第15話


二、清姫





 昨日、日が高いうちから降り出した夕立は長く続き、五月の川開きから毎夜打ち上げられていた花火は取り止めとなった。尺玉がしけるんじゃあしょうがねえと町人たちは泣く泣くだったらしいが、志乃としてはよしよしだった。

 雨も上がってさっぱりとした七月の朝、志乃はおおかわのぬかるんだ土手をゆっくりと進む。雨が降った次の日は蟬より蛙の声の方が大きい。だが、今日はどうにもその声の主にお目にかかれず、志乃はきんちやくを腰から下げたまま、あちらこちらの草むらに割り入る。時折、鋭い葉っぱが手のひらの肉刺まめを引っいて、一寸ちよつとばかりまゆが寄った。が、痛みが少々物足りない。

 このところの土手散歩で鍛錬がお留守になっていたせいだわ。川に浸したぬぐいの端で、入り込んだ泥を穿ほじくり出しながら、志乃は考える。家に帰ってあさをとったら竹刀打ちを三十、休んで、もう四十。髪に挿す銀のひらうちも握り込んでおかなければ。武家の女たるもの、敵ののどをつくお作法は手指にませておく必要がある。

 皐月さつき狂言がねて二ト月が経っても、志乃の手の肉刺が消えることはなかったが、燕弥の立場は相当に変わった。『鎌倉三代記』の思いもよらぬ当たりは森田座の大黒柱である座元もにんまりで、こくじようを果たしたわか女形おやまはここぞとばかりに持ち上げられたのだという。燕弥にはたびの夏芝居でまたしても赤姫が与えられ、毎日うきうきとけいに出かけている。夜は家に帰ってこない。

「此度の芝居の相方になるお坊さまがね」と燕弥は紅を塗り直しながら、夕餉を運んでいる志乃に言って聞かせる。

「俺の家で夜通ししゆぎようこうを開くからお前も来いとしきりに誘ってくるのです。しようがないので、行くことにしましたがね。もう、うっとうしいったらありゃあしません」

 飯も食わずにいそいそとに乗り込み、一晩帰ってこなかった。だが、志乃は、それが三晩になっても、五晩になっても黙って二人と一匹分の飯を用意するだけだ。

 土手散歩を切り上げて、軒下の陰を辿たどるようにして家に戻った。格子戸を開けて、志乃は思わず飛び上がる。

 板間の上にべにとう色のかにがいる。蟹紋を縫いた背中をこちらに向ける女が一人上がり込んでいる。燕弥さま、と開きかけた口は即座に閉じた。燕弥ではない。燕弥はそのように足を崩して座ったりしない。

 と、女はくるりと体を回し、志乃に顔表を見せつけた。

 美しい女だった。姿勢を正すと上背があるからすごがあって、顔作りはのみで力を込めて削り出したようにぱっきりとしているのに、鼻の先や額なんかにはきちんとやすりがかけられているからまろみもある。指だって細くて長くて、柔らかそうなお手のひらと思いきや、それは荒々しく床をたたく。

「あんた、あたしの宿やどと密通しているでしょう」

 投げつけられた言葉をほどくまでに少々時間がかかった。はっとして志乃は慌てて首を横に振る。

「そ、そんなわけがございません!」

 なにせ不義密通は大罪だ。じようほう通りにいけば、志乃は死罪で、夫である燕弥が斬り殺したとて夫に対するは無い。志乃がきんを畳に滑らし、どうかここは穏便にと内済とする場合もあるが、志乃が実家の敷居をまたいだ瞬間、父親の刀は志乃を斬りにするはずだ。そして、こちらも父親に対する御沙汰は無し。いいや、そもそも志乃には不義密通の心当たりなど皆目無いのだ。

 志乃は声を荒らげるが、目の前の女のその黒々とした目はじりのように、志乃に向けて引き絞られたままだ。上がりかまちにずいっと乗り上げたところで、志乃は己の手の泥に気づいた。なんとなく目の前のこの美しい女に見せるのが気が引けて、背中に両手を回そうとすると、女の目つきがびいんと志乃の手のひらをく。

「手!」

「え」

「手を出しなさいって言ってるの! 今、隠そうとしたの見えたんだから。ここに広げなさい」

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