二章 再出発の表と裏①

 人は新しい環境に対して、期待と不安を抱かずにはいられない。

 自らの足が新たな地平を踏むとき、早くその場に適応しようとする心がそうするのだ。

 些細な領域に住まう僕たちは、断片的な記憶と経験を手掛かりにして、新たな地平を手探りで切り開いていく。環境の仕組みを理解し、さっさとパズルの繋ぎ目を見つけるために、人は期待と不安の渦に揉まれ、地平線へと目を凝らす。

 しかし、それは必ずしも良い結果を迎えるとは限らないのだ。

 昔、僕と僕の仲のよかった女の子との関係が、きっかけはどうあれ、無残にも凄惨な形で破綻してしまったように。自然であったものがいびつに、奇妙に、捻じれてしまったように。

 僕は二年経ってもいまだに引き摺っている。過去の記憶が亡霊のように僕の辺りを彷徨っている。

 僕がしたことは、決して僕の中から消えはしない。僕がどれほど努力したって意味はない。すべては取り返しがつかないことだから。

 それは、もう、起こってしまったことなのだから。

 起こされてしまったことなのだから。他でもないこの僕が、引き起こしてしまったことなのだから。

 だから僕は新しい地平に足跡をつけるといったとき、あの娘のことを思い出す。


  *


「で、これが堤くんよ。新しい仲間だから、みんなよろしくね!」

背中を押された僕は、檜垣に案内されたもう誰も使っていないような廃れた無人ビルの階段を上り、三階の廊下を突き当たった一室で、机で作業をしたり椅子やソファーに座って話していたりと、各自思い思いのことをしている周りの人たちに向かって緊張と疎外感を必要以上に感じ立ち竦んでいた。外はもう闇に包まれ、時計の針は二十三時を指したまま止まっていた。

「……つ、堤裕介です。まだ何も知らないし分かってもいないけれど、よ、よろしくお願いします」

 僕が口を開くとそれまで話していた人たちは口を閉じてこちらを向いた。テレビもラジオも外を走る車の音もない異様な静まりが僕の言葉を迎えていた。それは僕が挨拶を終え、頭を下げるまで続いた。僕は、なんだか自分が間違ったことを、場違いなことをしてるんじゃないかと不安になって、なかなか顔を上げられなかった。

「おう、よろしくな!」

 僕の不安とは裏腹に、肩を叩く大きな手があった。顔を上げると、僕の前には精悍な顔つきのガタイの良い男が立っていた。あまり顔に皺は刻まれていないが、成人は迎えているだろう。その男の手が僕の手を強く握ると、骨ばった感触が伝わってきた。

「嬉しいな、久しぶりの仲間だ。しかも翠の推薦とは期待できる。まあ、分からないこととかあったら他の奴らでもいいが俺にも訊いてくれていいぜ。ここではそうやっていつでも助け合って暮らしている。俺は中城彰次なかしろしょうじっていうんだ」

 その中城という男を皮切りにして、部屋のどこからともなく歓声が上がった。

 僕の傍で檜垣が呟いた。

「みんなも嬉しいのよ、彰次の言う通り戦線の数は滅多に増えないからね」

彼女の言うことは本当のようで中城を皮切りに、そこにいた十人ほどの人たちはドヤドヤと一斉に僕の方に挨拶をしに来て、僕は出し抜けに人波に揉まれることになった。手を握る者もいれば、肩を叩く者もいた。僕が来る前より賑やかになったようだったし、みんな楽しそうにしていたので頭をペシペシ叩かれていても悪い気はしなかった。彼らは、中学生のような外見の女の子もいれば中城のような大人もいたが、外見的にはどの人も十五から二十五歳の枠内に入るくらいだ。

「若い人が多いんだな……」

「ああ、それは、位相転換できるようになって、こちらが意志の力を認知できるようになるのが、多くの場合高校生だからだと思いますよ」

 周りを見渡していると、丸い眼鏡をかけた背の低い男の子が教えてくれた。彼は里中治さとなかはる。僕の一つ下の高校二年生らしく、見かけはクラスに数人いるような、目立たず大人しい優等生タイプだった。大人っぽく回りくどい言い方や、早めの口調がそのイメージを後押ししてる。だが、自分以外の社会を隔絶して自分の殻をつくってしまうタイプではなさそうで、人懐っこさがその喋り方や感情の機微を映し出す表情から滲み出ていた。

「そういうものか。えっと……」

「里中でいいですよ。みんなもここでは現世界リアルと同じように名字や名前で呼びます。コードネームなんかもありませんからね」

「そうか。じゃあ里中はいつからここにいるんだ?」

「僕は二年前くらいだと思います。井上さんと同じ頃でしたから。でも、もう五年前くらいはこっちにいるような感じですけどね」

 井上と言うのは、今斜向かいで中城と野球の話をしてる、キャップを被った井上俊弥いのうえしゅんやという男だ。灰色の地に赤や黄色の英字がプリントされた派手なパーカーを羽織って、ジャージを履いた彼は僕と同じ十八歳らしい。現世界では高校には通っておらず、アルバイトをして暮らしていると挨拶の際に語っていた。

「そういえば里中って、原界オリジンのことについて調べているんだって?」

あらかじめ檜垣から原界に詳しい人が里中のことだということは教えてもらっていた。

「そうですね。僕はどちらかと言うと、直接相手と戦うよりは戦った相手のデータをまとめて次の戦闘に生かしたり、原界のことを調べるのが役目なんです。まあ、かっこいいように聞こえるかもしれませんが、結局は資料整理です。やはり分からないことも多いですしね」

「そうなのか」

「でも、現世界と原界はやっぱり違うし、慣れてる僕らには当たり前のように見えてるところも大きいでしょうから、何かあったら気軽に訊いてください」

 そんなことをしていると、さっきまで二十歳半ばくらいに見える茶髪の女性と話していた檜垣がこっちに来て言った。

「あと三十分もすれば今日の活動も始まるわ。堤くんは……そうね、彰次の班と一緒に行動してちょうだい」

「行動は班ごとになるのか」

「あれっ、言ってなかったっけ。そうよ。いつも大体三、四人ってとこね。でも、ううん。大丈夫よ、心配しなくても。彰次はとっても強いから」

「分からないことはあの人に訊けばいいんだよな。えっと中城さんだっけか」

「そうね。まあおそらく今日の敵は弱そうだから、すぐ終わるかもしれないけれど、実践に早く慣れるのが大事だからね。里中くん、今日のってEランクよね、確か」

 横で話を聞いてた里中が頷く。

「そうですね。そのはずです」

「相手の強さまで分かっているのか」

 感嘆の声を上げると檜垣は口の端を上げてにやりとした。

「まあね。さっき堤くんを連れて来たときも、私は堤くんの家を知らなくても堤くんを見つけられたでしょ。そういうことよ」

意志ピュイサンスの位置測定だけじゃなく、その大きさも感じれるのか。それも訓練の成果ってわけだな」

 それを聞くと、里中は口を尖らせた。

「いやでも、翠さんは別格ですよ。訓練が必要なことには変わりありませんが、そんなことそうそう身につくものではありません。戦線のメンバーでも大きさや位置が、かなり正確に、まるで見てきたかのように分かるのはほとんど翠さんだけです。普通おぼろげにしか分かりませんよ」

「またまたあ、里中くんたら」

 檜垣は里中の背をバシッと叩いた。

「いや、本当に……」

「まあ、私だって最初から出来たわけではないし、経験次第で伸びる可能性はどこまでもあるわ。だからまずは取り組んでみればいい。もちろん里中くんもね」

 年齢では明らかに彼女よりも上の人がいるのにもかかわらず、雰囲気を察するに檜垣はこの戦線のリーダー的存在らしかった。

 しかし……。僕は周りを見渡した。十名ほどの様々な人たち、この人たちは全員、僕が今までいた実生活の世界から抜け出すことが出来て、僕が想像もできなかった存在を敵として知っていてそれに立ち向かおうとしている。いや想像できないのが当然だ。僕のように大学受験のためだけに高校に向かう生徒たちも、通勤ラッシュの中、電車に押し込まれ会社に通う社会人も、ここにいる人以外は、ここの存在を知らないし想定することもないのだろう。

 現世界リアルの僕たちは何も考えず、何も思うことはない。現世界の人たちに比べて、ここでは誰もが敵を倒すためにここにいる。明確な意志を持って存在の意味を持って生きている。この原界に来ることこそが一つの確立された方法なのだ。やや抜け道的ではあるけれど。選ばれた人たちだけが来ることのできるもう一つの国、別世界オルタナティブワールド。そして僕の元にも招待状が届けられたのだ。

 選ばれた、そのことが僕の背筋をゾクゾクとさせる。

 僕は選ばれたのだ。あんなにもつまらない世界とはおさらばできるのだ。もう群衆に混ざらなくていい。息を殺さなくていい。気配を消さなくていい。自分を汚さなくていいのだ。

 僕は大きく息を吸って、ドキドキする脈動に耳を澄ませる。

 僕の視線に気づいた檜垣が、不思議そうな顔をした。そして自分の頬を触った。

「どうしたの、なんか変?」

「いや、世界は広いなあって」

それを聞くと彼女は小さい声で「そうね」と笑った。

「でも、新鮮なことはまだこれからたくさんあると思うわ。ここにいたらね」

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原色世界のミッドナイト 四流色夜空 @yorui_yozora

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