13ー1
台風十三号は猛烈な勢いで関東地方の東に抜けるようだった。つまり、予報通りであれば潮間を直撃するということになる。いつになく発電所は朝からそわそわしていた。天気はむしろ穏やかだったが、それこそ文字通り「嵐の前の静けさ」に違いなかった。なにかがいつもと違うように感じたが、しばらくして気づいた。風向きだった。陸地に垂直に、つまり東から吹いてくるはずの風が少し北向きになっている。主任に伝えると彼女は目に見えて狼狽した。
「とにかく全職員を召集します。各部門の責任者を集めて二時間後に会議です」
なぜ彼女がそうなったのかは一時間ほどあとに葦山氏からのメッセージを受け取った時にわかった。潮間では、風向きが変わると大きな台風がくる前触れだと言われているとのことだった。ぼくの持つ理科の知識からしてもそうだろうと思った。台風が近づいているから風向きが変わっているのだろう。だけれどそれにあまりにも動揺しているのがふしぎだった。台風がこのまちに来ることが特段珍しいとも思えない。何か、台風に対して苦手なものがあるのかもしれない。
職員会議で頑丈そうな雨具と真っ白なヘルメットを渡された。その場で着るように主任から指示された。
「早くしてください!」
主任はもはやヒステリーと言われても仕方がないくらいには憔悴していた。
「落ち着いてください」
ぼくは思わずそう言った。主任が慎重に判断できなくなれば、この発電所は総崩れになって、結果として潮間もたおれてしまう。史上最大とはいえ、台風や地震などにはひととおり耐えうる構造になっていることは間違いないわけで、しかしそこで働いている人間がたおれてしまえば、発電所は機能しなくなる。環境問題を考えたいひとや世の中というものをわかろうとしているひと、とにかくなにかを汚れていることにしたいひとにとってはそのほうがいいのかもしれないが、この発電所には文字通りぼくらの、そしてもちろん潮間のひとびとの生活がのしかかっていた。だからいのちに換えてでも守り抜くしかなかった。その要となるのは間違いなく市ノ瀬主任しかあり得なかった。少なくとも、潮間の人間ではないぼくでないことはだれの目にも明らかだった。
ぼくはそれをきわめて簡潔に説明した。彼女はもともと優秀なひとなので、それで言いたいことをわかってくれたようだった。
「わたしは台風に母親を殺されました。父にお弁当を届ける途中で崖に転落したのです。父は発電所に勤めていました。台風は父を守り、母を殺しました。台風が、怖くて恐ろしいのは、そのせいです。取り乱してごめんなさい。しっかりしますね」
言葉につまりながら彼女は語った。やはり、わかっていることを説明するのに言葉は向いていないと思った。だってぼくは市ノ瀬主任がわからなかったから。ぼくの「わからない」を彼女は消そうとしたから。
それから主任は落ち着きはらって各部署から提出された資料をもとに台風の対策案を話し合った。手慣れているのかてきぱきと話は進み十分ほどで会議は解散、全員足早に元の配置についた。ぼくは主任からもらった配置表を見た。三島は総務部だけれど身体が大きいせいか海岸警備班になっていた。鉄道対策班にも十分な人員が配置されていることから考えるに、この会社の規模は大きいのだろう。その日のうちに明日は早朝に出勤することが決まって、そのかわり今日は早く帰ること、潮間電鉄を使用して通勤するものは職場に寝泊まりしてもよいことも全員に伝えた。そういうことは当たり前だけれどぼくの担当だった。「特任」という妙な言葉がついていても、この発電所の管理責任者は所長であるぼくになる。つまり、石本隆志の署名のある文書でないといけないことがいくつかあって、小説を書いていたせいかそういった書類を書くのは苦手ではなかったし、実際いくつか作った書類の作成の早さで主任を驚かせたことがある。今回は緊急事態の宣言も兼ねた文書で、過去に文例があるのでそれを見つつ自分なりの言葉を加えた。ぼくはぼくなりに、わからないことをわからないままでみんなに伝えたかった。ぼくがわからないことをみんなにわかってほしかった。だから、正式な文書とは別に、各責任者にそういうメールを送った。反応は微妙だったけれど、主任だけが意味ありげな目配せをしてくれたから、少なくとも彼女には伝わったのだろうと思う。
布団に横たわったら、真理の顔が一瞬だけ浮かんだ気がした。
すぐにアラームが鳴った。
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