僕の目の中で

黄黒真直

世界は美しい。

生き物たちの命も、人間社会の逞しさも、すべてが光り輝いている。


春の朝、僕は森の小道を歩く。朝露に濡れた背の低い草が、僕の靴を濡らす。赤や黄色の小さな花が、道のそこかしこに咲いている。木々は生い茂り、薄い緑の葉っぱが日の光を透かしている。


一歩進むごとに、花の蜜を吸っていた羽虫が足元から飛び立つ。小さな獣たちが朝露で喉を潤し、虫を捕まえて食べている。ぴゅいぴゅいという声に空を見上げれば、数羽の鳥が自分の縄張りを巡回していた。


この世界は美しい。もしこんな世界で永遠に生きることができたら、それはとても幸せだろう。

そんな気持ちで、僕は朝の空気を肺いっぱいに吸い込んだ。


その目の前に。


空から女の子が降ってきた。


「えっ」

どしゃっ、と音がして、地面に女の子の体が打ち付けられた。

首や腕が変な方向に曲がっている。潰された虫のように、体中から赤黒い液体が飛び散っている。眼孔から、美しいグリーンの目が飛び出ていた。


さすがの僕も動揺を隠せなかった。人の死なんて、何度も見てきたというのに。


この子は、なぜ落ちて来たんだ。

僕は上を見上げた。僕の背の十倍はありそうな崖がそびえ立っている。あそこから落ちてきたに違いない。


視線を女の子に戻した。そして僕は、

「うわっ」

と叫んで尻もちをついた。


女の子が、顔を上げている!

飛び出ていたグリーンの目は眼孔に戻り、首も腕も正常な向きについている。赤黒い液体も大部分が消えていた。


「あら……驚いた?」


僕はかくかくと首を振った。


「ごめんなさい、人がいるとは思わなくて……怪我はない?」

「な、ないけど、君の方こそ大丈夫なの?」

「大丈夫よ。ちょっと貧血気味だけど、すぐ治るわ。いつものことだから」

「いつも?」

「私、毎朝この崖から飛び降りるのが日課なの」


彼女はぼんやりした表情のまま、よろよろと立ち上がった。崖につかまり立ちした彼女は、僕の顔を見た。


「あら、あなた、やっぱり怪我をしたの? 顔が包帯ぐるぐる巻きじゃない」

「これには色々とわけがあるんだ。いま怪我したわけじゃない」

「そう? それによく見たら、随分厚着ね。もう春なのに、コートに手袋に帽子だなんて……余程寒がりなのね」


彼女はそれ以上詮索してこなかった。貧血で頭が回っていないのかもしれない。ふらふらと歩き始めたが、すぐにこけそうになった。崖に手を付くと、恥ずかしそうに僕の方を見る。


「あなた、もし時間があれば、肩を貸してくれない? 私の家、この崖の上なのよ」

「それはちょっと……」


完全防御の格好をしているとはいえ、他人と密着するわけにはいかない。


「そう……ごめんなさい、図々しかったわね」


彼女は再び歩き出したが、やはり危なっかしい。


「わ、わかった、いいよ! ただ、僕の肌には、絶対に触らないようにね!」

「そう、ありがとう。じゃあ、お願いするわ」


僕は彼女を抱きすくめると、ゆっくりと道を歩き出した。



彼女の家は木製の小屋だった。室内は整理が行き届いていて、壁に備え付けられた棚にガラスの瓶がずらりと並んでいる。そこには様々な粉や液体が入っていた。どうやら彼女は魔女らしい。


古びたベッドに彼女を座らせると、僕はやっと気を緩めることができた。


「どうもありがとう。お礼に何か飲んでいかない? 元気の出る薬もあるわよ」

「君は、魔女なの?」

「以前はね。でも今は引退したわ。誰にも会いたくなくて」

「え、なんで?」

「逃げてるの。みんな、私をいじめるか、実験動物にするかの、どちらかばかりだから」

「実験? どういうこと?」

「あら、さっき見たことを、もう忘れたの?」


彼女は、まるで当たり前のことを告げるように、こう言った。


「私、死なないの。何をしても」



「不死のベアトリス」の噂は、僕も聞いたことがあった。

今から百年ほど前、当時十八歳の魔女がうっかり猛毒を飲んでしまった。ぱたりと倒れ死んだ彼女だったが、数秒後には蘇った。


「私はそれまでに、数百を超す薬を自分で試していたわ。だから、それらのどれかとどれかが体の中で未知の反応をして、私を不老不死にしたのでしょうね」


不老不死は、魔女の究極の目標だ。図らずもそれを成し遂げたベアトリスは、格好の研究対象になった。


「最初は私も協力を惜しまなかったけれど、だんだん嫌になってきて……」


初めは彼女の身体検査くらいしかしなかった魔女たちだが、研究は徐々に短絡的になっていった。つまり、ベアトリスを様々な方法で殺し、復活の様子を観察するようになったのだ。


「首を撥ねられ、火にくべられ、私は何度も殺された。しかもその結果を、誰も私に教えてくれなかった。誰もが研究成果を独り占めしようとしたのよ」


これまでのほほんとしていたベアトリスの表情が、初めて翳った。嫌なことを思い出させてしまった。


「みんなが私を実験動物としか見ていなかったわ。私は魔女たちの倫理観に絶望して、逃げ出したの。それ以来、各地を転々として生活しているわ。この世界から逃げ出す方法を探しながらね」


この世界から逃げ出す方法——つまり、死ぬ方法だ。

彼女にとってのそれは、誰もが当たり前に持っているのに、自分だけは持っていない、奇跡のような力なのだろう。


「そういえば、あなた、お名前は?」

「オスカーだ」

「オスカー、今日は朝から、大変な目に合わせて悪かったわね」

「いや、別に。構わないさ」

「そう。ところで気になっているんだけど、その顔はどうしたの? 怪我や火傷なら、私の魔法か薬で治せるかもしれないわ。付き合ってくれたお礼に、診させてくれないかしら?」

「いや、これは怪我じゃないんだ」


本当は話したくないが、ベアトリスに身の上話をさせてしまった以上、僕も隠すわけにはいかなくなった。


「僕は昔、悪魔に呪いをかけられたんだ。素肌で触れた生き物を、一瞬で殺してしまう呪いに」

「えっ」

「当然僕も、君と同じように、魔女たちの実験材料にされたよ。悪魔の呪いの正体がわかれば、軍事利用から害虫駆除まで、いくらでも応用が効くからね。だけどどの魔女も正体が掴めず、やがて僕は蔑まれるようになったんだ。まるで僕自身が悪魔であるかのように言われて。それで僕も、地方を転々と逃げているんだ……って、聞いてる?」

「はっ。えっ、ええ、もちろん」


ベアトリスのグリーンの瞳が輝いていた。

彼女はおずおずと細い手を差し出した。


「あの、私と手を繋いでくれませんか?」

「やっぱりそうなるよね」

「試しましょう。魔女の薬と、悪魔の呪い。果たしてどちらが強いのか」

「実験材料にされるのは嫌だったんじゃないの?」

「自分で実験する分にはいいの」

「でも、悪魔が勝ったら、君にはその結果が分からないんじゃない?」

「結果が分かることよりも、死ぬことの方が大事だわ」

「でも僕はもう誰も殺したくない」

「ああ、だから森の中ですらそんな恰好をしているのね。植物すら殺さないように」

「そうだ。この世界は美しい。僕はこの世界を、もう傷つけたくない」

「私はそうは思わない。この世界は醜い。本当は世界の方を壊したいけど、それは無理だから死のうとしてるの」


今朝ののんびりしたベアトリスからは想像もつかない、強い語気だった。どんな説得も通じないだろうと僕は悟った。


「わかった、いいよ……」


彼女が笑顔になる。僕は渋々手袋をとった。

何年も日に当たっていないせいで、病気みたいに白い手だった。ベアトリスはその手を見つめると、

「では……もし死んだら、適当に土に埋めていいわ」

と言って、掴んだ。


くたり、と彼女の体が崩れた。全身から力が抜けて、床に倒れる。僕も引っ張られて、一緒に倒れ込んでしまった。


「いてて……大丈夫、ベアトリス?」


声をかけるが、返事はない。呼吸も脈もなかった。完全に死んでいる。

どうやら、悪魔の力が勝ったようだ。


僕は手を離した。

また一人、無意味に殺してしまった。いくら頼まれたからって……。

後悔していると、むくり、とベアトリスが起き上がった。


「どうやら、私の勝ちみたいね」



ベアトリスは、僕が手を掴んでいる間は死んでいるが、手を離すとすぐ生き返る。何度か試して、僕らはそのことを確認した。


「こんなことだろうと思ったわ」


ベアトリスは落胆の色を隠さずに言った。


「ごめん、力になれなくて」

「いいのよ。元々、この家に誰かが来たら、別の実験をするつもりだったから。ねえ、崖から落ちたとき、私はどうなっていた?」

「どうって……目が飛び出していた」

「たぶん臓物も出ていたわ。でも、復活後はこうして、目も臓物も元の場所に戻っている。損傷具合によって、戻ってくるときもあれば、体内で再生される場合もあるの」

「詳しく分かってるんだね」

「でも、私に分かってるのはここまで。私が知りたいのはこの先。もし私の体をバラバラにしたら、私の体はどの部位を中心に復活するのかを知りたいの」

「そんなもの知ってどうするの?」

「そこがこの魔法の『核』だからよ。それを破壊すれば、私は死ぬわ」


それで毎朝、崖から落ちているわけだ。運よく核が破壊されることを祈って。


「今までそれを突き止めた人はいないってこと?」

「たぶんいたと思うわ。でも私には教えずに、こっそり核を飲んだりしたんだと思う。不死の力を得るために」

「え? じゃあ、なんで君はいま生きてるの?」

「その人が飲んだ核を中心に、私が復活したからよ。もちろん、飲んだ人は死んだわ」


ゾッとする想像だった。


ベアトリスは棚から黒い玉の入ったガラス瓶を持ってきた。


「それは?」

「爆薬よ。飲めば胃液と反応して、私の体を吹き飛ばすわ。オスカーには、私の体がどこを中心に復活するか、観察して欲しいの。私が死んだ後のことは私じゃ観察できないから、この実験には協力者が必要なの」

「そんなことは……」

「お願い。あなたには醜悪なものを見せてしまうかもしれないけれど、お礼になんでも聞くわ」

「なんでも? それは例えば、『死なないでくれ』とかでも?」

「それは無理」


ベアトリスは頑ななだった。彼女へのお願いはあとで考えることにして、僕らはすぐ実験を始めた。

ベアトリスが爆薬を飲む。僕はそれを、離れて見守った。


ぼんっ、と彼女の体が吹き飛んだ。赤黒い臓物が、部屋中に飛散する。もげた手足が投げ出され、砕けた骨が槍のように飛ぶ。


「あっ!!」


僕の右目に、何かが刺さった!

僕は目を押さえながらも、彼女の様子から視線を逸らさなかった。ベアトリスの魔法の核を、決して見逃すまいと左目で凝視した。


ばらばらになった体が、ひとりでに動き出した。彼女の腕も足も内臓も、すべてが同じものを目指している。

その向かう先は……。



復活したベアトリスは、僕の姿を見て狼狽した。

右目に刺さった歯を魔法で取り出し、薬で痛みと血を止めてくれた。


「ごめんなさい、私のせいで……」

「このくらい平気さ」


悪魔と罵られていた時期に受けた暴力に比べれば、軽いものである。


「それより、核のことだ。わかったよ。魔法の核は、右目だ」

「右目? 目なんて、今まで何度も損傷してそうだけど……眼球の中の小さな何かが核なのかしら。ということは」


ベアトリスはテーブルにあった木の匙を取ると、おもむろに自分の右目に向けた。


「ちょっと待った!」


突き刺す直前に、僕は匙をつかんだ。


「まだお礼をしてもらってない」

「ごめんなさい、そうだったわね。なにをして欲しいの? ちなみに私は百年以上生きているけど、体は十六、七のままよ」

「そんなものはいらない。いや、ある意味欲しいのだけど、そうじゃない」

「?」

「僕は君に生きていて欲しい」

「だから、それは無理だって」

「わかってる。でも、二人の願いを同時に叶えることができるんだ」


僕は、自分の右目を指差した。


「ここに、君の右目を入れたい。そうすれば、君は僕の呪いで殺され続けるけれど、ある意味で生き続けることにもなる。僕の目の中で」


ベアトリスはグリーンの瞳を輝かせた。


「それ、すごく素敵だわ!」




今日も世界は美しい。


僕はこれから、ベアトリスを永遠に殺し続けながら、永遠に生き続けることになるだろう。

僕に宿った悪魔の呪いは、触れるものをみな殺してしまう。だけどその力のおかげで、この美しい世界を永遠に生きられるようになった。その代償だと思えば、この世界に触れられないことくらい、なんてことはない。


僕はグリーンの右目で、豊かな自然を、逞しい人間社会を観察した。

世界を醜いと言った彼女に、世界の美しさを教えたくて。

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