ベイカーベイカー・ピースメーカー

三衣 千月

ベイカーベイカー・ピースメーカー

 たい焼きの頭をした和服姿の町娘が、行き倒れている男をのぞき込んでいた。すらりと細い手を頭部のエラの辺りにあてながら、最近はこの辺りも物騒だからと、男のことを心配していた。彼女は声をかけようかどうか逡巡する。

 男の頭部は見たことがないような焼き菓子めいたものであり、彼女はその正体を判ずることができなかった。

 善人かどうかも分からぬが、そのまま捨て置いて去るのも寝覚めが悪い。とはいえ悪漢であれば助けが仇になるのも容易に想像できる事ではあった。


 男が見たこともない服を着ている事もあり、明らかに余所から来た者なのだろうということは分かるのだが、その正体は一向に分からない。ただ目の前に倒れ伏している一人の焼き菓子がいる。それだけが彼女の分かる事実だった。


 男が着ている洋服、俗に燕尾服と呼ばれるようなそれなど、たい焼きは知りもしなかった。

 もちろん、その服が異国での礼服であるということも、知る由もない。


 着物の裾を少しつまんで「ああ、もう」と声を漏らす。これは彼女が悩むときに見せる仕草だった。


 意を決して、両頬をぺちりと中身の餡が飛び出ない程度に叩く。倒れている男の肩に触れ、呼びかけようとした時、男はうっすらと目を開けた。

 思いがけない反応に彼女はびくりと肩を震わせて一歩後ずさる。驚きのあまり餡が少しはみ出そうになっていた口をぱくぱくさせながら、男が首をもたげる仕草から目を離せなかった。


「あ、あの、大丈夫ですか?」

「この辺りに、ベーカリーはないか……」

「べえかりい?」


 何の事だか、たい焼きには分からなかった。さらには、ふらふらと起き上がって衣類についた土埃を落とす男が何者であるかもやはり見当が付かない。

 自身よりも、尻尾二つ分ほど大きな体躯。丸みを帯びた、四角い顔。少しだけ、隣の長屋に住んでいる最中もなかに似ていると彼女は思ったが、きつね色をした顔は最中もなかとは比べ物にならないほどには硬そうに感じられた。


 男はその四角く焼き上げられた頭部を掻き、両手を広げて彼女に自分の姿を示した。丸腰であることの証明でもあった。


「顔が湿気ると力が出ないんだ。どこかオーブンや竈門がある場所を知りたい」


 たい焼きはやはり焼き菓子であったかと理解した。確かに湿気は天敵だ。そしてどうやら、自分以上に湿気に弱いらしいと得心した。


「ここは、どこの国だ」

「おたべ和尚の治める、和菓子の国ですよ。私はたい焼きと申します。火で炙るだけでもよろしければ、どうぞ私の家に」

「……君も焼き菓子なのか。魚の形をしているから分からなかった」

「ふふ、他の国の方々にはよく言われます」


 笑みを浮かべるたい焼き。彼は旅の途中なのだろうと彼女は思った。直感によるところが大きいが、悪人ではなさそうだと感じたためだ。

 男の着ている服装には馴染みは無かったが、同じ焼き菓子だという意識がどこかで警戒を解いたのかもしれなかった。




   〇   ○   ○




 たい焼きの家には、大小さまざまな焼き型があった。頭をすっぽりと覆うことのできるそれを熱して、寝転がっている男の顔を挟むように閉じる。弛緩した溜め息が金型の中から漏れてくるのを聞いて、たい焼きはくすくすと笑った。


「もう少し炙ります?」

「ああ、頼む。本当に湿気には弱いんだ」


 竈門にくべていた燃えかけの薪を一本掴み、彼女はそれを焼き型の上に近づける。じわりと内部に熱が伝わり、男はさらに大きく深く息を吐いた。


「ごめんなさいね、ぴったりした焼き型がなくって。あなたみたいなお菓子、初めて見たものだから。ねえ、あなたはどこの国のお菓子なのかしら」

「ここではない、遠い国さ」


 男は金型越しにくぐもった声でそう言った。何か含みがあるようなその言い方に、たい焼きは深い事情があるのだろうと二の句を継がなかった。代わりに、無言でもう一本薪を乗せる。


 少しの静寂を破ったのは重たく聞こえる鐘の音だった。寺から響く低く長いその音に、たい焼きは身を震わせる。

 寺から聞こえてくる鐘の音は今、この国においては恐怖の音色として知られている。もちろん、型の中で頭を炙っている男にたい焼きの様子は見えない。


 そしてしばらくの後、彼女の家に駆け込んでくる菓子があった。小袖を引き上げ、かなり急いで走ってきたのか肩で息をしている。

 その菓子は、頭部をぷるぷると揺らしながらたい焼きに向かって叫ぶ。


「てぇへんだ!」

「わらび餅の介さん! さっきの鐘の音は――」

「裏の長屋のこしあん太郎がやられた!」

「なんですって!?」

「太郎のヤツ、とうとう我慢ならねえってんで直談判に行きやがったんだ。俺たちゃ止めたんだけどよ、やっこさんすっかり餡にきちまってたみてえで……」


 そう一息に捲し立てると、彼は下を向いてわなわなと膝をついた。拳を振り上げ、力任せに土間に拳を突き立てる。


「ひでぇもんだ……。寺の釣鐘に括られて、撞木で頭をぐしゃりだ」

「そんな! なら、次郎は!? つぶあん次郎は無事なの!?」

「せっついて飛び出して行こうとするもんだから、和尚がなだめてらぁ。くそう、奴ら、本当にひでえッ。おたべ和尚から寺をぶんどった挙句、好き放題やりやがるッ! 煎餅せんべい組の奴ら、許せねえよ……」


 彼は柔らかな頭部から悔し涙を滔々と流した。そして、ふと寝転がっている男に気が付く。その視線を受けてかどうかは分からないが、型を持ち上げて男はむくりと体を起こした。


「何か揉め事か?」


 頭をぷるりと震わせつつ男の身なりを見て、どうやら異国の菓子のようだとあたりを付ける。


「なんでえ、異国の兄ちゃん。こらぁよ、俺らの国の問題だ。妙な服着てるとこみると伴天連ばてれんかどっかの菓子みてえだがよ、すっこんでてくんねえかな」

「ちょっと! わらび餅の介さん!」


 慌ててたい焼きが止めに入るが、男は意にも介さずに手に持ったままだった焼き型を彼女に手渡した。からりと仕上がった顔は活力に溢れている。その焼き上がったばかりの熱気を纏い歩いてきた男に、わらび餅はぷるりとたじろいだ。


「新しい顔を作らないのか?」


 男がそう尋ねる。

 そうとも、万国共通、菓子であれば新しい顔を作り、古くなったものと取り換えればそれで事は足りるはずなのだ。よくよく考えてみれば新しい顔の二つや三つはあってもおかしくないのだが、家の中を見回してみてもそれらしいたい焼きは見当たらなかった。


「てやんでえ、材料がありゃ作るに決まってんだろうがよ。煎餅組の奴らが全部奪っていきやがったのよ。奴らが根城にしてる寺にゃ、顔のねえ仲間がごろごろ転がってらあ……」


 そうしてまたもわらび餅は頭部をぷるんと揺らして土間を殴った。逆らう者は容赦なく顔を潰され、新しい顔をつくるための材料もない。こんなに酷い話があるかと、嗚咽交じりに吐き捨てた。


「力になる」


 男が短く言い放つ。弾かれるようにぷるりと顔を上げたわらび餅は叫んだ。


「余所者は黙ってろって言ってんだろうが!」

「彼女には、一炙りの借りがあるんだ。力になる」


 もう一度ゆっくりと言い含めるように、そしてどっかりと土間に座りなおしたわらび餅と視線を合わせるように、男は膝をつく。その眼は、力強く、まっすぐ相手を見つめ、言葉に嘘がない事を訴えていた。

 威勢よく啖呵を切ったものだから素直に助力を仰げず、どうにもバツが悪そうに眼を逸らした彼は、吐き捨てるように言った。


「……そんならよ、まずは裏の長屋にいる和尚の所に行きな。事情を聞いてからケツ捲るってなあ、ナシだからな」


 男は無言で頷き、再び立ち上がって家を後にする。少しばかり歩いた所で、後ろからたい焼きが小走りに追いついてきた。

 彼女は、自分のせいでこの男を巻き込んでしまったのではないかと引け目を感じながらも、心のどこかで現状をなんとかしてくれるのではないかという期待を感じていた。


 どこか遠い異国からやってきた、救いの菓子。

 そう思わせるだけの何かが、男にはあった。


 だが、裏の長屋に近づくにつれて、たい焼きは嫌な予感がじわりと身の内に拡がるのを感じた。例えるならば、餡が偏って焼きあがった時のような、もしくは生焼けのままで焼き型を外してしまった時のような、そんな不快な感覚だった。


 和尚とつぶあん次郎がいるはずの長屋までの道のりが、いつもよりも長く感じられる。そしてやはり嫌な予感は的中した。

 長屋の前で、和尚が倒れているのが見え、たい焼きは短く声を上げてすぐさま走り寄った。


「おたべ和尚!」


 その頭部は破れ、餡がはみ出ている。かなりの深手であることは間違いない。着ている袈裟も破れ、相当に酷い有様だった。


「たい焼き、か。済まぬ、次郎が連れていかれてしもうた……」

「駄目! しゃべると餡がこぼれてしまいます!」


 煎餅組に逆らうものはみな釣鐘の刑に処する、と叫びながら彼らはこしあん太郎の弟であるつぶあん次郎を連れ去ったのだと言う。このままでは、次郎もぐしゃりと潰されてしまうのだ。

 たい焼きは薄皮がぱりぱりになるほど青ざめ、「次郎が、次郎が」とうわごとのように呟いた。


 男は、震えるたい焼きの肩に手を置いた。じわりと暖かい男の手に、たい焼きは幾分か落ち着きを取り戻す。

 遅れてやってきたわらび餅の介が「和尚は俺に任せて、行ってきてやんな」と二人を送り出した。


 煎餅組の待つ寺に向かおうとする男の姿を見て、和尚はハッとした。「お主……」と声に出そうとしたが、その頃には男とたい焼き、二人の姿は遠ざかってしまっていた。


「和尚、いいから休んでなって」

「……うむ、そうじゃな」


 それだけ言うと、おたべ和尚は力なく目を閉じた。和尚は彼を知っていた。だが、かけるべき言葉が見つからなかった。ああ、神よ、仏よと祈るような思いを胸にしてただ息を吐くのだった。

 いつの間にか、灰色の雲がずるりと空に拡がりはじめていた。




   ○   ○   ○




 かつて、おたべ和尚が住んでいた寺は、小高い丘の上、石段を昇った先にある。煎餅組と名乗る者たちがそこを陣取り、悪行の限りを尽くしているのだ。

 足早に寺に向かう道すがら、たい焼きは煎餅組の事で自らが知っていることを男に話した。


 寺の本堂の周りには顔の無い和菓子たちのなれの果てが乱雑に置かれ、そこに腰掛けるようにして幾人もの菓子どもがいた。あるものは欠けた顔をしており、またあるものはひん曲がったような頭部を持っていた。しかし彼らの多くはこんがりと焼き上げられた煎餅や揚げ餅であり、何らおかしいものではなかった。


「つぶあん次郎っ!」


 釣鐘に括られた饅頭を見て、たい焼きは叫んだ。気絶しているのだろう。返事は無いが、それでも繰り返し彼女はその名を呼んだ。周囲にいる煎餅組の菓子たちはにやにやと何も言わない。


 一際大きく、真円を描くような巨大な煎餅がゆっくりと二人の下へと歩いてきた。たい焼きの二倍はあろうかという身の丈である。着流し姿で無造作に歩いてくるが、纏う雰囲気は武人の持つそれに近かった。


「おう、こりゃあ、たい焼きの嬢ちゃん。今迎えをやろうとしていたんだぜ」


 巨体が放つ威圧感に、思わずたい焼きは身をすくめる。そんな彼女をかばうように男が一歩前へと進み出る。


「お前が、煎餅組の頭、堅焼きせんべいだな」

「おう。どこの誰とは存知やしねえが、うちの組に何か用かい」

「用はないが、この娘に恩がある。すまないが、叩き割るぞ」


 そう言い終えるよりも速く、男は鋭く拳を放つ。しかし、堅焼きせんべいは手でそれを遮ってみせた。掴んだ拳を握り、鷹揚に話しはじめる。


「血気盛んなこって。いや、結構結構。恩義、仁義は通すが筋よ。ただなあ、兄さん。物事には順序ってもんがあらぁな!」


 掴んだ拳を引き込み、男を蹴り飛ばす。その巨体から繰り出される一撃を受け、地面を激しく転がった男はしかし、すかさず立ち上がった。


「まずはおもてなしだ。嬢ちゃんはこっちへ来な」


 たい焼きの尻尾を鷲掴みにして、堅焼きせんべいは釣鐘の隣へと彼女を運んでどんと座る。


「てめえら、異国のお客菓子に失礼のねぇようにな!」


 頭のその一言に、薄ら笑いを浮かべていた者達は立ち上がって男を取り囲んだ。その数、二十以上。短くひゅっと息を吐き、男は身構える。

 背後から飛びかかってきた曲がりせんべいに、回し蹴りを見舞う。次いで、そのまま流れるような仕草で飛び上がり、揚げせんべいを蹴りつける。狙いを違わず二人の頭部を砕き、ぐらりと倒れるその体を掴み、周りの菓子たちへと投げつけた。


 自在に動き、的確に頭部を砕いていく鬼神の如き姿を見て、次第に士気が下がっていくせんべい達。

 ある者は地面に叩き付けられ、ある者は首を刈り落とされ。一切の容赦の無さに、いつしか男の足元は割れせんべいが積み重なっていた。


「手ぬるい歓待だったな」


 息一つ乱さぬその姿に、堅焼きせんべいは一瞬目を見張る。しかし変わらず鷹揚な物言いで男に語りかけた。


「ほほう、異国の武術か。しっかしお前さん、クッキーにしちゃあ分厚い。ビスケットどもに似ちゃあいるが、あれは甘ちゃん過ぎて話にならねえ。名はなんだい」

「名乗る名など、とうに捨てた。ただの硬い焼き菓子だ」

「是非とも組に欲しいねえ。まあ、誘いやしねえがよ」

「ああ、願い下げだ。悪党め」


 堅焼きせんべいは笑った。豪快に、さも愉快だといわんばかりに。男は怪訝な顔でそれを見るが、彼はそんな男の視線を気にせず、たい焼きの首をぎりりと握った。


「そんなら、悪党らしくいこうかい。おい、嬢ちゃん。てめえ、あの男と、釣鐘に括ってある饅頭とどっちが大事だい。好きな方を選びな」

「そ、そんな……」

「選ばねえなら、このまま嬢ちゃんの頭をもぎ取るだけだ」


 ぎりぎりと、徐々に力が込められる。駆け出そうとした男を制するように、堅焼きせんべいは声を飛ばす。


「兄さん、一歩でも動いてみな。たい焼きの嬢ちゃんと饅頭野郎の首を捻るぜ」


 険しい顔つきで男はその場から動けなくなる。

 たい焼きは着物の裾を摘み、きゅうっと握った。選べるはずがない。例え、どちらかを選んだとしても、その後もう片方と自分が無事でいられる保証もない。


 次第にたい焼きの首を絞める力が強くなり、口から餡が今にもはみ出そうとしたその時。


「分かった。俺の負けだ。二人を放してくれ」


 男が両手を肩より上に挙げて宣言した。するりと締められていた手が緩められ、たい焼きは盛大に咳き込む。

 空には、拡がりきった重たい灰色の雲がその色を濃くさせて立ち込めていた。




   ○   ○   ○




 つぶあん次郎の縄を解き、乱暴に押しのける堅焼きせんべい。地面に倒れた次郎はその衝撃にくぐもった声をあげながら意識を取り戻した。


「次郎っ!」

「てめえはまだ質種だ、嬢ちゃんよ」


 たい焼きの頭をがしりと掴み、堅焼きせんべいは男を呼びつける。


「饅頭の代わりに、お前さんがここに立ちな。妙な素振りを見せたら、嬢ちゃんの頭を潰す。饅頭野郎も動くんじゃねえぞ」


 互いに視線は外さずに、男はゆっくりと釣鐘の前に立った。そして、堅焼きせんべいの手がゆっくりと撞木に伸びる。まさか、男を撞こうというのだろうか。たい焼きはそれを考えるとぞっとした。


「やめて! それだけはやめて! その人は関係ないのに!」

「組の若い衆を粉々にしといて無関係は通らねえ。落とし前は、つけてもらわねえとな」


 視線は常に男から切らさず、堅焼きせんべいは言葉を続ける。


「でもまあ、なんだ。兄さんよ、てめえも巻き込まれて災難だったろう。避けたきゃ避けな。逃げたきゃ逃げな。そんで二度とこの国に来るんじゃねえよ」


 一振り、二振りと撞木を揺らし、たっぷりと勢いをつけたその重量の塊。足を踏み込み、釣鐘に向かってそれを放った。


 男は、避けなかった。

 ごうん、ごうんと重たい音が辺りに響く。


「いやあ、速すぎて避ける間もなかったかねえ。さて、次は嬢ちゃんの番だ」

「お、おい! 助けてくれるって話だったじゃないか!」


 つぶあん次郎が叫ぶ。堅焼きせんべいは大きく溜息をついて次郎の方へと向き直った。


「誰もそんな事言ってねえだろう。煎餅組に逆らうやつぁ、みなぐしゃりよ」


 言葉が出なかった。たい焼きも自分も、あっけなく潰されてしまうのだと絶望した。いったい、自分たちが何をしたと言うのだ。自分たちは穏やかに過ごしていただけではないか。いったい、何の権利があってこうも無法なやり口をする。


 項垂れるつぶあん次郎を見て、いよいよ愉悦の笑みを浮かべて草加せんべいは言った。


「ああ、他の菓子の絶望ってなあ、最上の娯楽ときたもんだ。嬢ちゃんの次は、てめえを潰すからよ。せいぜい喚いてくれや」


 ぴしり。

 堅焼きせんべいの背後で高い音が鳴る。


 振り返った草加せんべいが見たのは、釣鐘に入った一本のヒビ。それはぴしぴしとなおも走り、ついに寺の釣鐘は割れ落ちた。がらごろと落雷のような音の中に立っていたのは、無傷の男。


 燕尾服の土埃を手で払い、動揺する面々の隙を突いて堅焼きせんべいとの距離を詰め、腕を極めて巨体を投げ飛ばした。地面に背を打ち付けられ、「があっ」と苦悶の声が漏れる。


「悪趣味にも程がある。悪党どころか外道だな」

「て、てめえ、どうして……」

「頭は硬いほうでな」

「釣鐘より硬ぇ菓子があるか!」


 倒れた姿勢から身を捩り、男との距離を空ける。しかしそれを逃すまいと男は駆け寄り、猛打を繰り出した。堅焼きせんべいの拳は空を切り、男の一撃は少しづつ確実に頭部を削っていく。


 それを見ていたたい焼きとつぶあん次郎は色めき立った。

 ついに、煎餅組の支配が終わる時が来たのだ。また、あの穏やかな日常に戻ることができるのだ。知らずのうちに拳を固め、手を取り合って男が堅焼きせんべいを圧倒する様を凝視していた。


 だが。

 突然、男は膝から崩れ落ちた。


「ど、どうしたんだろう。あの焼き菓子の人。やっぱり釣鐘で痛手を――」

「ああ! 違うの! そんな!」


 曇天からぽつり、ぽつりと振り落ちてくる雨。焼き菓子にとって雨は大敵であり、つぶあん次郎やたい焼き、堅焼きせんべいにとってもそれは同様であった。

 しかし、たい焼きは知っていた。男は、菓子一倍、湿気に弱いのだ。


「くっ。顔が、濡れて、力が……」

「へ、へへ。なるほどな。兄さん、素焼き菓子の類かい。おどかしやがって」


 焦りとも、畏れともとれる表情を浮かべ、堅焼きせんべいは額を拭った。

 先ほどまで空を切るばかりだった拳が、男を打ちすえる。雨に濡れ、多少は弱々しくなったものの、やはり元が大柄である分だけ力の衰えは少なかった。


 裂帛一閃、堅焼きせんべいが大きく振りかぶって右腕を振りぬく。男は宙に浮かび、石段の近くまで飛ばされた。満身創痍のまま立ち上がろうとするが、もはやその余力すらもなく、再び地に倒れ伏す。


 たい焼きや饅頭も、体が冬の焼き型のように冷たく、重くなるのを感じていた。もはや絶体絶命。和菓子の国の命運は、ここで尽きたかに思われた。


 止めを刺すために、一歩、また一歩と、倒れた男に近づいていく堅焼きせんべい。


 これまでかと目を覆ったたい焼きに、微かに聞こえてくる音。

 寺への石段を、誰かが駆けあがってくる音。それは確かに聞こえ、確かに大きくなってくる。


「伴天連の兄ちゃんッ! 受け取れや!」

「わらび餅の介さん!」


 石段から姿を見せたのは、ごうごうと火のついた布を持ったわらび餅だった。熱にあてられ、彼のぷるりとしていた頭部は干からびた芋のようにしおしおとしていた。

 男に向かって火のついた布を投げつけ、わらび餅はそのままたい焼きとつぶあん次郎の元へ走り寄った。


「くあぁ! 雨で生き返るぜ! おめえさん達、鐘撞き堂の下まで逃げ――って鐘が割れてやがる!?」

「わらび餅の介さん! どうして!?」

「おたべ和尚がよ、どうしてもアレが必要だってんで届けにきたのよ」


 男は立ち上がり、燃える布を首に数周巻いた。しゅうしゅうと濡れていた頭部が乾いてゆく。火の燃え移った燕尾服の上着を脱ぎ棄てれば、露わになった上半身には袈裟一筋の大きな傷跡。


「燃える襟巻、そしてその刀傷ッ! てめえ、まさか――」


 堅焼きせんべいが震えだす。彼は知っているのだ。男の過去を。


「俺は、ただの焼き菓子だ。名は、捨てた」

「ま、待て! 分かった! この国からは手を引こうじゃねえか!」


 鐘撞き堂からは何を話しているのか分からなかったが、明らかに狼狽する堅焼きせんべいを見て、どうやら名の知れた菓子なのだということを、たい焼き達は何となく理解した。


「二度と悪事は働かねえ! 菓子の材料も返す! な、それで元通りだろう!」

「……そうだな」


 理解の言葉とは裏腹に、男は一歩を踏み出す。尻もちをついて「ひいっ」と情けない声を上げる堅焼きせんべいに向かって、さらに距離を詰める。


「だが、一炙りの恩はやはり返しておくとしよう」

「ちいっとばかり融通してくれてもいいだろう! 全部返すって言ってんだ! 寺も出ていくからよ!」


 見上げる堅焼きせんべいと、見下ろす男。男は、ゆるやかに首を横に振って、それから言った。


「頭は、硬いほうでな」


 そして自らの頭部を一気に振り下ろした。

 堅焼きせんべいの頭は見事なまでに砕け散った。




   ○   ○   ○




 和菓子の国に、活気が戻った。

 奪われていた材料で、こしあん太郎も元に戻った。他にも、大判焼きや柿の種、きんつばや大福など、多くの顔を潰されていた菓子たちが元の姿を取り戻した。


 男は、皆が新しい顔作りに精を出す間に国を去ろうとしていた。

 男には、為すべきことがある。燕尾服の釦をきりりと留め、町の外、果てなく続く道を眺める。


 気づかれぬように町の外れまで来たと思ったが、道の脇にある岩におたべ和尚が座っていた。


「まだ、直接礼を言うておらんかったでの」

「……和尚」

「探すんじゃろう、刀傷をつけた菓子を」


 その言葉に男は目を見張る。なぜ、見たこともない和菓子が自分の過去を知っているのかと驚きを隠せなかった。

 男の様子を見て、和尚は少し寂しそうに笑う。


「わしは、逃げてしもうたでな。焼いた頭をつけることから。そして、あの惨劇からも。今ではこの通り、焼かずに生の頭じゃて」


 おたべを焼くとどうなるのか、男は知らなかった。知らなかったが、事情は知っているらしい。それならば、心当たりがあった。


「八つ橋宰相、なのか?」

「いかにも。おたべを焼いたものが八つ橋じゃ。知らんかったか? 今はおたべ和尚で通っておる」


 男は目を伏せた。おたべを咎めるつもりは無い。ただ、後悔だけが男の胸の内にはあった。


「……俺は、小豆アイスを救えなかったんだ」

「お前さんのせいではない。お主らは共に硬い菓子じゃった。あれは冷たく、お主は熱かった。よく、甘すぎると叱っておった事を思いだす」


 男は顔を上げない。だが、拳は固く握りしめられていた。和尚は静かに、だがはっきりと男の名を口にした。


「騎士カンパンよ、その名を捨ててまで仇を討ちにゆくか」

「その名はもう、捨てた。今は、ただの硬い焼き菓子だ」


 和尚は諦観の念をうかべて首を振った。止めることなどできないと、最初から分かっていたのだ。懐から一枚の布を取り出す。

 それは布に油を沁みこませて編まれたもので、かつて男が戦場で火を点けて使っていたものだった。


「見ず知らずの菓子を助けるとは、変わったものよ。お主なりの、小豆アイスへの供養のつもりじゃろう」


 和尚は岩から腰を上げ、男を正面から見据えた。

 手に持っていた布を、男へと差し出す。


「じゃが、捨ててはいかん。賞味期限も切れておらぬうちに捨てるとは、菓子道に反すると心得よ」


 男は、伸ばしかけた手を少し引いたが、逡巡の後にそれを受け取った。

 静かに直立し、右の拳を握って胸の前に添えた。それは、男がまだ古い名を名乗っていた時の、感謝を示す行動だった。


「では、俺の名はここに置いていこう。いつか必ず取りに戻る」


 おたべ和尚は破顔し、男は歩き去った。

 男の姿が見えなくなっても、おたべ和尚は目を細めて地平の先を見ている。在りし日を思い出し、男の旅の無事を祈った。


 しばらくそうやって立っていた和尚は、掛けられた声にふと我に返る。振り返れば、たい焼きとつぶあん次郎が手を振っていた。


「おたべ和尚、あの人を知りませんか?」

「お礼も言えてないし、名前だって……」


 おたべ和尚はからからと笑う。


「さて、どこへ行ったものやら。そんな事より二人とも、これから忙しくなるぞ」


 煎餅組をそのままにしておかず、濡れせんべいや生おこしとして顔をつくる事を決めたのだ。硬くなければ、性格も存外丸くなるものだ。おたべ和尚は自らの経験からそれを知っていた。


 そしてそんなおたべ和尚の様子から、もうあの人はこの国を出ていったのだと察した二人は顔を見合わせて苦笑する。


 はるか遠くの道の先を見て、たい焼きは感謝の声を投げた。

 柔らかく響くその声は、風に乗ってさらりと流れていく。


 たい焼きは、遠くの道の先で男が手を挙げたような気がした。

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ベイカーベイカー・ピースメーカー 三衣 千月 @mitsui_10goodman

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