おやすみなさい、いってきます

間川 レイ

第1話

1.

家族って何だろう。


私には、それがよく分からなかった。勿論、私に家族が居ない訳では無い。血の繋がった父親が1人、血の繋がらない母親が1人。血の半分繋がった妹が1人。


ちょっと変わった家族ではあるけれども、比較的裕福で、学校に行くためのお弁当だってしっかり作って貰える、傍から見れば幸せそうな、ありふれてはいなくても、よくある家族だと言うことはよくわかっている。分かっているのだ。


ずきり、ずきり。お腹が痛む。


でも、本当の意味で、『家族』と言うものは何なのか、私にはよくわからなかった。


『家族』


それは、共同生活の単位である、と辞書は言う。


『家族』


それは、お互い助け合って生きていく一つの集団だと、おじいちゃんは言う。


だからこそ、家族は大事にしなければなりませんよ。あなたは家族によって生かされているのですから。そう言っていたのは学校の先生だったか。


分かってるよ。私は内心呟く。分かってるんだ。家族が大事なものであるというものぐらい。だから私は、家族を愛さなきゃいけない。そう、そんなことぐらいわかっているのだ。わざわざ、こうして思い出さなくても。


そんなことを考えながらブランコを揺らす。ぎいぎい、ぎいぎいとさび付いた音を鳴らすのがやかましい。空はすっかり暗くって、吐く息は白い。そろそろ帰らなければいけない。そう、わかってはいるけれど、不思議と体はブランコから離れてくれなくて。


はあ、とため息を一つ。夜空は分厚い雲に覆われていて、月の光一つ見えやしない。


それに、私は悪い子だから思ってしまうのだ。『家族』というものが、お互い慈しみ合うものだというのなら、私の『家族』とは一体何なのだろう、と。


ずきり、ずきり。お腹が痛む。


私は勢いよく、先ほどから鈍痛を放ち続けているカッターシャツの裾をまくる。そこから覗くのは、真っ白で柔らかそうな私のお腹、ではなく。青やら紫やらにマーブル模様のごとく変色した私のお腹。そこがずきり、ずきりと鈍痛を放っていた。


殴られたてほやほやだと、やっぱり痛いな。なんて苦笑する。厳密には殴られたのは昨日の晩だから、もうすぐ一晩立つわけだけど。やっぱり痛いものは痛い。


昨日はずいぶん激しく殴られたなあ、なんて。白い息を吐きつつ振り返る。ブランコがギイギイ揺れている。昨日は、私の下がった成績について、父さんにずいぶん怒鳴られたものだった。なぜおまえはこんな簡単な問題も解けない。なぜおまえはもっと努力しない。なぜ、なぜ、なぜ。


そんな怒声とともに父さんは私を殴った。顔を憤怒で真っ赤に染めて。私はただサンドバックのように殴られていることしか出来なかった。身を守るようなことはしない。以前、顔を殴られそうになった時とっさに庇ったら、「なんだその態度は!」と余分に殴られたから。


ついでに金属製の定規で切り付けられもした。その時の傷跡は今でも残っている、と言いたいけれどそれは嘘だ。無数のためらい傷の中に隠れて、どれが父さんのつけた傷かわからなくなってしまった。


勿論、逃げ出すようなこともしない。以前父さんを怒らせてしまい、とっさに逃げ出したときは酷かった。息が続かなくなるまで追い回された挙句、土下座して許しを乞うた頭を、諦めるぐらいならはじめから逃げるなと踏みつけられたことをよく覚えている。


その時はずいぶん髪の毛を引っ張られたっけ。縦横無尽にポニテのしっぽ部分を引っ張りまわされたものだ。あれは痛かったなあ、なんて思いつつ空を見上げる。分厚い雲。今にも泣きだしそうなくらい湿っている。やっぱり、月の光は見えそうにない。


月、好きなのにな。私は一人ごちる。あの一人ひっそり佇む月が、私は何となく好きだ。こうやって深夜遅くまでふらついている私にだって、優しく静かに照らしてくれるから。


夜風に吹かれて短く切った髪がたなびくのがちょっと鬱陶しい。あの時以来、私は髪を短く切ることにしている。やっぱり髪を引っ張られるのは痛いけど、頭がグワングワン揺れない分まだましだ。


正直、私には家族というものがよくわからない。家族がとても大事なものであることはわかっている。家族は大事にしなければならないことも、とてもよくわかっている。


でも、父さんはなぜあれほど私を殴るのだろう。いや、殴られる原因は私にもある。そのことはよくわかっている。例えば勉強。私は勉強が決してできるわけではない。特に理系科目が苦手だ。それは子供のころからそうだったけれど、大学受験を間近に控えたこの頃でも治っていない。それが父さんには不甲斐ないのだろう。


それに父さんが言うほど勉強していない自覚もある。それに昔は、かなり友達とも遊び歩いていたかもしれない。そのころを覚えているからこそ、一層腹立たしいのはわかっている。でも、だからって。あんなに、殴ることはないのに。


母さんも母さんだ。いつ頃から私は、母さんとうまく行かなくなっていったんだろう。子供のころは、確かに仲の良い母娘だったのに。ずっと実の母親と思って、生きてきたのに。いつ頃からかはわからない。


でも中学のころには少なくとも、私を見る目に深い軽蔑と嘲笑が混じってくるようになったのは確かだった。近頃は、食事だって作ってもらえるか怪しいものだ。作ってもらったとしても、一人寂しくキッチンで、ネズミのようにこそこそと食べるだけ。まるでコソ泥になったような気分。


それに、きついのはあの嫌味だってそうだ。事あるごとに投げかられるあの嫌味。心をその先端からチリチリと切り刻まれている心地になる。


それに妹だって。大変だね、の一言ぐらいあってもいいのに。いくらまだ小さいからといったって、それぐらいはわかるはずだ、なんて。そんなバカなことを思うに至り、私はクスリと笑う。さすがにそれは無茶というものだろう、と。


ああ、でも。私は溜息を吐く。


なんで、こんなことになったのだろう。私は真っ暗な夜空を見上げる。雨なんて降ってないのに、不思議と私の頬はぬれていた。


きっと。それは私が悪い子だから。私が父さんと母さんを失望させてしまったから、父さんも母さんも厳しく当たるのだ。悪いのは、きちんとやるべきことをやってこなかった私のほう。だから私はもっと頑張らなければいけない。今まで以上にもっと、もっと。今の程度で頑張っている、なんて言っていては到底届かないから。追いつけないから。


だから、もう無理なんて考えてちゃいけないのだ。もう無理、なんて考える暇があるなら手を動かせ。眠れない、なんて戯言を言うな。胸がむかむかするとか、頭がぼーっとするというのは些細なことだ。ここで命を燃やし尽くすつもりで勉強しろ。きっとそうしていれば、私は届く。


そうすれば、いつか、また、父さんと母さんと仲直りできる日も来るはずなのだから。いつかまたみんなで、家族みんなで笑いあっていた子供のころに、戻れるはずなのだから。


だから、こんなところで私は泣いてちゃいけないのだ。たとえ力尽きようとも、死のうとも、私は前に進まなければいけないのだ。だから私は乱暴に袖で涙をぬぐう。


公園の時計を見る。時刻は間もなく夜の11時。家につくころには11時30分ごろにはなっているだろう。長居しすぎたな。そう自嘲する。きっと怒られる。勉強もせず、こんな時間までほっつき歩いてと。多分また殴られるだろうな。


そう思うと、またお腹がずきずき痛むような心地さえする。それでも仕方がないのだ。悪いのは実際、こんな時間までほっつき歩いていた私なのだから。


それでも、最低限、覚悟はしておくべきだろう。あんまり痛くないと良いな。そんなことを考えながら自転車に乗り込む。


ふと最後に、さっきまで私が乗っていたブランコを見る。ブランコは、私が乗っていた余韻を残して、一人でギイギイと揺れていた。空はやっぱり、曇ったままだった。


2.

覚悟はしていたし、そのために踏ん張ってもいたはずだった。


でもそれでも足りなかったらしい。ゴッという鈍い打撃音。あっと思った時には私は玄関のドアに勢いよく叩きつけられていた。殴られたと思しき肩の付け根がジーンと痛む。とっさにもたれかかる形になったドアの金具がガチャガチャと音を立てるのが煩わしい。ドアのひんやりとした感触を背中に感じつつ、追撃が来る前に私は必死に口を開く。


「ご、ごめんなさ……」


だが遅かった。再度ゴッという鈍い打撃音とともに感じる顔面の灼熱間。普段は跡の目立つ顔面は狙わないようにしているだけに顔面に来るとはよっぽど怒っている、なんて思う間もなく胸ぐらをつかんで引き寄せられる。


「『ごめんなさい』じゃねえよ!!!この屑があ!」


耳をつんざかんばかりの怒声とともにゴッという更なる打撃音。今度はこめかみのあたり。擦れるように通過していった分余計に痛い。


「お前は毎日毎日遅くまでほっつき歩きやがってよぉ!!!成績も悪いくせに!!!!誰の金で学校に行けてると思ってるんだ、このクズ!!!!ゴミ!!!!!!」


私としては黙るしかない。だって成績が悪いことも、夜中遅くまでほっつき歩いていることも事実だから。そう、悪いのは間違いなく私なのだ。


きっとこんな思い、父さんにはわかって貰えない。殴られるのが嫌だから、家に帰りたくないだなんて。口に出せばきっと面白いぐらいに怒るだろう。「誰のために叱ってやってると思ってる!この恩知らずが!」ぐらいは言うだろう。今の比ではないぐらい殴ってくるはずだ。


そんなことを思いつつ、続く6発、7発、8発目の打撃の衝撃に体が勝手にびくりびくりと跳ねるのを他人事のように感じる。そう、今の比ではないぐらいに。これ以上のペースで殴ろうとしたら、それこそぐるぐるパンチでもしなければならないのではないか。そう思うとなんだか面白くてクスリと笑ってしまう。


とたん。


「なに笑ってんだ、屑がああああああああ!!!」


再びの怒声とともに膝蹴りが撃ち込まれる。ふわりと一瞬体が持ち上がるかのような浮遊感。先ほどまでと比べ物にならない、脳裏が白く染まるような強烈な激痛。その衝撃で、殴られすぎて一部馬鹿になっていた思考回路が元に戻る。全く私は何を考えているのだ。何がぐるぐるパンチだ、馬鹿じゃないのか。


神経が正常になってこれまで受けた痛みが余すことなく伝わってくる。あまりの痛みに脂汗が噴き出る。鳩尾にあたったのか、息もできない。もはや立っていられない。四つん這いになる。余りの痛さに悲鳴を上げて少しでも痛みを逃そうとするも、何故か声が出ない。ヒュー、ヒューと異音を吐き出すばかり。血の混じったよだれが玄関の大理石を汚していく。


だがそんな私にお構いなしに私の胸ぐらをつかんで立たせると、父さんは叫ぶ。


「なあ、お前俺のこと馬鹿にしてるんだろ、なあ!!!!そうじゃなかったらこんなことできねえもんなあ!!!!」


そう言いつつ私の短く切った髪を鷲掴みにしぐいぐいと引っ張る。プチプチと私の髪がちぎれる感覚。ただでさえ息ができないところに無理やり天を仰がされて、本当に息ができない。視界が赤だか黒だかよくわからない色に染まっていく。それでも必死に声を上げる。


「し、してない!してないです!」


と同時に、何とかして呼吸の自由を取り戻そうと髪だけは離させようとする。こうしている間にも世界は黒く染まっていく。このままだと死んでしまう。苦しい、痛い。


「噓をつくなよゴミがああああああ!」


だが父さんは私の窮状に気づいているのかいないのか、ますます怒りのボルテージを上げ私をぐいぐいと壁に押し付ける。猶更不自然な体制になって、いよいよ息ができなくて苦しい。死ぬ、死んでしまう。がりがりと壁を爪でひっかく。


痛い、苦しい。涙が溢れてくる。もうやめて、やめてよ父さん。死んじゃうよ……!胸の中で必死に声を上げる。もう声なんて出そうにない喉を必死に振りしぼり、窮状を伝える。せめて息だけはさせてくださいと。刺激しすぎないように気を付けながら。


「苦しいよ、父さん……!」


だが父さんは鼻で笑うと、ひときわ私を強く壁に押し付ける。


「苦しくしてんだから当たり前だろ」


そう壮絶な笑みを浮かべる父さん。だがさすがにまずいと思ったのか、手は放してくれた。荒い息を吐き新鮮な空気を補給しようとする。そんな息をつく間もなく側頭部に更に一発。思わず壁沿いにへたり込む。でも、おかげで息ができる。必死に酸欠の金魚のように息を吸う。涙目で必死にはあはあと息を整える。


そこに追撃のように的確に鳩尾に足を置き、捻り込むように踏みつけてくる父さん。


「なあ、お前大人を馬鹿にするのも大概にしておけよ」


そう言いながらぐりぐりと抉り込むように踏みつけてくる。痛い。お腹の中のものを戻しそうなぐらい苦しい。


「やめてよっ……!」


「やめるわけないだろ、馬鹿が」


父さんは小馬鹿にしたように笑うとより一層足に力を込める。


「なあ、お前自分が悪いことしたから叱られてるのわかってるのか、なあ!!」


そう言いつつ私の髪を掴んで立ち上がらせる父さん。今度は私の髪を掴んで壁に打ちつけ始める。ゴッ、ゴッ、ゴッという音が玄関に響く。


「ごめんなさい!!ごめんなさい!!」


私としてはそう必死に謝るしかない。少しでも早く怒りが収まるようにと祈りながら。溢れた涙で顔をぐちゃぐちゃにして。


それを見て気がそがれたのか、一際大きく私の頭を壁に叩きつけると、はああ、と大きなため息を吐く父さん。


「もういい。風呂入って勉強しろ」


私は無言で頷く。やっと解放された。体の節々が痛い。制服なんて泥や砂、私の涙や唾液でドロドロだ。洗濯明日までに間に合うかな。そんな思いは顔に出さず、無表情で一度会釈すると、父さんの横を抜け脱衣所へと向かう。


途中、母さんとすれ違った。母さんは土や砂に汚れた私の姿をじろじろと眺めると、「きったな」とだけ小声でつぶやいた。心底見下した顔で。心がチクリと痛むのを努めて無視しつつ、私は無言で会釈して横を通り抜けた。


脱衣所に入り手早く制服から汚れを落とす。シミが残ってしまった。本格的な染み抜きは、週末にするしかないだろう。とりあえず目立たなくなっただけましだ。そう思いながら服を脱ぐ。薄っぺらい肉付きの私の体に走る無数の傷跡。昨日よりあざは増えていた。何の意味もなく手首を地面と水平に走るかさぶたを撫でる。


ドッという笑い声が聞こえてくる。扉一枚挟んだリビングでは、バラエティーが流れていた。母さんと妹の無邪気な話し声が聞こえる。そこに父さんの独特なジョークが飛ぶのも聞こえる。妹の明るい声が耳にこびりついて離れない。


「ママ、今日はいっぱい良いことがあったの!あのね―」


それ以上妹の声を聴いていたくなくて。私は浴室の扉をぴしゃりと閉じた。


3.

入浴後、それからずっと勉強机に向かっていた私はさすがに疲労を感じ、ゆっくりと伸びをする。


机の上の時計を見れば、1時50分。そろそろ明日に備えて眠らなければいけない時間だ。


私は机の上に開いていた数Ⅱ・Bの教材を本棚へと戻す。ずいぶん付せんにまみれ、くたびれた感じの青チャート。なんだか愛しく思えてひと撫ですると、歯を磨きに脱衣所へと向かう。こんな時間だからか、父さんの寝室も、母さんたちの寝室もすっかり光が消えて寝静まっていた。


私は起こさないよう、ひっそりと自分の部屋に戻るとベッドに腰掛ける。今日殴られた場所が、思い出したかのようにずきずきと痛みだしていた。それにしても父さん、今日はずいぶん怒っていたな、とぼんやりと思う。怒る気持ちが理解できないわけではない。そしてきっと、それがきっと私を思いやってのことだということも、頭では理解しているつもりだ。


でも、もう、私は限界だった。今日のことを反省して明日から早く帰ってくる可能性はゼロだ。きっと明日も今日みたいに殴られることになる。そう考えるだけで、心には冷水を流し込まれたようになり、歯の根は合わずカチカチと震えた。


だって、早く帰ったところでいいことがなかったから。早く帰ったところで、母さんのねちねちとした嫌味を浴びる時間は増え、いつ父さんに殴られるかとびくびく怯えながら過ごすだけのこと。そして妹は間違っても自分に飛び火しないようにと小さくなって縮こまっているだけだ。味方なんて誰もいない。


そんな家になんて、帰りたくなかった。


そこまで考え、私はいや、と首を振る。味方がいないというのは嘘だった。


お爺ちゃんたちがいた。父さんの私に対する扱いを見て、もしこれ以上酷く扱うようなら私を引き取ると言ってくれたおじいちゃんたちが。或いは私の傷だらけのお腹を見て児童相談所に連絡しようとしてくれた先生もいた。お前はそんな家に帰らなくていいと。あるいは私の家に泊まりに来るか?と言ってくれた先生もいた。


まあ、それらは所詮叶わない夢。おじいちゃんとの話は世間体とやらで流れてしまったし、先生の件については、先生を信用しきれなかった私が蹴った。


昔あったのだ。同じようなことを言いながら最終的に何もしてくれなかった先生が。お宅の娘さん、お父さんに殴られるのが辛いと言ってますが本当ですか、と三者面談の場で聞くという爆弾を残して。正直、その後のことは思いだしたくもない。


だから私は先生を信用しきれず蹴ってしまった。先生は、とても傷ついた顔をしていた。


そう、私にだって救われる可能性はあったのだ。決して味方がいなかったわけじゃない、助けようとしてくれる人がいなかったわけじゃない。きっと私は恵まれているほうだ。私が救われなかったのは、めぐりあわせが悪かっただけ。あとは私の判断が悪かったということだけ。そう、つまりは自分が悪いのだ。


きっと、これからの私も夜遅くまでほっつき歩くだろう。だって、家には帰れないから。帰りたくないから。そして、その度に怒鳴られ、殴られ、怒られるだろう。今日のあの怒りようを見るに、殺される日もそう遠くはないのかもしれないな、なんて思う。


前なんて、ちょっと口答えしただけで70発以上も殴られたのだ。あの時はさすがに死を覚悟した。馬乗りになって殴られるたびに、私の薄っぺらい体が殴られる衝撃に合わせてボールのように弾み、ぐったり伸ばした腕がぐにゃぐにゃ動くのを他人事のように感じた。


そしてその時も母さんは心底見下した顔で私を見ているだけで、妹はただ怯えて小さくなるばかり。いつも通りの光景。きっと私が父さんに殴り殺されるか絞め殺されるかしても、母さんはきっと助けてくれないし、妹は何も見なかったふりをする。


だって、自分も同じ目には合いたくないから。私だけがただ殺される。多大な苦痛をもって。青白く冷たくなった私の遺体の上で、みんなは仲良く笑うのだ。そんな光景がまざまざと想像できた。


きっと私が死んでも誰も悲しまない。きっと私が死んでも、お構いなしに我が家は回り続けるのだ。いや、妹だけはどうかは知らないが、妹のことだ、決して両親の前で私の死をいたんだりはしないだろう。何の意味もなく私は死んで、私は忘れ去られる。


ガタガタと体が震える。カチカチと歯の根が合わない。死にたくない、死にたくなかった。だって私はまだ何もしていないのに。何もできていないのに。もっと美味しいものも食べたいし、もっと面白い本だって読みたい、美しい音楽だって聴きたい。なのにこんなところで死ぬなんて。忘れ去られるなんて。嫌だった。もっと生きていたかった。助けてほしかった。


そう、助けてほしいのだ。私は。心の中で祈った。私は救われたかった。人並みの家族生活を送ってみたかった。意味もなく見下され、いきなり殴られかねない生活なんてまっぴらだった。


でも、それはもう叶わないのだ。父さんは私を意味もなく殴る。母さんはそれを見て鼻で笑っている。妹はそれを傍観するばかり。きっと私は家族に嫌われているのだ。理由はわからない。いや、きっと、私が悪いのだ。私が期待に応えられなかかったから。私が出来損ないだから。だから私は殴られる。だから私は殺される。


そう、いつか私は殺される。期待外れの、出来損ないの私は父さんに殺される。きっと多大な痛みと苦しみの中で、誰にも知られずに一人で死んでいくのだ。


ああ、これが私の人生。なんて無様で無意味な人生。空しいなあ、と思わず乾いた笑みがこぼれる。それは手で押さえているからくぐもった笑いにしかならないけど、いつしか私は笑っていた。泣いていた。笑っているような顔をして泣いていた。


私は手の甲を噛んでとっさに嗚咽をかみ殺す。きっとこんなところを見られたら、また叱られるから。そして死ぬほど殴られる。今度こそ文字通り死ぬまで殴られるかもしれない。嫌だ。そんな死に方は嫌だ。嫌だ。助けて、誰か、お願い。


歯がみちみちと手の甲を食い破っていく。私は涙で滲む視界の中で必死に祈っていた。お願いします、誰でもいいから私を助けて。お願いだから私を救って。


みちみち、みちみち。歯は肉を喰い破りついには骨まで。痛みはある。だがこの痛みに誰かが応えてくれるのなら、こんな痛み、屁でもなかった。だから私は必死に祈るのだ。助けてください、お願いします。みちみちと、手の甲を嚙み破りながら。


それでも。


それでも。


いくら待てども私を救ってくれるものが、現れることもなく。


私は静かに涙を零す。私はこんなにも祈っているのに。こんなにも救いを求めているのに、誰も助けてくれないなんて。もう、そんなのあんまりじゃないか。私はゆっくり口から手を離す。唾液とともに、手にはくっきり歯型がついている。ピンク色のお肉の奥に見える、白いもの。きっと朝になったらこの傷跡について問い詰められるだろう。嫌だなあ。内心ぼやく。どう言いつくろおうか。


どうせ、私は救われない。よくわかった。どうせ救われないのなら、いっそこの手で始末をつけてしまおうか。きっとそちらの方が痛くもないし、苦しくない。そんなことを考えながらいつも使っている安全剃刀の柄をもてあそぶ。普段ならためらってしまって肌を薄く切り裂くばかりのそれ。今なら確実に深々と手首の血管を切り裂ける自信があった。


それに、ちょっとした嫌がらせにもなるだろう。突然上の娘が自殺するのだから。きっと両親は対応に追われることになる。ざまぁみろ。私は心の中でつぶやく。中々悪くない考えかもしれない。何気なくぐるりと部屋を見渡す。


そんな時だった。私がふと、涙ににじむ視界の端で光るものを見つけたのは。


それは、金属製のバットだった。かつて私が、男の子に混じって少年野球クラブに属していた時使っていた、金属製のバット。何気なく手を伸ばす。何とはなしに二度、三度とふってみる。少年用ということもあり、程よく重く、程よく硬い。それこそ、人を殴り殺せそうなほどには。私は、ふと悪魔のような考えが脳裏を走るのを感じた。


私はとっさに頭に浮かんだその考えを、慌てて首を振って否定する。いっそ殺されるくらいなら、その前に殺してしまえ、なんて。何を考えているのだ。仮初にも、生みの親を、育ての親を殺そう、だなんて。これまでずっと育ててくれた、時には優しかった私の親。優しかったのがどれぐらい前かはもう忘れてしまったけど、少なくとも小さな頃には間違いなく優しかった。


いい学校にも行かせてくれた。食事や洗濯だってしてくれた。そんな大恩ある親を殺そうだなんて。復讐がしたいなら、せめて私が自殺するだけでいい。それに妹だってまだ小さい。親を失ったあの子はどうやって生きていけばいい。


本当に?本当にお前はそう思っているのか?内なる私の声が私に囁く。本当に親を殺すと言うのは許されないことなのか?あれだけのことをされたのに?それに自分の死が嫌がらせになるだって?寝言は寝てから言え。どうせ、外では悲しむふりをしつつ、家ではせせら笑うだろうさ。


ぎゅうとバットを握る手が白くこわばるのを感じる。声は続ける。これまでに何発殴られたと思っている。優に千発は超えるはずだ。これまで、どれだけ罵られてきた、傷つけられてきた。あの痛みを、屈辱を忘れたとでもいうのか。殺さなければ殺されるのだぞ。無残にここで殺されてもいいのか。叱咤するように叫ぶ内なる声。ぶるぶるとバットが震える。


だめだ、それだけはだめだ。私は必死に首を振る。いくらなんでも親なのだ。親を子が殺すだなんて。それにいつかは仲直りだってできるかもしれないのに。また、昔みたいに私たちは仲良くなれる。和気あいあいとした、理想の暖かい家族に。そうなれるはずだ、いや、そうならなくちゃいけないのだ。なれないとしたら、一体これまでの私は何のために頑張ってきたのだ。


それに妹をどうする気だ。犯罪者の妹と呼ばせる気なのか。脳内で必死に反論する。


だけど。だけど。


仲直りできると、本当に思っているのか?そう信じたいだけなのじゃないのか?そう静かにいう内なる声に私は何も言い返せない。


だって、私も心のどこかで分かっていたから。仲直りなんて無理だって。仲直りできるくらいなら、とっくの昔にしているはずだ。そうじゃなきゃおかしい。だって私はこんなにも頑張った。できることならなんでもした。必死にいい子になろうって頑張ったんだ。1度ぐらい褒めて貰えるような。頭を撫でてもらえるような。抱きしめてくれなんて言わない。せめて、一度ぐらい。よく頑張ったって、偉いぞ、自慢の娘だって。そう言ってくれるだけで良かったのに。


それは夢なんだよ。叶わない夢なんだ。諦めろ。そう、諭すように内なる声は続ける。それに妹だって。あの子だって殴られる痛みを知っているだろうに。あの子だって時折酷く殴られていたのだから。罵しられる辛さを知っているはずだ。時々酷く罵倒されていたのだから。


なのに、あの子は私が殴られる時、ただ黙ってみているだけだった。同じ苦しみを知るもの同士、助けてくれたって良かったのに。助けてって、必死に目で伝えていたのに。その思いは届かなかった。そうだろう?妹も共犯みたいなものじゃないか。


私は必死に首を振る。妹は関係ない!それは完全な八つ当たりだ。第一、妹と何歳差だと思っている。5つは離れているのだ。そんな妹に助けてくれなんて、怒れる父さんの間に割って入れだなんて、それは無茶だ。


それに私だって、妹が殴られているとき何をした?痛いよお、と泣く妹に何をした?割って入ったか?私は何もしなかった。ただ怯え、私に万が一にでも飛び火しないよう小さくなって震えるだけだったじゃないか。


そうかい。内なる私がせせら笑うのが聞こえる。声は言う。それでも後で慰めはした、そうじゃないか。あんなに殴らなくてもいいのにね、とお菓子を持って差し入れに行ったじゃないか。泣いている妹を抱きしめてやったりもした。辛いね、苦しいねって一緒に泣いて、苦しみを分かちあってやったりもした。そうじゃないか?


声は続ける。私が頭を撫でて貰えなかったぶん、たっぷり頭を撫でてあげたりもしたじゃないか。いい事をすれば、いい成績を取ればたっぷり褒めてあげたりもしたじゃないか。


そう、そうだった。私はあなたが大好きだよって沢山伝えてあげた。愛しているよと。あなたは私の大切な家族だよと、いっぱい言ってあげた。私は1度も言って貰えなかった言葉たちを。私が欲しくて欲しくてたまらなかった言葉たちを。


なのにあの子はただニコニコとして、それを当然のように受け入れるだけ。父さんも母さんもあの子には優しい。いい成績を取れば褒めるし、普通に会話をすることだってできる。なにかする度、怒鳴られるんじゃないか、見下されるんじゃないかって心配する必要も無い。


あの子は極々まともな生活を送っている。私がどれ程欲しても得られなかった普通の生活。それを譲ってくれとは言わない。ただ、せめて一言。お姉ちゃん、大丈夫? その一言が欲しかっただけなのに。ただ、その一言があれば私は救われたのに。


それに、と内なる声は囁く様な声で続ける。あの子はまだ小さい。一人残すより一緒に送ってやったほうがあの子のためじゃないか。そう、囁くように言う内なる声。


私はもう、何も言えなかった。結局のところ、これは八つ当たりでしかない。八つ当たりでしかないことはわかっている。それでもこの気持ちを抑えられない。抑えることなんてできっこない。このどす黒い思いこそが、私の本性だ。


ああ、きっと私は家族が憎いのだ。父さんが、母さんが、そして妹が憎いのだ。私を殴る父さんが憎い。やめてって言っても私を殴る父さんが。母さんが憎い。事あるごとに私の心をえぐってくる母さんが。


そして妹だって憎い。憎くて憎くて、そして羨ましい。父さんや母さんに、当たり前のように愛されているあの子が。私と半分は同じ血を引いているのに。まるであの子は普通の人間のように愛され育ち、私がどれだけ欲しても得られなかったものを持っていく。


私だって頑張ったのに。私だって一生懸命努力したのに。私だって愛されたかったのに。なのに私には何も得られず、妹は何もすることなくすべてを得た。私には何一つとして譲ってくれなかった。父さんの優しい言葉も。母さんの温かい励ましだって。何一つ。


もう、限界だった。


だから私は、心を決めた。


私は改めてバットを握りなおす。もう、バットの震えは止まっていた。


私は最後に自分の部屋を見る。きっと見納めになるかもしれない、この部屋を。大好きだった小説たち、私のお気に入りのお人形さんとともに本棚に納められている。


私愛用のふかふかベッド。何度も顔をうずめて泣いた。そして大きな勉強机。擦り切れた青チャートや、書き込みと付せんの貼り付けすぎで膨れ上がったForest。もう、手にすることの無い私の戦友たち。壁には私のとってきた賞状やトロフィーが飾ってある。全国スピーチコンテスト、入賞。全国青少年俳諧選集 佳作。何一つ、褒められることなんてなかったけれど。喜んでもらえることも、なかったけれど。


私は黙って首を振る。もう、すべては詮無きことだ。私は一つ溜息を吐くと、静かに自室のドアを開けた。


4.

私は何度も何度も振り下ろした「それ」をごろんと捨てる。とても静かになった寝室にカランカランカラン、と、バットの転がる音がする。静かだった。とてもとても静かだった。誰もいなくなった我が家は、とてもがらんとして、広いものに感じられた。


これからどうしようか。振り回しすぎて、やや筋肉痛になりかけの腕をぐっと伸ばしながら今後のことを考える。喉も随分叫んだものだからちょっと痛い。


どことなく、暗くて寂しい印象を与える家をぐるりと見渡す。防音加工されているからそう騒ぎがばれたとも思えないけれど、数日もたてば確実に異変がばれる。それまでにどうにかしないといけなかった。これからどうしたらいいんだろう。私にはわからなかった。これまでずっと一生懸命に頑張ってきただけだったから。


私はとても静かになった家の中を歩く。意味もなく次から次に引き出しを開けて中を覗いてみたりする。母さんのものだったおしゃれな十字架型のネックレス。父さんお気に入りの大型の一眼レフ。妹愛用のキーホルダー。次から次へと床へとぶちまけていく。がしゃん、がしゃんと砕ける音がこだまする。


ふと、引き出しの中の指先に、固いものが当たった。それは本のようだった。気になって引っ張り出してみると、それは一冊の旅行雑誌だった。確か、前の家族旅行の時に使ったもの。私は、お前、旅行なんてしている余裕ないだろうの一言とともに置いていかれてしまったけれど。なんとなくパラパラとめくる。そこではモデルさんが、いろいろなところで可愛くポーズをとっていて。それはなんだか、とても輝いて見えた。


そうだ、ありったけのお金をもって旅をしよう。そう思った。いっぱい美しいものを見よう、美味しいものを食べよう。今までできなかった楽しいこと、我慢していたことをたくさんしよう。そしてお金が尽きたらそこで死のう。そう思った。それでいいじゃないか。それ以上この先のことについて考えたくなかった。なぜだか、今はとても疲れていた。今すぐにでも眠りたいぐらい疲れていた。


カーテンの隙間からはまばゆい朝日が差し込んでいた。きっと今日は良い天気に違いない。でも、とりあえず今日は寝よう。そう決めた。今日ぐらいは、ゆっくり寝ていても罰は当たるまい。もう、いつまで寝ているのと怒られることも、お前は本当に怠け者だなと罵倒されることもないのだから。


私はどろどろになったパジャマを脱ぎ捨て新しいパジャマに着替える。せっかくなので、普段妹の使っていたベッドで眠ることにした。妹の使っていたファンシーな柄のベッドに飛び込む。ふんわり甘いラベンダーの香りに包まれる。妹の香り。しっかりカーテンを閉め、電気を消す。頭まで布団をかぶる。妹の香りに包まれる。妹の香りが染み入ってくる。


すぐにとろとろとした睡魔がやってくる。いい気持ち。今晩ぐらいは、ぐっすり眠れそうだった。

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