chapter6:食蟻獣

7‐0

 今宵、夜襲を仕掛ける。明日は満月なのだろう、大きな月が上っている。アンティーターの塀より、ずっとずっと高い。

 灰色の恐ろしく高い壁が聳え立っているのを見ても、アゲハの心は揺さぶられなかった。代わりに沸き立ったのは、微かな高揚感、そして、敵愾心(てきがいしん)だった。


「誕生日、おめでと」


 ヤブイヌがそっと耳打ちした。日付が変わったのか、と気付く。それとともに、胸の奥がこそばゆかった。二十一歳になっていた。あの日から、四年越しにこの塀を拝むのである。


「私に!?」


 アゲハは思わず、素っ頓狂な声を上げた。彼の掌に、ポストタイプのピアスが乗っかっている。黒いアゲハ蝶が、誘うように羽搏いている。何食わぬ表情で顔で拷問をする、首を落とす、人を殺す、その手に似つかわしくないものだ。


「そ! 年頃の女の子って何が好きなのかさっぱりでさ……。結局、ナナホシちゃんの監修なんだけど」


 そう言って、あはは……、と照れくさそうに笑った。彼女はお礼を言って受け取ると、ピアスホールに着ける。月光に照らされて、蝶が耳もとで煌いた。

 自分の父親が、リンドウではなくこの男だったらどんなに良かっただろうか、と思った。ひっそりと彼とアンティーターで暮らす自分を想像した。だが、そんな世界線は存在しない。だから、アゲハは一人も欠けずに廃都市に戻ること、それを強く願った。



「ごめん、アゲハ」


 出発の当日、信じられないほど弱弱しい声で、ナナホシは言った。


「……本当は、あんなこと思ってない。悔しかったの。ハイエナさまに認められて、愛されてるアゲハに嫉妬――」


 最後まで、言わせなかった。ナナホシに抱き着くと、「……うん」と頷いて、泣いた。


「アゲハ、アンタは強いよ。私が、もう背中をその追えないくらい。だから、不安なの」


 ギュッと、アゲハの肩を寄せる腕に力がこもる。微かに震えていた。「……どっか遠くに行っちゃいそうで」と続ける。そして、彼女も泣いた。


「絶対に、戻ってくる。誰も死なせない、みんなで一緒にここに戻ってくるよ。だから――」


「任せなさい! 私も、アンタを守るわ!!」


 アゲハはが皆まで言う必要もなかった。彼女の言葉を遮ると、ナナホシは再び赤銅色の瞳に力を宿して誓ったのだった。



 ポタポタと、冷たい滴が肩や頭に落ちてくる。その冷たさで、アゲハはハッとあの時のことを思い出す。ここは地下水路である。四年前通って来た道を、逆走しているのだ。


「懐かしい。まさか戻ってくるなんて」


 引き返す路はない、もう後戻りしない、と思っていた水路だった。こんな形で再び通るとは思っていなかった。

 足音とアゲハの声が、迫り来るコンクリートの壁に空(むな)しく反響した。あの時と違って足音は四つ。

 そして、嗅覚をムッと包み込むのは、アゲハがこれまでに何度も嗅いできたような匂いだ。黴臭くて、少し生臭い、水と土の匂い。

 やがて暗闇に目が慣れて、薄暗くだが周りが見て取れるようになる。


「なるほどね、中枢部に繋がっているのか。……んで、ここら辺が――」


 ホウジャクは言葉を切ると、脇道を指さした。


「俺の実家当たり、かな」


 このように道はアンティーターを蜘蛛の巣状に、張っているわけである。彼は歩を止めた。


「じゃ、僕はここで。ナナホシ、三人を頼むね」


『了解! バイオセーフティのシステム、ハッキング完了ー。IoTの脆弱性たるやってやつね』


 ナナホシの声が今日は心強かった。彼女の余裕綽綽の笑みが浮かんできそうな口調だ。便利すぎる技術は、時にこうしたデメリットも含む。バイオハザードを防ぐための排水・排気処理システムや防護扉、消化スプリンクラー、さらにはあらゆる警報装置までが一つのシステムで管理されている。

 ここをハッキングするだけで、全てを掌握できてしまうのである。最も、ナナホシの手腕のおかげである。

 一方で、去ろうとする彼の細い背中に向かって、ヤブイヌが「分かってるかい!?」と叫んだ。


「あくまでも、奪還、これが目的だ。各々思うこともあるだろうが、それ以上は望むなよ」


「分かっています、ヤブイヌさま」


 彼は一度振り返ると天女のような顔で、フッと笑った。彼が再三再四言ってきたことだった。恐らく、全員に向けて、だった。だが、アゲハは、この時鞭を打つような“悪意”を感じた。誰に向けてかは分からなかった。

 それはこの人はこの後誰かを殺すだろう、と確信するほどの殺意に近い憎悪だった。

 

『早く兄さんに自分のことを許せるようになってほしいと思ってるわ』


 いつかのナナホシが吐露した、兄への気持ちを思い出した。

 アゲハは何も言わなかった。



『保衛官のプロトタイプのヒューマノイドが暴走を起こしたんだけど、そのおかげでイミューンシステムの防護システムがかなり強化されたのよ。小刻みに防護扉が置かれてるわ。これを悪用する手はないでしょ!』


 ホウジャクが給水タンクの母体に拮抗剤を撒き、うまく防護扉を作動させて保衛官に浴びせる。拮抗剤は、エデナゾシンへの依存度が高ければ高いほど、意識障害を引き起こす確率が高くなる。目覚めたときは、洗脳は解けている。それを利用して、暴動を起こすのだ。

 侵入の仕方は――。


「正面突破かよ」


 真ん中にある丸い四十階建てのビルを囲むように、リラロボティクスのビル、双子葉製薬の研究所、そして、カーディアックシステムがあるビルが存在する。

 目の前にあるのが、三大システムの一つ、イミューンシステムを担うビルだった。全面ガラス張りの、土台が三角形をしたオフィスビルに、【Lilac Robotics】というロゴがある。アンドロイド、半導体だけではなく、臓器移植や再生医療のビジネス覇権も持つ。これが、イミューンシステムの裏で呼ばれているシステムの正体だった。

 そして、目的地である。地下の捕虜収容所、または十五階にある実験施設に、ハイエナが収容されているのではないか、と踏んでいたのだ。

 真夜中ではあるが、ところどころのフロアで、虫食い状に光が灯っている。油断は禁物だった。


「私は保衛官の“悪意”に全く反応できません……」


「分かってらァ。だから、俺は強くなったんだぜ」


 ニィっと笑うジガバチは、果敢に先頭に立った。アゲハを挟む形で、ヤブイヌが後ろに付く。幸い、床はカーペット仕様になっており、三人の音を掻き消した。二度ほど、曲がり角で職員と鉢合わせるが、ジガバチは声を上げる前に喉笛を掻き切る。

 だが、捕虜施設は、もぬけの殻だった。十程度の部屋があったが、どこも人が暮らしていたような形跡を残し、真っ新な状態であった。


「貴様ラ、ドウヤッテ侵入シタ?」


 この不愉快な金属音に似た人の声に、アゲハは全身の肌が粟だった。気を付けていたのに、全く存在に気付かなかったのだ。

 すべてが刹那的だった。

 一瞬頭上を見上げ、アゲハをヤブイヌに向かって突き飛ばしたジガバチの動きも、『そっから離れて!』と耳音で叫ぶナナホシの声も、そして、手を引いて駆け出すヤブイヌの後ろ姿も。

 コマ送りのように見えた。振り向けば、ジガバチがいた場所には捕虜施設や壁と同じ色の真っ白な防護扉が下りている。その奥で微かに銃声が鳴るのが聞こえた。



 中枢部に隣接する高級住宅街ににて、ホウジャクは配水するタンクに、拮抗剤を流し込む。さらに、小指の先サイズのドローンを数十機ずつ、計百以上の飛ばした。時限爆弾にも、拮抗剤のガスにもなるナノドローンである。ナナホシとの連絡ツールである無線をオフにした。

 

「すみません、ヤブイヌさま。俺は――」


 超高音波銃を構えると、足早に向かったのは二階建ての一軒家。ここから見える窓は全て消灯してある。


「俺らのことは忘れて、いい思いしてんじゃん」


 薄い透明フィルムを親指に貼り、玄関のセンサーに押し当てる。小さくピッと音がし、扉の向こうで鍵が開く音がする。玄関から堂々と侵入すると、寝室に向かった。


「あなたぁ?」


 こちらを背にし、ベッドで寝転んでスマートフォンを弄っている女性を見つめる。知らない背中、知らない声、知らない女だ。


「何だ?」


 だが、その問いに答える声は、部屋の外から聞こえる。憎き、忌まわしき、父親の声だ。じゃあ、今背後にいるのは誰だ? そう思ったその女はパッと振り返った。

 恐怖に慄く表情になる前に、ホウジャクは引き金を引いた。

 音もなく、眠るように、ベッドに横たわる。だが、真っ白なシーツは、彼女の耳、目、鼻からじわじわと赤く染まった。


「どうし――」


 背後を振り返ると、驚愕の表情を浮かべた父親が立っていた。ナナホシによく似た、大きな瞳と長い睫毛、色素の薄い茶色い瞳が、見開かれている。その瞳に映る、ホウジャクによく似た輪郭は、恐怖と驚倒の出来事に歪んでいた。

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