第1話 女だけの祭り


 ポツンと、背中に丸めた紙が当たる。

 クスクス、クスクスと後ろから笑い声。


 ポツン、ポツンと頭に当たり、足元へと落ちていく。

 教科書やノートに向けた視界の端から、クシャクシャに丸められた白いノートの切れ端が、いくつも床に転がっているのが見えた。


 されるがままに無視をしていると、背中をペン先で突かれ拾って読むように促される。


 どうせ、毎度同じくワンパターンな悪口なんだろう。

 「死ね」とか「ブス」とか「ヤリマン」、「根暗女」とか。もしもそれ以外の、なにか捻った言葉が書かれていたら、態々考えて書いてくれたその人に、感謝してもいいのかもしれない。


 後ろでカチカチとペンをノックする音が聞こえる。

 先ほどから、少なくともその紙切れへはしっかりと文字を書いていたようで、きっと、その延ばされたシャープペンシルの先は注射針のように鋭利だろう。

 私は仕方なく手を伸ばし、その一つを拾おうとした。


「またお前か、笠原かさはら! この、紙クズは。授業中に余計な事をして遊んでいるんじゃない!!」


 しかし私が背をかがめ手を伸ばすと、気付いた古典の教師が怒鳴り歩いて来て、指導用のぶ厚い教科書の背で私の頭をバンと叩く。椅子の上にかがんだ私の横に手を伸ばし、落ちていた紙クズを拾い私の机へと並べていった。


 私はウンザリして、そのままの姿勢でしばし固まった。

 どうせ顔を上げれば先生だって、してやったりという顔をしているのだろう。いくらなんでも気が付いていないはずがない。だからこそ、こうして注意していながらも私に反省の言葉を求めたりしないし、周りの笑い声にだって何も言わない。もちろん、その紙に書かれている内容にだって関知はしないのだ。


 教室中が少しざわついて、またクスクスと押し殺した笑い声。


 程度の差はあれ女子高の男性教諭なんて、上手くやっていけるのはこう言う人間なのだろう。初老で冴えはしないが、多くの生徒たちの期待に従順なその教師は、クラスの子たちには可愛がられている。


 教員用の履物をパタパタと鳴らし彼が去っていくのを確かめると、私はまた身体を上げて机の上へ目を戻した。広げられ、机に置かれた紙には、案の定「死ね」の文字。細いボールペンの線が、筆跡を隠して書いた脅迫状みたいに、何重にも書きなぐられている。


 どうして私みたいな人間に、こんなに狂気じみた執念を燃やすんだろう。

 私がそれを見つめていると、クスクス、クスクスとまた笑い声が聞こえた。




   ***




よるちゃん。災難だったね、先生に怒られちゃって」


 授業が終わると後ろの席の上沢かみさわさんがやってきて、名前を呼び、私の頭を肘で小突く。


「気にすることないよ。どうせ、いつものことなんだし」


 すると、その言葉を合図に他のクラスメイト達も、私の席へと近づいてきた。


 いったい、そのいつもの原因を作っているのは誰なのだろう。

 彼女たちは何か面白いことでもあるかのように、死んでほしいはずの私を囲んでいく。先ほどの上沢さんか、教師の真似か。声を殺して笑いながら、私の頭を順番に叩いていく。


「なに、無視のつもり? いい加減、仲良くしようとか思わないわけ?」


 言いながら、勢いよく机の上のものを払いのけた。

 鉛筆や消しゴムが跳ね飛んでいき、ノートや教科書は音を立ててうつぶせに落ちる。すでにボロボロだった筆入れは、さらに無残に踏みつけられ、中でパキっと何かの壊れる音がした。


 だけど、こんなことをする人たちと、どうしたら仲良くなれるのだろう。

 足元に落ちたノートを拾おうと腰をかがめ手を伸ばすと、すかさず上沢さんの足が頭の上に乗せられた。


 こうして目を向けているだけでも、教室の床にはこびりついて黴の巣食った埃や食べかすの塊がいくつも見える。彼女の上履きの底には、いったいどれほどああしたものがついているのだろう。


 私がそんなことを考えていると、上沢さんはさらにその上履きに体重をのせ、グリグリと押し付けてくる。


「ねぇ、思わないわけ? 何とか言いなさいよ?」

「あの……足を」

「――うわっ、ホントに喋ったよ。キモっ」


 横からガンと机が蹴られ、跳ねたその金属パイプの脚が私の頭に当たった。揺れる私の頭の上から、ズルと不快な音を立て、上沢さんの足が踏み抜かれる。髪の毛や耳の裏を不快に擦り、パタンと顔のすぐ横で彼女の上履きの底が床に着く。


 それからまた、クラスメイト達のクスクスと笑う熱のない声が、私の背中に突き刺さっていく。


「……ハハ。ゴメンって夜ちゃん。ジョーダンだよ、ジョーダン」


 乾いた笑いと、熱のない声。

 いったい何が彼女たちにとっての冗談で、何が彼女たちにとってそんなにも面白いのだろう。


 頭の芯からジワリと熱いものが染み出して、同時に心臓からは冷たくドロリとした重い血液が流れていく。トクントクンと透明な頭痛のような感覚が襲い、さざ波のように背筋へと広がっていく。


 私は平衡感覚を失って、強く頭の後ろを打った時のような、ツンとした匂いを鼻の奥に感じ始めていた。


「そんな怒んないでよ。今日はなかなかクラスに馴染めないアンタのために、ちょっと面白い遊びでも教えてあげようと思ってるんだから……」


 上沢さんがそう言うと、ガチャガチャと乱暴に周囲の机がどかされて、大柄な二人のクラスメイトに乱暴に両腕を捕まれる。


「夜ちゃんってさ、ぶっちゃけ処女でしょ? ネクラだし、男の子と話したこともなさそうだし」


 それは、どうなのだろう。

 確か彼女たちの認識では、私は先ほどの教師とだってねやを共にする、貞操観念の欠如した人物だと思われていたはずだった。


 言いながら彼女が勢いよく椅子を蹴ると、スッと私の腰の下を抜けて後ろへガタンと倒れた。当然、支えを失った私はストンと落ちて、勢いよく床に腰をぶつけてしまう。両脇の二人にがっちりと抑えられていた腕は、落ちる体についていかず、引き伸ばされた肩や脇腹に、焼けつくような強い痛みが走る。


「ッ……!」

「なに? なんか文句でもあんの?」


 椅子を蹴ったことで無様に転び、でも悲鳴や大げさに痛がる様子のない私に、むしろ彼女のほうがなにか不満があるようだった。実際には腰や肩の痛みで声が出せず、暴れないようにと両腕を強く抑えられ、身動きをとれないだけなのだが。


「アンタって……ホント。いい性格してるよね」


 吐き捨てるように、上沢さんは言った。


「まあ、いいや……さあ、こっちに来て夜ちゃん。今日は夜ちゃんのトクベツな日にしてあげるから」


 しばらく私が何も言わないでいると、例の”オモシロイ遊び”とやらが再開したようだった。


 彼女たちは今度は私への同意も求めず、無理矢理に教室の後ろのほうへと引きずっていく。ちょうど掃除用具のロッカーの前の窓側の壁を背に、廊下からの視線を遮るように私を囲む。


「教室のだとちょっとありきたりだし……ねえ、誰かトイレのほうから持って来てくんない? そういうトクベツ感あるほうが、夜ちゃんだって燃えるでしょ?」


 突然、演技っぽい口調で、上沢さんは一人のクラスメイトに用事を言い渡す。

 彼女がそのトクベツな何かを用意したところで、私にとってそれがいいことのようには思えない。


 いい加減、閉め上げられたままの腕と、肩やわき腹の痛みで呼吸が苦しくなってくる。無理に抵抗すれば、私より体格の大きなこの二人に容易に抑えこまれてしまうだろうし、その場合には骨折や肩の脱臼もまぬかれないはずだ。幸いにも、こうした彼女たちのお遊びで今まで、大怪我まではさせられた事はなかったが。


 私が少しでも肺を絞ろうと身を捩ると、ふとお使いを待っている上沢さんと目が合った。


「なに? そうやって黙ってれば、自分が可愛いとでも思ってんの? 悲劇のヒロインぶっちゃって、自分だけが可哀そうだとでも思ってるわけ?」 


 言いながら、勢いよくつま先で私の鳩尾を蹴り上げる。

 重く、鈍い痛み。吐き出した息は声にはならず、両脇の二人は私の跳ねた体を抑えようと、さらに両腕を強く締め上げた。


「……それとも。案外、あんたも期待してんじゃないの?」


 目線を合わせるように腰をかがめ、上沢さんは制服の下へ手を伸ばし乱暴に胸を触り始める。冷たい指先がくすぐるように制服の下を這い進み、私の反応をうかがいながら、下着の上から鷲掴わしづかみみにグニグニと揉みつぶしていく。


「な~に? 夜ちゃんったら、そんなに悦んじゃって。それとも、お子様だから触られてくすぐったくなっちゃったのかな?」

 

 周りからはまたクスクスと、笑い声が上がる。

 私は単に、彼女の手が気持ち悪いのと両脇の同級生たちが腕を捻るので、少しでも楽な姿勢にしようと、仕方なく身を捩らせているだけなのだ。


 無遠慮に肘を伸ばされ肩を押し上げられるので、折られまいと力を逃がせば、自然と背を反らせる姿勢になってしまう。先ほど蹴られた鳩尾もずっしりと重く、空っぽのはずの胃を締め付けるようにダクダクと血が流れ、犬のように短い呼吸しかままならない。


 確かに顔をそらして胸や腰を突き出すような態勢は、彼女達が面白おかしく思うような、扇情的な格好に見えるのかもしれないが。


「はーい。夜ちゃんの今日の下着はどんなかな?」


 今度は、厚い生地の制服を強引に捲り上げられて、胸を晒される。

 無理矢理作ったわざとらしいテンションで周囲に呼びかけ、それに応える周囲の同級生たちも、負けじと声を上げ私の下着を品評し始める。


「あははは。なにコレ!? ウケる」

「ウソでしょ? ヤバ……」

「ソレ、オバさんの着ける下着じゃん。 夜ちゃん、ホントに女子高生なの!?」


 確かに年頃の女子がつけるものではないだろうな、という野暮ったいベージュのブラ。私にだって自覚はあるものの、同時にそこまで気を遣うものだろうかという思いもあった。


 笑う人。疑問を呈する人。眉をひそめ、露骨な態度を見せる人たち。

 彼女たちの反応はそれぞれ思い思いのものだったが、どれも普段から見せる私への敵愾心てきがいしん以上の、蔑みの感情を伴っていた。


「別に期待してたって訳でもないけどさ、その下着ってないでしょ? あんたがセンスないのは知ってるけど、ママにもっといいの買ってもらえなかった?」


 演技っぽくて、ワザとらしい大きな声。

 この人は普段、自分の母親の事も「ママ」って呼んでいるんだろうか。


「あ~あ、言っちゃった。夜ちゃんのお母さん、もう死んじゃってるのにね」

「もしかして、その下着ってママの形見かなんかなの?」


 羞恥心や居心地の悪さは感じていたが、内心ではまたかという思い。

 

「あ~あ、かわいそ。夜ちゃんのお母さんが遺してくれた、せっかくの勝負下着。みんな、笑いものにしちゃって……」


 言っている上沢さんだって、明らかに笑いをこらえ切れてはいない。

 聞いていたクラスメイト達も、そんな上沢さんを囃したり、白々しい反省の演技をしながらも、またクスクスと声を殺して笑いつづけている。


 なんでそんなに、私に母親がいないことが面白いんだろうか。

 どうしてそんなにも、その事実を私につきつけて、何度も認めさせたがるんだろう。


 確かに、今までそのことを口に出して、クラスの人たちに説明したことはない。

 でもだからって、私がそのことについて彼女たちにウソをついている訳でもなかったし、私がその事実を隠そうとしていた訳でもなかった。そもそも母が死んだというのも私が産まれた時の話らしく、私自身、知らないようなことも多いのに。


 頭の奥に染み出した、あの透明な頭痛のような感覚が、ずっと深くなっていく。 

 なぜだか、いつも、どこへ行っても。私の周囲の人たちはいつの間にか母の事を知っていて、いつの間にか私は、その周囲の人たちに母親がいないということを隠そうとしている”困った人”のように扱われている。


 時々、私だけが知らないだけで、そのことが酷く不道徳なことなんじゃないかって、考えることがある。私だけが知らないだけで、世の中には母親がいないこと、あるいはそのことによって私自身の守ることの出来ていない、なにか道徳に関する不文律があるのかもしれない。


 もしかすると、それを守れていないことがこんな風に皆に蔑まれるほど世の中にとって醜いことで、先生やクラスメイト達はただそれを正そうとしているだけなのかもしれない。そして、私は他の誰にも明らかなその罪を、知らずのうちにずっと犯し続けているのではないだろうか。


 そういえば、同じく居ない私の父親のことについて、不思議と誰かに尋ねられたことはなかった。


「――ほら。愛しい”カレ”のこと、ちゃんとお口で慰めてあげて」


 突然、楽しそうな上沢さんの声がして、乱暴に顔へ何かが押し付けられる。


 見ると、半音高い、上ずったような声でクラスメイト達に囃し立てられ、上沢さんが古びたモップの柄を私のほうへ構えていた。彼女の横には歪んで凹んだブリキ製のバケツが置かれており、ほんのりと生乾きの雑巾の臭いが漂ってくる。


「どうしたの? ちゃんと舐めて濡らしてあげないと、アンタの初めてが酷いことになっちゃうよ?」


 先ほど、トイレから持って来るように言っていたのは、コレのことだろうか。

 いつの間にか、クラスメイト達のクスクスという声を殺した笑い声が熱を帯びていて、ギラギラとした熱い視線が私に注がれていた。


 上沢さんは、その古びたモップの柄の先を、経年劣化でベタベタするゴム製のつり手や、それに結わえ付けられた乾燥しカサカサになったビニール紐を、何度も私の頬や唇に押し当てる。時折、それらが口に触れると、古くなったゴムの表面に浮いた油、その表面を黒く覆う埃か黴のようなものが、ひどい臭いと不快な苦みを舌先や唇の裏側に残していく。


 彼女の言う事には、どうやらコレを口に頬張り、舌で舐めろという指示らしい。

 私は何とか顔を横に振ってそれを拒否しようとするものの、彼女はそれでもなお執拗に私にそれを舐めさせようと、次第に苛立っても来ているようだった。


「言ったよね? 酷いことになるからって……それでも拒否したのは、アンタだからね?」


 周囲のクラスメイト達が薄気味悪い陽気な笑いを続ける中、ついに諦めた上沢さんは諦めたのか、一段低い声でそんな言葉を投げかける。


 でも、あんなに苦くて変なにおいをするものを口の中に入れるのはとにかく嫌だったし、ずっと口の中は乾燥していて、とてもこんなものを舐められそうにはなかった。


「ねぇー、みんなー。この子、もう我慢できないってさ。始めちゃおっか」


 クラスメイト達の、”きゃー”とも”はーい”ともつかない、黄色い声。

 上沢さんがモップの柄で私のスカートの裾をまくり上げ、同時に両脇の二人に強引に腕を引かれ、体を持ち上げられる。


 突然、薄暗い紺のヴェールに包まれる視界。肩甲骨と鎖骨の間から骨が浮き、関節が引き剥がされる感覚。締め上げられた肩の奥にミチミチと組織が千切れる、細く鋭い痛みが走る。引き伸ばされた肩全体が熱を帯び、ヒリヒリと焼けつくような痛み。腹部や脇腹の筋肉は硬直し、硬いコルセットのように締め付けているのに、腕や肩の筋肉は弾性のあるゴムのように痙攣し、関節の外れないギリギリの力で私の身体を釣り上げている。


 混乱と、放心と、痛みに対する無条件な体の反応。

 時間が止まったみたいに、呼吸の方法がわからなくなる。全身の皮膚から血の気がなくなって、でも体の芯には汗をかくほどの熱を感じる。


 先ほど上沢さんに蹴られた鳩尾の重い痛みが、じんと広がっていく。

 クラスメイト達が左右から私の膝をすくい取り、目の前の彼女へ開いて見せる。


「さあさあ。夜ちゃん、御開帳~!」

「なにそれ?」

「ねえ。ちょっと、ヤバイって。この子、興奮しちゃってない!?」

「やだーっ。なんか、ピクピクしてるんですけど?」

「ウソでしょ!? キモイって、それ」


 パンパンと手を叩いて皆の笑う声が、スカートのヴェールの向こうに遠く聞こえる。身体全体が石のように重くなって、ギュッと自分が縮んでいく。関節も筋肉も固く、ぎこちなくなって、小刻みにしか呼吸ができない。正常な呼吸を行おうと、リズムを整えようとするほどに時間感覚が無くなって、今自分が息を吸おうとしているのか、吐こうとしているのかさえ分からずに、痙攣したように不自然な呼吸を止められない。


 彼女たちにあんなにも酷いこと、嫌な言葉を投げかけられているのに、顔に熱がなく、ぼんやりと血の気が引いてしまっていることが、なんだか不思議に感じられていた。


「さあ、いよいよだね。夜ちゃん。愛しのダーリンのこと受け入れてあげてね」


 彼女が何を言っているのか、何をしようとしているのか、考えたくはない。

 だけど、いつものようにただ他の事を考えてやり過ごせる状況でも、もはやなかった。


 私はこの人たちが何をしようとしているのか考えるべきだったし、他のどんな嫌がらせをされても、抵抗するべきだったのかもしれない。だけど私には、いつ、どんな決断をすれば今のこの状況を回避できたのか分からなかった。


 今はもう、自分の身体がこれからどうなるのかを、覚悟しなければならない段階に差し掛かっている。


 私は四肢を割かれる生贄みたいに、みんなに押さえつけられている。

 両腕をつかんで上半身は持ち上げられ、膝を左右に無理矢理広げられて、彼女たちの前に下着を晒されているのだ。さっきみたいに、ただ私の履いている下着を馬鹿にすのが目的ではないのだろう。


 だからきっと、クラスメイトたちが”彼と”と呼ぶあの汚いモップで、彼女は私の……


 捲り上げられたスカートの向こうで、上沢さんたちの不気味なシルエットが形を変えて、体中に他のクラスメイト達の手が触れる鈍い感覚が伝わってくる。ドスドス、ペタペタ。トイレから持ってこられたあの不潔なモップの柄が下着の上から私の部分を無遠慮に何度も突いてくる。生地に油の浮いた古いゴムが張り付いて、そして剥がれる感覚が鮮明に伝わってくる。

 柄に結わえてあるカサカサになったビニール紐が、途中何度も私の内腿を擦り前後するたび、内臓にまで響くツンとした痛みが何度も何度も下腹部に走る。


 もう誰が何を言っているかわからないほどに、クラスメイト達のざわざわとした声が私の頭に入りこんできて、呼吸の出来ない苦しさ、肩の痛み、鳩尾の痛み、下腹部の痛みが、私をバラバラに引き裂いていく。自分ではもう身体を動かせないし、私が何をするべきなのかもわからくなっている。


 いよいよモップの柄が下着の横の隙間からグリグリと、ゆっくりとその奥へ差し込まれようとしていた。私の身体は何故だかもう私の頭以上にその事の意味を十分に理解していて、私が今までの人生で経験したことのないような、気持ちの悪い感覚でその事を知らせてきている。


 口を開いて必死に声をだとしているのに、掠れた吐息が抜けていくだけで、バラバラな身体は私をますます雁字搦めにしていくだけだった。


「さあ、夜ちゃん。おめでとう。とうとう貴女にも愛してくれる相手が出来てよかったね」

 

 何故だかスロー再生のようにはっきりと聞こえた上沢さんの声が突如かき消され、何事かクラスメイト達がざわつき始める。


「――まって、ヤバイ! 三島みしま先生来たって、こっち!!」

「ハァッ? 三島ちゃん!?」


 どうやらこの教室に教師が向かっていることを、見張り役の子が伝えに来たらしかった。場の緊張感が突然に途切れ、緩くなっていく。

 しばらくの間、周りがシンと静まって、それから、息を吸う音。


「ああっ、もういいや! やめやめ、みんな解散!」


 ドスンと乱暴に床に落とされ、刺し貫かれたような痛みが体の芯を走る。

 視界全体をブラウン管の砂嵐のようなものが覆い、じんわりと色彩が戻り、焼き付けられていく。グワングワンと頭を揺さぶられるような感覚、胃が捻じり上げられるような吐き気を覚え、体中の皮膚に、ビリビリと強烈な痺れが広がっていく。


 それでも私はなんとか肺に空気をを入れ、痺れの残る身体を起こしあわてて被せられたスカートを直そうとした。もうすぐこの教室に先生が入ってくるのだと考えると、私は今までされていたことをどうにかごまかさなくてはと、何故だか必死になって取り繕おうと身体が動いた。


 しかし私が身体を起こし、顔を覆うそれを取り去った直後、解散を命じたはずの上沢さんが目の前にいて、私めがけてバケツを投げつける。


「アンタが片付けときなさいよ、アンタのために持ってきてあげたんだから……」


 湿ったままの雑巾の入ったブリキのバケツは見事、そのふちを私の目の上にぶつけ、帽子のように私の頭にかぶさった。それから、ガンと耳障りな音と衝撃が中に響いて、嫌な匂いの溜まるバケツの奥で、さっきのあのモップもこちらによこされたのだとわかった。


「おい、笠原かさはらーっ! 笠原夜かさはらよる、いるかー……って、何やってるんだ? おまえら」


 太くてよく通る、数学の三島先生の声。

 ゆっくりとバケツを取り払うと、少し浮ついたような、クスクスという笑い声が教室中に広がっていた。。


「三島センセー。笠原さんが、掃除の時間を間違えてーっ、バケツに躓いて勝手に転んじゃったみたいでーす」


 教室の扉近くにいたクラスメイトが答え、教室中の皆がそれに頷いた。


「ほら。笠原さんって天然っていうか、抜けたところあるから」

「私たち、今はお昼の時間だよって、教えてあげようとしたんですけど……この子、全然聞かなくって」


 彼女たちからは、身に覚えのない説明がいくつもなされ、そういう事にされていく。三島先生は怪訝そうに見つめてくるが、私はただ俯いて黙っていることしかできない。


「……まあ、いいや。笠原ちょっとこい。先生から、話がある」


 私は床をみつめたままさらに頷いて、雑巾をバケツにもどし、モップを手に取った。


 クラスメイト達は「えーっ」とか、「笠原さんに用って、何なんですかー?」とか、黄色いではしゃいでいる。

 この三島という教師は、この学園の男性教師の中では見た目に気を使う方で、割合に年も若い方らしい。とはいえ、私たちとはゆうに親子ほどには違うらしいけど。


 皆に早く食堂へ向かうよう促し、扉枠に寄りかかっているその教師の方へ歩いていくと、クラスメイトの一人がすれ違いざまに肩をぶつけてくる。


「先生について行く前に、トイレで変えたほうがいいんじゃないの?」


 言っていることの意味が分からずに、立ち止まって彼女の方を向く。


「濡れちゃってたよ。アソコ」


 素早く言い終えると、クラスメイトは「ゴメン、ゴメン」とわざとらしく肩をかばって、いってしまう。


 ドクドクと動悸のする心臓と、カッと熱くなる頭。

 私は先ほどの事を頭から振り払って、教師の方へと向かった。

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