3-1

「……で、これは一体どういうことだ?」


 満身創痍でヤブイヌのねぐらに戻ってきた二人に対し、ハイエナは恐ろしい形相で凄んだ。


「ホウジャクとナナホシがここ数ヶ月でようやく掴んだ成果だった。ホウジャクは特に命がけの潜入だ。さらに小型カメラと盗聴器、それぞれ三台の喪失もある」


 要するに、アゲハの独断専行により取り返しのつかない事態になったということだ。ホウジャクが脇で頭を抱えているのが見える。


「どっちがったんだ」


 そう言った瞬間、全身を押しつぶすような凄まじい“悪意”を感じた。ハイエナの重くし掛かる“悪意”にアゲハは息をすることすら難しかった。今度こそ殺される、そう思った。


「わた――」


「……俺だ」


 やっとの思いで声をひねり出したアゲハの声を遮ったのは、横にいたジガバチだった。


「俺がヤママユを殺した」


 ハイエナはそう聞いた瞬間、ふっと顔を無表情にすると、ジガバチの胸倉を掴んだ。咄嗟に殴られると思ったジガバチが、腕で顔を庇う。だが、ハイエナは足を叩きつけるように、そのがら空きの腹部に蹴りをねじ込んだ。

 低く唸ると、ジガバチは両手をついた。しかし、ハイエナは先ほどのを吐き出すがごとく蹂躙した。顔を庇えば横腹を、腹を庇えば顔を蹴りつけた。がっくりと顔をうなだれた拍子に、ドバっと吐血する。舌でも切ったのだろう。

 ああ、このままじゃ死ぬ、そう思った。それと同時に、気付く。そうか、ハイエナの計画書にジガバチの名はないのだ、と。


「……か、カメラと盗聴器回収してきますから、もう勘弁してください」


「は?」


 咄嗟にアゲハは意味が分からないことを口走っていた。そうじゃないことはわかっていた。

 ハイエナが真っ赤な瞳で睨む。急いで部屋を出ようとしたアゲハの腕を掴むと、そのまま壁に打ち付ける。

 鳩尾の打撲傷が痛み、顔をしかめた。その時、「やめなさい」と、横から誰かがハイエナのアゲハを捕らえた手を掴んだ。


「放しなさい」


 ヤブイヌだった。静かにハイエナにそう告げると、掴まれていた腕の拘束がゆっくりと緩められる。

 アゲハはするすると壁伝いに座り込んだ。


「ホウジャク、彼らの手当てしてあげて」


 ホウジャクの方を向いてそう言うと、彼は黙って頷いてジガバチに肩を貸した。

 アゲハも一刻も早くここを出たくて、慌てて二人の後を追う。

 その時、ハイエナは、アゲハの去る背に向かって「お前だろ」と呟いた。その瞬間、全身に悪寒が走った。だが、振り向きもせず、アゲハは部屋を出た。


「自分で自分の首を絞めて、何がしたいんだ?」


 ヤブイヌと二人っきりになった部屋で、ハイエナは誰に言うわけでもなく嘲笑した。


「ジガバチって子は――」


「そうだ、だからこそだ。アイツらは協力関係を築きつつある」


 ヤブイヌの言葉を遮ると、ハイエナは睨み付けながら言った。


「仲間意識なんてものは足枷になるだけだ。現にこうして――」


 ハイエナが続けて言い掛けたところで、ヤブイヌは彼の頬をった。

 「……なにをする」と、さらに掴み掛らんばかりに睨みを利かせた。


「アゲハちゃんの腕が痛そうだっただろうが! お返しだ!」


 ヤブイヌも負けじと、怒鳴った。それに対し、ハイエナは露骨に嫌な顔で一瞥した。


「気持ち悪いおっさんだな」


 そう捨て台詞を吐くと、ヤブイヌの言い返す言葉も聞かずに部屋を出たのだった。











 アゲハは頬を冷やしながら、ナナホシの小言を聞いていた。


「アンタってばほんっとうに使えないわね」


「……ごめん」


 アゲハはもう、何が正解だったのか分からなくなっていた。少なくとも、ナナホシにとっての正解ではなかったことはわかっていたため、アゲハは平謝りするほかなかった。


「てかさ、いちいちムカつくのよね」


 ナナホシはそう言うと、アゲハの唇の傷に脱脂綿を乱暴に当てがった。傷に染みて「いだっ」と声を上げる。ヨードチンキだろう。いわゆる赤チン、今時こんな消毒薬を使っているとは。


「昔の私を思い出しちゃって……」


 消え入るような小さな声でそう続けた。


「とにかくさぁ、気が利く相棒に感謝しないとね。どーせ、アンタがやらかしたんでしょう」


 その言葉に、アゲハはギクッとした。


(……違う。ジガバチはそんなんじゃない……)


 誰にも相談できない、誰にもこの不安を吐露できない。誰も信用できない。この世界で味方はいない。ナナホシとは違うのだ。自分で何とかしなければいけない。

 アゲハはのどまで出かかった言葉を飲み込んで、「うん」と頷いた。


「アゲハちゃん大丈夫そー?」


 ちょうどナナホシが傷口を綺麗にし終わったタイミングで、ヤブイヌが部屋に入ってきた。


「めっちゃ元気そうでーす。辛気臭い顔以外」


 ナナホシが眼鏡を押し上げながら、アゲハを見つめた。「じゃ、失礼しますー」と言うと、そそくさと出て行った。


(あ、ありがとうって言えなかったな)


 アゲハは頬をさすりながら、部屋を出て行くナナホシのポニーテールをぼんやりと眺めていた。


「アゲハちゃん、ここの生活どう?」


「大変ですけど、皆さんのおかげでなんとか……」


 愛想笑いを張り付けて、アゲハはお礼を言った。こういうことは得意だった。ずきずきと、口の中の傷口が痛む。


「……気、遣わなくていいよ。ハイエナはいつもあんな感じなんでしょ?」


「いえ、いつもは優しいですよ。何度も助けてもらってますし」


 アゲハは何とか作り笑いする。なぜだかとても気まず過ぎて、これ以上この場に居たくなかった。居心地が悪そうにソワソワするアゲハに心配そうな顔を向ける。


「アゲハちゃん。ここでは、いい子ちゃんじゃなくていいんだよ」


 ふとそう言われ、アゲハはハッとしてヤブイヌの見つめ直す。ヤブイヌの人相の悪そうな服装と髪型、そして顔のつくりは苦手だった。しかし、堀の深い目元から垣間見える、そのアゲハを見つめる目つきは妙に優しいのであるる。

 これがアゲハを居心地悪くさせている原因でもあった。


「……あ、いや、その何ていうか、アゲハちゃん長女でしょ?」


 ジーっと見つめると、ヤブイヌは焦ったように早口でそう付け加える。あぁ、そういうことか、と納得すると、アゲハは頷いた。長女感は、ここにきても尚、なかなか抜け出せないのだろう。大の大人のヤブイヌにはそれを見越されていたいたわけである。


「アイツさ、俺には逆らえないから。大丈夫だよ、話せる範囲でいいから、おっちゃんに話してみなよ」


「前にも何度かあったんです、こういうこと。いわゆるトカゲの尻尾切りのようなものです。でも、私の不手際の尻ぬぐいをしてくださってるだけで、私が元凶なのです」


 話が抽象的すぎる、アゲハはこれでは理解しにくいだろうと思った。アゲハはもう、誰にどこまで打ち明けたらいいか分からなくなっていたのだ。だが、支離滅裂なアゲハの話を、ヤブイヌは黙って聞いていた。


「どうしたらよかったのか、私にはわかりません。これからもきっとこのような岐路に立たされることが何度もあると思います。こういう時にナナホシとホウジャクさんみたいに……」


 アゲハはここで口を噤んだ。ようやく、自分の気持ちに気付いたのだ。自分が今一番欲しいもの、こんなときにどちらの選択肢を選んでも、背中を押してくれる人、ありのままの自分を受け入れてくれる人だ。

 ヤブイヌは足を組むと、煙草に火をつけようとする。


(あの匂い苦手だなぁ)


 アゲハがそれを看過していると、ヤブイヌは何かを思い出したように手を止めた。


「おっと、あぶない。禁煙始めたんだった」


 そう独り言のように呟くと煙草を箱に入れる。そして、箱ごと握り潰し、ゴミ箱に投げたのだった。



 あの日から三日ほどたったが、未だにジガバチは夜はなかなか寝付けなかった。と言うのも、寝返りを打つことすら身悶えするほど全身が痛かったのである。

 この日も、ジガバチは痛みに歯を食い縛りながら、布団を頭から被る。

 その時、ハッと息を飲むような声が頭上で聞こえるや否や、アゲハはがばっと飛び起きたのだ。


(またかよ、コイツ……。うぜェ)


 寝つきの悪いアゲハにジガバチは苛立つ。

 そんなジガバチのことなどつゆ知らず、彼女はそのまま、そろりそろりとベッドから抜け出し、ベランダに出て行く。

 ジガバチは薄目を開けて、後姿を見つめた。アゲハの肩が震えていた。


「おい、王子。姫が泣いてんぜェ」


 おそらく同じ光景を見ているであろう、足元のソファで仰向けになっているハイエナに声を掛けた。


「何だ、気になるのか?」


「そんなわけねーだろ。散々親どもから甘やかされて育ったんだろう。ざまあみろってんだ」


「本当にそう思うか?」


 そう言うと意味有り気に、ハイエナは鼻で笑った。


「アイツもお前と同じだ」


 ハイエナの言葉の意味が分からなかった。ジガバチはそのあとの言葉を待ったが、それっきり、ハイエナは口を開かなかったのだった。

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