7 降ってきた、バケツの中身は何だろな


 月は洗濯物を洗濯機に突っ込みながら、三日連続で睡眠時間が一時間になるとはどういうことなのかを考えた。レックスが眠そうに睡眠時間に関して語ったのは午前九時ジャスト。ということは、昨晩は徹夜して寝たのは朝の八時前後ということになる。


 月は人生で徹夜をした経験が一度もない。テストや受験勉強でも夜中の二時を過ぎれば眠気が限界突破して布団に入ってしまっていた。それでも翌日起きれば眠くて頭の働きが緩慢になる。一時間睡眠だけでも短過ぎだというのに、それが三日連続など月基準ではただ事ではない。どんな仕事の仕方をすればそんな睡眠の取り方になるのか、全く想像出来なかった。


 YouTuberとはそんなにハードなのか。それとも偶々ここ数日がもの凄くハードだったのか。そもそも睡眠時間が短いのは仕事のせいなのか。もしかしたら本を読んだりゲームをしていたりして夜更かししていたパターンもあり得る。


 YouTubeでは投稿するもしないも投稿者による判断一つ。YouTuberは基本セルフプロデュースのはずで、休むも休まないも寝るも寝ないもレックスの匙加減で決まるはず。


 それなのに、どうして連日で睡眠時間を削るのだ。


 月の与り知ることではない。それは分かっている。本来なら興味を持つべきではない。レックスはただのお客様なのだ。ただの家事代行が顧客の私生活を一々気にかけていたら身が持たない。余計な興味関心はトラブルの元だ。そうだと分かっていても思考は自然とレックスに引っ張られる。


 その原因の一端はレックス本人にもある。家事代行とはいえ他人が部屋に上り込むと事前に分かっていたのなら、もう少しだけでも身なりを整えておくくらいの余裕は残しておくべきだったのではないか。


 レックスが見せた姿は、人気商売をしている人間が身内でもない相手に見せるには無防備で油断し過ぎだった。


 あんな姿を見せられて睡眠不足を知ってしまったら、誰だってついつい余計な心配をしてしまう。


 月は洗濯機の稼働スイッチを押し、移動する。長い廊下の中ほどにある引き戸の前に立ち、扉を開けて手探りで電気を点けた。明かりに照らされた空間を見下ろし、レックスが無防備な姿を曝した理由がすとんと頭に入って来た。


「――――成程。私には今更外見を取り繕ったところで意味がないということか」


 脳内に浮かんでいた疑問の一つを解いてくれたのは、眼前に広がる四畳半の散らかり尽くした魔窟だった。






 掃除と整理整頓を依頼されたのは物置として使われている部屋。足の踏み場がないのは前回同様で、今回は中身不明の段ボールが山のように積み上げられているのが特徴だった。


 ドアの対角にある壁二面には天井まで高さがあるオープンタイプの収納棚が備え付けられている。その立派な棚の中身はスカスカ。寝ぼけ半分のレックスによる指示は「何を開けても触ってもいいから綺麗にして欲しい」だった。それを聞いた瞬間から嫌な予感はしていたが、案の定だった。


 ざっと見ただけで、分類が難しそうなおかしな物が複数目に入る。段ボールを開けたらよりカオスになるだろう。


 ――――また無理難題を押し付けて!


 そう頭の中で叫んでも、腕まくりをして一歩前に踏み出してしまうのは、仕事だからかそれとも月の性質だからか。本人ですら分からぬところだった。


 集中して作業を始めて一時間半が経過した。途中で洗濯物の作業を挟みつつも黙々と手を動かし続けた結果、物置内の段ボールの半分以上の蓋が開いてその中身が棚に移された。


 動画で利用されるであろう多種多様の物が出てきたが、前回の仕事で分別作業にある程度慣れていたので作業の捗り具合は悪くなかった。それに今回は全てを完璧に仕上げろとは指示されていない。出来なかった分は次回の訪問時で問題ないのだ。だからと言って手を抜くわけではないが、気持ちとしては大分楽だった。


 そして、切羽詰まっていない状態でするYouTuberの物品整理は面白かった。何が飛び出してくるか分からない箱を開けるのはプレゼントを開封する時の気分に似ている。そして出てきた物を見てそれが過去にどんな動画に使われ、これから使われるのかを想像するのは楽しかった。


「うふふっ、何これ。ナースのコスプレ? あー、偶に女装してる動画あったな。お母さんが噛り付くように見てて、笑ったっけ」


 正座して丁寧にナース服を畳みながら千穂の興奮した表情を思い出す。声が口から出たのは無意識だった。


「へぇ、お母さん女装系好きなんだぁ~」


「そうなんで――――へっ!?」


 突然背後から声がして、体が思いっきりビクつく。勢いよく振り返り、もう一度体が跳ねた。


「ムーちゃん、おはよ」


 レックスがスエット姿のまましゃがみ込み、月の真後ろで膝を支えにして頬杖を突いていた。しかも、玄関で見た時と同じ出で立ちなのに、ぼんやりしていない分オーラが少しばかり復活していた。


 セットされていない前髪が目元に掛かり、そこから覗く虚さが残る瞳が月を見ている。声はテンパリングされはビターチョコレートみたいになめらかで艶を含んでた。


「お、はようございますっ」


 仰け反ってどうにかこうにか返事を絞り出す月の様子を気にすることなく、レックスは部屋の中を見回した。


「さっすがだねぇ。もうこんなに片付いてんだ」


 レックスは近過ぎる距離のまま、棚の上に整理して置かれた物を見上げて感嘆の声を上げる。それから手に届く範囲にある物に視線を落とし「こんな物もあったかー」と呑気な様子。月の方は距離感の近さに呑気でいることは到底出来ず、整理途中で中途半端な段ボールの中身を高速で取り出して立ち上がった。手早くそれらを棚に収めている間にレックスが立ち去る事を期待していたが、その気配がない。


 落ち着かない事この上ないが、気を取られて手を止める訳にはいかない。次なる段ボールを開封するために、月は自分の頭より高い位置にある段ボールのさらに上に載っていたバケツに手を伸ばした。何故こんなところにバケツが、とずっと気になっていたものだ。


 つま先立ちをすれば、段ボールからはみ出していたバケツの底に指がギリギリ触れる。それを上手く引き出して両手で取ろうと試みる。すると再び背後の近い距離に人の気配を感じた。


 誰だ。当然レックスだ。


「そんな高い所にある物、言ってくれれば取ってあげるのに」


 頭の横から前方に腕を伸ばされる。先ほど座っていた時よりもさらに近い。背中に体温を感じてしまいそうな距離。


 不意に香水ではない柔らかな甘い香りが鼻孔を擽った。シャンプーなのか柔軟剤なのか何なのか。どれかは分からないが、その香りに月はほんの少し冷静さを失う。意図せず指先がブレ、中途半端に引き出していたバケツが大きく傾いた。


 ひっくり返ったバケツが落ちてくると同時に、何かがドサッと月の頭上から降り注いだ。


 バケツは見事に月の頭を直撃し、それなりの痛みを加えてきた。しかし、それは大した問題ではなかった。


 小さな茶色い何かが多量に落ちてきた。そう認識して直ぐに月はそれが何かを確認するために視線を落とす。


 腕の上に偶々載ったソレを見た瞬間、月の冷静さもプロ意識もどこかにぶっ飛んだ。


「ひっ、ひゃぁああああああ!!!!!」


 血の気が引くと同時に全身に鳥肌が立つ。


 腕の上に載っていたのは月がこの世で最も忌み嫌い苦手とするイニシャルGの昆虫だった。


 レックスが突然背後に現れた時とは比べ物にならない程大きくビクつくと同時に絶叫し、腕を全力で振って載っていたソレを落とす。しかし、偶々視線を向けた目の前に積まれた段ボールの段差部分にもう一匹ソレを見つけてしまう。二本の長い触覚がふよふよと揺れている様が眼底にグーパンチ。


「いやぁぁあああ!!!」


「うおっ!?」

 

 背後に立っている存在への配慮ゼロパーセントで勢いよく後退する。直後、足の裏にゴリゴリとした硬い物を踏んだ感触が走る。反射で足元を見下ろせば、そこには無数のイニシャルG。月は半狂乱になって思いっきり飛び上がり、更に後ろに下がろうと試みた。


「どっ、退いて下さいっ!!!」


 体を反転させ、レックスの胸に手を突いて後ろに下がるように力を加える。少しでもGから距離を取りたくて、何故か全く動こうとしないレックスに体当たりをするが如く身を寄せる。足元に片付け途中の段ボールや物が置いてあり、レックスが立っている場所にしか退路がないのだ。一刻も早くその場から逃げ出したいのに、進みたい方向に壁の様に立つレックスが邪魔で仕方なかった。


「早く下がってぇ!!」


 イニシャルGに対する嫌悪感からもう涙が溢れる寸前だった。形振り構わずにレックスの顔を仰いで訴える。すると、レックスは唖然としていた表情をはっとさせて口を開いた。


「全部偽物だから大丈夫だよっ! 前にドッキリ企画で使ったただのおもちゃ!」


「触覚が動いてたぁ!!」


「落ちた反動で揺れてただけだよ!」


 レックスがいつの間にかハンズアップしていた手でバケツが元々あった箇所を指差す。


「本物だったら蓋無しのバケツの中に大人しく収まってる訳ないでしょ?」


「………………おもちゃ?」


「うん、ジョークグッズ」


「ジョークグッズ…………偽物……」


「そう、偽物だから落ち着いて。ていうか、何かごめんね?」


 眉を八の字にしたレックスが申し訳なさそうに苦笑を浮かべる。その顔が目の鼻の先にあり、再び鼻孔に甘い香りが届く。途端に冷静さが戻って来た。


 茶色いイニシャルGから逃れることに一杯一杯だった月が最終的に作り上げたのは、レックスの胸に手を突いて縋りつき、体をぴったりと密着させた状況。甘い香りどころか、着古されたスエットの手触りや胸筋の感触と体温までが手や腕に伝わってくる。


 自らが作り上げたあり得ない事態に気が付いた瞬間、月は反射で後ろに大きく飛び退こうとする――――が、出来なかった。


「ごっ、ごめんなさい松田様ぁ。おもちゃでも踏みたくないので、どうか後ろに下がって頂けないでしょうかぁ」


 恥を忍んだ涙ながらの懇願に、レックスは思いっきり吹き出した。


「ムーちゃん、マジで可愛いね!」

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