世紀の一戦【那須川天心vs武尊】

 六月は格闘技ファンにとっては至福でした。

 井上尚弥vsノニトドネア戦、それに那須川天心vs武尊戦、世紀の一戦が同じ月に2試合もあった訳ですから。

 井上vsドネア戦は、モンスターの愛称を持つ井上尚弥の圧勝でした。終わってみれば、スピード、パンチ力、当て感、全てにおいて井上が勝っていると言える内容だったと思います。

 この試合は2年半前のリマッチで、前回の試合が判定にもつれ込む激戦だった為、どちらが勝つか分からない、という試合前の予想がありました。

 しかしながら井上尚弥は宣言していました。

「前戦をドラマにしてしまったのは僕のミス、今回はドラマにしない」、と。

 前回の試合、第1ラウンドでドネアの動きを見切った井上は、2ラウンド目に早くも仕留めに掛かります。相手のパンチをギリギリのところでかわし、カウンターパンチを放つ。そこに誤算が生まれました。想定よりも伸びてきたドネアのパンチが井上の目を激しく捉えたのです。後に眼窩底骨折と診断される重症を2ラウンド目に負った井上。右目の視界がぼやけ、物が二重に見えてしまうという、それはボクサーにとって致命傷です。そこから12ラウンド終了まで井上尚弥は片目で戦います。大きなハンデを背負っての戦い、そこから生まれた熱戦、そしてドラマ…… それでも井上は勝ちました。2ラウンドのミスさえなければ、ドラマは起きなかった。

 今回の対戦、ドラマは起きませんでした。1ラウンド目でダウンを奪い、2ラウンド目にとどめを刺す、井上尚弥が思い描いた通りの展開になりました。まさしく圧勝だったと思います。


 井上尚弥の凄さ、それは時間軸の違いにあるんじゃないか、と私は思っています。つまり、普通の人の1秒は井上尚弥にとっては1.5秒。物の動きが1.5倍くらい遅く見えるのではないかと。だから相手の速いパンチも井上尚弥には遅く見える。そして井上尚弥が放ったパンチは、相手にしてみたら1.5倍速く感じられ、先に当たる。そう感じてしまうほど、完璧に相手の攻撃をかわし、自らの攻撃を的確にヒットさせていくのが、井上と言うボクサーなのです。

 次は4団体制覇を成し遂げる事でしょう。そして階級を上げます。階級を上げたときに井上尚弥が見る世界に変化があるのかどうか、注目していきたいです。


 そして、那須川天心vs武尊です。

 キックボクシング界の至宝とも言える二人の対戦。K-1を背負ってきた男と、RISEが生み出したスーパースターのマッチアップ。7年前当時15歳だった那須川天心がK-1の頂点に立った武尊に挑戦を申し込んだところから二人の物語が始まります。

 お互いに意識しあい、天心が対戦をアピールすれば、武尊は、逃げない、と返し、武尊が、一番強い奴と戦いたい、と言えば、天心は、それならやろうと言う。実現は近いかに思われました。しかしそこに立ちはだかる大人の事情、団体の壁。

 K-1とRISEは交わらない事で競い合ってきました。わが団体こそ最強だとアピールし合う一方で、団体の垣根を越えた戦いは殆ど行われません。

 その両団体のトップに立つ二人の対戦、それは個人の戦いのみならず団体としてのメンツも掛かるわけで、簡単にゴーサインを出す訳には行かなかったのでしょう。( 全盛期のアントニオ猪木とジャイアント馬場が戦わなかったように???)


 いつか必ず、いつか…… と両者の思いは募っていきます。しかし無情に過ぎていく年月。3年が経ち、5年が経ち、諦めの雰囲気が漂っていきました。那須川天心vs武尊、どちらが強いかは想像の世界に委ねられ、両者が傷つかずに済むなら、それで良いのかも、と思う事もありました。

 事態が一変したのは、那須川天心のボクシング転向表明でした。

 キックボクシングを引退して、ボクシングに転向する。強い選手と戦えないのであれば、キックボクシングを続けて行く意味が無い。那須川天心は言いました。 

 もう残された時間はあとわずか、両者が交わる事の無いまま二人の因縁は終わると思われた矢先、残された時間の短さが、事態を急変させました。

 THE MATCH東京ドームにて開催 ついに7年越しの物語の終焉です。


 それは酷く残酷なものでした。もっと早く交わっていれば、これほどの重荷を背負う事は無かったのに、もっと早く交わっていれば、敗者にリベンジのチャンスがあったかもしれないのに、もっと早く交わっていれば……

 時間が掛かってしまった分、ファンの思いも、本人達の意気込みも、両団体のメンツも、全てが大きくなり、それらが二人の背中に重く圧し掛かりました。

 「負けたら死ぬのと一緒。試合後のことは何も考えてないです」と言ったのは武尊。それに対して那須川天心は、「明日は僕の最後の試合、人生最後の日です」、と。 絶対に負けられない、負けたら明日は無い、試合に挑む両選手は悲壮な覚悟を持ってリングへ上りました。


 試合は那須川天心の圧勝でした。パワーも、耐久力も、スタミナも、メンタルも、多くの面で、武尊のほうが勝っていると言われている試合でした。

 だけど、だからこそ那須川天心が勝つのだ、と言っている評論家が居ました。そして、その言葉どおりの結果になりました。

 多くの要素で、武尊よりも劣っている那須川天心は、相手を徹底的に研究し、唯一勝っていると思われるスピードで勝敗を決します。

 相手の癖を見抜き、相手の嫌がるポジションを取り、相手の動きに合わせて一瞬早くパンチを当てる。どんなにパワーがあろうとも当たらなければ、ダメージを与える事は出来ません。ただ虚しく空振りを繰り返す武尊。それは完封とも言える内容でした。

 それでも武尊は、全力でパンチを打ち続けます。最後まで諦める事無く、魂が込められた拳を繰り出しました。一発でも当たれば倒せる、そう信じてパンチを繰り出す武尊の鬼気迫る表情に、鳥肌が立ちました。

 一方の那須川天心は真っ赤に燃え上がる武尊を最後まで冷徹に見極めて、的確にパンチを当て、カウンターを合わせていく。全てが想定どおりに進んで行く那須川天心と、何もかもがうまくいかない武尊。

 その凄まじい戦いに引き込まれ、画面を見つめる私の目にはいつしか涙が滲んでいました。


 勝負と言うのは本当に残酷です。

 リング上で大歓声の祝福を受ける那須川天心。その一方で武尊は泣きじゃくりながら会場を後にしていきます。団体を背負ってきた男の涙、これまで勝ち続けて来た男が敗者になったその姿は、あまりにも衝撃的で、那須川天心とは対照的でした。


 この日行われたのは全部で16試合、午後1時からABEMA TVを観始め、気付いたら午後9時を過ぎていました。団体対抗戦という形式だったので全ての試合が熱く盛り上がるものでした。全試合を観終えた時、身体中にまとわりつく疲労感、そして胸いっぱいの感動。

「負けたら死のうと思ってたんですよ。“これが遺書です”って動画も撮っていて。人生終わると思ってたので。よかったです、明日も生きられる」

 これは、試合後、那須川天心が残したコメントです。

 命がけで戦っている者達の姿を、地上波の無料放送で済まそうと思っていた自分が、なんだか恥ずかしく思えて来ました。


 どんなに優れた脚本も、スポーツが生み出す本物の感動には敵わない、そんな事を再認識させられた男達の戦いでした。


 


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