人と人ならざる者の境界線

 古来より人類はそれぞれの宗教における神を崇拝し,その信仰心の邪魔をするものを悪魔と呼んだ。たとえ,それが神であっても人類はそれを悪神とし,受け入れることを拒否し続けた。


 ある宗教では自分たちの神に敵対する悪神をサタンと呼び,また別の宗教ではデーモン,シャイターン,イブリースなどと呼んだ。


 そして時の流れのなかで悪神を祀る人間が現れると,悪神から直接能力を授かる者が現れ,彼らは起源=オリジンと呼ばれた。やがて人類は文字を身につけると,神々と人類のかかわりの記録を残していった。


 いくつかの記録には,もともと森の精霊であったインキュバスは,臆病で人間を嫌い,しばしば森に迷い込んだ女性を襲っては快楽とともに地獄の苦痛の末にサキュバスを産み落とさせたと記されていた。


 インキュバスのなかにはオリジンから生み出されたオリジナルも含まれ,その特徴は目が燃えるように赫く,先の尖った耳を持ち,鋭い牙,岩をも切り裂く爪,山羊のような角を持つとされ,人間のような姿でありながら動物のような見た目であるとされた。


 仁の内面から人間たちを観察するように覗き見するそれは,まさに動物のような容姿であり,器である人間の姿がなければ誰もが悪魔もしくは悪神と呼ぶに違いなかった。



「やっぱ,ここのコーヒーが一番美味い! なんであっちの世界と味が違うんだ? 豆か? 人間界にはない豆があるのか?かっこ



 古びた椅子にゆったりと座り,コーヒーの薫りを楽しみながらスマホの画面を眺めていた。仁の書き込みを見てアプローチしてくる女性は相変わらずいたが,素質のある者は現れなかった。



「なぁ,峻。やっぱ真弓と悠依が現れたのって偶然なのかな? 同時に二人って凄くね? それともなにかあるのかな? これが運命ってやつ?」



「どうでしょうね? この世界的に流行している感染症も,なにか理由があるんじゃないでしょうか?」



「やっぱそうだよな、昔から流行り病のときは色々なことが起こるもんな。これだけ世界的に感染拡大する病気とか,やっぱなんかあるんだろうな。俺みたいな雑魚ざこには知ることもない,なにかが起こってるんだろうな」



「雑魚ですか……私にとっては,仁様は十分すぎるほど神として崇められてますよ」



「それはそれで困るんだよね。ほら,人間たちの信仰心が高まると,色々面倒な連中も出てくるから。あいつら,マジで面倒臭いんだよ。ほとんどの連中は信仰心頼りでたいしたことないけど,まれにマジでヤバイの出てくるから。お前もう,ほぼ神だろ? みたいやつ」



「教団ですか?」



「教団だけじゃなくてねぇ。神社仏閣,ありとあらゆる神を崇めるところから寄生虫のような連中がわらわら出てくる。俺,あいつら大っ嫌いなんだよね。自分たちと違う価値観はすべて悪みたいな連中」



「そうですよね」



「でもさ,六百年前もさ,三人のオリジンを討伐するために魔女狩りが行われたって噂もあるし,今回の感染症の流行もどっかのオリジナルのせいなんじゃね? って話も聞く」



「三人のオリジンですか。確かにそんな都市伝説もありますね。でも今回の感染症の拡大とオリジナルとの関係は無理がないでしょうか? そういった噂がまったく回ってきませんから」



「まぁな。そこまで能力があって積極的に活動してるやつがいたら俺らも耳にするもんな」



「で,これからどうされます? 闇夜,月夜,そして雷光と三人のサキュバスが仁様の下におりますが」



「三人ねぇ……俺の言うこと聞くの,たぶん闇夜の真弓くらいだろ? 後の二人は露骨に俺のことを恨んでるっぽいし」



「どうなんでしょうね……意外と従順なのは悠依かも知れませんよ。あの子の秘められた身体能力は普通じゃありませんし。まぁ,それでもサキュバスが三名もいるというだけでも,いままでと随分と違いますよ……当然,教団も動き出しますよ」



「どうなんだろうな……サキュバスが何人いようと関係なくないか? 俺自身の能力なんて,その場にいる人間五人くらいならなんとかなるけど,十人いたら確実に俺が死ぬ。格闘技やってる人間だったら,二人相手にしたら俺は勝てないぞ」

 


 峻は軽く目頭を抑えると,しばらく考え込む素振りを見せた。そして大きなため息をついてから,顔をあげて不思議そうに仁と目を合わせると,再び俯いて左右に頭を振った。



「もしかして,あなたは人間相手に肉弾戦をする気ですか?」



 峻の言葉に仁も目を閉じ頭を抱えて悩む素振りを見せた。何度か唸り声をあげてから,峻をまっすぐ見てゆっくりと俯いた。



「俺たちにそんな腕力はない。俺たちは頭を使い,人間の欲望という弱みにつけ込み,人間どもが自ら破滅していくようにするだけだ。だから,俺たちの存在は人間に気付かれないようにしないとダメだ。とにかく目立つな」



「では,どのように?」



「人間はすべてにおいて組織として動いている。真弓はそこそこの会社に勤めている。ママの手引きでその会社を乗っ取る。そしてその業界自体を支配させる」



「ママの手引きということは,暴力団が絡むってことですか?」



「いや,もはや暴力団はかつてほどの影響力はない。アジア系マフィアや半グレのほうが影響力を増している。もはやこの国の裏社会を動かしているのは,アジアのマフィアたちだよ。裏社会はこっちが手をつけなくても,表が荒れれば勝手にやってくれる。それにアジアの貧民国にいるオリジナルは,怖すぎて関わりたくない」



「じゃあ,警察組織ですか?」



「いや,もっと地味で目立たない,一般人にとってもよくわからない分野がいいと思ってる。それに警察には教団の連中がうじゃうじゃいる。まぁ,そこは策士であるママに任せるつもりだ。俺たちは俺たちの計画を進行する」



「わかりました。まずは例の銀髪の少女の件ですね」



「ああ……おそらくだが,俺たちのまったく知らないオリジナルだと思う。そもそもマッチングアプリなんて見ない年代だし,そんな相手が引っ掛かるとは思えない。俺の勘だと向こうは俺のことを知っててアプローチしてきている」



 ほんの一瞬,仁が本気で警戒するときに現れる燃えるような赫い光が右眼に射した。それは峻にとっても警戒すべきことで,この状態の仁は自分以外のことは考えず,暴走する予兆でもあった。



「私も一緒に行きますよ。あなたがやりすぎないように止めるのも,私の役目ですから」



 仁は聞こえないふりをして,コーヒーを飲んだ。



「峻,この件は俺からママに伝えて,基本的に主導権はママに握らせる。ママに二人の教育と育成をさせるつもりだ」



「なるほど,それはよいですね」



「ああ,真弓を淫獣堕ちさせないためにも教育係りはママが適任だろう。人間として身体的快楽を知ってしまっている真弓は我々とは違う。サキュバスが人間と肌を重ねて興奮しているのを見ているだけで不快だ」



「確かに,淫らな幻覚を与え精神を崩壊させるサキュバスが人間に触れさせることはありませんから……」



「ああ……その点,悠依は快楽など得る前に完全な苦痛に支配されていた。まぁ,本人はすべての苦痛とその記憶を自ら封印してしまっていたがな」



 仁の瞳がぐるぐると廻り,一度に多くのことを考えているのがわかった。峻は黙ってコーヒーを啜り,その様子をしばらく眺めた。



「ふふふ……ふふふふふふ……。そうだ,三百年一緒に生きてきたんだ,あいつの考えていることなど,ふふふ,いつどんなタイミングでなにを理由に俺たちを裏切るかまで,手にとるようにわかる」



 店内の騒めきがいつの間にか静まりかえり,仁と峻の声がやけに通るようになっていた。



「ママが仁様を裏切るなんて,あり得るんでしょうか?」



 仁は微笑むとコーヒーを一口飲み,背筋を伸ばしてストレッチをした。首を何度か回し,肩を上下させると目を丸くした。



「めっちゃ,あるよ。あいつは俺を憎んでいるからね。あいつは俺の初期の実験体の生き残りだから。あいつ以外にも他にも何人ものミックスで実験をしたが,たまたま生き残っ実験体の一人だけにすぎない。それに,あいつが嫌がることを散々させてきたからな。憎しみはあっても俺に対する忠誠心など,最初から微塵もないんだよ」



「なるほど。それでは益々警戒しなくてはなりませんね」



「ああ。そうだな」



 店の奥から真っ白い頭に黄ばんだ角の店主がポットを持って現れると,二人のカップにコーヒーを注ぎ足そうとした。仁と峻は慌ててコーヒーを飲み干して,おかわりを注いでもらった。



「このコーヒーが飲めなくなるのは,絶対に避けなくてはいけない。これが楽しみで生きているようなものだからな」



 峻も頷き,黙ってコーヒーを口にした。鼻の奥に抜ける匂いが二人をリラックスさせ,高ぶる気持ちを和らげた。



「では,仁様。今夜から実行に移します」



 落ち着いた口調で峻が仁を見ると,仁は静かに頷いた。そっとカップをテーブルに置いてから立ち上がると,つられるように仁も静かにカップを置いた。



「ああ,第一段階であるサキュバスの覚醒実験は成功した。次の段階である解放だ。解放によって次の扉が開かれる」



「いよいよですね」



「ああ,俺たちは新たなオリジナルとの出会いに備えるぞ」



「はい」



「じゃあ,行くか」



 喫茶店を出ると,茜色あかねいろに染まった世界を暗く染めるように,蒼白い月がゆっくりと世界を覆いつくそうとしていた。


 冷たい蒼月に飲み込まれようとする黄昏たそがれが,ゆっくりとこの世とあの世を入れ替えようとするとき,二人を包む空気がいよいよ復讐が始まることを告げた。


 闇が生きる常世と人が生きる現世の境目は,本来インキュバスであっても自由に行き来できる世界ではなかった。二人はその境目をゆっくりと先に進んだ。


 細い通路の行き止まりの先にある『closed』と書かれた小さなサインが掛けられたドアを開けると,薄暗い店内で黒い陰たちが安い酎ハイで喉を潤しながら,乾き物を摘み,会話もなく音を立てずに鋭い爪と尖った耳先をゆらゆらさせていた。

 

 カウンターの向こうにいるママは煙草の煙で燻され,山羊のような瞳でじっとりと仁と峻を見つめていた。



「よう。ママ,久しぶりにこっちに飲みに来たよ」



 ママは何も言わず,毛深い指と鋭い爪を隠そうともせずに火のついた煙草を獣のような口に咥え,黒く濡れた鼻先から大量の煙を出した。



「それにしても,こっちも相変わらず辛気臭せぇな」



 仁が店内を見ながら,陰たちが座る椅子に近づいた瞬間,言葉のない陰たちはゆっくりとその場から姿を消していった。



「そう……今夜は蒼月なのね。峻,あなたが仁ちゃんをこっちに連れて来たのね」



「はい。仁様があなたと直接お話しがあるそうなので」



「信仰心を捨てた仁ちゃんがこっちの世界に来るなんて,滅多にないのに。よっぽど重要な話なのね」



「そこは本人から直接聞いてください」



「まったく……古のインキュバスのくせに常世……こっちの世界に自らの力で来れないとか,信仰心を捨てるとか,ほんと面倒臭いやつね。峻,あんたも大変ね」



「そう,おっしゃらずに……ママのように両方の世界に存在するのも異例なんですから」



 仁は一歩下がったところで,二人のやり取りを黙って聞いていたが,店内をうろつき,壁に掛けられた古い写真を見ながら呟いた。



「おいおい,ママ。あんまディスんなよ。来たいときに来れない俺の状況とか可哀想だろ? こう見えても,俺だってちょっとだけ気にしてんだから」



「あら? ディスってはいないわよ。ちょっとした嫌味は言ったけど。いま消えていった陰たちは,あなたの人体実験で死んだ人間たちよ。あんたの実験体にされたせいで,成仏することも許されず,行き場がここしかない連中。信仰心を取り戻して,たまには顔出して,彼らの相手をしてあげなさいよ」



 写真の中で楽しそうにする人間たちを見ながら,懐かしそうに微笑んだ。そこには生死の境目で仁に救われた者たちが,自らの身体を提供してこっちの世界で生きられる実験をしている光景で誰もが笑顔だった。



「嫌だよ。だって,あいつら俺のこと恨んでるじゃん。せっかくインキュバスの血を与えたのに,俺が上手くやれなかったから肉体が消滅しちゃってさ。人でもサキュバスでもない,行き場のない魂だけの連中になっちゃって」



 ママの小さな耳がパタパタと動き,黄色く光る山羊のような瞳が小さくなった。



「誰もあんたを恨んでやしないよ。その実験のおかげで私やあの子たちがこっちで存在してるんだから」



「ママは特別だよ。サキュバスとして圧倒的に遺伝子が強かったし,峻なんてもともと俺と同格のオリジナルだったからな。まぁ,黒法衣どもに監禁されて消滅しかけてたけど」



「まぁ,いいわ。峻,あなたは奥に行ってなさい。私は仁ちゃんの話を聞くから」



 峻は大きく重たそうな山羊のような角を気にしながら静かに頷き,奥へと入って行った。


 獣のような指で器用に煙草を挟み,ウイスキーをストレートで飲むママと,水のように薄い酎ハイを不味そうに飲む仁がカウンターで向かいあったまま無言の時間が続いた。


 お互いに言葉には出さなかったが,ママが警戒しているのは仁にも伝わっていた。そんなママの様子を見て,仁は敢えて話を始めずに無言の時間を楽しんだ。



「相変わらず悪趣味ね。黙ってないで,さっさと話しなさいよ。わざわざこっちの世界にまできて話す内容なんでしょ?」



「なんだよ,人の楽しみ奪うなよ。まぁ,いいや。ママに頼みがあって,こっちに来たのは確かだし」



「で……? あんたの頼みってのはろくなことがないと思うけど,なんなの?」



「ああ,あっちで話すとママの微かに残る人間の人格に影響が出るからな。こっちで直接サキュバスのママにだけ,精神世界のなかだけで知らせておこうと思ってね」



「益々,嫌な予感しかしないわね」



「まぁ,そうだな。単刀直入に言うと,闇夜と月夜の二人の教育係りをママにして欲しい。それから闇夜のほうが淫獣堕ちしそうなんで,それを阻止してサキュバスとして育てて欲しいんだ」



 ママが驚いた表情を隠そうともせずに,仁と鼻先が触れそうなほど顔を近づけた。



「あんた,それ本気で言ってんの? 私にあの二人を任せるってことは,今後あんたが二人に命を狙われる可能性だってあるってことよ?」



 仁は恥ずかしそうに笑いながら,酎ハイを一口飲んだ。自分の指先から伸びる鋭い爪に視線を落とし,カウンターの奥に見えるガラスに写る大きな山羊のような角をつけた獣の姿から目を逸らした。



「ママ,二人じゃないだろ? まぁ,どうでもいいけど,三人のサキュバスに追われるなんて,男として自慢できるだろ」



「ふっ,相変わらずね。その馬鹿みたいな自信とやる気のないところは三百年前から変わらない。そのくせ,結果を残してる」



「ということで,あの二人をママに任せていいのかな?」



「闇夜のほうはいいわ。でも,月夜のほう,悠依は人格が半分人間のままよ。あれじゃ,こっちには来れないし,来たら確実に気が触れるわよ。月夜なんて曖昧な条件じゃなく,赫月の魔女としてより濃い魔女にしたらいいのに」



「そうだな,考えとくよ。でも,悠依は悠依のままでいいし,あいつのありたい姿でいいんじゃないかって思ってんだよね。まぁ,色々面倒だから世話と教育はあっちの世界で頼むよ。ということで,この話はここだけの話,こっちの世界での依頼だ」



「まったく,いつも勝手ね」



「ああ,よろしく頼むよ」



「本当にいいんだね。どうなっても知らないからね」



「ああ。上手く育てるって信じてるよ。できれば,俺に殺意を向かないように育ててくれるとありがたいけど」



 新しい煙草に火を点け,ゆっくりと吸うと鼻から煙を出した。ママの瞳が煙の中で鈍く光っていたが,仁は見て見ぬ振りをした。


 長く鋭い爪が邪魔をする毛深い手で器用に煙草を挟み,その手でウイスキーの入ったグラスを持った。仁を見下ろすように無言でウイスキーを一口飲むと,ママの顔の横で細い白い煙の柱を立てた。



「ママ,気を付けないと,煙草の火でその顔を焼くぞ」



「ふっ,こんな火で焼かれるとか,相変わらずブラックジョークも下手ね」



「そりゃ,そうだな……」



 仁は安い酎ハイを飲みながらママの鼻から出る煙草の煙を眺めた。こうして人間の習慣が身に付き,酒と煙草を手放せなくなる現実を面白いと思う反面,カフェイン中毒である仁自身の身体がどこまで人間であり,どのまでがインキュバスなのかが不思議だった。



「ねぇ,まだ他にもあるんでしょ? この程度の話なら,わざわざこっちの世界に来なくてもよかったでしょ。信仰心を捨てた仁ちゃんは,こっちの世界には長くは居られない。だったら単刀直入に本題を言ってちょうだい」



「寂しいね。俺はこっちの世界にも愛着はあるんだけどな。それにしても,なんでオリジナルである俺が駄目で真弓は行き来できるんだ?」



「ふん。そんなの当然じゃない。あんたは神に逆らい,人間をも拒絶したオリジナルの一人。悪神が支配するこっちの世界にいられること自体があり得ないのに。あんたの,そのいい加減な能力は本当に嫌になる」



「別に俺は神にそむいたつもりはないぞ。たまたま,神の決めた輪廻の法則に俺が当てはまらなくなったってだけで。それにあいつらは俺の家族や仲間を殺したのと同じだからな。敵同然だろ」



「まったく神様相手に喧嘩しよなんてタチが悪い……。でも,どんなに焼かれても串刺しにされても死ぬことができない辛さは,私にはわらないわ。わかりたくもないけど」



「まぁ,いいや。じゃあ,ママ。あの二人のことは任せたよ。俺はこれ以上ここに長居すると,自制が効かなくなりそうなんでね。ほら,この身体が消滅しそうだ。あと,本題ってほどじゃないけど,真偽の条件,みんなも知ってる偽のほうね。あっちをなんとか許してくれないかなぁって」



「なるほど,わかったわ。じゃあ,最後に言質げんちをちょうだい。あなたが本気なら,あの子たちを私にちょうだい」



 仁はグラスに口をつけると,ママに見えないように口元を弛めた。それは仁が望んだ通りに進んでいることと,これから先がどうなっていくのか見えない興奮からでもあった。



「ちょうだいか……ママらしい言い方だ。だいぶ夜の仕事に染まってるな」



「当たり前じゃない。私のものにならないサキュバスなんて,育てても意味がない。なんなら私の敵になる可能性だってある」



「確かに。まぁ,二人をママに託すんだ。当然だろう。よし,じゃあ,あの二人は今日よりママのものだ。俺の血の束縛から解放され,ママに所有の権利を譲渡しよう。ただし条件はそのままだ」



 誰もいなかった店内が突然賑やかになり,大きな角をつけた陰たちが楽しそうに酒を酌み交わした。



「言質はとったわ。これであの二人は私のもの。これからしっかり育ててみせるわ。それにしても,相変わらず一番大切なことは決して言わないのね……」



 蒼月の冷たい光が降り注ぐ異常に蒸し暑い空気に満たされた夜の街を,異形の姿の者たちの間をすり抜けながら仁を導いて音もなく移動した。


 常世と現世の境目を移動しながら,仁は自分たちの身体が獣から人間へと変わっていく様を観察した。



「相変わらず不思議だよな。俺たちはどっちなんだ? なぁ,峻。お前の血は何色だ?」



「なに言ってるんですか。赫に決まってるじゃないですか」



「そうだよな……赫いよな……」



 すっかり月の隠れた薄暗い見慣れた街に戻ってくると,よく磨かれた革靴がアスファルトを鳴らし,二人がこっちの世界に戻ってきたことを知らせた。



「仁様。これからどうされるのですか?」



「ああ。まずはまだ見ぬオリジナル候補,銀髪の少女に会いに行こう」



「ですね。ママのほうは予定通りにいきますか?」



「どうだろうな,取り敢えずママとは三百年来の付き合いだ。ママの抑えきれない野心はもう誰にも止められない。あれはサキュバスを二人を手に入れて,普通でいられるような女じゃないよ。絶対に俺を殺しにくるよ」



 峻は一歩下がって仁を見た。その姿は神々しく,同じオリジナルであり,自分の主人であることに誇りを感じた。暗闇に響き渡るようにかかとを鳴らし,自分たちの存在を闇に隠れる者たちに知らしめ,これから起こる激動の変化に備えるよう心に誓った。



「では,もし仁様になにかあった場合,唯一のオリジナルであるその右眼を私が守ればよろしいということですね」



「ああ,マジで頼む。俺の右眼が決して誰の手にも堕ちぬよう,十分に気を付けてな。右眼さえあればどうにでもなるから身体が復活するまで奪われないようにな」



「かしこまりました。それにしても,ここまで弱点が知れ渡ってるオリジナルも珍しいと思いますよ」



「しょうがないじゃん。右眼とか嫌でも目立っちゃっうし。それにしても,痛いの,マジで嫌だな……」



「ですね。不死といえど,痛みからは逃れられないのは辛いですね」



「ああ。死の代わりに,死ぬほどの痛みが永遠に続く。これは再生するまで,意識がある間,ずっと続くんだよ。マジで最悪だろ? 地獄の苦しみってやつだよ。なんなんだよ」



 人間の年齢で四十四になるこの身体は,どこに行っても目立つことがなく仁にとっては居心地がよかった。そしてサキュバスの遺伝子をもつ者を惹き寄せるには十分で,使い勝手のよい器でもあった。



「それにしてもやっかいな条件すぎるだろ,どこにあるかわからない俺の左眼を見つけなきゃ完全体になれないとか。この条件のせいで六百年間,未だに完全体になってないからなぁ」



「さぁ,行きましょうか……」



「峻,かすなよ。こう見えてもかなりビビってんだからな」



「戻れませんよ,もう。それに仁様を殺せるサキュバスを育てるなんて,早くても十年はかかりますよ」



 峻の言葉を聞いて大きくため息をつくと,覚悟を決めて,こっちの世界のママの元へと向かった。



「十年後か。嫌だな……。死ぬほど痛いのとかマジで嫌だな……ってか,どうやったら死ぬんだよ……俺」

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