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 毒、つまり薬物を投与するというのは実に難しい作業である。特に、目分量で投与する量を測り取るのは至難の業だ。強すぎれば死ぬ、弱すぎれば効かない。

 相手を殺すことが目的ならば、過剰な量を投与すれば殺すことはできる。だが、強すぎれば強すぎるほど、扱う側もリスクを伴う。

 それを彼、ジガバチという賊は意図して“使い分けている”のだ。しかも、このような辺境の里で、たった一人でである。

 彼女はそれに対し、恐れもあったがそれ以上に好奇心が勝った。

 薬学は医学に次いで、彼女が専ら興味のある学問だった。

 どうやって学んだのか、どこで作っているのか、何を原料に作っているのか、ジガバチに対する興味は底をつかなかった。


「一体何者なんでしょう。ただの山賊とは思えません」


「そうだな」


「さっきの話途中、誰かから悪意を感じました。微々たるもんなんですけど……」


 アゲハはチラリと上目遣いで彼の反応を見る。全く表情は動かさず、なるほど、とだけ呟いた。

 客間、とはいってもアゲハたちのために用意してくれたのは物置の様な小屋だった。だが、真冬の中、こんなだだっ広い森の中で野宿するよりは随分ましである。十分ありがたみは感じた。

 彼女は侍女のような女が持ってきた飲食物を、チラリと見た。


「手は付けるなよ」


 美味そうな鮎の塩焼きだった。ハイエナが持ってきたサプリメントしか口にしていない。高カロリー高栄養とはいえ、錠剤やゼリーで腹は膨れない。ごくりとつばを飲み込む。


「……ちょっと、良いことを思いつきましてシリンジと、何ゲージでもいいので針も一緒に貸してくれませんか?」


 アンティーターから逃亡する際に自分に鎮静剤を打ってきたことを、アゲハは忘れていなかった。


「何を企んでいる」


「ジガバチを利用しませんか? 私に任せて欲しいことがあるんです」


「自惚れるな。お前にできることなどない」


 その言葉にぐっと下唇を噛む。


――助かったのがひーちゃんだったら……、役に立ってたんだろうなぁ、きっと。


 しかし、傷ついている暇はなかった。アゲハにはやらなくてはいけないことがあった。

 自分が母であるユズリハを殺す切り札である、という話が本当ならば、やがてハイエナとは対峙しなければならないだろう。しかし、この世界で自分は赤子も同然だった。自分も切り札を作らなくてはいけなかったのだ。

 だが、アゲハの要求にしばらく考え込むそぶりを見せた後、「悪くないな」とぼやく。

 ほんの少しだけ認められた気がして、アゲハの胸が高鳴ったのだった。



 そして時はやってきた。

 村からすべての明かりが消え、静まり返る。風の音が嫌に大きく聞こえる。

 アゲハは十数年前に絶滅した昆虫の生態を、ぼんやりと思い出していた。非社会性の典型的な狩りをするハチで、食料を確保するのに神経毒を使う。獲物はこの毒で全く動けなくなるが、麻痺しているだけで死ぬわけではない。獲物が死ぬと、肉が腐り、食べられなくなるからだ。

 親バチはこの時獲物に卵を植え付け、自分は二度と巣穴には戻らない。やがて卵が孵ると、幼虫は獲物が死なないように、生命の維持に影響を及ぼさない部位からゆっくり食べていき、やがて繭になる。


 ザッザッ……


 風の音とは違う、規則的な音が外から聞こえてくる。足音だった。

 そして、一つの足音はアゲハたちの小屋の前で止まる。二人は息を殺して扉の左右にそれぞれ立った。

 扉が開く音がする。心臓の音が、扉の向こうの誰かに聞こえそうなほど高鳴った。そして、入ってきたのは、なんと隣の集落から逃げて来たあの女であった。


「な……、なんで? 私、毒はちゃんと混ぜたのに……」


 ピンピンしているアゲハたちを見つけると、女は泣き崩れた。メソメソと鼻を啜っている。

 ほんの微かに感じた“悪意”はこの女だったのだ。しかし、もちろん今はそれも全く消え失せている。


――この人がジガバチ本人では無さそうだし、グルってわけでもなさそう……。


 今生の終わり、とばかりにさめざめと泣く彼女を見て、殺されかけたとはいえ困惑した。


「全員が無抵抗の赤子同然のあの状況下で、一人だけ取り逃がすことは不自然だとは思っていた。しかも、返り血がベッタリと飛び散る距離でな。話を聞く限り、ジガバチとは相当に狡猾な奴だ。そんなミスをするとは思えなかった」


 ハイエナは冷酷な態度で言い放つと、女の長い髪をひっつかんで囁いた。


「訳を聞かせてもらおうか?」


 女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を上げて、「助けてください、夫を人質に取られているんです」とハイエナの足元に縋りついた。


「言うことを聞けば、夫の毒を解毒して、開放してくれると……」


 このようにしてひとつ前の狩場から一人だけ残すことで、警戒されず、次の狩場の準備ができるということというわけだ。


「あの……、その毒というのは?」


「わかりません……。ですが、今夜中に解毒剤を打たなければ、死ぬと言われました」


 アゲハたちが、女を連れて外に出た、その時だった。

 大きな黒い塊が音もなく空から降って来たかと思うと、何が起こったのか認識する前に女の細い首から真っ赤な血飛沫が飛び散った。

 バサッと音を立てて、アゲハの顔に勢いよく飛び散った。飛沫の勢いで思わずしりもちをついたほどだった。頸動脈を切ると、その飛沫の勢いはで障子が破れるほどだと聞く。アゲハはその通りだと思った。


「その毒はなァ……」


 男が口を開く。同時に女が崩れ落ち、満月の光で大きな影の正体が照らされる。


――でかい……! ジガバチだ!


 アゲハはその異様な姿を見て確信した。その時ジガバチは大きく一歩、ハイエナに向かって前へ出る。それを見た彼はスッと構え、臨戦態勢に入った。


「こうやって使うんだよ!!」


 そう叫ぶと、ハイエナに襲い掛かった。五つの細い鉤爪が彼の胴を右肩から左の鳩尾辺りまでを大きく切り裂いた。と、思い、アゲハはぎゅっと目を瞑った。

 しかし、舌打ちと共に男の憎々し気な声が聞こえ、目を恐々開ける。


「……外したかァ」


 避けようのないカウンター攻撃かと思われたが、躱していたのだ。驚異的ともいえる、反射神経だった。


「強ェな、お前。けど……」


 その時、細長く吊り上がった三白眼がギロリとアゲハを見据えた。

 目が合った瞬間、恐怖で体中にある汗腺と言う汗腺から汗が噴き出るのを感じる。だが、何ということか、この男からはほとんど“悪意”を感じられないのだ。その存在を感じる程度だった。ハイエナといるときは、息が苦しくなったり、全身が痛くなるほどの悪意を感じるというのに、である。

 だが、裏を返せばとても恐ろしいことだった。彼の悪意の正体は快楽だ。


――狩りが楽しいんだ……。


 アゲハは末恐ろしいことに気付き、全く動けなくなる。至極色の瞳が、彼女の視線をとらえて離さない。


「――この女は弱ェだろ!!」


 まだ女の血液が残る手甲鉤の刃を、アゲハに向けて襲い掛かってきたのだ。怖すぎて、何も考えられない。何のアイデアも浮かばない。情けないことに、膝小僧と歯が震えて仕方なかった。

 もう、死んだ、そう思った。


「自分よりも強い奴に、背を向けるのか?」


 ハイエナがそういった時と、ジガバチが振りかざした右手を止めたのは同時だった。

 弦をはじく音と、ひゅっと言う細い線に風が通り抜ける音がする。違う、右手を止めたのではない。止められたのだ、と気づく。

 

「こんなんで足止めできると思ってんのかァ!?」


 ジガバチは力任せに右手を引っ張った。だがその瞬間、ドクドクと腕から幾筋もの血が流れ出る。彼がそれに気づく間もなく、既にハイエナはすぐ背後を取っていた。

 手綱を引くように右手を引っ張ると、頸反射の要領で無防備な胴がむき出しになる。そこに膝蹴りを食らわした。

 呻き声を上げて右手で庇おうとするが、ワイヤーで塞がれ、二度、三度と繰り返される。よろけて膝をつこうとするも、その隙も与えなかった。さっと真後ろに回ると、ジガバチの首にワイヤーを当てるような両手の動きをする。

 後ろに全体重をかけて締め上げた。

 ジガバチは締め上げる彼の両手を防ごうとする。だが、ハイエナはそれをするりと躱すと、ワイヤーを片手に持ち換えた。ワイヤーと首の間に入れたジガバチの手からドクドクと血が流れている。


「アゲハ、コイツに質問があるんじゃないのか?」


 アゲハは、急に呼びかけられハッとして我に返る。必死に藻掻いている刺客に対し、残酷なほどの余裕をハイエナは見せた。

 「えーっと――」と言葉を紡ぎ出そうとするがパクパクと口を動かすだけで声が出ない。そんな彼女を、彼はうんざりしたような溜息で遮る。


「使っている毒について話せ」


 まるで腑抜け状態の彼女に痺れを切らしたのだろう。


「ふっざけんじゃ、ねエ!!」


 叫ぶや否や、身が切れるのも構わず、身を捩って暴れる。しかし、ワイヤーを持っていない右手でポケットからフォークを取り出した。アゲハの家から持ってきたのであろう。

 それを腿に刺したのだ。ジワリと血が滲み、痛みに顔をしかめてるのが分かる。


「アコニチン系アルカロイドを主成分に作った毒だァ! 致死量は約一ミリ、おとりにはその三分の一、武器には十ミリだ。……っつっても、教養のねェ馬鹿どもに言ってもわかんねーだろ!! んなこと聞いてどーすんだよ!」


「そうか、アコニチン……! トリカブトなどの毒花の成分ですね」


 細胞膜に作用して細胞の活動が停止するため、嘔吐や痙攣、呼吸困難や心臓発作を招く。身近にある毒だ。

 妙に食い気味のアゲハに、招かざる客人さえも怪訝そうな顔をする。


「あ、あなたはこの作用機序を理解して使っているんですか? アコニチンに解毒剤や特効薬はありません。彼女に噓をつきましたね」


 先ほどの恐怖が、畏怖に変わる。声が擦れるのは、恐怖からか、同様からか、それとも……。


「はア? ムキになんなよ。当たり前だろ? そっちの方が面白ェからな」


「村人たちにも同じものを使ったんですか?」


「ンな勿体ねーことするわけ無エだろ。そういうのは亜酸化窒素っつーのを使うんだよ。バーカ!」


 亜酸化窒素? 睡眠ガスのことか? そんなの、知らない。と、アゲハは首を傾げる。自分以上の知識を持っていたことに、戦慄する。

 

「致死量は筋肉や静脈注射、皮下そして経口投与、吸入などでそれぞれ全く違います。量と方法、それを種類によって使い分けているんですか?」

 

 一種類ではない、少なくとも二種類。いや、この口ぶりではもっとある。

 「ふははははは!!」と、腹を抱えて捩れるほど笑う。腿から脹脛(ふくらはぎ)を伝い、地面へと血が流れていくのが見える。


「面白ェな、お前。簡単だよ、死なれた困んだろォ? 何せ、こうやって次の獲物ンとこまで案内してもらわねーといけねエからな!! 当然、使い分けてるさ」


「貴方は……、いったい何者なんですか」


 目の前の狂人、いや鬼人に声を出すのがやっとだった。紡ぎ出した声は情けないほどに、震えている。痛みに耐えながら、ジロッとあの目で見つめる。


「てめェこそ――」


 ジガバチが言いかけたとき、「ぐあっ!!」と叫んだ。ハイエナがもう一度、今度は横腹に突き刺したからだ。

 全身に猟奇的な“悪意”が降り注いだ。凄まじい殺気だった。殺すのか? とすら思った。

 

「待ってください! やり過ぎです!!」


「悪いが、お前の言う生け捕りというのはこういうことだ。今から毒ガスを撒こうというのにこいつはマスクすら持っていない。耐性がある可能性がある」


 そういうと、二度、三度と男の腿に突き刺す。ジガバチは今度は声を出さずに呻きながら、踏ん張った。その証拠に地面に血だまりができていく。


「……ご名答」


 凄まじい痛みに耐えながら、ジガバチはニタニタと笑った。


「案外タフなんだな」


 薄気味悪い笑みを浮かべる。繰り返し刺すうちにフォークがダメになると、今度はケーキナイフを持ち出した。


「待って! これを――」


 先ほど準備した注射器を取り出したところで、ジガバチはがくり、と首を垂れた。

 失神したのだ。

 相当出血もしている上、かなり興奮もしていた。

 アゲハは呼吸を確認するために、恐る恐る近づくと、注射器を刺すのをやめた。


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