第2話 物置部屋ハプニング

6 旅客機ギャップ

『今日は今月発売されたメンズコスメを紹介していきまーす』


『おおっ、この洗顔料メッチャ泡立つ。楽しいぃ!』


『何かシュワシュワする! 毛穴の奥まで洗われてる感じ!』


「はぁあん。顔を洗ってるだけで絵になる。水も滴るいい男。洗って貰える毛穴が羨ましいっ」


 今日も今日とて千穂は早朝からテレビ画面に齧り付き、推しのYouTuber――レックスの動画を見ている。


 数日前までだったら、その動画を見て頭に浮かぶのはシンプルな動画の感想、もしくは、いけ好かないイケメンに対する卑屈な思いだった。しかし、今のむーんは全く別の事を考えていた。


 画面内のレックスはホテルのような広々とした洗面所で水に濡れた顔をタオルで拭いている。


 ――――絶対、画角から外れてる床の上に洗濯物が山積みにされている。


 何故そんな事を思うのか。それは実際にそれを目にしたからに他ならない。


 上司に伴われて家事代行の顧客宅に行ったらそこがレックスのマンションだった。それだけでも十分に驚き案件なのだが、入った部屋は本人の見た目と反比例するように散らかり尽くしていた。メインの掃除と整理整頓をしたのはだだっ広いLDKだったが、軽く掃除をした洗面所も中々に酷い有様だった事を月は明確に覚えている。


 洗う前なのか後なのかが分からない洗濯物が扉が開け放たれたクローゼット形洗濯機収納の前に大きな山を作っていた。きっと悲惨な部屋の状況が見えないようにかなり気を配ってカメラをセットしたに違いない。もしくはその場限りで片付けたか。


「ちょっと、そろそろ出る時間じゃない? 大丈夫なの?」


 ぼぉっとレックスの部屋を思い浮かべていたら動画が終わり、声を掛けてきた千穂に出勤時間を気にされる。月は慌てて席を立ち、ダイニングテーブルの上を片付けた。


「土曜日の朝から人様の家の面倒を見るなんて、月も大変ねぇ」


 慌ただしく動き始めた月を見やった千穂がテーブルに頬杖を突いて労ってくる。月は頬を引き攣らせて千穂から目を逸らした。


「ほっ、本当にたいへーん」


 地味にどもったのは、その大変な仕事先が千穂が愛するレックスのマンションだからだ。勿論そんなことは絶対に口に出せない。







 午前九時五分前。タワーマンションのエントランスでコンシェルジュにレックスへの内線を頼む。直ちに電話を手に取ったコンシェルジュが受話器を耳に当てて簡素なやり取りし、その受話器は月に渡される事はなく、あっさりと居住区に繋がる自動ドアが開いた。


「いってらっしゃいませ」


 にっこりコンシェルジュに微笑まれた月はぎこちない笑みを浮かべてしまった。こうも簡単に人気絶頂のYouTuberの部屋に通される自分とは一体、と気が遠くなりかける。そして、直ぐにただの家事代行だと思い出して無駄にほっとする。


 今回の業務内容は前回同様手をつけられなかった箇所の掃除・整理整頓と洗濯だ。初回お試しコースが終わった直後、レックスが部長達に定期契約を結ぶ事を宣言し、当然のように月を担当に指名した。


 二度も業務中にやらかしていたので認めて貰えた事も信用された事も嬉しかったが、月の内心は複雑だった。


 親も推してる超人気イケメンYouTuberの部屋で家事代行。一聞する限りかなり良い仕事に聞こえる。特別感が半端ではない。ファンが喉から手が出る程欲しいレックスの個人情報は月の手中にある。優越感に浸かろうと思えば、家庭用の浴槽では収まらず温水プール規模に浸かれる。ただ、月はそんな気分にはなれなかった。


 何故ならば、レックスとどう接して良いかがさっぱり分からないからだ。


 元々漠然といけ好かないYouTuberだと思っていたレックスは実際会ってみると容姿端麗過ぎて直視するのも憚れるオーラを放っていた。視線を向けられるだけで軽く動悸がしてしまった自分が理解出来なかったが、実際ドキドキしてしまったのは紛れもない事実なので認めざるを得ない。重ねて、レックスは“ムーちゃん”などと通常なら到底受け入れられない呼称で気軽に呼び掛けてきた。しかもそれを拒む事を出来きていない。


 一顧客として接するのが大前提。それは当然家事代行のプロとして心得ている。よって月がごちゃごちゃと悩んでいたのは接するための自身の心構えだった。人生におけるイレギュラーが生じ過ぎていて、心の整理整頓が全く出来てない。いけ好かないYouTuberとして文句の一つも言ってやると意気込めば良いのか、放たれるオーラに呑まれないように画面越しの有名人を見ている気分で精神的に一定の距離を取るべきか、慣れなさ過ぎる呼称を使う相手としてコンプレックスを刺激されないように完全に心を閉ざすべきなのか。


 全ての心構えを臨機応変に切り替えられれば一番よいのだが、月にとってレックスはミスターイレギュラー。そんな器用な真似が出来る気が全くしなかった。それどころかどの心構えを優先すべきなのかすら分からない。


 物理的な整理整頓は得意なのに頭の中の事となると話は別だということに、月ははじめて気がついた。家事代行のプロとしてのプライドが傷つきそうだった。


 一体全体どうするべきなのだとごちゃごちゃ考えている内に、あっという間にレックスの部屋の前まで辿り着いてしまう。


 このままでは精神の乱れによって通常はしないミスを再びしでかしてしまうかもしれない。そう脳裏に不安が過る。それでも時間は止まってはくれない。


 月は心の整理が全く出来ていないまま、儘よ! とインターフォンを押した。


 他の顧客の許へ訪れる時とは異質の緊張感に呑まれること数十秒。とりあえず、どんなに頭の中がとっ散らかっていようとも、表面上だけでもしっかりお客様として接しようと身構える。


 ガチャリと音を立ててドアがゆっくりと開いた。そして、開かれた扉の向こうに立つ男の姿を目にした瞬間、それまでの思考することを忘れて固まった。


「…………お、はよう、ムーちゃん」


 気だるげな声が耳から脳内に入ってきて、それが今朝も見た動画の中にいた男と一致した瞬間、月はそれまでごちゃごちゃ悩んでいた事がなかったかのように、一つの事柄しか考えられなくなった。


 ――――お前は誰だ!?!?


 声は間違いなくレックスだった。見上げた髪色もレックスだ。しかし、それ以外の要素がすべてレックスのイメージからかけ離れた出で立ちの男がそこにもっさりと立っていた。


 寝ぐせが四方八方に跳ねて頭が鳥の巣のようになっており、整った眉と目が下がりっぱなしの前髪に隠れてほとんど見えない。ほんの少し前髪の隙間から覗く目はほとんど閉じていて、前が見えているかどうかが怪しい。顔面で唯一しっかり見える口元と顎先にはぽつぽつと処理されていない髭が生えている。脱力して背中の丸まっ身体に身に着けているのは上下とも使い古したよれよれのスエット。足元まで視線を下ろせば、靴を履くのが面倒だったのか裸足で直接三和土に立ってしまっている。


 前回会った時のレックスは画面の中より一層輝いて見え、オーラすら感じた。転じて今のレックスは完全にどこにでもいる寝起きの男そのもの。ギャップがジェットコースターどころではない。ギャップ旅客機が上空一万メートルから地上に急降下して不時着したと言っても過言ではない。


 不意打ちの視覚的衝撃に月は辛うじて挨拶の言葉を口にすることは出来たものの、失礼と判断して視線を逸らすことは出来きなかった。ゆるゆるで隙だらけのレックスの姿を凝視してしまう。


「どうぞぉ」と小さく促されて部屋に入り、玄関で靴を脱いで持参したスリッパに履き替える。その間壁に寄り掛かって待つレックスは今にも夢の世界に旅立ちそうだった。


「……ごめん、眠過ぎて頭働かない。後一時間だけ、寝かしてくんない?」


 両手で顔を覆って絞り出すように声を出すレックス。


「勿論構いません。……数点だけ確認事項に今答えて頂いても宜しいでしょうか?」


 直ぐにでも膝から崩れ落ちて廊下で眠ってしまいそうなレックスから業務に必要な情報を大急ぎで聞き出した。


「もう、確認事項はありません。もう眠って頂いて大丈夫ですよ。……何というか、お疲れ様です」


 あまりにも見知ったものとかけ離れ過ぎた姿に思わず素で労いの言葉を掛けてしまう。レックスは体を壁から離しつつ大きなあくびをした。


「うん、ありがと……流石に三日連続で一時間睡眠は頑張り過ぎたぁ……」


 歩きながらそう言い残したレックスはヨロヨロと寝室だと思われる部屋の中に消えていった。


「……えっ? 三日連続一時間睡眠って言った?」


 唖然として独り言を呟いた後、はっとして働き出す。仕事となれば自然と体は動く。ただ、体は動いても頭はそう簡単に切り替わらなかった。


 月は複数の事を同時に考えるのは苦手だった。基本的に思考が単調で単純。良く言えば素直なのだ。


 そんな月の頭の中からは玄関を開ける前まで考えていた事が綺麗さっぱり消えていた。代わりに全く別の思考で埋め尽くされる。


 ――――YouTuberってそんなにハードなの?

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