△▼△▼無為の森△▼△▼

異端者

『無為の森』本文

 ああ、今夜は満月だ。

 私は空を見上げてそう思った。

 こんな月まで凍てつきそうな晩は、森の中を歩くのにはちょうど良い。

 足元で枯れ草が乾いた音を立てる。

 歩を進める。

 また乾いた音。

 歩を進める。

 そこで私はふと立ち止まった。

 自分はいつから、どうしてこんなことをしているのだろう?

 良く分からない。

 いつとも知れぬ時に、たまたま夜の森に来て、あてもなく歩くことが趣味となってしまった。

 それはウォーキングというのはあまりに歩き辛く、探索というには目的がない。

 ただ、歩く。満足したら、帰る。

 そこには一片の意味もない。

 私はこの森で、何度か泣いたことがあった。

 悲しい訳ではなかった。怖い訳でもなかった。ましてや、嬉しい訳でもなかった。

 月明かりにこうこうと照らされながら、静かにたたずむ草木を見て、泣いた。

 その時は、自分が泣いているという実感はなかった。気が付いたら、目元が濡れていた。

 なぜ泣いているのかは分からなかった。

 私はまた歩き出した。

 私の足が草木に擦れる音が響く。それ以外は何も聞こえない。

 頭の上では、木々の枝葉が抽象画ともデザインともとれるシルエットを形作っている。歩を進めるとそれも一瞬で崩れてしまう。

 崩れて形作り、崩れて形作り――。

 木々たちはそれを延々と繰り返している。

 だが、それは意味をなさない。

 ただ、繰り返す。始まりがあったのかは知らない。

 私は歩き疲れて、木にもたれかかる。

 名もない木。あったとしても知りたいとは思わない。

 音がやみ、森は狂わんばかりの静寂に包まれている。いや、いっそ狂ってしまえば良い。

 私はもたれかかった木の肌を撫でる。

 それは思いのほかすべすべしている。自己主張を拒むかのようだ。

 私は撫で続ける。そして、やめる。

 もういい。

 私はまた歩き出した。

 帰れなくなるという気がしないでもなかった。

 とはいえ、帰る必要があるのだろうか。

 もし戻れなくなったら、きっとそこが終点なのだろう。

 そんな心配などしなくとも、月は輝いているだろう。

 やがて森の中の一点、少し開けた場所に着いた。

 その中央に居座る巨大な岩の上に、少女が寝ている。

 黒く長い髪に、青白い肌。

 今にもその下の岩に溶けて消えてしまいそうだった。

 少女は私の姿を認めると、ゆっくりと体を起こした。

「何か用?」

「用などない」

「ああ、そう」

 岩の上に腰かけた少女は、冷たく笑っている。

「なぜ、ここに?」

「理由はない」

「ああ、そう」

 少女は岩の上から下りると、私に背を向けた。澄んだ声が響く。

「死体を、探しているの」

 その言葉は特に意味をなさない。

「なぜ?」

「面白いから」

 ああ、そうだろう。

 そこで私はようやく納得する。

 死体はその探す理由があってこそ、存在意義を持つのだろう。

 ただ、探すだけでは何もない。

「それで、死体はどこに?」

「もう、分かっているの」

 少女は歩き出した。私はそれに従う。

 そもそも死体などあるのだろうか?

 あったとしても、自分には面白いのだろうか?

 分からない。どちらでも良い。

 少女の足は速くなったり遅くなったりした。

 それは地形によるものか、単なる気まぐれなのか……。

 私は少女との距離が離れても、慌てて追おうとはしなかった。

 見失ったからといって、それが何だろう。

 見失いそれが終わったとしても、そこが終点になるだけだろう。

 こうして森の中を黙々と進む。

 少女は振り返らない。

 付いてくると確信しているのか、来なければ来ないでそれで良いのか……。

 ただ、歩いた。歩いて、止まった。

 そこでようやく、少女は振り返った。

「ここ。ここに死体が埋まっているの」

「どうして、そうだと分かる?」

「分かるの」

 それきり会話は途絶えた。

 その場所は、森の中のくぼんだ地形の一番低い所にあった。

 木々の枝が開き、月光が照らし出している。

 少女は満足げにその場所を見つめる。

 私は土を少し掘り返してみようとする。

 手を出して、それでスコップのように土をえぐる。

 土は柔らかい。効率こそ良くないが、掘れないことはなさそうだ。

 こうして、何度かその部分を掘り返した後、私は手を止めた。

「どうしたの?」

「やめる」

 また会話は途切れた。

 これで良いのだろう。

 掘り返したら、誰かの死体が埋まっているのかもしれない。しかし、それが何だろう。

「死体の顔を、見たくないの?」

「なぜ?」

「この下には、私の死体が埋まっているの」

 少女は笑いながら言った。

 ああ、そうなのか。

「君は、幽霊か?」

「ええ、そう」

 少女はまだ笑っている。

「だったら、何だ?」

「あなたは、掘り返したくないの?」

「ああ、全く」

 少女の言う意味が分からなかった。

 幽霊だとして、それが何だろう。

 少女の話は古ぼけた怪談話のようで、それが意味をもつとは思い難かった。

「幽霊なら、それでいい」

「どうして?」

「分からない。きっと人間よりもずっといい」

 この言葉は、自分に対してだろうか、それとも少女に対してだろうか?

 分からない。そもそも、私は今までその意味を悟って吐いた言葉があったのだろうか?

 その答えは誰も知れない。いや、知りようがない。

「幽霊にも『終わり』は、あると思うか?」

「そうね、私自身が望めば……」

 そうだ。そういうものだろう。

 きっとそうでなければ、延々と続いていく。

 掘り返せば、少女はある種の「結末」をむかえるのだろう。そうしなければ、延々と幽霊として存在し続けるのではないだろうか。

「終わりを望むなんて、馬鹿げている」

 私はその地面を見つめながら言った。

「たとえ終わらせるために必死でも?」

「ああ、そうだ」

 少女は軽く跳ねてみせた。

「多くの人がそれを望んでいても?」

「ああ、そうだ」

 望みたければ望むがいい。

 彼らは彼らで、その望みを叶えることだろう。

 私はまた歩き出した。

 帰ろう。もう十分だ。


 翌朝、遅い朝日が昇り始めていた。

 終わりを望むことに、意味などあるのだろうか?

 自らが終わりを望まなければ、続いていくのだろう。たとえそれが、どんな下らないことだとしても。

 朝日が部屋の中を照らし始めていた。

 テレビのニュースでは、山中で遺体が見つかったことを告げていた。


 その遺体の名前は、確かに私の名前だった。

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