13-2

 頭が割れそうに痛む。ヘルメットをかぶってぴったりとした雨具を着込む。外はすでにかなりの雨が降っていた。雷も落ちているようだ。しかし歩いていくほどの度胸はない。受ける風自体は大したことはなかった。台風は昼前に通過する予報だったからまだ日本列島にすら上陸していないだろう。この雨は台風に付随する前線の影響だ。台風というのは雨と風が交互にやってくる。まず雨がどっさり降って、風が徐々に強くなってくる。風が頂点になったときに雨は徐々に弱くなっていき、逆に風がおさまってくると雨足は再び強くなる。そして抜けきると一気に晴れ渡るのだ。なんとなくそういう印象で何度も台風を見送っている。けれど、台風で仕事になることは今回がはじめてだった。発電所に配属になったひとたちは毎度のことだろうけれど、当然その部署にはじめて配属になったのだから、そういうことである。なんとなく、緊張した。潮間というまちを、あまりにも頼りない背中で背負わなくてはならない。しかしその潮間というまちだって、実はそんなに重くはないのだ。考えているうちにわけがわからなくなってきそうなので、ぼくは原付のスロットルを大きくひねった。

 滑り込むように職場にたどりつくと、すでに出ていたひとたちが挨拶をしてくれる。いつもしてくれていたはずだがぼくは覚えていなかった。覚えていなくても挨拶を返せていたのだろう。

 会議の場はさすがに緊迫していた。風でとばされそうな工具や車両は安全な場所に待避、電鉄は一日運休、JR潮間線も運休とのことだった。自動車道は通行止めなどの連絡は入っていないとのこと。市役所の建設部とは連絡がついた。関東電力にはこれからぼくが連絡することになった。どうせ大した連絡事項なんかないだろうけれど。

 執務室に戻るとなんだかざわついていて人だかりができていた。海岸警備班のひとたちのようだった。そこに見知った顔がいなくてぼくは胸騒ぎがした。

「三島は?」

 班長に聞いたら連絡が取れないとのことだった。学生時代から町内会で似たようなことをやっているはずだからこういったことには慣れているはずでだれよりも早く出発するはずだから先に行ったはずだと話してくれた。「はず」が多すぎると思った。違和感と胸騒ぎはおさまらなかった。

 まさか。

 ぼくは最悪の事態を想像した。台風が過ぎ去った次の日、あの浜辺にかれが打ち上げられるさまは、自分が考えていたよりも驚くほどに簡単に、いやになるくらい想像がついた。いてもたってもいられなくなった。それをぼくはだれかに話さなくてはいけないことにすらいらいらした。

 市ノ瀬主任が肩を叩いた。執務室の外に促された。

「行くんですか?」

「なぜ、それを」

「それくらいわかりますよ。私にだって」

 彼女の目はつり上がっていた。何かいいたそうだった。

「この建物に生きて戻ってください。かならず。それまでにはなんとかしますから」

 けれどおそらくその「いいたい」部分はいわれなかった。市ノ瀬主任にとって、それは優しさからくるのか、あきらめからくるのかぼくには判断しかねたし、判断しなくても別によいのだと気づいた。なぜ彼女にここまで親切にされるのかわからなかった。けれど、それはわからないままでいいのだろうと同時に思った。だからただはっきりとうなずいて、ぼくはぼくにしかできないことをするために外に出た。

 雨天用のゴーグルをすすめてくれたバイク屋に感謝した。そうでなければ目をやられていたはずだった。ぼくの原付は普段からは考えられないほどに加速し、ここでは書けない速度で潮間を駆け抜けた。生きた心地がしなかったけれど、よくよく考えればそれは逆で、ぼくはこの今、もっとも生きることに近づいていた。生きているというのはただ息をしていることでも、お金を稼いで生活することでも、何かを表現して満足することでもない。この時にぼくははっきりと気がついた。霧崎灯台が近づくにつれて予感は確信へと変わっていった。なんとおろかなのだろう。なんと若いのだろう。そして、なんとまぶしいのだろう。

 そう、ぼくはずっと三島に嫉妬し続けていたのだ。自らをえぐりだすようにして、それすらも素直に語り続けるかれを、心底うらやましいと思っていた。ぼくはぼくをえぐりだすことはついにできなかった。なぜならぼくの中には何もないからだ。えぐりだすべきものが、ぼくにはない。だからぼくはじぶんをわかることができなかった。わかるもなにも、じぶんがないのだから当たり前だ。じぶんをえぐる言葉なんか、つくりだせるはずがない。それが、ぼくと三島の明確な違いだった。明確すぎて、今まで直視することすらかなわない違いだった。その輝きが潮間の海に消えていくことは耐え難かった。だからぼくは誰もいない道路を何度もスリップしながら灯台を目指した。

 灯台の前で止まりきれず原付は最後のスリップをしてぼくは転んだ。ブレーキを深くかけていたのと、膝と肘にプロテクターをつけていたおかげで大した傷にはならなかった。プロテクターは砕ける寸前だったのでぼくはそれを海に放り投げた。ほとんど無意識だった。痛みはほとんどなかった。立ち上がって目の前で棒のように突っ立っている大柄の青年を見つめた。かれは雨具を着ていたけれどヘルメットは崖に置いていた。灯台のすぐ横に白いバイクがあったのを見て、かれは運転がうまいのだと知った。

「なんで来たんですか」

 かれはある意味当たり前だけれどいちばんおろかな言葉をぼくに投げた。

「君に伝えたいことがあったから」

 ぼくは珍しく冷静だった。

「今更なんですか? 今になってあなたに何がわかるというんですか! 僕は潮間にとらわれつづけるんだ! だれにも理解されないままひとりで死ぬ、これほど美しいことがありますか? じゃましないでくれ! 透明なままぼくは生き続けた! そして今、死ぬんですよ! そのほうがずっときれいで、美しくて、僕らしい! 潮間の男としての人生もまっとうしている! どうですか石本さん! あなたには絶対にできないことでしょうね! なぜならあなたは! 潮間の男ではないから!」

 三島はまくし立てるようにぼくに近づいてそういった。その絶叫は大雨の中でもはっきりと聞こえるくらい、切実だった。

「あなたがいくら望んだって! あなたは生き続ける! 潮間の男になれないままうす汚れ続けてむなしく、この何もない灰色のまちで生き続けるんだ! あなたはそれを選んだ! 僕を千歳に引きあげてくれなかった! 音楽の力で僕は、ハヅキは、潮間から逃げられると思っていたのに! 汚い真珠の核を、きれいに磨いて売り渡したのに! 石本さん! こんな僕に何を言いたいんですか! みじめですか! むなしいですか! ぼくはそう思っていませんよ! いまここで、こうしてあなたの目の前で死ぬことができるなんてうれしい! うれしいに決まっている!」

「違う!」

 ぼくは遮った。

「君はここで死ぬことが本当に自分の望みだと思っているのか? 潮間の運命に逃れられない? だれのことだ? 寝ぼけたことを言ってるんじゃない! そんなものは運命でもなんでもない、単なる呪いでしかないだろ! 君はわからないものをわかろうとして、その実わからないものすらまともにわからなかった、ただそれだけじゃないか! 勝手に主人公を気取るな! 自分だけの物語を作って勝手に終わらせるんじゃない! 君の世界は美しいしきれいだし輝いているけれど君自身を救っているわけじゃないだろ! 君は、君自身で君を救わないといけないんだ! ぼくはこの潮間というまちがわからない! それだけじゃない、君も、ハヅキも、主任も、葦山さんもみんなみんなわからないし気持ち悪いんだよ! ぼくはそれが、それすらも、そんなことすらわからなかった! でもこのまちにきてわからないことをわからないままわかることができた。なぜぼくがそんなに気持ち悪い世界を今日まで三十年以上生き続けてきているかわかるか? それは君と違って、ぼくは、ぼくの中に核があるわけじゃないとはっきり知ってしまったからだ! 君の核にはなにかが埋まっている。ぼくにはそれがない! ないんだ! だから真珠なんか作れない! 君が吐き捨てるほど、飽きるほど作り続けている真珠を! ぼくは! どんなことをしても作ることができないんだよ! だからぼくは君を許さない! 絶対に! 許さない! 君がその真珠の価値に気づかないまま、ハヅキの、ぼくの、潮間の気持ちに気づかないまま死んでいくことをぼくは! ぼくだけは絶対に許さない! 許してなるものか! 許せるわけがないんだよ! わかるか! わからないだろ? わからないでいいんだ! 君はわからないをわかれ! そしてほんとうの言葉をつづれ! 言葉をつづれるのはそのからだだけだ! 生きろ! 詞を描け! 美しい、君だけの詞を! 君のことはだれにもわかりはしない! だから君の核の汚さなんかだれにもわかりはしない! でもそれは君がだれからも見られていないということではないんだ! 少なくともハヅキはしっかり見ているだろう! ぼくだってそれなりに見ている、つもりだ! 気付け! 君を見ているひとに! 言葉は! ひとの目をみて! 投げつけるものなんだよ! だからぼくは生き続ける! このまちで小説を書く! たとえ書けなくても書くんだ! それは! ぼくを見ているひとに向けて書かなければならないものが! そこにあるからだ!」

 自分が叫んでいるとはとうてい思えなかったが、実際にぼくの喉は裂けそうだったし、三島は目を丸くしているし、たしかにぼくが語ったという実感はあった。ぼくが潮間で考えたことのすべてを無造作に投げつけてしまったことに関してだけは反省している。

「君は君の言葉で詞を描き続けるべきだ。ハヅキのために。ぼくのために。これから出会うすべてのひとのために。ぼくはそれが生きるということだと思っている。そうしてぼくらは、やがて生き始めるだれかのために、生きているということを残していくほかないんだ。だって言葉はわからないことをわかるようにするために作られていないのだから」

 とたんに全身が打たれたように痛くなったけれど、十以上も歳の離れた、しかも職場では部下に相当する青年の前でうずくまるわけにもいかない、と謎の矜持を見せ、ぼくはかれを見つめた。三島は数秒ほど固まっていたが、やがて目に大粒の涙を浮かべ、ぼくの前に泣き崩れた。

「ずっと不安だったんです。僕が多くのひとに知られればそれだけ、僕はきれいでありつづけなければいけなくなる。僕は、ハヅキがずっとわからなかった。恋人でも、兄妹でもないのにずっとついてきて、僕と音楽をやってくれる彼女がわからなかった」

 あ、やっぱり恋人同士じゃなかったのか、とぼくはきわめて冷静に考えた。意外だろうが、そんな気はしていた。

「わからないことが怖かったんです。いつ、ハヅキが去っていくのかわからなかったから。わからないから、僕から離れようと思って、それで、台風の日なら、事故だったことにできると思って。ここなら、次の日には『真珠が浜』にたどり着きます。アコヤガイの僕が、真珠のなりぞこないの浜辺で見つかるなら、きれいなまま死ねると思ったんです」

 お互いに持ちうる感情をすべて吐き出し終わったせいか、ぼくらは互いに無表情で、冷静だった。

「ひとつ、教えよう。最近、海の流れが変わったらしくて、あの浜辺にはもう何も流れてこないよ」

 老警官と確認したこと。

 確証はないけれど、でも、今言うべきだと思った。

「……そう、だったんですか」

 三島の表情は無のままだった。

「それより、石本さん、ぼろぼろっすね」

「実はさっきから全身が痛くて」

「そりゃそうですよ、顔も血だらけですよ」

 三島がおかしそうに笑うのを見て、ぼくはようやく自分の状態に気がついた。無傷だと思っていたが、雨具の襟から覗いた裏地は真っ赤だった。心なしか少し寒い。

「風もひどくなってきたし戻らないとまずいですね」

 三島の心配そうな表情が、覚えているところの最後だった。

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