ロンリーガール

Jack Torrance

ロンリーガール

オフィスを出ると外の寒さが身に染みる。


温かい部屋での仕事を日課としているので部屋の中と外との寒暖差に身震いする。


トリニティ ブラッドフォードはいつも仕事の帰り道にウォルマートで食材を買って帰る。


オフィスからウォルマートまでは徒歩で10分。


早足で歩きカツカツとアスファルトを叩くヒールの足音が行き交う車の排気音や人々の雑踏に掻き消されていく。


ウォルマートに入ると生鮮食品や冷凍食品を取り扱っている事もあり自分のオフィスの暖房の効かせ方とは雲泥だなと想いスーパーマーケットに従事している人は、さぞ寒いだろうと思い知らされる。


店内は夕方の時間帯という事もあり主婦や仕事帰りの人々でレジにも列が出来ている。


足早に店内を見て回り、鮪の切り身と玉葱、にんにくとレタス、それに安物の白ワインのハーフボトルを篭に入れてレジに並ぶ。


前に並んでいる人は大家族なのだろうか?


ショッピングカートに籠を二つ載せて大量に食料品や日用雑貨を買っている。


もしかしたら、パーティーでも催すのだろうか?


そんな事を考えていたら会計が自分の番に回って来た。


レジを打っている四十絡みの女性店員は、どこか機械的で冷淡な物腰で接客している。


ロボットのような無駄の無い動きでバーコードを通していく。


「19ドル60セントです」


私はプライヴェートとか私情といった類のものは一切職場には持ち込みませんといったようなある意味プロフェッショナルな毅然とした接客だ。


トリニティはクレジットカードで会計を済まし素早くレジ袋に買った物を詰めて外に出た。


オフィスを出た時はまだ明るかったが店を出ると日はとっぷりと暮れ始め斜日が僅かに闇を照らしていた。


家路を急ぐ人々。


トリニティの歩くスピードも自然と速くなる。


落葉樹の並木が寒々しく感じられる。


もう1、2ヶ月もすれば若葉も芽吹いてくるだろうとトリニティは想う。


刺すような夜気がひんやりとトリニティの頬をなぞっていく。


アパートに着くと空にはぽっかりと月が浮かんでいた。


闇夜を照らす月と星々、そして白色灯の灯り。


白と黒とのコントラストが幻想的でロマンティックな晩冬の夜空を演出している。


ハンドバッグから部屋の鍵を取り出し鍵穴に挿し込み部屋に入るなり扉のロックをして灯りを点ける。


誰もいない部屋。


2年前には母のステイシーがそこにいた。


2年前にステイシーは卒中で急逝した。


まだ45歳の若さだった。


トリニティとステイシーは、よく姉妹に間違われた。


仲が良く映画やショッピングなどにもよく二人で出掛けていた。


ステイシーはレストランのウエイトレスのパートをして奨学金を活用して一人娘のトリニティを大学まで通わせた。


父のグレゴリーはトリニティが2歳の時に蒸発した。


それ以来、父方の縁者とは音信不通だった。


母方も祖父母は既に他界しステイシーも一人娘だったのでトリニティとステイシーは親一人子一人という間柄だった。


トリニティは大学で英米文学を専攻して地元の出版会社の校正という職に就いた。


校正という職は孤独と忍耐を要する職だ。


誤字脱字を探して修正する事はおろか、その語句が適切であるかどうかの取捨選択を著者に報告するという業務。


語彙力と語学力を要求される仕事だ。


やり甲斐のある仕事だし一人で黙々とする作業工程も自分には向いているとトリニティは想っていた。


就職して一年目。


帰ると部屋は暖かくステイシーの笑顔がそこにはあった。


トリニティは手洗いと嗽を済ませエアコンのスイッチを入れる。


買ってきた食材と白ワインのハーフボトルを冷蔵庫に仕舞う。


コートとスーツの上着をハンガーに掛けてクローゼットに仕舞い腕まくりをして浴槽を洗う。


冷水で洗剤の泡を洗い流していると手が悴んできた。


母が健在だった時には数える程しかした事なかった風呂掃除。


もうちょっと母さんに楽させてあげればよかったなとステイシーがいなくなって今更ながら痛感する。


浴槽を洗い終えると湯を張りエッセンシャルオイルを数滴と乳化剤を浴槽の湯に馴染ませる。


グレープフルーツの何とも言えない良い香りが浴室に漂う。


スカートをハンガーに掛けて着ている残りの服は洗濯篭に入れて浴室に入った。


髪の毛と身体を入念に洗って浴槽にゆっくりと浸かる。


アロマに癒やされ一日の疲れが和らいでいく。


15分くらいで浴室を出ると柔軟剤でふかふかに仕上がっているバスタオルで身体を拭き上げて昨日洗っておいたルームウェアを着衣する。


ドライヤーで髪の毛を乾かしながらトリニティはふと想う。


随分と髪も伸びたなあ。


ステイシーが旅立った時に腰まで伸びていた栗色のロングヘアーをばっさりと切ってショートヘアにした。


それは、これから何もかも一人で生きていくという決意を何らかの形で示したいという衝動がトリニティをそうさせた。


2年前には肩よりもかなり上まで鋏を入れた髪も今は肩甲骨の下くらいまで伸びている。


2年という年月が長かったのか短かったのか自分の髪の毛を見ながら判然としないトリニティ。


テレビを点けてCNNにチャンネルを切り替える。


ニュースでは息子が母を殺害したニュースが速報で報道されていた。


何故、自分を産んでくれた愛しい人を手に掛けられるのだろう。


居た堪れないニュースに胸を痛める。


暫しニュースに目を奪われ夕食の支度に取り掛かる。


白ワインを開封してワイングラスに注ぎ一口含む。


買って来た食材を出してカルパッチョを作る。


ステイシーがいた頃は包丁すら握った事も無かった。


母の手料理を出されて食べるだけ。


幸せだった。


ごく当たり前の事なのかも知れないが母の愛情を感じられる特別な時間だった。


玉葱とにんにくをスライスしてレタスをカットする。


鮪の切り身をカットした野菜に載せてリーブオイル、ワインビネガーとブラックペッパーを適量ずつ加えてよく掻き混ぜる。


母がよく作ってくれた料理だ。


テレビの前のテーブルに持って行き一口食べてみる。


今日は分量を間違えずに上手に作れたと自分自身に賛辞を送る。


母さんに食べてもらいたかったなぁ。


母さんなら何点付けてくれるだろう。


白ワインも冷蔵庫から出してきて夕食にする。


テレビをぼーっと見ながら一人侘しい夕食。


何とも味気ない。


ステイシーがいた時には学生の女子寮みたいにいつも二人で賑やかに笑い合っていた。


今も手を伸ばせば母の温もりがそこにあるような気がする。


会いたい。


もう一度触れたい。


叶わぬ思いが止めどなく溢れ出しトリニティの頬に一筋の雫が伝う。


暫しの放心。


私がこんな調子じゃ母さんも悲しんじゃうわよね。


気を取り直し夕食を済ませ食器を片し残ったワインを嗜みながら読書に耽る。


トリニティはフェイスブックやツイッター、ブログなどのSNSはしない。


そもそも発信したい事も無いし自己アピールなんてする柄でも無い。


それに匿名で誹謗中傷なんてする人の気が知れない。


ある意味、人は人に不感症で干渉しないでいる事がやさしいのかも知れない。


インターネットはあくまでも情報収集や知識の補足、ちょっとしたショッピングくらいでしか活用していない。


暇があれば読書に耽る。


それも電子書籍じゃなくて製本された本でだ。


トリニティは本の手触りが好きだった。


本棚からシャーロット ブロンテの『ジェーン エア』を抜き取りページを繰る。


ヒロインのジェーン エアが幼少期に孤児になり義理の叔母の元に引き取られ叔母や従兄弟にいじめられながらも懸命に耐え忍び生きていくジェーンに涙するトリニティ。


何度読んでもこの冒頭のシーンは泣けてしまう。


読み進めていると携帯が鳴った。


発信元は大学時代の親友ナタリーだった。


ナタリーは編集の職に就き4ヶ月前から遠く離れたオレゴンに赴任している。


トリニティは会社でも懇意にしている人はいなかったし、学生時代から現在まで親しく付き合っている親友はナタリーしかいなかった。


元々、人付き合いは苦手な方だ。


だから、ナタリーが遠く離れたオレゴンに赴任すると聞いてトリニティは寂しかった。


お互い忙しくたまに連絡し合うのが最近の通例となっている。


「トリニティ、元気にしてた?まあ、行く前から覚悟はしてたけどオレゴンの冬をあたしは甘く見てたね。この前、グランドキャニオンから飛び降りたつもりで奮発してタトラスのダウンジャケット買っちゃったよ、エヘヘ」


「うん、元気だったよ。ナタリーは相変わらず元気そうだねタトラスのダウンってすごい高いでしょ。ナタリーは昔からお洒落だもんね。あたしなんか4年前に買ったシャサのダウンを今も着てるよ」


「シャサもフェミニンで可愛いよね。あたしってトリニティと違っていつも脳天気に生きてるからここ10年くらいは風邪なんてひいた記憶がないもんね。トリニティは何にでも一生懸命で真面目だからね。まあ、それと風邪とは関係無いか。でもね、そんなあたしでもちょっと落ち込んでてね。この前も編集長とちょっと衝突しちゃってね」


ナタリーは大手出版社に勤務していたが、そこの編集長と反りが合わず、その出版社の子会社でオレゴンにある小規模な地元出版社の預かりとなっていた。


「大丈夫なの、ナタリー?また何処か遠い所に飛ばされるんじゃないでしょうね」


「そうね、今度はアラスカあたりかカナダとかでもっと寒い所とか、エヘヘ。それは、ジョークだけど。まだ多分、大丈夫だと思うんだけどね…それよりも、ちょっと聞いてよ。あたし彼氏が出来たんだ。まだ誰にも言ってないんだ。誰よりも先にトリニティに伝えたくてね」


トリニティは親友の喜ばしい一報に表情が綻んだ。


「えっ、そうなの。おめでとう。で、どんな人なの?」


「普通のサラリーマンよ。何処にでもいそうな。そうね、セールスポイントを挙げるとすれば明るくて抱擁感のある人よ。この前『グリーンブック』を観に行った時に横に彼が座ってたんだ。それでね、観終わった後、スターバックスでお茶してたら彼も偶然そこでお茶しようとして入って来て彼から『君、さっき『グリーンブック』観てたよね』って話し掛けられて盛り上がっちゃったの。それで、彼からアプローチされたって訳なのよ。トリニティは誰か良い人はいないの?」


「えー、そんな人いないよ、あたしは。それに、あたしって男の人だけじゃないけど人付き合いが苦手だし」


トリニティは大学1年の時に図書サークルで知り合ったコリー ドレイファスと言う1つ年上の彼氏と1ヶ月だけ付き合った事があった。


コリーは当初はサークルに入って来たトリニティに猫撫で声で言い寄って来て感じの良い青年に見えた。


しかし、いざ付き合ってみると化けの皮が剥がれた。


高圧的で束縛したがる性分で男性上位の物言いだった。


トリニティは嫌気が差してすぐに別れた。


この一軒がトラウマとなりトリニティは男性不信に陥った。


トリニティは、もう直25になるがヴァージンだった。


父の蒸発やコリーの件で男性には良いイメージを持ってなかったので異性には興味を示さなかった。


トリニティはナタリーの新恋人の一報は自分の事のように嬉しかったが苦手な恋愛の話に持ち込まれたくなかったので話を逸らした。


「今、『ジェーン エア』を読み直してたとこなんだ。冒頭のジェーンがいじめられてるとこは何度読んでも泣いちゃうよね」


ナタリーが思い掛けない場所で知人に出くわした時のように言った。


「へえ、そうなんだ。奇遇よね。あたしは『嵐が丘』(注釈、『嵐が丘』はシャーロット ブロンテの妹エミリー ブロンテが唯一残した作品。エミリーは30歳で早逝)を読み直してるところよ。あたしにもブロンテ三姉妹(注釈、シャーロットにはエミリーの下にアンと言う妹もいて彼女も作家。アンの代表作は『アグネス グレイ』で彼女も29歳で早逝。最後まで生き残ったシャーロットも38歳で早逝)みたいに才能があれば作家を目指すんだけどね。いつか何処かの大学の創作科に入りたいなって想ってるんだ。短編も7本くらい書いたんだけど改稿に改稿を重ねるって感じでね。出版社に投稿する勇気がまだ無いんだ」


トリニティは以前からナタリーの夢を聞かされていたが創作科に通いたいなんて話は初耳だった。


「ナタリー、あなたなら出来るわよ。レイモンド カーヴァーが師事したジョン ガードナーも書き直す事で自分の伝えたい事が見つめ直せるって言ってたそうだからね。人間はチャレンジの連続よ。作家かあ。あたしも書いてみたいなあ。人に共感してもらえる本を…」


「そうよ、トリニティ。あなたも職業上、語彙力には長けているんだからチャレンジするべきよ。あなたもあたしも無類の本好きで読書オタクなんだから。今まで読んできた素晴らしい本にインスピレーションを受けないってのが不思議な話なのよ。二人で作家になんてなれたら夢みたいじゃないの」


「そっか、そうだよね。あたしも何か書いてみようかな。頑張ってみるよ」


「それじゃ、切るね。まだまだ寒いから風邪ひかないでね。おやすみ、トリニティ」


「ナタリーもね。おやすみ、ナタリー」


電話を切ってトリニティはグラスに残っていたワインを飲み干してグラスをシンクに置いた。


残ったボトルを冷蔵庫に仕舞い歯を磨き寝支度を整えベッドに入った。


作家かあ。


あたしも母さんとの楽しかった毎日を題材にして一つ書いてみようかな。


目を瞑ると瞼の裏にステイシーやナタリーの笑顔がくっきりと浮かび上がってくる。


トリニティは手で触れて感じる事の出来ない温もりが胸に染み母や親友との思い出を回顧しながら微睡みに落ちていった…

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