6-3

 暗闇の中、淡い月夜がレースカーテンから差し込む。そんな薄暗い部屋の中で、ハイエナは音も立てずに忍び込む。そして、眠っている男の眉間に銃を突き付けた。


「動くな」


 パチッと目を覚ました男に向かって、地に響くような低い声で彼は言った。

 ミサゴが持ってきていたハマダラの写真と、同じ男だった。



「どう考えても、罠だろう」


 ハイエナにミサゴの話をした後、開口一番はこうだった。だが、その一方で薄ら笑いを浮かべていた。


「まあ、いい」


 これは、応、と言う返事なのだろう。

 それから実行に移すまでは早かった。あれよあれよという間に、話は進んだのだ。

 その結果、アゲハは、スイバからの返事を聞く間もなく、現場に行くこととなった。それどころか、渡したのかすらも知らない。

 酷く、彼は気を急いている様子だったのだ。


「いいか、出会った奴は誰であろうと殺せ」


 そう言って、彼は銃を彼女の掌に押し付けた。嫌に鉄の塊が重く、冷たく感じた。



「……パパァ?」


「来るな!!」


 その時、別室で寝起きのような女の声がした。その瞬間、ハマダラが叫ぶ。だが、足音は開け放たれた部屋の扉のすぐそばまで来ていた。

 脳みその中で“殺せ”と言う彼の声が聞こえた。

 姿は見えないが、息を呑み、大きく目を見開く声の主の表情が手に取るように感じ取れる。殺せ、殺せる! 銃口を向け、構える。引き金を引くだけで良いのだ。

 だが、真っ白な顔で怯えた少女が顔を覗かせた瞬間、アゲハは躊躇してしまったのだ。彼女の翡翠色の大きな瞳には、涙を浮かべている。溢れんばかりの、大粒の涙だった。


「アゲハ、何をしてる!!」


 背後から、怒号が飛んできた。頭が途端に真っ白になる。できない、そう言おうとした瞬間だった。


バン!! バンッ!!


 二回の発砲音、そしてアゲハが横の壁に吹っ飛ばされるゴツッという音が同時に起こった。

 一瞬何が起こったのか分からなかった。硝煙の匂い、誰かが膝をつく音、荒い息遣い……。それらで状況を把握した途端、アゲハは溺れるほどの後悔の念に襲われた。

  そう、彼女の一抹の油断、躊躇で、ハイエナが被弾したのだ。眉間に当てていたはずの銃は、ハマダラが手にしている。そして、硝煙が、こちらを向けた銃口から上がっている。

 セーフティを上げる小さな音が、聞こえる。眉間に凄まじい痛みが走る。脳天を、ぶち抜くほどの“悪意”の照準が突き刺さる。それなのに、体が動かなかった。何も考えられず、頭が再び真っ白になる。

 再び二発、銃声が鳴った。ギュッと目をつぶる。だが、弾は当たっていなければ、死んでもいなかった。


「まだ、そこまで動けたのか」


 ハマダラの嘲笑した風な声で、がばっと顔を上げる。ハイエナの朱濡れの瞳が、アゲハをとらえた瞬間、ドサッと崩れ落ちる。計四発、情けないことにどこに当たったのかすら分からなかった。だが、瀕死であることは確実だった。ドバっと汗が噴き出る。彼は“悪意”すら纏えないほど、衰弱していたことに気付いたからだった。


「……動ける、な。……逃げろ」


 床に首(こうべ)を垂れたまま、彼は言った。そんな彼の胴に蹴りが入る。トドメの銃口が向く直前、部屋の窓ガラスが派手に割れた。

 大きな影が、大きな音を立てて傾(なだ)れこんでくる。床に足をつけた瞬間、銃を持つ手を蹴り上げる。がこん、と床に落ちる音がした。


「おい! 楽な仕事じゃなかったのかよ!?」


 少し擦れた、強圧的な声で、叫んだ。この声の主は、ジガバチだった。さらに、何かを言いかけて、アゲハと目が合うと口を噤んだ。

 チッと舌打ちが聞こえるや否や、ハマダラはタンスと本棚を押し倒した。逃げる時間を稼いだのだ。ジガバチは二人を庇ったせいで、反応が大きく遅れる。

 ハマダラはすでに娘を連れて、部屋を出て行ってしまった。


「どーする!?」


 彼女はその声に大きく首を振った。


「ハ、ハイエナさんが、たくさん撃たれました」


「見せろ」


 ジガバチが傷口を確認する間、ガーゼと、包帯を消毒しようとした。手ががくがくと震えて、うまくできない。何度も包帯を転がし、びちゃびちゃと消毒液を溢す。死んでしまったらどうしよう、復讐が成せない体になったらどうしよう、と嫌な考えが脳にこびり付いて離れなかった。


「……ジガバチ。それより……、アゲハが死にそうだ」


 そう言って、フッと笑った。力を籠めたら、全身が痛むに違いない。なのに、彼は笑いかけたのだ。


「怪我してんのか?」


「……かもな」


 アゲハは、腰抜けだった。そして、自分の躊躇で、仲間を殺しかけたのだ。そのうえ、重態の怪我人に情けを掛けられる始末だった。


『アンタのミス、躊躇でアンタ自身だけじゃない、同胞が死ぬの。いい子ちゃんぶって、知らない人に媚び諂(へつら)って、仲間が死んじゃったら世話無いわよ』


 いつか言われた、腹が立つセリフが、まるで宣託のように聞こえて来た。自分が不甲斐無く、情けなく、噎び泣きながら止血した。



 昨晩の取り乱したアゲハを思い出し、ジガバチはため息を吐いた。あそこまで取り乱した彼女を、今まで見たことはあっただろうか。

 色々な残酷な現実や真実が、幾度となく彼女を襲ってきた。怖い目にもたくさんあっただろう。だが、一瞬で錯乱を押し殺し、黙殺しようとしていた。それなのに――。

 どす黒い感情が、沸き上がって来た。気づいたら、重篤なハイエナの胸倉を掴み、噛み付いていた。


「おい! もう、いい加減こういうこと止めにしろよ!!」


 ギロリと睨み上げると、怒りを押し殺したような表情を浮かべた。


「貴様、誰に向かって口を――」


「うるせェ!! 復讐して何になる? 俺らのうち誰かが死ぬだけだ! そんなん、喪失感しか残らねーだろ。お前も、薄々気づいてんだろ? なァ!?」


 いつものように、脅せば、しおらしくなるとでも思ったのだろう。激高が止まらない彼を、驚いたように見つめた。そうだ、ジガバチは彼の中に迷いが生まれているのを見たのだ。ここ最近は、何をしているのかは知らないが、アンティーターに旅立つたびに、迷いの色が濃くなっていた。

 そして、それを本人も気付いていたのだ。

 昨日、慌てて作戦を決行したのも、その反動だと読んでいた。


「……相変わらず、鋭いな」


 表情を崩すと、やけに分厚い茶封筒を差し出す。想像に難いが、愛を綴った恋文でもしたためたのだろうか。


「渡しておけ」


「自分で渡せよ」


 ジガバチは、頑なに受け取らなかった。

 そんな彼に、「ところで」と言葉を続ける。


「……お前、アゲハが好きなのか?」


「はア?」


 何の脈絡もなく、妙な質問をされたせいで、何とも気の抜けた声が出る。嫌に饒舌だった。何かあるのか? 変な勘ぐりを入れてしまう。

 そして、無性に腹が立った。先ほどのどす黒い感情が、胸焼けのように下腹部に絡みいたままだった。


「好き、だと?」


 そう言って凄むと、精いっぱいの嘲笑をして見せた。一昔前ならば、殴り倒されていたであろう、と言うほどに馬鹿にした表情を浮かべた。


「お前の陳腐な尺度で測ってんじゃねェ」


 力いっぱいの、強がりだった。これくらいの嫌味を言うくらいが、関の山だった、と言った方がいいかもしれない。殴られるかもしれない、と思ったが、反応は何とも意外だった。


「そうか」


 安堵するように言うと、笑ったのだ。そう言えば、彼はよく笑うようになった気がする。不吉を象徴するものではない。ごく自然な笑みを、ジガバチにもこうして向けられるようになったのだ。

 それがいつからだったかは、思い出せない。いつからか、ああ、こうしてヤツも笑うのか、と感じたのを思い出した。

 ずっと、こんな些細な変化を感じられる、穏やかな毎日が続けばいい、そう思った。彼も、同じような心持なのが分かった。

 これで、うまくいくはずだ、何もかも。そう思った、直後だった。


「東側の窓から出て、大回りしてヤブイヌのところに向かえ。ここにはしばらく来るな」


 ふっと、あの無機質な顔色に戻る。黙って目を合わせると、ジガバチは、何かを察したように台所の窓から外に飛び出た。手紙を持ち、とんでもなく嫌な予感を抱えながら、廃都市を駆けた。

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