアタフタするしかなかった。

 

「何がビビビッだ! そういう誤解を招くような軽薄な物言いをするな。勘違い女が聞いたら、天下のレックスに好意を寄せられているとふざけた解釈をして、あっという間にストーカーの出来上がりだぞ! 鍵だって預けているのに、危険すぎる!」


「あー、はいはい。種ちゃんは相変わらず心配性だね。そういうリアクションされるって分かってたから、どうにかこうにかムーちゃんとの対面遅らせたんだよ」


 ねぇ? と至近距離で顔を覗き込まれながら同意を求められる。求められたところでそんなレックスの内心など知る由もなかった月は反応出来ない。


 レックスからの気軽なスキンシップに赤くなったり、種田のブリザードな視線に青くなったりで、月の体内は大忙しだった。それでもどうにかこうにか体温調整機能を取り戻し、膝を折って身を低くして肩にあったレックスの腕からどうにか逃れた。


「松田さんっ、私は犬や猫ではないですからね! 気安過ぎるからきっと種田さんも心配になるんです。距離感、大切! 私が勘違い女だったら本当に大変ですよ! ちゃんと自衛してください!!」


 レックスと種田から調度中間くらいの位置に立ち、高い位置にあるレックスの顔を仰ぎ見る。種田にストーカーや危険人物扱いされていることに内心ムッとしないこともなかったが、レックスの気安過ぎる行動の方が月にとっては問題だった。しかし、レックスは反省した様子なく、今度は月の肩にぽんと手を載せた。


「ほら、聞いたでしょ種ちゃん! ムーちゃんはしっかり者で常識的だし、何より俺の立場を理解してくれてる。若い女の子だからって理由で追い出す必要なんてないっしょ。ムーちゃんが家に来るようになってから二か月経ったけど、部屋の物が無くなった事なんてないし、俺の個人情報が漏洩したっていう事実も、うちを張ってた記者がおかしな記事をでっち上げたりもしてない。信用するには十分でしょ?」


「しかしっ――」


 種田が尚も言い募ろうとしたところで、レックスがピシャリとその声を遮った。


「ねぇ、ムーちゃんに作業して貰える時間には制限があんの。時間を無駄に出来ないって言ったのは種ちゃんの方が先でしょ? 動画の企画・撮影に関する権利と責任は全て俺持ち。これ以上の文句は撮影が終わってからにしてくんない?」


 月の前に居るときはいつも穏やかな空気を放っているレックスが声を低くし威圧するように種田を見据えた。はじめて見る鋭い目つきに月は自分が睨まれた訳でもないのに肩を窄めてしまう。そして言われた当人である種田は顔色を悪くして押し黙り、一先ず撮影を優先する事を苦虫を噛み潰すように了承した。


 その段になって、月はまだ解決していない問題を思い出す。


「松田さん、料理をしているところを撮影するとおっしゃいましたけど、私の顔や手も映すつもりですか!?」


「いんや、今回顔はぼやかすよ。それから、毎週部屋に来てもらってることも公表しない。種ちゃんが心配する通り嫉妬するファンもいるだろうからね。だから今回特別に企画用に派遣されたスタッフさんとして紹介しようと思ってる。当然名前も出さない。個人特定が怖くてムーちゃんがそうしたいっていうなら、声も入れないで台詞は全部字幕編集するのも全然アリ」


 個人特定されないように取り計らってくれると聞いて月は胸を撫で下ろした。万が一にも自分が出演したことが身近な人間にバレれば、レックスの個人情報を引き出すために何をされるか分かったものではない。そう思考して一拍後、月ははっとした。


「あのっ、それなら他の人達は大丈夫だと思うんですけど、母には私だって気が付かれてしまうかもしれませんっ」


 千穂はレックスの動画は一つ残らず全てしっかり視聴する。前回の部屋掃除の動画もバッチリチェックしていた。そして月の勤め先の名前が出た瞬間もの凄く興奮した様子で詰め寄られ、まさか月がレックスの部屋に入ったのではないだろうなと血走る一歩寸前の目で尋問された。千穂は月が職場で優秀なことを知っている。よって月がレックスの許を訪れた可能性は十分にあると推測し、「自分ではない」と言い張る月にそれはそれはしつこく何度も何度も「本当に違うのか!?」と聞いてきた。その記憶はまだ全く色あせていない。


 そんな千穂は顔にモザイクが掛かっていようが声が聞こえなかろうが、背格好や仕草・料理の手付きだけでそれが月だと感づく可能性が非常に高かった。月としては自分だとバレたところでレックスの個人情報を教えるつもりは毛頭ない。それでも契約以前にレックスが千穂の存在を気にしていた事をしっかり覚えていたため、確認せずにはいられなかった。


 月は千穂がどれほどレックスの動画を真剣に見ているかを語ると同時に手の形だけでも自分だと気が付く可能性があると語る。その発言に食いついたのはレックスではなく種田だった。


「レックス! 既に危険因子がはっきりと存在しているじゃないか! プライベートが脅かされる可能性が大いにある! やはり調理過程の撮影は中止にし、即刻違うスタッフにチェンジするべきだ!」


 声を荒げる種田に月はどこまで信用されていないんだと思わずにはいられなかった。ただ、生じた不快感はレックスによってあっという間に払拭されてしまう。


 今度のレックスは威圧するようなことはなく、苦笑した後、種田に一歩歩み寄った。手を伸ばして種田の顔面をガシッと掴み、ぐらぐら揺さぶった後に放るように手を離した。


「こらこら本当に目を覚ませ種ちゃん。俺に人を見る目があるのは知ってるっしょ? ムーちゃんは信用できるから大丈夫。お母さんにバレたとしても、しっかり事情を説明して俺の事は守ってくれる。そうでしょ?」


 くるりと振り向かれ、月は反射で頷いた。


「はい。身内にだってお客様の個人情報は絶対に公開しませんっ。万が一私から松田さんの個人情報の漏洩があったら、その、えーっと……振り仮名付きフルネームのゼッケンを着けて毎日外出します!!」


 以前にレックスがYouTuber人生を賭けて月の名前を肯定してくれた事を思い出しつつ、月が自らが受ける罰として最も重いものを選んで口にする。口にした瞬間ゾッとしつつ、信用を勝ち取らなくてはと踏ん張って真っ直ぐにレックスを見つめる。「意味が分からない」と種田がぼやく声が耳に入った。ただ、レックスにはしっかりと月が賭けたものの重さが伝わったようで柔らかく微笑まれた。


「ははっ、ありがと。なら安心だ」


 その笑顔が月の覚悟をしっかりと受け止めてくれていた。月にはそう思えた。それになんだか妙に心がほっとしてしまう。そんな月の隙を突いて、レックスは手を腰に当ててにっこり微笑んだ。


「というわけで、これで懸念事項は全て払拭されたということで、早速撮影の詳細について詰めてくから宜しくねムーちゃん」


「えっ、あっ……えぇ!?」


 ここに来て月は自らが動画に映ることを受け入れるか入れないかという、ある種最も重要な点に関して全く吟味していなかったことに気が付いた。しかし、恥ずかしいから映りたくないなどと言える空気は既にどこにもなく、いつの間にかレックスの動画への出演が決定事項となっていた。

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