1-2

「カハッ!」


 全身を刺すような痛みで、ジガバチは飛び起きた。気を失い、とそして水を掛けられたのだ、と気付くまでに時間が掛かる。起きてすぐ、凍てつくような寒さが全身を包んだ。上裸の姿で寒空の下、投げ出されていたからだった。


「何なんだよ、これはァ!?」


「丸裸にされなかっただけでも感謝しろ」 


 その声に顔を上げると、まず目に飛び込んできたのは、真っ赤な目をした男、ハイエナだった。

 体を動かそうとして、痛みが走る。手元を見ると、忌々しいリストカット痕が左右どちらの腕も、小刻みに手首から二の腕まで続いている。そして、ワイヤーでぐるぐる巻きに拘束されていることに気付いた。

 足も、足首から腿まで拘束されていた。狂ったようにナイフを突き刺された傷口に、ワイヤーが食い込む。そのため、少しでも動くと激痛が走った。

 もちろん、薬瓶も武器も全て没収され、目の前に並べられていた。


「麻酔しますか?」


 目が覚めたことに気付いたアゲハが、おずおずと男に問うた。


「……無駄だ。どうせ効かねェ」


 その言葉に、ばっと振り向くと、両手を地に着ける。そして、食い入るようにじっと見つめる。


「どういうことですか? やっぱり一部の薬剤に強い耐性があるんですか?」


 ジガバチは答えなかった。一方で彼女は返答をしぶとく待っているようだった。やがて痺れを切らしたのは、ハイエナだった。

 髪を乱暴につかむと、気味が悪いほど無表情に正面から顔に拳を叩きこんだ。


「答えろ」


 ぽたぽたと鼻血が滴る感覚を感じながら、「……そうだ」と言葉を捻りだした。

 彼女は彼の暴力的な一面に、顔を強張らせた。

 そして、ジガバチの口に布を詰めようとする。その瞬間、何をしようとしているかわかり、ジガバチは抵抗した。


「うぐっ」


 その瞬間、頭が真っ白になって視界が揺れた。今度は、右頬を殴られたのだ。みるみるうちに皮膚が腫れていく感覚がする。構えていなかったため、唇が切れる。


「勘違いするなよ、お荷物になられては困る――」


 その後、アゲハの縫合と麻酔なしの激痛に、歯を食いしばって耐え忍ぶ羽目になったことは言うまでもない。さらには結局下半身も素っ裸にされ、腿の傷の縫合も同様に耐えた。


――アイツら、ぜってーぶっ殺してやる!!


 ガチガチと震えているのは、寒さなのか痛みなのか、霞がかった脳みそでは判断できなかった。

 拷問ともいえる縫合の時間を乗り切って、ジガバチはようやく服を上から被せられる。寒さがいくらかマシになった。

 回らない頭で二人の会話を聞く。自分の処遇について話し合っているようだった。どうやらここからかなり歩くらしかった。


「その前に、聞きたいことがあります」


 アゲハは、目の前に並べられた五つの薬瓶のうち、一つを取る。


「これは何ですか?」


 ジガバチは朦朧とする意識の中で、薬瓶のラベルを見つめた。


「……んあァ? そうだった、お前にはわかんねえか」


 思わずニタニタと笑いが零れる。ピキピキと唇の傷が開き、血の味が広がるが構わない。


「どういうことですか?」


 本人はあくまでも毅然とした態度を貫いているつもりなのだろう。しかし、こめかみに青筋が見えるようだった。 


――弱ェ癖に、何なんだコイツ。


 急に答えるのが怠くなってきて、押し黙る。すると今度は、ハイエナに肩をつま先で蹴り飛ばされた。肩が外れるかと思うほどの痛みに、歯を食い縛る。


「……ユリ科植物から、ファイトアレキシンを単離して自分で作ってるからだ。廃都市の……、風俗街でばら撒けば、金ンなるから――」


「嘘……! 設備ラボを持ってるの!?」


 チッと内心舌打ちした。言うべきではなかったか。無知が危ない薬品で勝手に自滅するのは構わないが、あそこには高価なものや二度と手に入らないものが多いのだ。


「で、使えそうか?」


 まるで品定めをするように、腕を組んだ男は自分の顎を触った。

 コクコクとアゲハが頷くのを確認すると、組んだ腕を解く。


「良かろう。どうやっていうことを聞かすつもりかは知らんが……」


「考えがあります」


「なんだ、言ってみろ」


「この人を奴隷にする薬を作りました」


 そう言うと、ポケットから注射針の付いた一ミリシリンジを取り出した。


――やっぱりコイツの方は弱ぇ上に馬鹿だ。大した事ねェ。


 ジガバチは拘束を解かれ、彼らが油断した隙にどう逃げるかしか頭になかった。

 ハイエナという男は強い。返り討ちにされ、今度こそ一瞬で殺されるに違いない。少女のアゲハを人質に蹂躙することも考えたが、観察するに二人の間柄は特段親しくはなさそうだったため、成立しない可能性があった。

 用心深い彼は、男の方は諦め、女を痛めつけることに専念しよう、と考えた。

 どうやって痛めつけ、どうやって殺そう、そのためにどんな薬物を使うか、考えるだけで胸が高鳴る。興奮しすぎて、アゲハに腕の静脈を弄られるまで何か打たれたことに気付かなかった。


「ふっ、上手いな」


 鼻でせせら笑うような男の賞賛に、彼女は複雑な顔をした。

 身体の方はやはり、何ともない。

 体はボロボロだったが、自尊心は折れていなかった。

 この状況下だ。そして、静脈注射。おそらく神経毒だろうと容易に推測できた。

 ジガバチには効かない薬は、主に神経に作用するもの全般だった。勝利を確信した。

 ずいぶん昔に、強い薬剤の無計画な多用で抗菌薬の利かない菌や、殺鼠剤の利かないネズミ、殺虫剤が利かない害虫が問題になった時代があったそうだ。

 生物は進化する。

 自分もそうであり、この事実に気付いた時からこれを活かさない手はないと思った。

 そして、拘束が解かれた瞬間始まる、それを活かした楽しい殺戮ショーを妄想した。自分の隣で、毒ガスで失禁し、痙攣しながら死ぬ獲物を見るのは最高だった。麻痺して動けない獲物を一方的に嬲り殺すのも楽しい。

 脳からドーパミンが溢れ出る感覚、逸る鼓動、嘘のように消える激痛。

 しかし、そんな有頂天気分もアゲハの次の一言で地に落ちた。


「今打ち込んだのは、とある有鉤条虫の卵です。潜伏期間は一ヶ月。それを過ぎると、脳が虫だらけになって死にます」


「はア!?」


 今度こそ歯を剥き出しにして、ジガバチは掴み掛るがごとく怒り散らかした。身を捩るほど、頭がショートするほどの痛みが傷口から全身へ迸る。


「この虫に対して有効な駆虫剤が一種類だけあります。私が作りました。保管場所も、作り方も、私だけしか知らない」


――ふざけんな!  ふざけんな! ……ふざけんな!!


 ジガバチは怒りの余り、青筋を立ててにらんだ。


「一ヶ月後に駆虫薬を渡すか、否かを決めます。あなたの働きが良ければ、解放します」


「ふざけんなよッ、クソ共が! 何が奴隷だァッ!!」


 怒りに任せて怒鳴り散らかすと、ハイエナがまるで能面のような顔で胸倉を掴んで割って入ってきた。


「俺たちと貴様が対等だと思うなよ。その気になれば、いつでも殺せるということを忘れるな」


 低い声で唸るように耳元で囁くと、そこからは顔が原形を保てない位に殴られた。


――やっぱ男も殺すッ! 女はぐちゃぐちゃにレイプしてぶっ殺す!!


 ぼたぼたと血に滴る自分の血を見つめながら、ジガバチは強く決意した。



 足のワイヤーを切った途端、ジガバチはアゲハを目掛けて体当たりをした。アゲハはこんな巨体に暴れられてはひとたまりもない。大きく突き飛ばされて、尻もちをついた。

 痛みに呻きながらよろよろと立ち上がるアゲハを、ジガバチは満足そうな表情で見つめた。

 その後ハイエナの鉄拳制裁が飛んできたのは言うまでもない。


「このバケモンは一体何者なんだよ」


「私も知らないです」


 あっけなく返事をする彼女に、ジガバチが唖然とした表情を浮かべる。

 仲良しこよしの二人組とでも思ったのであろうか。


「あぁ、言い忘れてたな」


 ハイエナは立ち止まると、アゲハたちを振り返って言った。


「俺は元保衛官だ」


「嘘こいてんじゃねーぞ」


 くだらない戯言だと思ったのだろう。ジガバチがすぐに噛みつく。だが一方で、アゲハは事実だと確信していた。この男の強さをこの目で二度も見たのだ。疑う余地はなかった。


「本当だと思いますよ。ハイエナさんのお陰で、私は保衛官三人相手から逃げ、アンティーターから出ることが出来ました」


「はァ? お前はアンティーターから来たってのか?」


 眉を歪ますジガバチに、頷いた。彼はクックッと喉を鳴らすと、「お前ら相当の訳アリってことかよ」といってジガバチは笑った。


「で、お前はただの小市民だろ? なァ?」


 ニタニタと笑いながら、ジガバチが煽りを掛ける。

 いつもだったら言い返せただろう。しかし、ヒイラギが死んだ今、到底言い返す気にもなれなかった。ただただ、特別な子であるヒイラギの屍の上に、凡人の自分が生きて立っていることを思い知らされ、唇を噛み締めるしかなかった。


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