第一章 猫の呪い②

 それから二日後、シンシアは詩人バルドの神官として帝国騎士団に同行することになった。数日間の任務になるのでリアンから散々心配され、ついてこようとされたがなんとかなだめて修道院を出てきた。

 出発前に朝の祈りを終わらせて教会を出ると、門の前にルーカスが立っていた。見送りに来てくれたようだ。

「魔物の討伐に参加すると聞きました。どうかくれぐれも気をつけて」

「ありがとう。ルーカスがいつしよに来てくれたら良いのに……今回は一人だから心細い」

 シンシアはうつむきがちになって弱音を吐く。

 ルーカスは神官ではあるがもともと武官を多くはいしゆつするベドウィルはくしやく家の人間だ。本人はけんうではないと言い張るが充分強い。さらに精霊魔法だけでなく主流魔法も使えるので教会内の騎士の中では実力が五指に入るほどだ。これまで何度も護衛をしてもらった。

 しょんぼりとしていると、ルーカスが頭をやさしくぽんぽんとたたいてでてくれた。

 おさなみであり、兄のような存在のルーカスは昔からシンシアが落ち込むとこうやってなぐさめてくれた。ものごしやわらかい見た目とは裏腹に、その手は節くれ立って分厚い剣だこがある。何年もたんれんはげみ、努力を重ねてきた彼の手がシンシアは好きだった。

「私はヨハル様から他の仕事を言いつかっています。一緒に行けなくてすみません」

「ううん、謝らないで。最近、仕事量が増えてるみたいだけどだいじよう? きちんと休息は取れてるの?」

 仕事をそつなくこなすルーカスは周りから一目置かれていて、ヨハルから重要な仕事を頼まれやすい。そのせいで仕事量は明らかに増えている。真面目まじめすぎるきらいがあるのでシンシアは無理をしていないか心配になった。

「もともと身体からだは丈夫なので問題ありません。それにヨハル様直々に頼まれた仕事です。これくらいしか私にはできないのでせいいつぱい頑張ります」

「これくらいって。ルーカスは史上最年少で詩人バルドになって解呪もできるし、主流魔法も使えて剣の腕もある。私からすればいつとういつざいよ」

「いいえ。父からすれば私は兄弟の中で最も剣才のないお荷物です。教会に入れられて史上最年少で詩人バルドになれたとはいえ、使える精霊魔法はいまだ一つだけですし……」

 小さく息を吐くルーカスはしようかべる。

「シンシアはすごいです。精霊ほうが二つと聖女だけが使えるじようの力も持っています。ちゆうはんな私とちがい、あなたは教会になくてはならない存在。──たまにうらやましくなります」

 ルーカスはそこまで言うとはぐらかすようにせきばらいをする。

「すみません。自分らしくないことを言ってしまいました」

 彼の意外な一面を知ってシンシアはおどろいた。

(弱音なんてだんかないのに。……ルーカスにもいろんななやみがあるんだわ)

 心の中で彼の心が晴れるようにいのっていると、かたにルーカスの手が置かれた。

「そんな顔しないで。私なら大丈夫です。多分そくなだけなので寝れば元気になりますよ。さあ、時間におくれては大変なので行ってください。仕事先からおうえんしています」

 弱音を吐いてしまったのは寝不足だと本人が言っているのでそうなのだろう。

 いつものおだやかながおを向けられて、シンシアは大人しく頷くしかなかった。

「お願いだから無理しすぎないでね。──行ってきます」


 別れのあいさつを済ませた後、シンシアはていこく騎士団との待ち合わせ場所へと足を運んだ。

 待ち合わせ場所は馬を引くや食料や薬を積んだ荷馬車などでごった返している。辺りを見回していると、さつそく隊長に声をけられた。

「あなたが詩人バルドのシンシャ殿どのですね。大神官殿から守護との精霊魔法にすぐれておられるとうかがっています」

 シンシャとはシンシアがびんぞこ眼鏡めがね姿で活動する時のめいだ。

 シンシアは隊長へていねいに礼をした。

「このたびはよろしくお願いします。私の持ち場はどうなっていますか?」

「シンシャ殿には救護所で治癒に当たっていただきたい。いつぱん市民の多くが魔物のせいでを負っている状況です。地元の医師だけでは手が足りませんからな。もちろん、怪我をした際の我々の救護も頼みますぞ」

「分かりました。できれば負傷者以外に戦える騎士も何人か配置して欲しいです。私はせんとう系の主流魔法はからっきしなので」

 戦場では何が起きるか分からない。念には念を入れておく必要がある。しかし、隊長はシンシアの心配をよそにたいしようした。

「心配いりませんぞ。救護所は危険地帯からきよもありますし我々せいえいが魔物をすべて片付けます。小さな魔物いつぴきたりとも近づくことはできんでしょう」

「そ、そうですか。でも一応保険というものがあっても……」

「はははっ。シンシャ殿はしんぱいしようと見受けられる。ネメトンでのしよう対策や魔力対策はばっちりです。そもそもごろからごくの鍛練に励むわれわれにとっては上級の魔物でもない限り片手でひねりつぶせます」

 隊長だけでなく団員たちも「必ず前線で食い止めるから大丈夫です!」と言ってくるのでよほど腕っぷしに自信があるのだろう。不安ではあるものの、彼らの筋骨りゆうりゆうな身体を目にしていると不思議と安心感を覚える。

(そうよね。だって、帝国騎士団のとうばつ部隊だもの。いくつもの戦場をくぐり抜けてきた彼らに大丈夫かなんてく方がどうかしてるわ)

 シンシアはなおに彼らの言葉に従うことにした。

「そうですね。疑ってしまってすみません。私はみなさんを信じます!」

 ──後にとんでもない目にうことなど、この時のシンシアはちっとも知らなかった。



(……一体これはどういうこと?)

 シンシアは両手に持っていたたらいを地面に落とした。そのひように盥がひっくり返って中の水が地面に広がる。

 重傷者に治癒の魔法をほどこし終えて軽傷者のいるテントへと移動していたその矢先、黒とむらさきの体毛におおわれた、大きなおどろおどろしい魔物とはちわせした。

 ネズミのような見た目をしていて、額には魔物特有の赤色のかくを有している。目玉は三つもあって常にギョロギョロとせわしなく動き、とにかく気持ちが悪かった。

 小さな魔物一匹たりとも近づけないと胸を張って宣言したあの隊長を思い出しながら、シンシアは目の前の魔物をぼうぜんながめていた。

 二メートルはくだらないこのきよをどうやってのがしたのだろう。

(隊長のうそつきっ!! 討伐部隊の目はガラス玉なの!?)

 相手からびりびりと感じる魔力から上級の魔物であることは間違いない。上級となると、瘴気を持つものも出てくる。

 魔物が瘴気を持っている場合は魔物近くの空気がせんされてしまう。瘴気はのうと吸い込む量によって人体にえいきようが出る。軽度の場合は頭痛やまいが、中度になるとげんかくが、重度になれば正気を失いさくらん状態におちいる。また、瘴気は神官クラスや上級の魔法使いしか肉眼で見ることができない。ここにいる負傷者に上級の魔法使いレベルの人間はいない。

 不幸中の幸いか、この魔物は瘴気を持ってはいなかった。とはいってもひつぱくしているじようきようは変わらない。

 何故なぜなら負傷者しかいないこの場所でたいこうできるのはシンシアだけだからだ。しかし、専門といえば守護と治癒、そして浄化の魔法のみ。

(一応主流魔法も習っているからこうげきはできる。できるけど、使ったところで冬の静電気みたいにちょっとバチッとなる程度よ)

 あれも不意打ちをくらうと痛い。だがそんなレベルの攻撃で上級の魔物を倒せるわけがない。それでもシンシアには負傷者を守る義務がある。

(──私は聖女だから)

 少しでも時間をかせいで応援が来るのを待つしかない。シンシアはここにいる全員を守るために守護の魔法を使って大がかりな結界を展開した。ティルナ語でえいしようを終わらせるとすぐに軽傷の騎士に治癒を施して応援を呼んでくるようにたのんだ。彼が馬にまたがってけていくのを見送った後、改めて魔物とたいする。

「ここにいる人たちには指一本れさせないわ」

 結界をはさんでにらみ合っていると、にわか雨におそわれる。

 あまあしが強くなり、前がはっきりと見えないほどの本降りになった。そんな中、不気味な笑い声が結界の向こうからひびいてくる。

「ククク、それはどうかな。こんな結界などまんの前歯でかじってやる」

 やはりといったところだろうか。見た目同様に思考はネズミのようだ。ただし上級ともなればその前歯の攻撃力は鹿にできない。かいされそうになる度に新たな結界を展開する。持久戦に持ち込んだが、向こうは単なる物理攻撃のみなのでいずれシンシアの聖力がきてしまえば終わりだ。

(お願い、早く。早く応援に来て!!)

 必死に心の中で祈る。

 背負っている命の重みを感じ、もしも自分がここで力尽きてしまったらと思うと、胸が潰れそうになる。

 悪い考えを消し去るように頭をると、シンシアはくちびるみしめて精霊魔法に集中した。

(ここにいる人たちは助けたい。いいえ、絶対に助けるの!)

 強い意志とは裏腹に聖力はしようもうし続け、いよいよ限界をむかえ始めた。

 もうここまでかもしれない、と心の中で弱音をいた時だ。

 祈りにこたえるように空がシンシアに味方した。

 雨脚はさらに激しさを増して辺りにらいめいとどろき始める。激しいいなびかりどんてんで光った次のしゆんかん、ネズミの魔物に向かって天からかみなりが落ちた。

 雨水をたっぷり吸収していた体毛のおかげで感電のりよくが増し、魔物はまるげとなってたおれた。しゅうっという音とけものの焼け焦げるにおいが立ちこめる。と、魔物の身体からだじよじよに灰となって消え始めた。

「わ、私の祈りが通じたの?」

 ぽかんと口を開けていたのもつかの間。シンシアはこぶしにぎりしめてさけんだ。

「やったああ! 魔物を倒したわ!!」

 かれて思わず結界を解いたシンシアは勝利を噛みしめる。

 しかしそれが不味まずかった。本来ならば魔物が完全に死に、姿が消えて核だけになるのを待ってから結界を解かなくてはいけない。完全に消えていないということはまだ少しだけ魔物にりよくが残っていることを示す。

 するとネズミの魔物は真っ黒な球──魔力のかたまりを投げてきた。球はシンシアの額に当たるとけむりのように広がって消えてしまう。

 当たった部分からへびうような気持ちの悪い感覚がする。思わず悲鳴を上げて額に手を当てると、とつじよシンシアの身体に異変が起きた。

「うっ……」

 身体の節々が痛み、骨がきしみ始める。あまりの激痛に息ができなくなり、浅い息をり返しながら魔物を睨んだ。

「な、にをしたの?」

「ククク、おまえにのろいをけてやったぞ。それはこの世で最もおぞましい生き物に姿が変わる呪いだ」

 呪いは魔物が得意とする魔法の一つだ。ネズミの魔物は報復できてうれしそうに鳴いた。

「──せいぜい苦しんで死ね」

 不気味な言葉を吐き捨てると、消えかかっているしつで地面を勢いよくたたき割った。尻尾に残りの魔力を集中させたらしく、たちまちつむじ風が起きる。それは割れたれきを巻き上げながらシンシアに向かってきた。

 動けないシンシアはもろに風を受け、風圧にえられず空高くき飛ばされてしまった。みるみるうちに救護所が小さくなっていき、視界から消えてしまう。

 地面に叩き付けられる前に結界をクッション代わりにすれば助かるが、シンシアにはもう聖力が残っていない。

(私、呪いの前にこのまま地面に叩き付けられて死んじゃうのかな……なんとかしないと。でも、もう……)

 心の中でぽつりとつぶやくと、苦しみからのがれるようにシンシアは意識を失った。



 次に目が覚めると、開けた川のほとりに倒れていた。雨はすっかりんでいて雲の切れ間から青空をのぞかせている。

(生きて、る?)

 しやりだったおかげか雨水をじゆうぶんに吸った地面は泥濘ぬかるみ、しようげきかんしてくれたようだ。どこまで飛ばされたのか分からないが、早く救護所にもどらなくてはいけない。

(上級の魔物が救護所に出たってことはきっとネメトンの境界にいる討伐部隊はをしてるはず)

 シンシアはだるさの残る身体にむちを打ち、立ち上がろうとする。が、何故か上手うまく立ち上がることができない。

 かんを覚えておもむろに視線を下へ向けると、手と足が人間のものではなかった。

「なっ、何これ?」

 獣の足と、その間には尻尾が垂れている。

 異様な光景をの当たりにして、シンシアは悍ましい生き物に変えられるという呪いを思い出す。

「本当に呪いで姿が変わってしまっている!! ……どうしよう!?」

 だれかが呪いに掛かっているところを見たこともなければ、自分自身が受けたのも初めてだ。これからどうすれば良いのか分からずほうに暮れる。

 ふと、近くに水たまりがあることに気づいたシンシアはひとず自分の姿をかくにんすることにした。

(私、どんな生き物に変えられたんだろう。あの気持ちの悪い魔物の上をいくみにくい生き物なんてこの世に存在するの?)

 おそる恐る水面を覗き込んでみる。

 三角の耳とくりくりとしたつり目がちなひとみ、すっとびたひげ。丸顔は金茶の毛におおわれてふわふわしていて、鼻筋はすっと通っている。その姿は──。

「……って、どこからどう見てもつうねこじゃない! どこが世にも悍ましい生き物なの!?」

 あの魔物はネズミみたいな姿をしていた。恐らく猫科動物が悍ましい存在なのだろう。不思議なことに自然のせつは魔物社会にも適用されているらしい。

「もっと気持ち悪い生き物に変えられたと思ってたけど。猫……猫かあ」

 悍ましい生き物に変えられなくて良かったと安心する反面、猫になってしまったことにたんそくする。現実を受け止めるべく、シンシアはもう一度水面を覗き込んだ。

 ふわふわの金茶の毛並みにピンクの鼻。くりくりとした若草色の瞳。手足は白くてくつした穿いているみたいに見えてそこがまたぜつみように──可愛かわいい!

「よく見たらそんじょそこらの猫とちがって私、とっても美猫じゃない?」

 それに額には模様と交じって少し分かりにくいが呪いを受けた時にできる花びらのようなあざができている。神官たちが見ればすぐに呪いに掛けられた人間だと気づいてかいじゆしてくれるだろう。だからあまり悲観する必要はないとシンシアは思った。

 シンシアは解呪の魔法が使えない。

 怪我を治すと違って解呪は呪いにふくまれる魔物の魔力を、神官が魔力を使った主流魔法で一度そうさいする必要がある。そこから聖力を源とするせいれい魔法を使って呪いの根源を消し去るため、魔力をうまく使いこなせないシンシアには難しい魔法だった。

 これが得意なのは神官のルーカスとヨハルの二人だ。どちらかに会うことができれば元の姿に戻ることができる。二人とも小言がオプションで付いてきそうだが自分の失態なので甘んじて受け入れるつもりだ。

「問題は呪いを解いてもらうまでの間ね。猫だけどじようの力や精霊魔法は使えるのかな? 私が担当しているネメトンの結界が消えたら今よりもっと大変なことになるわ。でもどうやって確かめれば……」

 辺りをきょろきょろと見回していると誰かが倒れている。目をらして見てみるとそれは若い男性で、頭から血を流していた。

「大変! 頭から血がっ! 一刻も早く助けないと!!」

 倒れている人物にけよって上に乗ると、まずはティルナ語が使えるかためしてみる。簡単ないのりの言葉を呟くと、目の前にあわい光のつぶが現れ始めた。

 どうやら呪いはティルナ語までかんしようはできないようだ。確認を終えると続いて精霊魔法が使えるか治癒の魔法を使って試してみる。

 シンシアが聖力を込めて精霊魔法を唱えると男の身体が徐々に淡い光に包み込まれた。頭の傷はみるみるうちにふさがり、血も浄化されて額からなくなっていく。

 その光景にシンシアは一安心した。

「無事に助けられて良かった。ティルナ語も使えるし聖力も健在みたい。これなら私が担当している結界が消えることもなさそうね」

 アルボスていこくは大陸の西に位置し、その面積の四分の一をめている大国だ。国内の北西部には魔物が巣くう森・ネメトンが存在し、そこには五百年前に勇者がたおした魔王が浄化石の中でねむっているとされている。

 手下の魔物たちは魔王が復活することをかつぼうしており、少しでもしようをアルボス帝国内へまんえんさせたい。しかし、その瘴気もアルボス教会の聖職者たちが練り上げた結界によって押しとどめられている。

 かなめとなるのはヨハルやほかの大神官がれんせいした強力な結界だ。だが、ヨハルは六十を過ぎてからは力がおとろえてきており、シンシアが力をてんする形で結界の一部を担当していた。

 結界が無事であることに胸をで下ろすと、改めて倒れている男をしげしげとながめる。

 どこかで見たことがある顔だった。

 さらさらとしたくろかみりの深い整った顔立ち。身なりは帝国団のものとよく似ている。

(この人は誰だろう? 身なりもいいし、とうばつ部隊の人? でも討伐部隊にここまでの美形はいなかったし……)

 シンシアとて美しいものは好きだ。これほどの美形を忘れるはずがない。

 では彼は一体誰なのだろうか。もつこうして細いおくの糸をたぐり寄せていると、不意にある光景がかんだ。

 そうごんな空間に大勢のしんしゆくじよ。その中でけんしわを寄せ、眼光がするどく光る人物。

「……っ!!」

 すべてをさとったシンシアの心臓がはやがねを打つ。全身からはまたたく間にあせき出した。

「ちょ、ちょっと待って。こっ、この人って……皇帝陛下じゃないの!!」

 見たことがあるなんてものではない。彼は三年前のたいかんしきでのうたげの席で、トマトジュースをけてしまった相手である。

(あの時はトマトジュースの演出もあって血みどろさつじんみたいで本当にそつとうしそうになったわ。あれ以来、こわくて一度も陛下が参加する行事には出席していないけど……)

 後に聞いた話だが、彼は『らいてい』という異名で貴族たちから恐れられている。

 その由来は三年前の先帝がほうぎよした際、帝位にくために兄弟を殺したばかりか気に入らない臣下やその家族をしよけいして財産をすべてうばったとされているからだ。

 シンシアは国でゆいいつの聖女だがその力を失えばただのむすめだ。さらに死んでも代わりとなる聖女は現れるのだから処刑されてもおかしくなかった。だが、こうして頭とどうたいつながっているのはシンシアよりも尊厳を傷つけ不敬を働いた貴族が宴の場にいたからだった。

 戴冠式でその貴族とシンシアはあいさつわしていたがやさしそうな人で、印象はとても良かった。しかし次の日にはイザークの命でいちぞくろうとう、断頭台のつゆと消えたと中央教会に礼拝に来ていた誰かが話しているのを耳にした。

 以前のことを思い出し、ぶるりと身体からだふるわせる。

 今回は絶対にそうがないようにしなければ。

(でも、あれ? 私って今……陛下の上に乗ってるわよね?)

 これは完全に不敬ものだ。バレたら処刑されてもおかしくない。

「ひぃっ! 一刻も早く降りなくちゃ!!」

 シンシアは起こさないようにしんちように足を動かした。前足を地面につけ、残りは後ろ足を動かすだけだ──が、大きな手に身体をがっしりとつかまれてしまった。

 頭を動かせば、するどむらさきの瞳と視線がぶつかった。

 イザークは眉間をみながら上半身を起こすとげようとするシンシアを引き寄せる。顔を手で撫でてから周囲を確認し、考え込むようにして遠くを眺めている。

 やがて、シンシアに視線を落とすと口を開いた。

「……おまえが俺を救ったのか?」

 恐ろしい顔でたずねられたので震えながらうなずいた。

(はい、そうです。だから私が陛下の上に乗ったことはどうかおのがしください。というか、今なら起きたばかりでぼけているだろうしあいきようりまけばやり過ごせるのでは?)

 淡い期待を胸にいだいたシンシアは可愛く鳴いてみせる。

 するとイザークの目がカッと見開かれた。眉間に皺を寄せ、それはもうおうひつてきするくらい恐ろしくいかめしい顔つきだ。

「なんだ? うななん、にゃにゃーんだと!?」

 不興を買ってしまったのか、想像以上に低い声で尋ねられたシンシアは心の中で悲鳴を上げる。イザークに動物の可愛さは通用しないらしい。

嗚呼ああ、これなら最初から真面目まじめに敬意を示して挨拶した方が良かったんだわ。あ、でもティルナ語は精霊の言葉だからだいじようだったけど、人間の言葉は使えるか分からないわね。……って、そもそもねこが人間の言葉を話すなんて前提がおかしかったわ!!)

 猫になってしまった以上、シンシアにすべはないようだ。

 せめて処刑されるなら人間の姿が良かったと泣き言を心の中で漏らす。

(猫のまま死んだらだれも私がシンシアだって気づいてくれない)

 おびえているととつぜん身体がふわりと浮いた。急に目線が高くなり、イザークの頭よりも空高くにかかげられている。おどろいて下を見ると、シンシアはたまらず息をんだ。

 目つきだけで人を殺せるくらいごくあくどうな顔つきのイザークが、これまで見たこともない、とろけるようなみを浮かべている。

「嗚呼、俺はどうして猫にさわれるんだ!? はっ、まさか夢なのか? 俺は猫アレルギーで猫にれたくても触れられないんだぞ!?」

 眉間に皺を寄せる彼は、気に入らないことがあればすぐに相手を処刑するような印象があった。だが今はひとみをきらきらとかがやかせ、てんしんらんまんな少年のような笑顔で興奮している。

「はあ、猫に触れられる日が来るなんて。──幸せだ!」

 戴冠式での第一印象とあまりにかけはなれているためめんらったが、とにもかくにも処刑はかいできたようでシンシアはほっとする。

(猫アレルギーが出ないのは私がもともと人間だからなんだろうけど……良かったですね)

 らんらんと目を輝かせるイザークはなおも語りかける。

「ということはつまりだ、本当に猫の肉球がぷにっとしているのかかくにんができる」

(ええ、ええ。良かったですね。私もそれくらいで頭と胴体が繋がるのであれば肉球を差し出します。存分にぷにってください)

「そしてもふもふもできる」

(ええ、ええ。いくらでも触ってくださって結構ですよ)

「さらに悲願の猫吸いができるというわけだ!」

(ええ、ええ。いくらでも猫吸いをしてくだ……はいぃっ?)

 たのむからそれだけはかんべんして欲しい。こうこつとしていてもそらおそろしい顔面きようが間近に来るなど、失神ものである。

 ここでの顔面凶器は二つの意味を持つ。もくしゆうれいな美男である意味での顔面凶器と『雷帝』の異名がなつとくできるほどに殺気に満ちた顔面凶器。あめむちの顔といった方が分かりやすいかもしれない。

(美形の怖い顔にせまられるなんて一生に一度もない体験だろうけど、こんなの拝みたくないわよ)

 シンシアは否定を込めて必死に首を横に振るがイザークは気にしていない。

「今まで猫に近づくことすらできなかったんだ。連れ帰って存分にもふもふするぞ!」

 高らかに宣言するイザークはシンシアを空高く掲げたまま、ごまんえつでくるくると回った。

「陛下」

 すると数人の騎士と文官のかつこうをした青年がどこからともなく現れけ寄ってきた。

 みな、息を切らしてひどつかれ切った顔をしている。

「キーリ」

 イザークはシンシアをしっかりと胸の辺りでかかえ直すとせきばらいをして文官の青年を呼んだ。

 かた眼鏡めがねを掛け、銀色の長い髪を後ろで一つに結ぶ青年は見覚えがあった。

(あ、この人は陛下の側近でさいしようのキーリ・マクリル様だ)

 彼はこれまで貴族たちのしよくを数々あばき、問答無用で処刑台送りにした男だ。貴族たちの間では雷帝の次に敵に回してはいけない男と言われている。

 真面目まじめそうな印象の青年はおもむろに口を開いた。

「突然救護所近くに用があると言ってきゆう殿でんを飛び出したかと思えば、現地に陛下のお姿はなく。何故なぜこのような川辺に? ご無事でなによりです」

 キーリの言うとおり、どうして雷帝と恐れられる人が川辺でたおれていたのかシンシアも気になった。

「心配をかけてすまなかった。それについては後で説明する。ネメトン付近はどんなじようきようだ?」

「少し前にとうばつ部隊から魔物はすべて倒したと報告を受けております。また、中央教会からも結界の修復はかんりようしたと聞いています」

 キーリがよどみなく答えるとイザークは満足そうな表情をする。

「そうか。それなら良かった。俺は火急の用件で宮殿へ帰るが、今回のがいは大きい。討伐部隊には二次被害がないかしっかり調査し、何かあれば対応するよう命じてくれ」

「かしこまりました。すぐに手配します」

 キーリがの一人一人に指示を出すと、彼らは短く返事をしておのおのの目的のために行動を始めた。

 こちらにもどってきたキーリはイザークと間をめて声をひそめる。

「ところでいているのは猫では? 触れて大丈夫なのですか?」

「何故かこの猫は大丈夫だ。だから俺の猫にする」

「さては早く帰りたいのはその猫が理由ですね? はあ、必死になってさがしていたのが鹿らしく思えてきましたよ」

 わざとらしくかたすくめていやを口にするキーリ。

 らいていに軽口をたたける人間はきっとキーリみたいな側近くらいだろう。そしてイザークもまた、彼に何と言われようとどこく風と聞き流している。

「早く帰った方がキーリもうれしいだろ?」

「それもそうですね。仕事はまる一方なので一つでも早く片付けて頂きたいです。さつそく転移魔法の準備をしましょう」

 話を聞いていたシンシアは討伐部隊や結界の状況が分かって肩の荷が下りた気がした。

 しかし宮殿へ連れて帰られるのは困る。ネメトンの結界が何故かいされたのか調査をするためにも戻って任務をすいこうしなくてはいけない。

(一応この国にはせんたく権というものがあるし……私はここでお別れしたいわね)

 シンシアは解放してもらうためにも、あなたとはここでお別れです、という意味を込めてイザークのうでに自分の足をぽんと置いて離れようとした。

 それに反応したイザークがシンシアを見る。

「どうした? 不安なのか? 大丈夫だ、俺といつしよに帰ろうな」

『結構です!!』

 うっかり声を上げてしまったシンシアは頭の中が真っ白になった。

(猫がいきなり人間の言葉を話すなんてあり得ないから、魔物と疑われるかもしれない。もしかして私、やらかした!?)

 身を竦ませて恐る恐るイザークの顔を見ると、彼は満面の笑みをかべた。

「おお、そうか! おまえも俺と一緒に行くのが嬉しいんだな」

 どうやらティルナ語は話せるが人間の言葉は話せないようだ。

 ほっとしたのもつかの間、シンシアは次なる問題がじようしていることに気づいてこんわくした。

『いや、ちがっ、違います! 一緒になんて行きません!!』

「鳴くな鳴くな。帰ったらすぐにおまえの部屋を用意させよう」

「陛下、その猫嫌がってません?」

(その通りです。キーリ様のお力で雷帝から私を解放してください!)

 シンシアがこんがんまなしをキーリに向けるが、イザークはいつしゆうした。

「ははは。気のせいだキーリ。思い違いも休み休み言うんだな。さあ転移させてくれ」

『気のせいでも思い違いでも何でもない。事実です。お願いだから解放してええ!』

 そんな悲痛なさけびが通じるはずもなく。

 人権というものがなくなってしまったシンシアはこうてい陛下のあいびようとして、宮殿へ連れ帰られてしまった。

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