9 「俺は好きだよ」

 レックスはバケツを持ってリビングに姿を消した。月は手元にある白いウサギのぬいぐるみを一瞥する。どうやらリピートモードは音に反応して喋るらしく、さっきから何度か可愛いふわふわのウサギが『宝物って言ってくれて有難う』とイケメンの声で繰り返している。それがどうにもこそばゆく、裏面にある電源を切った。作業中に蹴り飛ばさないように空になった段ボールの中に一度非難させる。


 レックスが拾い損ねたバケツの中身がまだ部屋の中に残っているのではないかと少しばかり戦々恐々としながら、物置き部屋に戻る。廊下で整理した段ボールの中身を棚に収め、頭を使って様々なジャンルの物品を素早くけれども丁寧に整理整頓していく。棚に収まるものは全て収め、再利用が難しそうな物、何に使うのか分からない物、棚に収まらなかった物を出来る限り段ボールに綺麗にまとめ、部屋の隅に中身が分かるようにして置く。


 月は出来る限りの整頓を終えた室内を見回して満足し、前回同様の達成感を感じながら腕を広げて伸びをする。


 よくぞやり切ったと自分を心の中で褒めて時計を確認すると業務の残り時間は約十五分。予想より遥かに早く物置が片付いた。残りの時間で乾燥機に掛けた洗濯物を畳もうと段ボールの中のウサギを回収して洗面所に向かった。


 洗面所の扉は開いたままになっており、中に人の気配がした。月は中を覗き込む前に廊下の壁を二回ノックした。


「あの、乾燥機の中身を回収して畳みたいのですけど、今は中に入らない方がよろしいでしょうか?」


「んー、大丈夫だよ」


 軽い調子で促され、中に入る。するとレックスは鏡の前で髪のセットをしていた。月が物置内での作業に勤しんでいる間に着替えたようで、ジーンズに黒いパーカー姿になっていた。一瞬顔を見ただけ身だしなみを整えた後だとわかる。ただそれだけなのに、スウェット姿の時よりも少しばかり緊張してしまう。掛ける言葉が見つからなくて、大人しく洗濯物を籠に回収し、そそくさと洗面所を出た。


 アイロンを掛けさせてもらうためにこの日初めてリビングに足を踏み入れる。多少は散らかっている事を覚悟してドアを開け、目に飛び込んできた室内がほぼ前回片付けた時の状態をキープされている事に驚く。思わず立ち止まってキョロキョロと室内全体を見回してしまった。


「綺麗に保ってるでしょ? 今日ムーちゃんに褒めて貰おうと思って頑張ったんだ」


 突然背後から吐息多めの声で囁かれ、体が思いっきりビクつく。二三歩前に踏み出してから恐る恐る背後を振り返る。そうして視覚で捉えた男の見た目に月は心の中で叫ばずにはいられなかった。


 ――――お前は誰だ!!!!


 玄関で抱いた感情とは真逆の叫びが心中で木霊する。レックスのルックスなど見飽きる程知っているはずなのに、生で見るギャップの破壊力に衝撃を受けてしまう。


 ついさっきまでぼさぼさのよろよろだったレックスが夢だったのではないかと思える程のイケメンが立っている。物置部屋で少し会話をした事によって少しレックスに慣れたと感じていた月だったが、地表から上空一万メートルまで飛躍したルックスとオーラに再びドキドキさせられてしまう。


 そんなギャップ男は悪ふざけで出した色っぽい声色を発した直後、くるりと180度放つ雰囲気を切り替えた。磨き上がった尊顔をより一層輝かして褒めて欲しそうに見つめてくる。


 ボールをキャッチした大型犬が褒めて貰うのを待っているかのような目で私を見るな! と訴えたい。月はどうにかこうにか口角を上げた。


「お忙しい中ここまで綺麗に保って頂けたことがとっても嬉しいです」


「う~ん、口調も顔も相変わらず硬い。でも、まぁ、嬉しいって言って貰えたし良しとしよう」


 少し不満そうに眉を顰めたレックスだったが直ぐに笑顔に戻ってキッチンの方に歩いていった。月は落ち着かない心をどうにか鎮めようと試みる。洗濯が業務に入った段階で事前に用意して貰っていたアイロンとアイロン台をリビングのソファ近くに見つけ、それで手早く洗濯物の皺を伸ばす事に集中する。


 徐々にレックスに対する緊張が緩和していく。すると視界に入らない家主が何をしているのかが気になりはじめ、さり気なく室内の気配を窺う。レンジの稼働音が聞こえ、何かを温めているようだった。次第に漂って来た香りからこれから昼食を摂るであろうと判断する。予想通り、レンジから電子音が響くとレックスはダイニングテーブルに着いた。


「作業してる近くで申し訳ないけど、ご飯食べさせてね」


 律儀に月に一言断って食事を始める。気配りが無性にむず痒く感じ、失礼とは分かっていても目を微妙に逸らして返事をして俯いた。


 どうやらまだまだ眠いらしく、食事を進めつつもレックスは大きなあくびを度々していた。


 睡眠時間を削っていたのは仕事のためだと言っていた。疲れも溜まるだろうし、あくびの一つや二つくらい出るだろう。そんな事を考えながらTシャツにアイロンを掛け終えたところて不意にレックスが笑う気配がした。


 床に座って作業をしていた月はその気配に釣られるように顔を上げる。すると箸を持ったレックスと真っ直ぐ目が合う。一瞬ドキリとしたが、視線が合うということはレックスが笑った理由が自分の周囲にあるのだと気が付き、心臓のドキドキの種類が変わる。きょろきょろ周囲を見回しておかしなところがないかを確認していると、聞かずとも理由が語られた。


「ウサギが隣に座ってるのが可愛いなと思って」


 指差されたのは自分の隣に座らせておいたウサギのぬいぐるみ。物置き部屋の掃除が終わった時点で置く場所に迷い、とりあえず自分の側に置いておいたのだ。何を意識したわけではなかったけれど、見下ろしてみれば自分にウサギが寄り添っているかのように見えなくもない。成人済みの女がウサギのぬいぐるみを持ち歩いて傍に置いている姿を想像した途端気恥ずかしくなる。だからといって直ぐにウサギを体から離すのも露骨な気がして、どうしたものかと視線を彷徨わせる。するとレックスはペットボトルのお茶を飲み下した後により一層楽しげに笑った。


「ムーちゃんとウサギはベストマッチだね。正に“月のウサギ”だ」


 レックスが発したその台詞に深い意味なんてない事は考えなくても分かった。しかし、考えずとも月の全神経が過敏に反応を示す。


 ほんのりと熱くなっていた頬や首筋が冷や水を掛けられたかのようにあっという間に冷える。全身から血の気が引き、背筋に悪寒が走った。


 “月のウサギ”。その言葉は月の名前を認識していないと絶対に出てこない。月はこの瞬間に自らの名前をレックスが把握しているという事実を唐突に実感した。それまでは度重なるハプニングで“ムーちゃん”などという呼び方を許容せざるを得ない状況が続き、然程の嫌悪感は伴っていなかった。しかし、それまでのしわ寄せが急に来たかように月は大きな不安と恐怖に見舞われた。


 ――――どうしてあんな変な名前を付けたんだ。


 ――――アノ子が可哀想だ。


 ――――オマエのそういう無神経なところがキライなんだ。


 身体の奥底のドロドロした沼の中からぷかりと浮かんできたのは過去に耳に入にしてしまった台詞達。思い出したくなどないのに、自らの名前を意識するたびに心のヘドロの中から手を出し、月を暗闇に引き込もうとする鉛のように重い記憶。忘れる事が出来ないから意識しないようにと、どうにかこうにか心の奥のさらに奥にしまっていた記憶。それをこれでもかという程はっきりと思い出してしまった。


「どうした? 大丈夫?」


 声を掛けられてはっとする。月は仕事中だということも忘れて負の思考に呑まれるところだった。意識を体と心の内側から外側に向けると、レックスが先ほどまでの笑顔を引っ込めて椅子から腰を軽く浮かせてこちらを見ていた。その表情には驚きと困惑が浮かんでいた。


 とっさに顔を逸らして胸を押さえる。嫌な動悸と悪寒に唇を一噛みした後に深呼吸を繰り返す。


 落ち着け。大丈夫だ。落ち着け。何でもない。


 自分にそう必死に言い聞かせる。しかし、言い聞かせるために脳内で無理矢理繋げた言葉の間を掻い潜り、悪魔の囁きのような思考が出現する。


 きっと、レックスも変な名前だと思っている。だから“ムーちゃん”なんて渾名を面白がって付けてきたんだ――――。


 違う、そんなことない。そう否定する声は悪魔の声に対して蚊のように小さい。


 仕事中に取り乱すなんてもう許されない。どうにか落ち着け。嘘でもいいから取り繕え。社会人だろう。もう子供じゃないんだ。誤魔化せ。耐えろ。


 完全に止まってしまっている自らの手元を見下ろしながら、なんとか自分をコントロールしようと拳を強く握り込んだ時、レックスはあっさりとその自制を月に切らせた。


「大丈夫、ムーちゃ――――」


「その呼び方!! っ、…………やめて頂けませんか?」


 怒鳴るぎりぎり一歩手前で声を抑えた。それでも一瞬剥き出しになった感情を取り繕う余裕はなく、顔を上げることも出来ない。


 すると、レックスが椅子から立ち上がって自分の隣にしゃがみ込むのが気配で分かった。


「どうしてか聞いてもいい?」


 明らかに気を使った優しい声色に月の居たたまれなさは急上昇する。それでも、この機会を逃したら呼び方を変えてもらうチャンスはない。


「…………自分の名前が嫌いなだけです」


 レックスは小さく「そう」と呟いて沈黙した。その無音の時間は月を十二分に不安にさせた。恐らく十数秒しかなかったその間に月は今後の展開について出来る限りに悪い想像をした。そして、その想像の分自分を責めた。


 ただ、月の想像はどれも現実にはならなかった。


「俺は好きだよ」


「……えっ?」


 全く予想していなかった台詞に思考が停止する。そんな月の横で喋り出したレックスは止まらなかった。


「俺はね、空に浮かぶつきを見て嫌な気持ちになった事なんて一度もないよ。綺麗とか幻想的だとかしか思わない。それに、夜に空を見上げて月が見えないと残念な気分になるし、昼間に月が薄く見えるとラッキーだって思う」


 レックスはしゃがんでいた姿勢をやめてその場に胡坐をかいた。


「初めて名刺を見た時に字面を見て綺麗な名前だなって思った。その後に読み方を見て正直言うと少しびっくりした。珍しかったからね。でもって印象に残る名前だったから頭の中で何度も唱えてたら、噛めば噛むほど味が出てくるスルメの如く妙にしっくりくるというか、可愛い名前だって思えてきてさ。呼んでみたくなったんだよね。でも流石に初対面で名前で呼び捨てにするのもどうかと思って、渾名を考えたらそれがまた妙に口馴染が良くて沢山呼びたくなるような響きだったんだなこれが。俺以外の人がどう思うかは知らないけど、少なくとも俺個人は素敵な良い名前だと思ってるよ」


「…………うそ、ですよね?」


 到底信じる事が出来ない台詞だった。しかし、レックスはそんな疑念さえも軽く蹴散らしてきた。


「嘘ついて俺に何のメリットがあるの? ご機嫌取りとか? ないねぇ。俺はいつでも代えが利く家事代行スタッフにおべんちゃら言って機嫌取るくらいなら、新しい動画のネタを探すためにSNSをチェックするね。女の子として気を引きたいなら名前を褒めるなんて温い戦法は使わないで、自分の持ってる全ての武器を使って攻めるし。はたまた同情? えー、自分自身の名前を嫌いって言ってる子を前に嘘ついてその場限りで慰めるくらいなら、俺は断然改名することをお勧めするねぇ。案外簡単に出来るらしいからね。でも俺はムーちゃんには改名は勧めない。何故なら変えたら勿体ないと思うから」


 唖然と話を聞いている内に自然と月の顔が上る。どんな顔をしてレックスが話をしているのかが気になったのだ。すると、そこには思っていた以上に真剣な表情があった。


「俺は本気で良い名前だって思ってるって事に自分のYouTuber人生を賭けれるよ」


 YouTuber人生を賭ける。月は物置部屋にある物を大切そうに見るレックスの姿と彼の短い睡眠時間を思い起こし、賭けられた物に重みを感じた。それは安っぽく命を賭けると言われるよりも何倍も重たかった。


「…………私の名前は変じゃない、ですか?」


 何を考えるより先に胸の内にある一番大きな問いが口から溢れる。レックスは引き締まっていた表情を一気に緩めて微笑んだ。


むーん、いいじゃん。可愛いし、特別な感じがする。変だなんて思えない」


 真っ直ぐ目を見てゆっくりと噛み締めるようにレックスが月の名を肯定した。その事実が温かなスープが喉奥に流れて体を芯から温めるかのように心に沁み込んだ。


 月は千穂以外の人間から名前を口に出される事を全力で避けていた。だから名前がコンプレックスになってから褒められたり肯定されたりした事はなかった。否、そうされたとして信じなかったので記憶に無いというのが本来は正しい。とにかく、名付け親である千穂以外の人間が自分の名前を受け入れてくれる事など想像した事もなかった。


 その想像した事もない事態が起こった。もの凄く反応に困った。素直に受け入れるな、と心中の悪魔が囁く。けれども同時に心中の天使も囁いた。


 ――――嬉しいね。良かったね。


 レックスをいけ好かないYouTuberだと思ったままだったらきっと天使は無言を貫いただろう。でも、そうはならなかった。


 目が水分で潤む。完全に素直になりきれたわけではなかったけれど、全てを否定することも出来なかった。レックスの言うことを信じる気持ちになれ、純粋な喜びが胸に広がる。


「…………あ、ありがとうございます」


 何か喋らなくてはと口から出てきたのは一番シンプルな感謝の言葉。それに笑顔を添える余裕はなかった。けれども、レックスは満足そうに頷いて笑顔を深めた。


 その笑顔にトクンと胸が高鳴った。それはそれまでにレックスに見惚れて生じた動悸とは種類の違う弱く静かなものだったが、胸がじんわりと温まる高鳴りだった。


 ピピピピピピ。


 不意に電子音が鳴った。月はそれが自らがセットしたアラーム音だと直ぐに気がついてはっとした。


「もう十二時!?」


 アラームは仕事に集中し過ぎて業務終了時間に気がつかない事がないように月がスマホでセットしたものだった。洗濯籠には皺が伸びていない衣類が数着残っている。


「松田様っ、五分以内には終わらせますので籠の中身だけアイロンを掛けてしまってもよろいしですか!?」


 慌ててレックスに了承を貰い、月はアイロンを掛け始める。


 急ピッチでワイシャツ二枚にアイロンを掛け終わり、次の一枚を手に取った月は不意に違和感に気がついた。それまでアイロン掛けに一点集中していた意識を自分の左横に向ける。


「…………松田様、いつまでそこにいらっしゃるのでしょうか?」


 月の左横、割と近い距離にレックスは座ったままで移動していなかった。しかも、手元を見られているのならまだしも、レックスの視線は月の顔に向けられていた。胡坐をかいて片肘を膝にのせて頬杖を突いている。一体何を考えているんだ、と月が困惑するとほぼ同時にレックスの方が何を考えていたか自ら明かした。


「ねぇ、その“松田様”って呼び方やめない?」


 突然の提案に月はより一層困惑した。基本的に顧客には名字に“様”を付けて呼ぶようにと会社からは教育を受けている。月はそうレックスに伝える。するとレックスは耳慣れなくて落ち着かなきから嫌だと言う。顧客に不快な思いはさせるべきではない、そう判断した月は手を動かしながらも代案を考えた。


「では、“松田さん”とお呼びした方が宜しいでしょうか?」


 最も無難な提案をすると速攻でそれも嫌だと否定される。となると、当然の流れで何と呼ばれたいのかを月はレックスに問う。


「“樹さん”もしくは“樹くん”がいいなぁ。あー、でも、“いっくん”とかも捨てがたい」


 どれもこれも気軽に口にすることが出来ないような呼び方ばかりで、月は首を横にブンブン振って無理だと主張した。しかし、レックスの方も中々諦めない。そうして無理だ無理じゃないの押し問答を繰り返すこと数回。洗濯籠の中身がなくなり、全ての洗濯物が綺麗に畳まれたそのタイミングでレックスは上体を屈めて月を上目遣い見つめた。


「じゃあ、折衷案でいこう。俺のことは“松田さん”呼びでいいから、俺はそっちを“ムーちゃん”って呼ぶ。それでいい?」


「えっ。あのっ、そのっ」


 月は咄嗟に判断する事が出来なかった。その心の隙をレックスは巧みに突いてきた。


「俺の事を“樹くん”って呼んで、自分の事は“五島さん”って呼ばれる方がいいならそっちでもいいけど。どっちにする?」


 問われて月は脳内で想像した。すると驚くべき結論に到達する。


「松田さんとお呼びします!」


 月の返答にレックスは上目遣いのままニヤリと色っぽく口角を上げた。


「樹くんって呼んでもらえないのかー。残念だなぁ、ムーちゃん」


 近い距離から顔だけでなく声まで整った男に流し目で見上げられ、月の顔面には一気に熱が集まった。ついさっきまで呼ばれるのが嫌で嫌で堪らなかったはずの“ムーちゃん”という渾名をこれ見よがしに使われる。不思議な事に改めてレックスが口にしたその響きに対して嫌悪感は生じなかった。






 その日の夜。


 月は風呂上がりに自室のベッドの上に座って白いウサギのぬいぐるみを眺めていた。仕事用鞄から取り出してどこに飾ろうか考えている内に見入ってしまったのだ。


「かわいい……」


 部屋の家具はベッドに本棚、勉強机、備え付けのクローゼットのみ。壁面にはシンプルな壁掛け時計が掛かっているだけ。そんな部屋の唯一の装飾品はベッドのヘッドボードや机の上に載せられたぬいぐるみ達だった。幼い時に誕生日やクリスマスに買ってもらったものばかりで、そこに新入りが加わるのはかなり久しぶりだった。


 不意にウサギがひょこひょこ動く様を見たくなって月はウサギの底のスイッチを入れた。


『宝物って言ってくれて有難う』


 ひょこひょこ動くと同時にウサギが低い声で喋り、芹は慌ててスイッチを切った。ウサギにはレックスの声が入ったままだったのだ。


 ウサギの低音ボイスが月の鼓膜を震わすと同時に午前中にあった様々な濃度の濃い出来事が脳裏に蘇る。


 ボサボサでイケメンの見る影もなかったレックス。バケツの中身事件。自ら名前のコンプレックスについて語り、そんな名前を肯定してもらえたこと。


 一通りの事を思い浮かべて、月は二か所の場面で引っ掛かりそこを反芻してしまった。


 縋り付いてしまったレックスの体の体温とほんのり香った優しい匂い。それから――


『俺は好きだよ』


 思い出した瞬間、身悶えたい衝動に駆られた月はベッドの枕に勢いよく顔を突っ込んで丸くなった。全身がくすぐられているかのようにむず痒く、丸まった体勢から脚を伸ばしてバタバタ動かす。そうしてなんとか痒い感覚は体外に逃したが、いつの間にか熱くなってしまっていた顔の火照りは消えてなくならない。


 縋り付いたのはパニック時の不可抗力で、好きだと言われたのは月の自身の事ではなくて名前の事だ。そう自らに言い聞かせて、いつの間にか胸に抱え込んでいたウサギをそろりと見下ろした。


「あんな風に言ってくれる人も居るんだ……」


 身悶えたくなる衝動はあっさり名前を肯定された喜びの感情にすり替わった。自分自身を恋愛対象として好きと言われるよりも名前を好きだと言われた方が月は嬉しかった。


「お前の元ご主人様はいい人だね」


 月はウサギを顔の高さに持ってくると頬擦りしながらもう一度抱きしめた。胸がトクントクンと穏やかに高鳴る。


 そのままベッドに身を沈めて微睡む中、次の水曜日が早く来て欲しいと思った事を月本人は自覚していなかった。

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