元服の姫アロンザ

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第1話 元服(カヴァリエーレ)の姫アロンザ

 独立公国であるアイロディモア。国境をはさみ、領土拡大を狙うナキム帝国による度重なる攻撃を受け、その度に騎士達は立ち上がり独立を維持してきた。長い戦いの中で話し合いが持たれ穏やかな時期もあったが、その状況は確かなものではなかった。常に張り詰めた緊張の中で、同じ境遇で苦しむ近隣国、ウォルリ、エウルヴ、ニールグの三国と同盟を結び、クアトロ連盟を立ち上げた。しかしナキムの勢力は諦めることを知らず、戦いは今も続いていた。


 吉報にアイロディモア公国大公、アルベルト・イアネルクは部下であるランツァ・アウトゥーロ・アークと共に馬を走らせ野営地から二昼夜掛け城へ戻った。

公子こどもが産まれるぞ!」

「はい、めでたいですね!」

「ランツァ・アウトゥーロ、オマエに後見人になってもらいたい」

「ワタシでいいのですか?」

「あぁ!」

 そこへタイミングよく侍女が知らせを持ってやって来る。大公の前で腰を落とし挨拶する顔は満面の笑みだ。

「大公様。お産まれになりました、姫様です!」

「…………姫?」

 姫……。は、まずいよな。ランツァは思わず一歩下がり顔を背けた。

「間違いだ、何かの間違いだ。間違いだーーーーーーっ!!」

 戦では百戦錬磨の強さを誇る大公だが、城中に響き渡るほど叫び声を上げ、姫の誕生にのたうち回り騒ぎを起こした。だが、出産を終えたばかりの大公妃に窘められる。

「何を騒いでいるのですか、姫が怖がります」

「公子ではないのか?」

「この子は公子でも姫でもありません。貴方の子供です」

 侍女によって腕へと託された産まれたばかりの姫と対面し、大公の心は一転する。

「姫か……」

 口角が自然と緩み、喜びに満ちた。


 数日し、アルベルト大公に呼び出されたランツァは目の前の小さな生き物に戸惑った。

「さぁ、この子の顔を見てあげて」

 目も鼻も口も、手も。全てが小さく、触れば壊れてしまいそうだった。

「名前はアロンザだ」

「アロンザ?」

「あぁ。オマエの名前から取った。勇ましい名だ」

「アロンザ……」

 この小さな生き物が、ワタシが護る姫……。

 城の中でも評判になるほどランツァはアロンザを可愛がった。女と遊んでいても、アロンザが泣いていればすぐに飛んで来ると言われるほどに。

「本当に仲睦まじいこと。妬いてしまいそうですわ」

「まるで本当の親子か兄妹のようで。普段の勇ましい姿は決して姫様にはお見せにならなくて」

「アーク様の出立の時が来たら、今から思いやられますわ。姫様はどうなることかしら」

 城でアロンザを可愛がる一方で、戦で成果をみせるランツァは『高貴な熊』と称えられ、いつしかその姿を恐れられるようになっていた。一方で、アロンザは三歳ともなると剣術の真似事を始める。それを喜んだのはアルベルト大公だった。

「ウッ、やられた。オマエ強いな、名は何と申す……」

 アロンザの相手をするランツァは斬られたふりをし、大袈裟に倒れ込んだ。

「わたしのなは、アイロディモアこうこくアルベルトたいこうのむすめ、アロンザ・イアネルク! おぼえておくがいい」

 アロンザを溺愛するアルベルトはたどたどしい口上を喜んで見守る。

ランツァ・アウトゥーロ高貴な熊も形無しだな」

「殿下、からかわないで下さい」

「アロンザ、上手いぞ。直ぐにでも私を助けて戦に出られる」

「はい、とうさま!」

 成長を喜ぶと共にアルベルトには悩みも出て来た。

 法的、社会的、職業的に責務を追う一人前の騎士と認められ、成人となる元服カヴァリエーレの儀がある。公国の名の元行われるその儀に列席したアロンザは人生を賭けてその姿に魅せられてしまう。

「とうさま、わたしもおとなになったらげんぷくします!」

 その日からアロンザの口癖となった。

「元服の儀を見て以来、すっかり虜になってしまって」

「一時的なものですよ」

「だといいが、姫じゃなければ喜ばしいんだが……」

 その後、五歳になったアロンザは本格的に剣術を習い始める。


 城内で共に過ごす幼馴染み、ファブリッチィオとは剣術も共に習っていた。練習をしていたアロンザは、騎士団の帰還を聞き城壁の入口へ向かい走り出した。

「おじ様! お帰りなさい」

「アロンザか! 大きくなったな。アルベルト殿下もお喜びだろう」

 出迎えたアロンザを軽々片手で抱き上げる。ランツァの帰りを待っていたのは何もアロンザだけではなかった。何人もの女達がランツァの帰りを心待ちにしていたのだが、アロンザの前では後回しになる。

「一年ぶりです。もう八歳よ。おじ様、旅の話を聞かせて。武勇伝を知りたいの」

「そんな話、面白くもないさ」

「いいえ、元服したい私にはためになる話よ! 後で剣術も教えて下さいね」

「あぁ、そうだったな。アロンザは元服したいんだったな。後で剣術を教えてやる」

 女達は更に後回しになったのは言うまでもない。

 アルベルト大公危篤の報せを受けたランツァが戦場から馬を走らせ駆け付けたのは、それから四年後のことだった。

 公国の主の危篤は国の危機を伴い公に出来ず、戻ったのはランツァ一人だった。

「殿下……」

 妃や家臣、医者が天蓋の掛かるベッドを囲む。

「ランツァ……。勝つ者がいれば、必ず、負ける、者がい、る……」

「勿論です! 勝つのは我々アイロディモア公国。殿下は負けておりません!」

「潮、時なん、だ……。後を、オマエが……アロンザ姫…………頼、む」

「殿下っ!」

 最後の言葉をランツァに託し天に召された。

 ランツァによってアロンザに伝えられたアルベルトの死。

「おじ様…………。ランツァ・アウトゥーロ・アーク、最期を見届けて下さり、感謝します」

「アロンザ姫、謹んでお悔やみを」

 頭を下げ儀礼通りの挨拶をすると、普段見せないランツァのその硬い表情に、侍女たちは涙を堪えそっと部屋を下がった。


 アロンザ十二歳、ランツァ三十歳の時のことだった。


 アルベルト大公が旅立ち、第一公子ベルトランドがアイロディモア公国を受け継いだ。けれどベルトランドはまだ十歳で名ばかりの公太子だった。政は母である大公妃が仕切る摂政せっしょうとなり、脆弱になった隙を突き領土拡大を企み攻め入って来たナキム帝国を食い止め、公国を支えた。


 国中がアルベルト大公の死に嘆き喪に服す中、葬儀は執り行われた。クアトロ連盟を結ぶ近隣同盟国からも要人が参列しアルベルトの死を悼んだ。

 柩を担ぐ隊列に続き、喪服を身にまとったアロンザは母親や弟たちを従え参列者の中を進む。俯くことはしなかった。柩を見据え、声を掛けることが憚られるほど、張り詰め威厳に満ちていた。涙一つ見せず。

 式が終わり、姿が見えなくなったアロンザをランツァは探していた。

「ここに居たのか、アロンザ」

「………………おじ様」

 誰も立ち寄らない城の塔と塔の間にある短い渡り廊下に居た。父親やランツァが戦や遠征へ出ると、二人を思っていつも来る秘密の場所だ。そこからは何も見えず、遠く離れた森の木々が平原に僅かに見えるだけだった。

「何故泣かない? 悲しい時は泣いていいんだ。我慢することはないんだぞ」

 アルベルトの死を伝えた日から、一度もアロンザの泣く姿を見ていない。

「弟たちが、現殿下がいるから。私が母様や弟たちを支えなきゃ」

「アロンザ。支えてくれる者たちが周りにいっぱいいる」

 ランツァの言葉にアロンザは首を振り強く否定する。

「父様がいなくなれば、状況は変わるもの。私が守らなきゃ」

「それを心配して……。一人で考えたのか?」

「父様に言われたの。もし父様がいなくなったら、城内の者を今まで通り信用しちゃいけないって。でも、どうしていいのか分からない……。おじ様のことも信用してはいけないの?」

 耐えきれず瞳から大粒の涙を溢した。虚勢はランツァの前では張りきれなかった。

「アロンザ、いいんだ。私が今まで通り過ごせるようにしてやる。ベルトランド殿下をお守りする。第二公子や大公妃も。だから泣いていい。泣いて……」

 抱き寄せたアロンザはまだ、あどけなさが残る子供だった。それを一人で引き受けられるほど大人ではなく。

 ランツァは言葉通り現殿下を守って、寝返った家臣やナキム帝国との戦いを続けることになる。


 ランツァの出立が数日後に迫っていた。アルベルト大公が居なくなって初めての遠征だ。

「アロンザ、これをオマエに」

 職人に造らせたロケットの首飾りをアロンザへ掛ける。胸元へくるロケットはアイロディモア公国の紋章、鴨と白栲しろたえの彫刻が浮かぶ特注品だ。

「これは?」

「中にアルベルト大公の遺髪が入っている。これからも一緒だ。これを常に胸に」

 その日からロケットの首飾りはいつもアロンザと共にあるようになった。

 時間を惜しむように、ランツァはアロンザと過ごした。ファブリッチィオと行う剣術の練習も見守り、暇なのかと勘繰りたくなるほどだった。だが、アロンザや侍従以下お付きに気付かれない所でもしもの為の護衛も兼ねていた。

「アーク様、どうやったら剣術が上手くなりますか? わたしはもうすぐ国境警備の遠征に付いて出ます」

「そうか。練習あるのみだ、ファブリッツィオ。遠征地でも練習は怠るな」

「頑張ります!」

「おじ様、私も励みます」

「ああ」

 素直さにランツァは笑顔でアロンザの頭を撫で可愛がる。

 アロンザは本気だった。その日から更に剣術の稽古に励み、馬術も修得した。腕前はファブリッツィオと共に師範代と賞されるほどの優秀さとなり、それ以上とも言われるほどになっていく。だが姫という立場が邪魔をして実戦は踏めず、腕前を公には出来なかった。


 アルベルト大公が亡くなり一年以上が過ぎた。

 身支度を手伝う侍女モナにアロンザは正直な悩みを口にしてみた。

「モナ、おじ様の役に立つにはどうすればいいんだろう?」

「姫様、アーク様の為を思うなら大人しくしているのが一番かと……」

 そもそも期待はしていなかったが、型通りの答えが返って来たことに虚しくため息が出る。そんな時、思わぬ所で望んでいたものと出会う機会が訪れる。

 十三になったばかりとはいえ、外交は姫としての務めだった。隣国からの帰り道、遠望に動く人影を捉えた。アロンザは侍従に馬を止めさせる。

「あれは?」

「我が国に住む森の民です。危険はありません」

「森の民……。何をしているの」

「狩りでしょう」

 岩場に隠れ、気配を消している様子が分かる。束ねた髪を風になびかせた一人が、ゆっくりと立ち上がった。弓をかまえつるを引き狙いを付ける。その先には立派な牡鹿が見えた。

 一瞬の静寂を破る一矢。遠く離れているにも関わらず、しなる弓から放った弦が矢を送り出し、力強く風を切る音が耳元で聞こえた気がした。

「仕留めたッ!」

 命中した鹿の首筋に矢が刺さり、驚き飛び跳ねた鹿はやがてばたりと倒れ込んだ。緊張感が肌に伝わり鳥肌が立つ。

「あの狩人、かなりの腕前です」

「あの女性ひとと話してみたいわ」

「は?」

「どうやって仕留めたのか訊いてみたいのよ」

 アロンザは侍従に頼み秘密裏に狩人を城に呼び付けた。勿論ランツァにも秘密だ。

 やって来た狩人は三十代ほどの女性で、肩から仕留めて鞣した動物の毛皮をまとっていた。名をテレーザと言う。あの時牡鹿を見事に射止めた狩人だ。

「お願いがあります。私に弓の使い方を教えては下さいませんか!」

「えっ、えぇ?! 教えるのは構わないけどさ」

 姫相手だからといううやうやしい話し方は無く、嫌々なのが分かる返事をされる。テレーザにしてみれば、狩りの話を姫に聞かせる為だけに呼ばれたはずだった。それが済めば報酬を戴き直ぐ帰れるはずだった。それがどうしてか、いつの間にか教える前提に話が成り代わっている。アロンザははなからそのつもりだったのだが、建前上、侍従にもそうは伝えていなかった。

「報酬は出します」

「そりゃぁ助かるけどさぁ」

「城の者には秘密です。私だけに」

「アンタ姫さんなんだろ? 弓なんて使えるようになってどうすんのさ」

「自分で、生きる為です。自分を守る為」

 テレーザに問われ、アロンザは躊躇うことなく素直に答えた。その答えはテレーザには意外なもので、正直、姫様のお遊び、どうせ道楽だろう。くらいに思った。だがアロンザの澄んだ瞳は邪念のない動物と同じ眼をしている。強い信念を秘め、そこに含みや嘘が無いことが感じ取れた。

「……分かったよ。ただ条件がある」

「何ですか?」

「秘密ってのは無理だよ、弓を使うには広い場所が必要だからね」

「どれくらいですか?」

「そうさね……」

 城の中には広い場所がいくらでもあった。更に言えば秘密に出来る広い場所だ。用意された芝の広場にテレーザは驚き、苦笑いで肩を落とした。

 こりゃ、想定外だね……。

 こうしてアロンザは剣術の他に弓も習い始め、テレーザが認めるほど腕を上げていく。

 習い始めてから暫らく経ったある日、

「何を持っているのですか、アロンザ」

「母様……」

 不意の母親の訪問に驚いた。大公妃が自分の部屋に居るなんて。そして、手にする物を見抜いたのにも驚いた。侍女からの通告で来たのには予測が付くには付くのだが―。

「寝室に戦の道具など持ち込んではなりません」

「戦の道具だなんて……」

「ではそれは何です? わたくしには弓にみえるのですが?」

 ぐうの音も出ない。ここは論破しかない。

「母様、これは狩りに使う物です」

「ではあれは何です?」

 目線の先を追えば、剣が置かれていた。剣術の練習で使う物だ。

「剣、ですが……。いざという時、自分を守る物がなかったらどうするのですか?」

「姫は自分を守りません。守られるのです。わたくし達が守るべきは民の平和と暮らし」

 論破どころか一言も返せないほど一発で打ち破れる。

「アロンザ……。母様はやってはいけないとは言っていないのです」

「母様……」

「侍従や侍女達を困らせてはいけません。いいですね」

「……はい」

 擦り傷や切り傷が絶えず、薬の準備などをさせ侍女や侍従を困らせている。思い当たるだけに、諭されると顔を上げられなくなる。

「それで、腕前は上がりましたか? ベルトランド公子が下手だと笑っていました」

「まだ習い始めたばかりですッ。上達してみせます!」

「貴女らしい。励みなさい」


 ランツァがオリス元帥に呼ばれ、野営中のテントを訪ねたのは辺りが暗くなってのことだった。  

 フェルディナンド・オリス元帥はアルベルト大公の右腕となり数々の武功をおさめて来た。ランツァは幼い時より付き従い、その姿を目の当たりして来た。

「……私が、妻を?」

「そうだ。アルベルト大公も気にしていたではないか」

「いえ、まだ」

「バカ者。年を考えろ! 女遊びばかりして、もうとっくに結婚していていい年だろう」

 確かに戦いに明け暮れ、女といえば一夜限り。気が付けば三十も過ぎていた。

「姫様も十三。もう手も掛からん」

「そうですね、貴方もいい爺さんです」

「ふざけるなっ! 口を慎め」

「はい」

「相手はニグ公爵家の令嬢だ。次の休みには私と共に帰れ。準備は出来ている」

 是も否も言える状況ではなかった。

 ランツァの結婚式の後、オリス元帥は「これで私も安心して一線から退ける」と言って戦いに明け暮れた日々から離れ剣を置いた。アルベルト大公と同じ、六十三歳だった。


 ランツァの結婚が決まり、城内はにわかに慌ただしくなっていた。だがランツァの結婚はギリギリまでアロンザに隠された。それは気を使ってのことだったのだが―。

「おじ様が結婚を?」

 聞いた時、とても複雑な気持ちだった。悲しんでいいのか、喜んでいいのか……。

周囲はアロンザが悲しみ落ち込むだろうと考えていた。けれど、周囲の思いとは裏腹に、アロンザはランツァの妻となる女性に早く会いたいと願った。すぐさま会えるように頼み込む。だが会わせてもらう事は叶わず、城内に居ると聞いてアロンザは強硬手段に出る。

「姫様、私が叱られます」

「モナ……、あの方天使かしら? とても綺麗な方よ……」

 こっそり覗きに行った。そこに居たのは、陶器のように白く美しい肌に絹のようにしなやかな髪の、目鼻立ちのはっきりした女性だった。


 ランツァは自分の結婚式の朝まで帰って来なかった。帰って来た時、馬から飛び降りたランツァの体からは湯気が上がっていた。早馬を走らせ、式に間に合うよう急いで来たのが分かった。

「ランツァ様、準備が出来ています」

「ああ。遅れてすまない」

 式の準備も花嫁の準備も全て整っていた。

 花嫁はニグ公爵家の娘ルチアーナ。ランツァと会ったのは今までに数回。言葉を交わすのはこの時初めてだった。


 式が終わり、宴の歌や音楽、賑やかに騒ぐ声がまだ遠くで続いていた。

 鼓動まで聞こえそうな静まりかえる寝室に、二人は立って居る。

「ルチアーナ」

「ランツァ・アルトゥーロ、様」

「ランツァで構わない」

 抱き寄せたルチアーナの透き通るほど白い肌へと、ランツァは唇を添わせた。

 

 余韻に浸る間も無くランツァはベッドを抜け出した。式を挙げ、次の日の明け方には戦場に戻ってしまった。

 出立直前、ランツァはアロンザの所へやって来た。髪を撫でる手にアロンザは目を覚ました。

「おじ様?」

「起こしてすまない」

「どうしたの? まだ……陽も昇ってない」

「これから出立する。私の居ない間、ルチアーナを頼むよ」

「言われなくたって。でも、おば様とは呼ばないわ。可哀想だもの、あんなにお若くて綺麗だから……」

 寝ぼけながら話すアロンザの姿に、ランツァは笑う。

「おじ様行って。寝室ここに居たら、いくらなんでも騒ぎになっちゃう……」

「ああ」

「気を付けて……」

 瞼の重さに耐えきれず目を閉じた。


 馬術の訓練にルチアーナを伴なわせたアロンザ。

「ルチアーナ様~! 見ていて下さ~い」

「アロンザ姫様、お気を付けて!」

 無邪気に手を振るアロンザに応え、ルチアーナも手を振った。

 アロンザは勉強や剣術の練習以外の時間、毎日のようにルチアーナの元へ通うようになっていた。ランツァが国境警備の遠征へ出て一年近くが経とうとしている。

 アロンザは馬を走らせ、ルチアーナの為に目の前で障害物を飛んでみせた。だが思う以上に大きな馬の体と、土を蹴り迫り来る馬の足音に、ルチアーナは驚き悲鳴を上げ卒倒した。

「ルチアーナ様?! 大変!」

 事態をのみこめないアロンザは慌てて退き戻り、馬を飛び降りルチアーナの元へ駆け寄った。まさか馬に驚いたなど、露ほども知らず。


 美しい礼儀作法でルチアーナは腰を下ろし挨拶をした。

「お呼びでしょうか、大公妃様」

「ルチアーナ・アーク。身体の具合はどうです?」

「大公妃様にまで心配して頂いていたとは、身に余ります。大事ありません」

「それは良かった。アロンザ姫と親しくして下さっているそうですね」

「いえ、そんな。アロンザ姫様の方がわたくしを慕って下さっているのです」

「ランツァ・アウトゥーロを兄のように、その妻であるルチアーナ、貴女のことは姉のように慕っているのでしょう」

 ルチアーナは強く唇を結び視線を落とした。大公妃からの有難い言葉が胸を締め付ける。

「アロンザ姫には同性の親しい友がいません。これからも良くしてやって下さい」

「はい」

 大公妃の元を下がると、ルチアーナは一人密かに城外へ向かった。向かった先は見習い画家、ルチアーナの愛人の家だった。男に出迎えられ、ルチアーナは中へと姿を消す。


「こちらのお色などいかがでしょう」

 仕立屋の主人は豪華な織物を幾つも広げて見せた。

「そうね……」

 きらびやかなドレスを新調することに抵抗があるのは、つまらなそうな顔付きから見抜かれていた。ルチアーナはアロンザの顔色を伺う。それに気付いたアロンザだったが、気持ちは切り替わらなかった。

「私は、何でも」

 馬術の時とは打って変わり興味がなかったのだ。ルチアーナはため息混じりに仕切り直す。

「姫様にはこの色の方がお似合いになるでしょう。主役は元服を受ける方達だから、髪飾りは控え目に」

「はい」

 取り仕切り、仕立屋と侍女に指示を出すルチアーナに任せ、従うのみだった。アロンザは横で別の作業をする者に気付いた。

「これは?」

「元服されるミロディ様のお召し物です。とても立派な物でございます」

「そう……」

 私も着てみたいな。ドレスじゃなくて……。

 あの緊張感で張りつめた空気の中で、盃を交わして、剣を掲げる姿。いつか……。

「姫様、靴を合わせて下さい」

「靴も? はい……」

 いつか、叶うといい。


 おじ様、今日は元服の儀のお手伝いをしました。今日の為のドレスはルチアーナ様が選んで準備して下さいました。ドレスは窮屈でしたが、盃を持つ大事な役目介添人マーノの為です。元服された方達はそれは凛々しく、私もいつか元服したいと、より一層心から願うようになりました。


 遠征先の野営地へ荷物を届ける荷馬車が並んでいた。御者の一人とは顔馴染みだ。

「姫様、またお手紙ですか? 精が出ますな」

「ええ、ランツァおじ様は喜んで下さっているそうだから。無事届けて」

「返事を持って帰ります」


 野営地に届けられた手紙は直ぐさまランツァに手渡された。それに目を留めたオリス元帥。

「ルチアーナ嬢とはその後どうだ?」

 ジジイ、噂を知っていてよくもぬけぬけと。さっさと城へ帰れ! 目も合わせず尋ねた元帥をランツァは睨み付けた。

 ルチアーナが見習い画家と深い関係だという噂はランツァの居る遠征先にまで伝わっていた。だがランツァの妻の不貞を信じる者は少なく、たんなる妬みの噂話になっていた。ルチアーナに対してもランツァに対しても、嫉妬や妬みを抱く者は多かった。

「私が居なくても寂しい思いはしていないようで、何よりです」

「そうか……」

 騎士というある意味勝負師である二人は、探り合う腹の内は互いに見せはしなかった。


 女性の嗜みとして叩き込まれて来た刺繍は決して嫌いではなかった。だが目の前でルチアーナにより一針一針美しく刺された作品を見せられてしまうと、針が進まない。今朝届いたばかりのランツァからの手紙を開いた。

「手紙には何と?」

「もうすぐ戻るとあります。今度は少しゆっくり出来るみたい……」

「そう」

「おじ様に会うの一年ぶりかしら? 結婚式の後すぐ出立して、その後も帰ったと思ったらまたバタバタと。ルチアーナ様も会えるの楽しみでしょ」

「ええ、勿論……」

 喜んでいるようには見えなかったが、目線を針へ落としているせいだろうとアロンザは思った。


 ランツァが国境警備の遠征から戻って、もう三日は経つ。その間に祝賀の宴や会食もあった。

「ルチアーナ様の所へ行かないの?」

「ま、その内行くさ」

 ランツァはルチアーナとの結婚の為に準備した城下にある新居には帰らず、城内にある昔からの部屋で寝泊まりしていた。

「その内って? ルチアーナ様、おじ様が帰って来るの待っていたのに」

「……どうかな。居ても居なくても同じさ。それどころか」

「え……?」

 ルチアーナとの結婚は結局型式上の結婚ものだった。お互いによく知らず、知る間もなく遠征に旅立ち、ルチアーナに愛人がいることも人伝に聞いた。くれる便りもアロンザからの物が圧倒的に多い。夫の安否など心にない。とはいえ、城の中を歩けばルチアーナとも嫌でも出くわす。

「ランツァ・アウトゥーロ……」

「ルチアーナ。元気か?」

 宴でも会食でも二人は顔を合わせていた。だが会話を交わしたのは遠征から戻ってこの時初めてだった。

「ルチアーナ、それをどこで?! アロンザの物だ!」

 手にしていたのはアイロディモアの紋章、鴨と白栲しろたえの模様が施されたロケットの首飾りだった。自分がアロンザに贈った物だ、見間違えるはずがない。ランツァはルチアーナの腕を掴み上げ、一方的に責め立てる。

「姫様のこととなるとムキになって、口下手も饒舌に変わるのね」

「盗んだのなら承知しない」

「そう思っているの? いいわ、好きに思えばいい」

 ルチアーナは首飾りをランツァに押し付けその場を去った。


 開いた本の上に置かれた首飾りにアロンザは驚いて顔を上げた。手は自然に胸元を探る。

「アロンザ、落とし物だ。大事な物なのに」

「ありがとうおじ様。でもコレ、ルチアーナ様が持っているはずなのに……」

「どういう、事だ?」

「だって、預けたから。きのう、ドレスの仕立ての時に無くしてはいけないと。モナが近くに居なかったものだから、ルチアーナ様に預かってもらったの」

「てっきりルチアーナが……」

「おじ様、まさかルチアーナ様が盗ったとでも? なんて酷い、謝っておいてね。私も預けたことをすっかり忘れちゃって」

 さすがにまずったか……。ランツァはやってしまった過ちに眉間を深く寄せた。

謝るタイミングを計れないままランツァは戦場へと出立した。


「おじ様っ!!」

 戦場に行って一ヶ月も経っていなかった。ランツァは馬ではなく、馬車に乗せられ帰って来た。藁で出来た枕に深くもたれ、酷く疲弊した青白い表情だった。肩には包帯が巻かれ血が滲み出ている。弓に射られ、負傷していたのだ。

 ランツァは出迎えたアロンザに笑って見せる。

「そんな顔をするな」

「でも……」

「大した事はない。せっかく出迎えたんだろ、明るい顔を見せろ! それに、元服しようって人間が、怪我人見て青くなってどうする」

「……え、えぇ」

 ランツァが馬車を降りようとすると、お付きが慌てて止めに入る。

「いけません! 大事を取って下さい。誰か、手を貸せ!」

 思った以上に重傷だった。運ばれて行く姿にアロンザは一層青ざめ、後を追う。

 この間は元気に帰って来たのに……。考えもしなかった、死神がこんなに直ぐ傍にいるなんて。死神。死……。

「アロンザ、嬉しいがずっと傍に居る必要はないんだ」

「ええ……」

 看護という名目で傍に居るのはいいが、朝から晩までずっと居る訳にはいかなかった。だが死を意識した途端、恐怖に片時も離れられなくなってしまったのだ。


 ランツァより遥かに多くアロンザは城内のこの新居を訪れていた。

「ルチアーナ様、どうしてランツァおじ様のお見舞いに来て下さらないのですか?」

「わたくしが行っても……」

「どうして!」

「彼には貴女がいるのだからいいでしょ!」

「私?!」

 声を荒げる見たことのないルチアーナの姿だった。物腰の落ち着いた、頼れる身近な女性だっただけにアロンザは戸惑う。

「知っていたの。いいえ、城中の皆が知っているわ。だから同情してわたくしに優しく接してくれるの」

「ルチアーナ様、何を言って……」

 皆、おじ様のこと。そんな風に私を見ていたの……?

「何も知らない少女のように振る舞うのはもうやめて。結婚式のあの日、彼は貴女の寝室へやから出て来た」

「ぁっ……。それは、」

 おじ様と私の間には何もない。

 ただランツァが寝室へ来たのが事実だっただけに、説明したとしても言い訳にしか聞こえなかったはずで、アロンザは言葉も遮られてしまい話を続けられなかった。

「いいの。彼がわたくしを愛してないように、わたくしも彼を愛していないから」

「そんなこと! おじ様はルチアーナ様を大事にしているのに」

 ルチアーナは小さく笑った。

「大事にされるだけじゃ、駄目なのよ。姫様にもその内分かるわ」

 しおれるアロンザをルチアーナは優しく抱き寄せ慰めた。こう真っすぐに慕われては、憎くても憎みきれない……。


 ベッドで横たわるランツァをルチアーナは冷たく見下ろした。

「来て上げたわ、ランツァ」

「いいきみだと笑いに来たのか? それとも、その肌で慰めてでもくれるのか」

 ランツァは見上げたルチアーナに憎まれ口を叩く。

「ふざけないで。アロンザ姫様の為よ」

「アロンザ?」

 訝しげに眉間を寄せた。そんなランツァの視線に合わせ、ルチアーナはベッド脇に座る。

「いいえ違うわね、やっぱりわたくしの為よ。アロンザ姫様には嫌われたくないのよ、わたくし。慕って下さっているんだもの」

「アロンザが君を? 笑わせるな」

「アロンザ姫様が貴方を見舞って欲しいと頼んだからわたくしは来たの」

 鼻で笑うランツァを突っぱねるように顔を背けたルチアーナ。そのルチアーナの白い手をランツァはおもむろに握る。

「すまない。アロンザの首飾りのこと、疑ったりして」

「……それが、貴方でしょ。謝罪は受け入れたわ。もう、行くわ」

 行こうと立ち上がるルチアーナ。けれど、ランツァはルチアーナの手を離さなかった。


 傷が治ればランツァはまた戦場へと戻った。アロンザは変わらずルチアーナの元を訪れた。お茶や刺繍をして共に過ごす。

 アロンザの首から下がる少し大振りのロケット。紋章、鴨と白栲の模様が施された首飾りに目が留まる。ランツァのあの激高ぶりが思い出された。

「アロンザ様、いつも着けているロケットそれは?」

「とても大事な物。中にアルベルト・イアネルク大公の髪が入っているの。本当は私、元服して大公を助けて、一緒に戦場へ行きたかったんです」

「アルベルト大公……」

「今は、同じ思いでおじ様を助けたいと思っているけど」

 ただの困ったお姫様じゃなかったのね……。ずっと、嫉妬していた。ランツァの心がわたくしに無いこと。でも違ったみたい。わたくしの空回りだった。きっとランツァもロケットの中身を知っている。

「だから、剣術を励んでらっしゃったのね」

「少しでも力になれたらって、思って」

 アロンザは初めて本心を口にする。今まで言っても誰も真剣に聞いてくれる者はいなかった。だが慕うルチアーナならと本心を語った。そのことでルチアーナの一方的な頑な心が解け、二人の関係は変わりずっと近くなる。


「おじ様!」

 ランツァは自分の目を疑い思わずアロンザの姿に見惚みとれた。三年ぶりに見たアロンザは魅力に溢れる美しい女性になっていた。ウエーブの柔らかな長い髪、芯の強さを帯びた大人びた顔立ち。ふくよかな胸元が覗くドレス。そしてロケットの首飾りは間違いなく―。

「本当に……アロンザか? 会わない間に見違えたぞ」

「だっておじ様、暫く帰って来なかったんですもの。私だって一年隣国のニールグへ勉強に行っていたわ」

「そうだったな……」

「無事のご帰還、何よりです」

 見惚れたのはランツァだけではなかった。アロンザの変貌ぶりに目を瞠る者は多かった。


 子供の頃から続ける剣術の練習の帰り道。共に通うのは幼馴染みのファブリッツィオ・ナリエスだった。ファブリッチィオは実戦を踏まえた国境警備の遠征に何度か随行し、アロンザはクアトロ連盟を結ぶ隣国ニールグへの留学期間があり、二人共剣術の練習から離れた時期もあったが、変わらず励んでいた。

「元服するんだ」

 ファブリッチィオからの突然の報告に、正直、聞かされても羨ましさしか湧いてこなかった。同い年の幼馴染みが、憧れる元服を受ける。

「そしたら、俺と結婚しろ!」

「はぁ?」

 驚いた瞬間、不意をつかれ歩いていた回廊の壁へ押しやられ唇を重ねられていた。有無を言わさず続けられ、アロンザは突き放した。

「ゃ、やめてっ!」

 思わず袖で唇を拭ってしまう。

「どうして」

「…………。」

「やっぱりあのおじさんがいいのか?!」

「違うっ! 何でなの? 皆何か勘違いしてる。私は、私は……」

 人を好きになるという気持ちが、分からない。ただ父様やおじ様の傍に居たかっただけ。

 そんなタイミングに、部下を従えたランツァが回廊の先からやって来る。気付かなかったのかアロンザは行ってしまったが、二人のやり取りを見ていたランツァの足は止まっていた。

「ラ、ランツァ様……」

「コラード、あの男は?」

「わ、分かりかねます」

 ランツァの目付きが鋭く変わり、部下のコラードは名前を素直に言う気にはなれずあからさまに目を逸らした。何が起きるのか目に見えている。

「コラードッ!」

「ファブリッツィオ・ナリエス様です!」

「ファブリッツィオ?!」

「はい。アロンザ姫様の幼馴染みであるファブリッツィオ様です」

 遠い過去を思い出し後悔した。

 あれはアルベルト大公が亡くなり、最初の遠征へ出立する前のことだ―。


「ファブリッツィオ、アロンザと仲良くしてやってくれ」

「はい!」

「頼む」

「はい! ……頼む? 何をですか?」

 返事はいいのだが肝心な所が抜けている。ランツァは頭を落とし髪をかき回した。

「とにかく、アロンザと仲良くしてやってくれ」

 仲良くしてやってくれ。そう確かに頼んだ。


 ファブリッツィオは子供の頃から抜け作だった。だがもうあの頃のような無邪気な子供ではない。あのアロンザを見れば、ただ仲良くというそれだけの気持ちではないだろう。

「……連れて来い」

 たった一言。だがコラードは深く嫌なため息をついた。

 次の日、ファブリッツィオの為の剣術の特別訓練が行われることになった。

「あぁ、アロンザすまない。私の代わりにオース様との会食に出席してほしい」

 軽いのりで、出掛け際のアロンザを引き留めるランツァ。

「私が代わりを?」

「ああ。以前からアロンザと一緒にと言われていたが、私は用事が出来てしまって」

「でも私も今日は剣術の特別訓練が」

「明日のはずだ。私が指示した」

 白々しいがランツァはもっともらしく語り、アロンザは何の疑いも持たない。

「そう、なら……聞き間違えたのね。いいわ、おじ様の代わりにオース様の相手をしっかりしてくるわね」

「いい子だ」

 アロンザの知らない所でランツァと並ぶ猛者による地獄の猛特訓が行われた。数多の難局を乗り越えて来た強者達は手加減を知らず、まさに地獄が見えるほどファブリッツィオはしごかれた。実はこの地獄の猛特訓、ファブリッチィオだけではなく、戦場から戻った若い騎士も何人かいた。その全員がアロンザに声を掛けた者だった。アロンザに手を出すと恐ろしいことになると、身を持って知ったのだった。

 翌日、アロンザは勇んで剣術の練習へ向かった。だがいつもの練習場はガランと静かで、誰も居ない。一緒に通うファブリッチィオは病欠だというし、慌てて師匠マエストロの元を尋ねた。

「特別訓練?」

「はいマエストロ、アーク将軍が今日だと」

「あぁ、あれは中止になった」

 どこかよそよそしく、邪険にあしらわれてしまう。城へ戻ったアロンザは一人練習に励む。

「中止になったんですって」

 むくれるアロンザだが、見守るランツァは逆に清々しくほくそ笑む心が抑えられなかった。

「それは残念だったな。私が特別訓練の代わりに相手をしてやる! オース様との会食を無事済ませてくれたからな」

「本当!」

 大人になってから剣術で手合わせなどしたことがなかった。それどころか初めてのことだ。認められたようでアロンザは手放しに喜んだ。ランツァの方はほんの遊びのつもりだったのだが―。

 作法に則った型で剣を合わせる二人。だがランツァは直ぐに違和感を覚える。アロンザの剣の筋が思った以上に良いのだ。型から外してもきっちりそれを受け押さえて来る。それどころかアロンザの方が型を外し、踏み込んで来る。

 面白くなかった。アロンザの剣の腕前を簡単に認めたくない。ランツァは大人気なく攻撃を繰り出した。向かって来る剣を受けて流し、空けた左手をアロンザの構える両手の隙に挿し入れ柄頭を握り引き寄せた。剣は自動的に降り下ろされ、ランツァはそのままアロンザの剣を軽々払い落とした。自分の剣をアロンザの首の前へ横付ける。首を落とす型が決まったポーズだ。そこまで僅か数十秒の早業。

「アッ!」

「だいぶ練習したようだな。でもまだまだだ」

 ランツァは自分が払い落としたアロンザの剣を拾い上げる。差し出された剣を受け取るアロンザは、黙ったままだった。

「どうした?」

「……悔しい。もっと練習に励むわ」

「十分強いぞ。それ以上強くなってどうする」

「おじ様、忘れたの? 酷い!」

 揶揄するように笑われ、アロンザは悔しさにその場から逃げるように走り出した。

「アロンザ?」

 何故アロンザが突然怒りだし、何も言わず行ってしまったのかランツァには分からなかった。一瞬見せた哀しい表情が頭に残る。

 城に戻ってアロンザと会ってからというもの、アロンザの言動も振る舞いもどうしてか気に入らない。今までと変わらず、いやそれ以上に可愛くて仕方ないというのに、モヤモヤとした気持ちをうみ、苛立ちさえ覚えてしまう。

 部屋へ戻ったアロンザは閉じこもり、着替えどころか何もしようとしなかった。その余りの落ち込みようを見かねた侍女は、ルチアーナに助けを求めた。

「アロンザ様、髪を結って差し上げるわ」

「いい。今日はこのままでいたいの……」

 ルチアーナはあやすように、ベッドで項垂れるアロンザを慰めていた。

「ランツァが怒るわ。それじゃ思うツボよ。出来る所を見せなければ」

「…………そうよね」

 幼い頃より養った教養、ルチアーナによって仕込まれた身のこなしやセンス、アロンザは身に付けたものをまるで披露するように自分らしく過ごした。そんな姿にランツァも目を瞠った。数年会わない内に変わったのは容姿だけではなかったのだ。


 アロンザに呼び止められ、思わず笑顔になるランツァ。晴れない機嫌がいっきに晴れる。理由に思い当たらぬまま機嫌をそこねて以来、会話らしい会話を交わしていなかった。

「改まってどうした?」

「おじ様、私ももう十八だし……、元服を受けたいの」

「駄目だ」

 笑顔が一転して消える。

「我慢したわ! 年下の男の子達が元服の儀に出るのをじっと堪えて見て来た。介添人マーノのお手伝いだって。でももう今年を逃がしたら……」

「アロンザ、オマエは女だ。この国の、アイロディモア公国の第一公女なんだぞ」

「そんなことわざわざ口に出さなくても分かっているわ!」

「分かるなら何故言う事を聞かない! アルベルト大公が生きていたらどうお考えになるか」

「ずるい。大公の名前を出すなんて。おじ様だけはそんなこと言わないと思っていた。父様ならきっと応援してくれる。おじ様だって応援してくれるって……」

 もう、今までのように応援することは出来ない。オマエが大人の女になってしまったから……。

 その場を逃げて聞かなかったことにすることも出来た。だが騎士たるプライドが余計な邪魔をし、ランツァは説得などという不安定な道を選んでしまった。

「元服を受けたら……。元服を受けたら、この先男として生きることになる。それでもいいのか?」

「ええ」

「結婚も出来ないんだぞ!」

「元服を受けるのが、私の子供の頃からの夢なのよ! おじ様もよくご存じでしょ」

「…………。分かった。では剣術、馬術、兵法。立ち居振る舞いから女の扱いまで、騎士として必要な教養を総て習得するんだ」

「女性の扱い……。わ、分かった」

「元服の儀まで二ヶ月だ。式の為の準備もある。それまでに長老達も納得させろ」

「はい」

「勿論、私を当てにするな。自分でどうにかしろ」

「分かったわ」

 どこかでまだ高をくくって、諦めるだろうと冷たく突き放したつもりだった。だが、アロンザの素早い返答にランツァの方が内心怯んでしまう。

 アロンザは考えを巡らせる。剣術はもとより、兵法の勉強も外交や語学と共に幼い頃から嗜みとして叩き込まれてきている。分からないことと言えば女性の扱いだけで、これは自分には用事が無いと判断した。

 あと必要なのは……長老達の許可だわ!

 目の前のランツァを置き去りにし、アロンザは即座に歩き出す。

「アロンザ?」

 呼び止めるが見向きもされなかった。今度は無視だ。ランツァはそこはかとない虚しさに加え、やり場のない苛立ちに襲われた。


 出迎えたのは聞き覚えのある声だった。フェルディナンド・オリス元帥だ。ここは長老達が集う会館。

「アロンザ姫様、どうなされました」

 澄ました顔で出迎えられる。だがアロンザにはオリス元帥に対して良い印象がない。


 オリス元帥がアロンザの所へ来る時にはいつも、もう最終宣告だった。

「アロンザ姫様申し訳ない、そろそろランツァを解放して頂けますか?」

 優しい声で穏やかに語りかけてくるオリス元帥。だが一度ひとたびランツァが騎士団の元へ戻ると、オリス元帥が酷く叱っていることを知っていた。そしてどんなに嘆願しても自分の元から必ずランツァを連れて行ってしまう人だ。だからアロンザはオリス元帥が幼い時から嫌いだった。


「元服の許可を頂きたく伺ったのです」

「元服ですと?!」

 目の前には長いテーブルを囲み長老達が並ぶ。一線を退いた学術者や騎士、僧も居る。その中の一人がオリス元帥だった。

「美しくなられた。何も元服などなさらず、どなたか良い方を見付けられては」

「そうです。女人が元服するなど、聞いたこともありません」

「いえ。私は幼い時より剣術や馬術など、国の為になるよう修練を積んできました」

「何も元服なさらなくとて、活躍の場はいくらでも」

「長老もこうおっしゃっていますよ」

 苦手な元帥ばかりに気を取られてしまったが、元服の許可をもらう為に闘う敵は一人だけではなかった。

「姫様には姫様の仕事もありましょう」

「では、この場でその身分を棄てます。馬小屋で寝るのもいいでしょう」

「な、何を……」

「私をアルベルト大公の第一公女という立場ではなく、志願した一人の人間として見て下さい」

 長老達は顔をしかめざわついた。肩を寄せこそこそと話し合う。結論は直ぐに出ず、アロンザは暫くその場に立たされたままになった。

 姫だというわりにその姫を待たせて、ずいぶんと立たせたままにしておくのね……。心の中で愚痴をこぼした時、長老の一人が場を仕切り直す咳払いをした。

「分かりました。では実戦を想定した馬上試合を設けましょう」

「馬上試合……?」

「そこでの戦いぶりで判断致します」

「勝てばいいということですか?」

「いいえ。戦いぶりで判断致します」

「あ、ありがとうございます」

 正直どういう意味なのか判らなかった。だがそこで判断が下されることになった。

「いつですか? 今から、それとも明日?」

 アロンザの言葉に長老達は目を丸くし驚いた。

「だって準備があるんですもの、早く決まらないと間に合わなくなってしまいます!」

「姫様、馬上試合をお分かりですか?」

「ええ。剣術で練習していますから」

 経験の無いアロンザならば、馬上試合と聞いて怖じ気付くだろうと考えた策だった。だがその思惑は完全に裏目に出てしまった。

「アロンザ姫様、試合を行うにも準備というものが必要でございます」

「では今日は無理ですね。明日を楽しみにしています」

 アロンザは挨拶をすると部屋を出た。ランツァの元へ報告に走ったのだ。残された長老達は呆気に取られてしまう。馬上試合はそんなに軽々しい行いではなかったはずだった。


 対戦相手の選出はオリス元帥が行い、ランツァの部下コラード・オルク隊長が選ばれた。

 コラードはランツァより十歳は若く、有望な騎士の一人だった。罷り間違っても負けることは許されず、今までの武勲を考慮した上で選ばれた。

「それは私が弱いということでしょうか?」

「いや、線が細いということだ。見るからに屈強な者では見ている者達に不公平さが残る」

「は、ぁ……」

「腕は信用している。相手は姫だが気にすることはない。少し痛い目をみた方が現実を思い知るだろう。だから本気で闘ってもらいたい。結果しだいで進退が左右することは、分かるな?」

 と言われる一方で、ランツァもまた言及した。

「ったくジジイが、よくも仕組んでくれたぜ。分かっていると思うが、相手はアロンザだ」

「はい、負ければよろしいのでしょうか?」

「絶対負けるな!」

「えぇっ?!」

「本気で戦え。最大級手加減しつつ尚且勝て!」

「矛盾した無理なことをおっしゃいますね」

 

 公女による元服を賭けた、前代未聞の御前馬上試合が行われた。


「ランツァ・アウトゥーロ」

 人の気配に振り返ると声を掛けられた。そう呼ぶのは一人しかいない。

「大公妃様!」

 お供を連れ立ちやって来たアロンザの母、大公妃が居た。驚いたランツァはベッドサイドに置いた椅子から立ち上がり慌てて身を一歩引く。

「私がついていながら、こんなことに。申し訳ありません」

 ランツァは心底深く謝った。それでも、アロンザの馬上試合を許可した自分の気持ちは救われず、下げた頭を上げることが出来なかった。

 大公妃は改めてベッドで眠るアロンザの姿を見た。大差で試合に負け、傷付いているにも関わらず苦しそうには見えない。微笑んでいるようにさえ見える。苦しんでいるのは見るからにランツァの方だ。

「ランツァ・アウトゥーロ。認めてあげることは出来ませぬか?」

「出来ませんっ。元服させるくらいなら尼にさせます!」

「ランツァ!」

 大公妃はらしからず声を荒げた。まるで息子を叱るかの口調で。

「申し訳ありません。ですが……」

「この子は純粋に元服することしか考えていません。色眼鏡を外し、結果で判断なさい」

 大公妃はアロンザの努力を知っている。勿論、出来ることなら姫として大人しく良縁へ嫁ぐことを願っている。それはランツァも同じだ。けれど、アロンザは元服を夢見て幼い頃から人一倍の努力をしてきた。それがアロンザなのだと認めてやりたい。

「とても……、いい腕をしていると思います。怯まない強さも持った……」

「アロンザでなければ?」

「大人と認め、直ぐにでも元服させます」

 その答えを聞くと大公妃は静かに踵を返し、何も言わず立ち去った。ランツァは頭を抱え、苦悶に眉間を深く寄せた。認めたくないが、答えを口にしてしまった。

「クソッ!」

 汚い言葉を吐き捨て、更に頭を抱えた。苛立ちが募っていく。


 目を開けるとランツァが居た。深刻そうに顔を歪めて。

「おじ様……?」

「アロンザ!」

 呼び掛けに応え「苦い顔。どうしたの」そう続けようとして続けられなかった。体の痛みに思わず耐えかね眉間を寄せた。その時、馬上試合で落馬したことを思い出した。

「……そうか」

「どうした?」

「私、負けたのね……」

 何故かランツァがまた苦々しく顔を歪める。

「許可が降りた。長老達も納得している。ベルトランド公子や大公妃様のお力添えもあった」

「あぁ、何てこと……」

「明日から元服の儀の準備だ。急がないと間に合わなくなる」

「おじ様、ありがとう」

 アロンザは再び目を閉じた。


 起き上がれるようになったのは三日後だった。立ち上がれるようになったのは更に二日後のことだった。窓辺に居たアロンザの元にモナがやって来ると、何やら慌ててガウンを掛ける。

「姫様、お客様です」

「コラード・オルク隊長?!」

 アロンザが振り返ると、腕を三角巾で吊ったコラードが立って居た。試合相手として剣を交えたが、こうして顔を合わせるのは初めてだった。

「どうなさったんですか?」

「アロンザ姫様…………。お怪我は?」

 私はこんなに美しい人に剣を向けたのか……。コラードはアロンザに会い、深く後悔した。今までアロンザに対し興味も無く、注意深く見たことがなかったからだ。

「私は大丈夫です。馬から落ちた時の打ち身だけですから。それよりオルク隊長の方が」

「いえ、油断した結果ですから」

 自分が付けてしまった傷だが、その姿が痛ましく胸が痛んだ。

 剣術の訓練では何度も馬上の手合わせを行なったことがあった。だが全て型を覚える為で、馬は動かない木馬。アロンザは実戦は初めてだった。対する相手はランツァの部下にして荒くれ者の騎士を束ねる隊長。

 慣れない馬を操り、型通り繰り出す剣は見抜かれ、軽々跳ね返された。コラードから反撃され落馬しそうになった時、意地になって下から剣を振り上げた。その一振りが逆に振り下ろしたコラードの肘上を切先が切り裂いた。アロンザはそのまま落馬し肩を打ち付け気絶した。勿論、武器は模造。装具を身に付けていたので、お互い重傷にはならなかった。

「アロンザ姫様はとても筋が良いですよ。修練を積んだのですね」

「そんな……。ごめんなさい」

「謝ってはいけません。これは闘いです。戦ともなれば命も奪う」

 そうか、それが闘うということ……。

 アロンザはぎこちなく頷いた。

「あれが実戦だったら、私は殺されていましたね……」

「そうなる前に仲間が助けます」

 コラードは優しく微笑む。

「元服出来るそうですね、おめでとうございます」

 笑った顔や柔和な話し方、騎士とは思えない穏やかな振舞いに惹かれ、アロンザは一目でそんなコラードのことが好きになった。

「ありがとうございます。是非、元服の儀には立ち会って下さい」

「はい、喜んで」


 言葉遣いに気配りがなかったのは驚いた為だった。部屋には女二人、気遣う相手もいない。

「舞踏会? この状況で?!」

「……そうよね」

 ルチアーナは繁々とアロンザの姿を見る。落馬し休養を取るアロンザはナイトドレス姿。更に自分は隠しきれなくなってきた大きなお腹の妊婦。ランツァと会う場面は避けている。

「戦勝祝いに催される舞踏会ですもの、出ない訳には……」

「いかないわね……」

 二人はため息をつきながら椅子に座り込んだ。


 ベルトランド公子の名の元に開かれた舞踏会は、公国内だけの規模の小さなものではあったが、賑わいは盛大なものだった。

 正装のきらびやかさは、戦勝祝いの主役たる屈強な男達も優美に見せた。帯刀する剣さえ宝石をまとい美しい。女性達は華やかなドレスで身を包み、場を盛り上げた。

 そんな中、目を惹く二人。

「誘って頂けるとは思いませんでした」

「ご迷惑じゃありませんでしたか? 剣を交えた相手同士なんて、変な取り合わせですもの」

 ただでさえアロンザは姫という立場。その上前代未聞の馬上試合を行なったばかりだ。その相手であったコラードがエスコートする。人が集まり二人が一緒に居れば要らぬ注目を集める。

「いえ、光栄です」

「良かった。ファブリッツィオは結婚しろとか言い寄っておきながら、元服の準備があるのか最近近寄って来ないし」

 そりゃそうだろう……。と事情を知っているだけにコラードも目を合わせられず苦笑いになる。ランツァの許可がある自分以外に誰がアロンザ姫に近付くだろうかとさえ思った。もしアロンザを誘える者がいるとすれば、それは何も知らないバカか或いは、ある意味で強者だ。

「おじ様はルチアーナ様が……、ね」

「ええ」

「でも良かった。オルク隊長、私、貴方が好きなんです」

「…………。えっ!!」

「いえ、あの、素直に言い過ぎましたね」

「あの私は……」

 アロンザの唐突な告白にコラードの頭には一瞬にして色々なものが渦巻く。アロンザはアイロディモア公国の第一公女である姫。権力や財力しかり、何よりランツァだ。だが望まれれば説得出来る自信がある。

「暫し待っていただければその覚悟も」

「嬉しいです。でも私は元服を決めた身ですから」

「そうでしたね、私達の負傷はその為ですし。けれどとても惜しい。貴女のような美しい人が妻になってくれたらどんなに幸せか」

 甘い会話のやり取りまではランツァには聞こえなかった。もし聞こえていたら、例えここが公子の名の元に開かれた舞踏会の場だとしても、間違いなく修羅場になっていたに違いない。

 二人の様子は、はた目にも楽しそうだった。それがどうにも面白くなかったのがやはりランツァだ。

「休んでなくていいのか?」

 エスコートするのは勿論、妻であるルチアーナ。

「ええ、気遣って下さるのね」

「いや、君が休みを取ればアロンザが休みを取れた。アロンザに付き添う君だ」

「お生憎様ですこと。姫様がオルク隊長を誘ったのよ、彼が好きなんですって」

 大人気無い嫌味の応戦が勃発する。

「可愛がっている女を部下に持っていかれるなんて、悔しいでしょ」

「アロンザはコラードを騎士として尊敬してるだけだ」

「バカな男」

「腹の子の父親はアイツか? よくも誰にも知られず隠せたな」

 招待客の中にルチアーナと密かに付き合う画家がいた。もう見習いではなかった。

「貴方の子よ。アロンザ姫様のようにせいぜい可愛がって頂戴」

 三年ぶりに帰り、間もなく産まれる子など出来ているはずがなかった。


 仕立屋に注文を出すのは決まってルチアーナだった。

「もう少しきらびやかな物がいいわ。元服の為と言っても、そこは女性らしく飾りたいの」

「ではこちらの生地などいかがでしょう」

「ええ、いいわね……」

 アロンザが服の新調を苦手とすることをルチアーナは知っているからだ。アロンザはいつでもルチアーナのセンスに従うのみだった。間違いがないことも経験上分かっている。

「ルチアーナ様、少し休んで下さい。お腹の子に障ります」

「いいえ。アロンザ姫様、本当にいいのですか? 今ならまだ、この服を婚礼の衣装に替えることが出来ます。オルク様ならその覚悟も厭わないとおっしゃってくださったのでしょ?」

「ええ。とても嬉しかった。でも私の夢は元服すること。おじ様や父様と共に戦いこの国を守ることなの。その夢が叶うのよ」

 アロンザの瞳は輝いていた。その姿に決意を固めたルチアーナは頷く。

「アロンザ姫様…………。私……、これを最後にランツァと別れて出て行きます」

「ルチアーナ様……?」

「もう分かっているのでしょ、お腹の子がランツァの子ではないこと」

「嫌です! いつまでも傍に居て下さい。お子なら、私が面倒をみます」

 ルチアーナは哀しい表情で笑い首を横に振る。引き留められ嬉しかった。

「アロンザ様。貴女は元服するのではありませんか!」

「でも、」

「時期が来たんです。またどこかで会えるでしょう」

 将軍の妻のまま居れば何不自由なく暮らせたはずだった。けれどルチアーナはそれを捨て、愛と幸せを選び、後悔のない笑顔で去って行った。


 壇上には十六歳に成長したベルトランド公子が居住まう。祭礼の為の正装で構える姿は、立場上一緒に通うことは許されなかったものの、アロンザと共に剣術や勉学に励み、それなりに様になっていた。両脇に大公妃や公太子が並び、一段下には執行人と長老達が揃っていた。

 今回元服するのはアロンザを入れて五人。壇上の横にはそれぞれの後見人が並んでいる。

 元服する者はこの日の為に準備された衣装をまとい、上からは真新しい一枚板から叩き出された特注のブレスト・プレートを身に付けている。後見人は全身が絢爛な特注のフル・プレートアーマー姿だった。

 式を手伝う介添人マーノも後ろに控え、その更に後ろが客席だ。順に名前が呼ばれ、元服の儀が始まった。

「アロンザ・イアネルク。後見人、ランツァ・アルトゥーロ・アーク、前へ」

 最後に呼ばれた二人が壇上の前へ進み出ると、ベルトランド公子が座っていた椅子から立ち上がり、執行人から剣を受け取った。アロンザは公子の前で跪くと頭を下げた。公子は剣をアロンザの肩に載せる。

「汝この剣に誓いを立て、忠誠・勇気・礼節・賢明・信念・寛大の六訓を守り通せねばならない」

「御意」

 剥き身の剣先に口付けると、剣は鞘に納められ後見人であるランツァへと渡された。式の最後に佩剣はいけんを許される。手伝う介添人マーノがサーコートと呼ばれる外套をアロンザの肩に掛け、留め具を身に付けているブレスト・プレートに留めると、今度は盃を載せたトレイを差し出した。アロンザは立ち上がり盃を手にする。

「この盃をもって、一人の人間おとことしての責任を追う」

「はい」

「反対の者は今直ぐ申し出よ。さもなくばこの先永久に口を閉じよ」

 執行人は猶予を置き、辺りを見回す。形式的なもので、ここで意義を唱える者はいない。

「では、よろしいか? 六訓を守る誓いの盃を息子フィーリョから父親パードレへ」

 アロンザが盃を差し出すと、ランツァはそれをじっと見詰めた―。

「断る」

「…………えっ?」

 驚きのあまり、掲げていた盃を持つ手が下がり注がれていた清酒が床へと溢れた。

 式場は刹那静まりかえり、そしてざわめき出した。

「な、何と……?」

「断ると言ったんだ!」

 ランツァは執行人に向かって強く言うと、盃を下げたまま呆然とするアロンザの二の腕を掴み引き寄せる。

「元服などさせない。オレのものになれ」

 耳元で囁かれ、アロンザは盃を落とした。突然の思いもよらない言葉に身動きが出来なくなる。ざわめく式場に盃が転がる音が虚しく響いた。ランツァの囁きは周囲に居た人間にも聞こえなかった。言い逃げるようにアロンザを突き放すと、ランツァは式典の場を後にした。ざわめきは更に大きくなった。


 城壁の上でランツァを見付けた。まるで物思いにふけるかのように立つその姿を見て、怒りが更に込み上げてくる。

「貴方は何をやってるんですかっ!」

「コラード」

 呑気に振り向いたランツァの肩を小突き、コラードは怒りをぶつけ冷静さを取り戻した。

「彼女の気持ちを考えたんですか」

「彼女?」

「憧れる元服の場に立つ為にどれほど努力したか。知らない訳じゃないはずです! それを一人置き去りにして恥をかかせて」

「お前には関係ない」

 姫という立場。女という身で元服する異例はただでさえ注目を集めていた。元服の儀の客席には一挙手一投足を見守る者が大勢来ていた。そんな中、式典の場に一人残され、身の置き場を失ったアロンザ。その手を引き外へ連れ出したのはコラードだった。

「関係あるんです。私は元服を決めたアロンザ様の為、身を引いたのですから」

「オレがそれを認めるとでも?!」

「認めるも認めないも、貴方が後見人だろうと関係ありません。アロンザ様の代わりに、恥をかかせた貴方に私が闘いを申し込む。剣を抜いて下さい」

 腰に携えた剣を抜きランツァへ向けた。だが様子が一変する。

「ふざけるなっ! オレの気も知らずに。怒っているのはアロンザだけじゃない。オレだって怒っているんだ!!」

「…………えっ? ランツァ様」

 自分の発した言葉に戸惑い、居心地悪そうに顔を背けたランツァ。コラードはランツァのアロンザへの想いに一瞬で気付いてしまった。向けた剣は自然に降ろされる。

「ランツァ様、アロンザ様のことを……」

 ずっと可愛がって来たアロンザに対して、今更ながら恋愛感情を持った自分に驚いて戸惑っている。元服させることに耐えられず、らしくない暴挙にも出た。

「では何故素直に気持ちを伝えないんです!」

「伝えた。だからアロンザも怒っているのさ」

「どうやら私に勝目はなさそうですね」

 腕の強さでも、抜かりない手の早さでも、コラードはランツァには適わないと、高貴な熊の偉大さに肩を落としてため息のように笑った。


「怒っているのか?」

 後を追うランツァはいつもと変わらない足取りだが、追われるアロンザの足は小刻みに速い。

「口もきかないつもりか?」

「当たり前よ!!」

「どうして?」

「どうしてって!」

 引き留められ、見詰められると言葉に詰まる。夢にまで見た憧れの元服の儀をぶち壊し、更に置き去りにされた。そのことよりも、思いもよらない囁きに腹が立ち、驚いた。意識していなかった。純粋に子供の頃から慕っていた後見人のおじ様でしかない。それが突然、元服しようというまさにその時、求婚してきたのだ。

「私は元服したかったのに」

「駄目だ」

「どうして今更」

「気が変わった」

「おじ様には……ルチアーナ様がいるじゃない。今からでも連れ戻して」

「関係ない。もう子供じゃないんだ、知っているだろ」

 知らない訳がない。ルチアーナ様に愛人がいたこと。お子だって。でもだからって……。

「おじ様が、今まで通りのおじ様として見れない……」

「それでいい」

「私は嫌なの!」

「コラードか?」

「違う!」

 怒っていることを分かって欲しかった。そうだと言えばよかった。おじ様にも同じように怒ってほしかった。突然のことに驚いて、怒っている。おじ様だけは皆が反対しても最後まで味方でいてくれると信じていた。おじ様はいつまでもおじ様でいてくれると。それが急に……。

 だから見詰めたまま目を離したくなかった。

 否定した途端、アロンザが口を閉じる間も無くランツァが唇を重ねた。アロンザは不意をつかれ瞬きも出来ず固まる。ファブリッツィオの時のように抵抗しようとしても、力が抜けていく……。

 もう私の好きだったおじ様はいない……。

 重ねられた唇は熱く、激しくて、けれど甘くて優しい長いキスだった。アロンザは溶け込むようにのまれていく……。苦しくて、合間に息が漏れる。

 息が出来た時、抱きしめられた。

「ずるい……」

「私に勝てる自信があるのなら、今からでも認めてやる」

 からかい、自信たっぷりに笑いかけるランツァ。

 昔、ルチアーナが呟いた言葉の意味が今初めて分かった。

「大事にされるだけじゃ、駄目なのよ」

 その内分かると笑った意味。アロンザがアルベルト大公やランツァを助けて一緒に戦場へ行きたいと願っていたように、ルチアーナも共に同じ方を向いていたいと思っていたのだ。

「……闘うわ。たとえ勝てなくても」

 アロンザはランツァの胸へ手を置き、抱き寄せられた体を離した。ランツァが戸惑った表情を見せた時、駆け寄る重い足音が近付いた。

「アーク将軍、ナキムの軍勢が城壁の外にッ! オルク隊長が出迎え食い止めています」

 突然の襲撃だった。ランツァは瞬時に騎士へと切り替わる。

「私も出る。兵が出た後に城内への橋を上げろ。殿下を城の中へ。女子供もだ」

「はっ!」

 伝達の兵は踵を返し来た道を素早く戻って行く。ランツァもそれに続く勢いだった。見たことのないランツァの姿に不安を覚え、アロンザは引き留めた。

「ランツァ! おじ様……」

「アロンザ、話の続きはまた」

「私も行きます」

「駄目だ! 待っていてくれ」

 取り残されたアロンザは直ぐにベルトランドの元へ向かった。そこには母親や下の弟も居た。

 伝令がベルトランドへ報告を持って来る。

「状況は?」

「はい、帰還中の騎士団が迎え打っております」

「分かった。私も出向く、姉上達は奥の部屋へ」

「いけません。殿下は奥へ! 私は……行かなきゃ」

「アロンザ……? アロンザ!」

 アロンザは弟の指示を聞かなかった。呼び止める母親の制止も聞かず走り出す。

向かったのは自室だった。母親に咎められて以来、秘かに部屋へ持ち込んでいた武器。隠し戸棚から弓を取り出し城壁へ駆けた。隠しトンネルを抜け城下の更に外側にある城壁へ上がる。見下ろした先に、襲撃して来たナキムの兵と打ち合うランツァ達騎士団が見えた。

 目にしたことのないむごい光景が広がる。

 見える情報は頭が処理出来た。けれど聞こえて来る音や声は脳に留まり恐怖を植え付けた。

 手足が震え、アロンザは闇雲に弓を引く。命中するが一矢に戦力を奪う強さが無い。

 違う……。違う違う、違うっ!!

 焦りが立ち、力配分が崩れた。その時、血と泥にまみれ剣を振るランツァの姿が目の前に見えた。馬上から狙い打たれる剣を阻止している。

 ランツァおじ様っ!!

 ガタガタと震えた膝を据え、弓を構えた。

 アルベルト大公やランツァを助ける為、正に今この時の為に自分を鍛えてきた―。

 深い呼吸を一つ。

 悲鳴を上げるようにしなる弓。弦をギリギリまで張り詰め、―指を放った。

 アロンザの放った矢は狙い通り真っ直ぐに力強く敵を射抜く。正面から矢が刺さり、敵の大将は後方へ倒れ馬から落ちた。相手の戦意を突如奪った弓矢に驚き、軌道を辿り振り返るランツァ。そこで目にしたアロンザの姿に更に驚く。

 城壁の上で、長い髪を風になびかせ弓を手に勇ましく立つ姿。

「黙っていたけど、私、弓も引けるのよ」

 勿論その声はランツァの元には届かない。

 正直相手の強さに押されていた。最後の一人に負けていたかもしれない。だがアロンザの放った矢が敵を仕留めた。

「参った」

 見惚れるほど美しくなり、強くなった。最高の女だよ……。

 奇襲を仕掛けたナキムの軍だったが散り散りに退散し、失敗に終わる。勝利に騎士達から声が上がった。

 橋が降ろされるのと共に鎧戸が上げられ、騎士達を感嘆の声で迎え入れた。逃げ込んでいた民達と混ざり、城内は入り乱れ大騒ぎとなった。

 戻ったランツァは労う仲間や民たちを避け、城壁の階段を駆け上がりアロンザを探した。

 弓を手に放心状態で立ち尽くしていたアロンザ。駆け寄り、ランツァは強く抱きしめる。

「アロンザ!」

「私、役に立てた……?」

「ああ」

 アロンザは望んだものをようやく手に入れた。笑って応えるが力を使いきってしまい、笑顔にならない。

「認めるよ、アロンザ。改めて元服の儀を行う」

「おじ様!」

「条件がある。おじ様はもう無しだ」

「ランツァ・アウトゥーロ・アーク」

 弱い声でランツァの名を呼んだ。


 こうしてアロンザはアイロディモア公国で初めて元服した女性となり、また姫だった。

 胸元にはいつも鴨と白栲の紋章が施されたロケットの首飾りを下げ、背には弓を背負い腰に剣を携えた。百戦錬磨の高貴な熊と恐れられたランツァの右腕となり、生涯騎士として城を守り続けた。



                   終わり

                   (2017年2月 完 2022年2月 加筆修正)

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元服の姫アロンザ @from_koa

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