第14話

 弾かれたようにして尻を退すさった志乃を見て、燕弥は笑っている。

「ところてんで当たったらしい。稽古帰りのえいたいばしあたりの屋台で食べたそうで、夏でもないのに運が悪いねえ。稽古に出てこねえから奥役が家を訪ねてみれば、泡吹いて蛙みたいにひっくり返っておぶつだ。それが幕開きの一ト月前のこと。尋常なら演目を変えるところだが、元々皐月狂言はそれほど力を入れねえ興行だ。上方から代わりの役者を呼ぶのも金がかかるばかりでなんだってんで、お偉方は悩みに悩んでおつむがおかしくなっちまったんだろうさ。思いもよらねえ道を選んだ」

 ある朝、燕弥は狂言作者に呼び出され、部屋まで出向くとそこにはお偉方が座っている。

「時姫をやれ、燕弥」

 言われて、燕弥は頭の中で、江戸にある質屋の数を数えていた。いくら渡しゃあこいつらを、お頭のおかしいままにしておけるかしらん。

「それだけの大役だったのさ。この時姫で当てることができなきゃ、もう二度とこんな好機はめぐってきやしない。わたしは何をなげうってでも、この芝居で成り上がらなきゃいけなかった」

 だから娶った。燕弥は言う。

「お師さんのように一生を女として過ごし、誰とも添い遂げない心算つもりでおりましたが、背に腹は替えられません。時姫役をいただいた日から、わたしは稽古終わりに町に出た」

 口入屋に出入りし居酒屋に入り浸り、武家町で追い回されながら、燕弥は居酒屋で一人の男にたどり着く。男は藩士で江戸にはお勤めで滞在しているらしい。三人の同輩と席を一緒にしておきながら、目の前の料理に一切手をつけない。いいねえ、と燕弥は舌なめずりをする。手拭いを顔に巻き、笠を被って顔を隠すたあ、町人が食う飯を食らうのは武士としてみっともねえってそういうわけかい。男に娘がいることを知れば、もう吟味している時間も惜しい。燕弥が芝居者と聞いて男は渋い顔をしたが、質屋で借りた金子で黙らせた。すぐさま娘を呼びつけてみれば、婚姻もあげぬままでも江戸入りをする。

 いい女だった。

 化粧も知らず、親の言いつけのみを守り、礼やら忠やらそんなことばかり考えている、いい女だった。

「豆腐に笊を被せるなんて、そんな頓馬なこと町の娘は絶対にしない。嫁入り修業でみっちり親から仕込まれるからね。豆腐の扱い方がわからないなんて、武家の娘ならでこそだ」

 そいつを燕弥は芝居に取り入れた。へえ、とお偉方は片方の口端を上げた。よくもこの大作に中二階風情が小細工を。だが、やってみな。お偉方はそう言った。

「コノシロを振り売りから勧められた時の顔も思わず鼻息が荒くなっちまうほど素晴らしかった。だから使わせてもらったんだよ」

 芝居にはすぐに火がついた。名も知らぬ女形の立身に、どれ、どんなものかと皆がこぞって森田座の木戸札を購った。

「いい買い物をした」と燕弥は志乃の膝につつつぅと指を滑らせる。

「だが、わたしには貫禄ひれがない。今、江戸の芝居好きがやんややんやと持ち上げてくれるのは、いきなり綺麗なべべを着て舞台に乗せられた野良犬を面白がっているだけなのさ」

 実際、目の肥えたごうしやたちからは、小手先だけのちんけな芸との批判も多い。だが、森田座は次の芝居も燕弥を中心に据えることに決めた。代わりの女形を立てることをやめ、またもや燕弥を舞台に上げる。

「野良犬がどこまでやれるのかご覧になりたいらしいねえ。舞台でさんざ踊らせたあとは、野良犬が無様に舞台から落っこちる様を見たいんだと」

 だからこそ、森田座は次も燕弥に赤姫を用意する。芝居の演目というものは、一月はもの、三月は奥女中ものと季節によって大枠が大体定められている。此度森田座がその慣いに従わないことに決めたのは、三姫という難しい大役を燕弥に演らせるためだという。

「わたしのきばがどれだけ鋭いか、思い知ればいいんだわ」

 燕弥は袖で口元を隠してうふふ、と笑った。

「一度嚙み付いたら、首だけになってでも離しやしませんのに」

 笑みを浮かべたままの女形には喉仏がない。いや、違う。薄暗闇の中、志乃はぐっと目をこらす。この女形は喉仏が見えない角度をきちんと学んでいるのだ。

「だからね、お志乃さん。あなた、わたしのために傍にいておくれな」

 実をいうと志乃は、この告白にほっとしていた。志乃がここにいて良い理由を、夫自らが教えてくれた。志乃が武家の娘としての価値で買われたというならば、志乃は武家の娘として生きればいい。なんてぇわかりやすいこと。なんてぇ道理が通っていること。

 家に通って志乃に飯炊を教えていたお民が、来なくなったのもこういうわけだったのだ。己の芸のためにとしゃぶる部分がなくなれば、すぐに切って捨てられる。

 志乃は黙って畳に手をつき、頭を下げる。

 燕弥のために、私は武家の女でいよう。

 畳のささくれに、己の手の肉刺を押し付けた。

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