欲望とローズマリーと1と

ゴオルド

ずっと足し算や引き算が続いていくだけ

3月18日。晴れ。強い海風

早起きして弁当をつくり、傷ませることにした。日当たりのいい床に置いておく。西日のさす頃、弁当のふたを開けると、ぷんと白米が傷んだにおいがした。お母さんが作ってくれたお弁当と同じにおい。胸がしめつけられる。


3月19日。晴れ。強い海風

今日はおなかの調子が悪い。そりゃそうでしょうよとしか言いようがない。きのうの弁当のせいだ。でも後悔はない。またやろう。

図書館からメールが来ていた。予約していた本を取りに来いとのこと。


3月21日。雨。すごく寒い

バーで見知らぬ男に口説かれた。バツイチだって。話していると気持ちいい。女がその気になるボタンがどこにあるのか知っていて、それを押せる男だった。ただそれだけの男だった。エッチもそれなりにうまいのだろうけれど、性病と妊娠のリスクを考えてみても遊ぶのは割に合わない。けれど、話していると体が疼く。この男と電話しながら、別の男としてみたら楽しいかもしれない。ただの自傷の妄想。


3月22日。晴れ。強い海風

予約した本を受け取りに図書館へ。『タイム・バインド』という本で、アメリカのとある大企業の従業員にインタビューして書かれたルポだ。従業員の多くは家庭と仕事の板挟みだった。特に母親が。私の母もそうだったのだろうか。母の勤め先はアメリカではないし大企業でもなかったけれど。母は小さなエステサロンに勤めながら、化粧品を売っていた。美しい顔にいつも疲労の気配を漂わせていた。

『タイム・バインド』にはが挟まっていた。前に借りていた人が挟んだまま忘れてしまったのだろうか。淡いグリーンの紙に黒字で「恋愛書肆しょし」とだけ書かれており、上部にはパンチで穴が開けられ、白くて細いリボンが結んであった。においを嗅いでみる。ローズマリーと潮風のにおい。でも潮のにおいは窓から入ってくる海風のせいだ。


4月3日。晴れ。海風で桜が散る

図書館に本を返しにいき、次は『ときめく貝殻図鑑』を借りてきた。私は海の近くに住んでいるけれど、知らない貝ばかりだ。ときめきはしないが美しい。この図鑑からもしおりが出てきた。薄緑に白リボン、「恋愛書肆しょし」と書かれていて、ローズマリーの香りがする。私はしおりを抜き取り、自分の机の引き出しにしまった。これで2枚目だ。誰かの忘れ物を奪い取った気持ちになり少し気分が悪い。

世の中には、理性と欲望が戦う、そんなことを言う人がいる。けれど、実際は理性と欲望とでは戦いにならない。だって欲望のしめった地面から、ミョウガのようにちょんと生えているのが理性だから。理性は欲望の付属品に過ぎない。欲望と戦うのは、別の欲望。まともな人間でありたいという欲望と、そんなものを破壊してしまいたい欲望が喧嘩するだけ。

母は幾つかの欲望をねじ伏せて、娘をひとりで育てたいという欲望を勝たせたのだ。


4月5日。くもり。地面が腐ったにおい

定食屋であじフライを食べた。魚の小骨が口に当たって不快だけれど、ほかの客たちは何も気にしていないように黙々とあじフライをそしゃくしている。私のあじフライだけがハズレなのか。それとも皆は本当は気づいているのに、何もわからないふりをして飲み込んでいるのか。母の作るあじフライは、――たいがい半生もしくは焦げていたけれど、骨はなかった。味もしなかった。空気を食べているみたいだった。空気だったのかな。お母さん。

ふと、ローズマリーが香った。薄汚れた店内に漂う揚げ油の粒たちが、ローズマリーに捕獲されて消滅した。おかげで空気に隙間ができた。ローズマリーの発信源は、一人の男だった。その若い男は奥の席に腰をおろすと、牡蠣フライ定食を注文した。この店にそんなメニューあったっけ?

私は視線を戻して、あじフライを何食わぬ顔で食べる。そんなの絶対無理なのに、ほかの人たちみたいにやってみせている。


4月19日。くもり。なまず色の空

今日は母の命日だ。死んで1年たったという記念日。変なの。死後の日数をカウントすることに何の意味があるのかわからないが、世の人のまねをして遺影に花を供えてみた。黄色の薔薇が好きな人だったから、黄色の薔薇にした。花言葉は嫉妬。黄色はユダの色、裏切り者の色。でも人を裏切ったことのない人なんてきっと存在しないから、別にどうってことはない。あと線香もあげた。この儀式の最中、私は私を疑っている。これは誠実な行為だろうか。死後の世界なんてちっとも信じていないのに。


4月26日。晴れ。つつじが満開

つつじの甘いにおいにオエッとなりながら、図書館で本を借りた。『白い果実』だ。主人公の男がかなり性格が悪い。革手袋の指の部分をコンドームがわりにして売春婦とセックスするってどういうことなのかと思った。入るものなのか? いくら何でも細すぎないか。それに痛そうだし。人生で初めて作者に質問の手紙を書いてみようかと思ったが、どうせ返事はこないだろうからやめた。

この本にも、例のしおりが挟んであった。やっぱりローズマリーの香りがする。深く吸い込むと、肺を内側から撫でられるよう。私はしおりを引き出しにしまった。これで3枚目。


ところで、3という数字に私は憧れる。母親がいて、子供がいて、父親がいたら3になる。もしも子供が2人いれば4になる。4も良いなと思う。子供が3人で5になってもいい。うちは2だった。そして今は1なのだ。2は寂しかったけれども、1よりは良かった。

また黄色い薔薇を買いに行く。前に買ったのは水に沈んで、腐ってドロドロになって、悪臭を放つようになった。清浄な空気と水と光で育って、最後は臭い液体になるなんて花は気の毒だ、気の毒だなあと思いながら台所の流しに捨てて、その残渣は燃えるゴミの日に捨てた。


5月9日。雨。空気がとしている

4枚目のしおりを手に入れた。クセの強いシャツを着た、キュートな大人の男が主人公の小説『ラブラバ』に挟まっていたのだ。もちろん図書館で借りてきた。

4枚も同じしおりと遭遇するなんて一体どういうことなのか。私は「恋愛書肆」をネットで検索してみた。すぐにお目当てのサイトにたどり着いた。書肆しょし――書店、本屋というだけあって、本を売る店だった。恋愛小説専門店らしい。「御希望のラブストーリーをご提案いたします」とある。「恋愛小説のコンシェルジュ」とも書いてある。自分で名乗っていて恥ずかしくないのだろうか。それに書肆っていう言い方も格好つけた感じがして鼻持ちならない。そんな本屋のしおりが、なぜ図書館の本に挟まっていたのか。私一人だけでも4枚も出会っている。推測だが、かなり大量のしおりが図書館の本に仕込まれているのではなかろうか。


恋愛書肆は、図書館から歩いて20分ぐらいのところにあった。青い傘をさして下見に行った。その店は古民家を改装したもので、成長しすぎて巨大化したローズマリーの木立に埋もれるようにして建っていた。


5月10日。晴れ。強い潮風

ぎっしりと積まれた本の壁に囲まれた店内で私がしおりを見せると、「4枚ですか。残念なことに、あと1枚足りません」と店主の男は言った。この男には見覚えがある。定食屋でローズマリーの香りを放っていた男だ。

「しおりを5枚もってきた人に交際を申し込もうと思ってたんです。パートナーとなる人は、僕と本の趣味の合う人がいいって思ってるから」

それで図書館の本にしおりを挟んだのだという。変人だ。

「もし既婚者がしおりを持ってきたらどうするつもりだったんですか。あと男性とか」

「既婚者であれば、諦めるしかない。男性であれば、諦めるのは早い。もしかしたら愛せるかもしれない。今はまだゲイの経験はありませんが」

なんだこの人は。

「なぜ5枚なんですか」

「6枚では腰が重い、4枚では軽率だ」

「つまり私は軽率ということですね」

店主ははっとした顔をしたが、否定はしなかった。ちょっとむっとした。

「なんだかつまらないので帰ります」

「あ、せっかくですから、本を買っていかれませんか。お望みの恋愛小説を御用意しますよ」

「……じゃあ、嵐の夜に泣きながらセックスする話を読みたいな」

とすこし投げやりに私は言った。それはきっとぐずぐずに乙女チックな話で、そういう感傷的で甘過ぎる本なら読んでみてもいい。

「それは恋愛というより官能小説では」

「いいえ、恋愛です。雨と風で閉ざされた二人だけの世界で切なくて涙をこぼすんですから。ただし、永遠の別れとか余命わずかとか、そういうのはナシで」

「ちょっと難しいな……探しておきます」


5月11日。くもり。としている

嵐の夜に泣きながらセックスする話が見つかったと、店主からメールが届いた。私は仕事帰りに店に寄った。すると男はここで読んでいけといって、店の奥にあるソファへ私を誘導した。読んで納得いかないならお代はいらないと。

読んでみたら現実逃避的なセックスをする話だった。切なくない。これは違うなと、彼のほうを見ると、彼も読書中だった。目を伏せて、下唇を噛んでいる。それがたまらなくセクシーだと感じた。頭で思ったのではなくて、私の体が勝手にそう感じ取った。

私の手が私の手じゃないみたいに震えて、持っていた本が落ちる。

私は息苦しさを覚えて、呼吸を求めて彼に近づいた。気づいて目を上げた彼に、「キスしていい?」と尋ねた。そうすれば私は楽になれるから。彼の名前も知らないけれど。彼はゆっくり立ち上がって、顔を近づけてきたので、私は飛びついて唇を合わせた。触れたところから熱が広がって、うっとりする。嫌悪感はなかった。いい男と思っていても、キスした瞬間ぞっとする、そんな幻滅はまったくなかった。肌が合うとおりこして細胞が合う、そんな感じ。


5月12日。雨。強い潮風

私は図書館に通い始めた。5枚目のしおりを見つけたい。


5月14日。晴れ。痛い痛いセデスセデス

彼からメールが届いた。おすすめの恋愛小説があるらしい。私は返事を書いた。「読んでみたいけれど、今はしおりを探すので忙しいのです」

それから、定期的に彼からメールが届くようになった。しおりは見つかりましたか? いいえ、まだ見つかりません。


7月1日。晴れ。大気が殺意を持ち始めた

図書館で彼とばったり出くわした。瞬時に顔がほてるのを感じた。でも彼は私を無視して、書架へと歩いていった。ふらふらと後を追うと、彼は足を止めて、一冊の本の背表紙をなぞった。そして再び歩き始めたかと思うと、今度は別の本を指でなでる。

これはカンニングだ。しおりを挟んだ本を彼は私に教えている。だが、それでは意味がない。しおりは本の趣味が合うことの証明なのだから、私は読みたいと思った本を手にとる。そして、たまたましおりがありますようにと願う。

私は『浴衣のリメイク術~すてきな和雑貨づくり』を借りた。しおりは挟まっていない。


8月1日。晴れ。生臭い潮風

最近よく定食屋で彼を見かける。でも話はしない。

食事のあとは、図書館でしおりを探す作業に戻る。

本の背表紙を睨みながら、自問する。

そんなに彼が欲しいの? ――欲しい。

あまり性格が良いとは思えないけど。――それでもいい。

もしも借金とか抱えてたらどうする? それは――。私はどこかに引っ越して、物理的に彼と会えないようにして思いを断ち切るだろう。理性や計算ではない。まともな人間として人生を送りたいという欲望が、彼を欲しがる欲望を打ち消すだけのこと。そうであって欲しいと思う。そうでなければ困る。だって、図書館の本にしおりを仕込むような迷惑行為に手を染めている男だ。そんな男が欲しいのだ。すでに私の中では動物的な欲望が優勢なのだ。困ったことに私の全細胞(一部をのぞく)が彼が欲しいと叫んでいる。大脳だけは「それほどいい男でもないよね?」と言っているのだが。お母さん。母は世間で言う「良い母親」ではなかったけれど、私は母が大好きだった。彼のことを思うと、大きなうねりの中で体がもみくちゃにされているような、四肢がばらばらになるような衝動で地面ごとぐらぐらする。叫びたい。彼の歪んだ唇に噛みつきたい。

彼からメール。「恋愛の駆け引きって、どう思いますか」なんだか漠然とした問いかけだ。

「苦手です」と返事した。するとすぐに返信があった。「僕もです」変なの。恋愛書肆なんて店をやっておいて、そんなことある? 彼に対する警戒度を引き上げた。


9月8日。くもり。完璧に地面が腐っている

図書館は改修のため、来週から2カ月間、休館となるらしい。今日借りたのは、ファンタジーとミステリー。しおりは挟まっていない。

彼からメール。「嵐の夜に泣きながらセックスする切ない本についてですが、参考までにお尋ねしますが、そういうことをしたいと思ってるんですか」

私は「そうですね」と返信した。「わかりました」と返事が。ちょっとイラっとした。ほかに言うことないの?


9月10日。雨。強い潮風

彼が図書館を出禁となった。私が読みそうな本に先回りしてしおりを挟んでいたところを司書に見つかったのだ。いい年した大人による迷惑行為に司書はブチ切れた。私はその場に居合わせた。情けないしみっともないなと思った。でも。

私は先に図書館を出て、彼を待った。出てきた彼は頭を下げ、私に交際を申し込んだ。私は反射的にオーケーした。我が大脳は呆れて言葉も出ない。

結局私は5枚目のしおりを見つけられなかった。本当はしおりを見つけて、彼に突きつけたかったのだけれど。


嵐の夜に泣きながらセックスはできなかった。雨は降っていたけれど、嵐というほどの激しさはなく、全力で彼を欲しがる肌をなだめるのに忙しくて泣くどころではなかったのだ。


彼との×回目、泣きながらセックスできた。大脳も彼を好きだと思い始めたようで、幸福感に包まれたせつなさで涙がこぼれたのだ。でも晴れた日だった。しかも昼間だった。二人とも口がニンニク臭かった。


嵐の夜に泣きながらセックスするのは思った以上に困難だ。まず嵐ってのが滅多にない。



11月2日。晴れ。強い潮風

私はかつて2だった。母と私で2。それが1になり、彼と出会って、でも2にはなっていない。もしも誰かと結婚したとしても、あるいは子供ができても、私は永遠に1のままだろう。でも、毎日天気予報をチェックして、嵐がこないかひそかに調べてくれる彼と1+1になっている。1の寂しさは変わらない。これからも。1+1の喜びがあっても。


きっと母もそうだったのだろうと唐突に理解した。



<おわり>

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