それは祈りと言うべきだ

二藤真朱

第1話

 おかえりと言ってくれないからっぽの家に、ただいま、とひとり声をかける。

 田んぼに四方を囲まれた、赤い屋根の一軒家。おなじ町内にある実家からは車で十分程度。行こうと思えばふらりと行けるその家に、祖母と叔母はふたりで住んでいた。

 来たよ。いつもどおりの言葉を口にする。うすく埃のかぶった廊下を、ぼくの声が素通りする。かすかに反響する。

 よぉく来たこと。

 聞こえない祖母のやわらかな声に、耳を澄ませる。つきんとした胸の痛みを覚えつつ、ぼくはゆっくり、玄関の戸を閉じた。

 祖母は一昨年亡くなった。同居していた叔母は、チャンスとばかりに男とともに出ていった。だからいま、この家にはだれもいない。

 壊すの? 問いかけたぼくに、母はわからない、と悲しそうな目でこたえた。

 叔母の話は、ぼくたちのなかでタブーになっている。姉がヒステリーを起こすうえ、母が痛ましい顔を、父が厳しい目を向けるから。なにより、ただただひんやりと胸の内が冷えていくその感覚が、ぼくは心底いやだった。

 だがそれでも、大好きな祖母の家を放っておくことは、ぼくにはできなかった。

 叔母もはじめのうちこそ休みにやってきていたようだけど、最近はそれもない。それを聞いてどうしようもなくて、ぼくはこの家に帰ることに決めたのだ。幸い通勤に支障はないし、最近はテレワークも進んでいる。男のひとり暮らしも相まって、引っ越しはかなりあっさり進んだ。叔母も面倒事がなくなってせいせいしたのだろう。わかりました、と淡々としたメールが来たきり、以降音沙汰はない。

 祖母がよく昼寝していた居間に、そろりと足を踏み入れる。泥棒にでもなった気分だ。どこかそわそわした気持ちのまま、温度の失われた部屋に座りこむ。積み上げた段ボールたちの浮ついた横顔を尻目に、音という音を吸いこんでしまいそうな板張りの天井を見上げる。

 末っ子長男のぼくは、それは祖母にかわいがられた。

 親の都合で、一時期はこの家から幼稚園に通っていたこともある。一月ほどだったが、まだ五つのぼくの相手をするのは、祖母には大変だったことだろう。まわりのこどもたちが母親に手を引かれて帰るなか、ぼくの迎えはおんぼろスクーターに乗った野良着の祖母。行きたくないと駄々をこねて、ぎりぎりまで家を出ないなんてことはままあった。ひどい偏食だったぼくを案じて、なんとか野菜を食べさせようと頭をひねってくれたこともよくおぼえている。いじけてカーテンのなかから出てこないぼくを前に、何時間も傍にいてくれたことも。……結局なにひとつ改善されないまま、親元に帰ることになったけれど。

 おらえの孫だもの。うんとめんけぇの。

 会う人会う人に、自慢げに祖母はそう言っていた。もちろん、ぼく自身にも。

 祖母はいつだって、ぼくの心強い味方だった。

 ふたりの姉がすんなり大学に入学、卒業するなか、ぼくだけが二浪しても、祖母は一言たりとも責めはしなかった。それどころか、あーちゃんが大学出るまではがんばらねばねぇ、と言って、顔を出すたび、少ない年金から小遣いを握らせてくれた。

 祖母は、そのときすでに死期というものを悟っていたのかもしれない。しかしそうとは知らないぼくは、そんなこといわないでほしい、もっと遊んでほしい、とこどもじみたセリフしか口にできなかった。そんなぼくにさえ、祖母はやさしくほがらかに、んだねえ、と笑ってくれた。

 しぃんと静まりかえった台所に視線を移す。祖母がいれば、戸棚からお菓子やらなんやらを出して食べろ食べろとすすめてきたにちがいない。ご飯が入らなくなるから、とやんわり断っても、祖母は頑として譲らなかった。いつもぼくのほうが折れて、帰るときには両手いっぱいのおやつを抱える羽目になる。食わず嫌いの多かったぼくのことが心配なのだ。好き嫌いなんてとっくに治ったのに、祖母のなかのぼくはいつも五歳のまま。差し出される祖母の右手の、小指だけを握っていたぼくなのだ。

 ずっとそのままでいられたなら、どんなにしあわせだったろう。

 目を閉じる。そのまま崩れ落ちるように寝転ぶと、冷たい床板がじんわりと体温を奪っていった。

「ばあちゃんねえ、和子に殺されるって言ってたんだよ」

 変貌した叔母について尋ねると、母は振り絞るような声で、そう言った。

 ……叔母の相手について、ぼくはよく知らない。それでも聞きかじった部分だけで判断するなら、ろくな人間ではなかった。金にだらしなく、仕事もろくに続かない。口だけ達者のろくでなし。もちろん祖母も母も良く思ってはいなかった。しかし恋は盲目、とでもいうのだろう。それらにまったく耳を貸さなかった叔母は、日に日に弱っていく祖母の面倒をまともに看ようともしなかった。男になにか唆されてされていたのかもしれない。けれどもそのせいで、母と叔母の仲は完全に冷え切った。

 ぼくたち家族は、祖母の葬儀に参列しなかった。できなかったのだ。叔母の言動が、あまりに理解できなくて。

 そんな事情を察したスタッフが、火葬直前、ぼくたちのために特別に最期のお別れをさせてくれた。棺桶の扉から、順番に祖母の顔をのぞきこむ。色とりどりのかわいらしい花々に囲まれた祖母は、呼びかけたらすぐさま目を覚ましてくれそうなほど、いつもどおり、おだやかな表情をしていた。

 おばあちゃん、とメイクが崩れるのもかまわずぼたぼたと涙をこぼす姉ふたりをよそに、ぼくはそっと視線を落とす。

 手を組んだ祖母の胸元には、二冊の本が抱かれていた。

 ひとつは祖母の百ちかい川柳を編纂したもの。もうひとつは、ぼくが趣味で書いた小説だった。

 祖母が趣味で綴っていた川柳はなかなか評判で、地元の広報誌に掲載されることもしばしばあった。そんな祖母を近くで見ていたせいだろう。ぼくが筆をとるのは必然で、そのことで両親から文句のひとつも言われたことがない。小学生のころから読書感想文や作文で賞をとり、高校では文芸部部長としてそれなりの成績を残していたおかげもあるのだろう。卒業してからもこりずに執筆にうつつを抜かすぼくに、姉ふたりなんかは、完全にあきれていたけれど。

 それでも祖母は、ぼくが物語を紡ぐことをだれよりも喜んでくれた。

 あーちゃんは、書くのが好きだものねえ。

 にこにこ笑う祖母は、いつもカレンダーやちらしの裏に、背中をまあるくさせながらちびた鉛筆で言葉を書きつけていた。ぼくはその光景を見るのが好きだった。めがねをかけて、ぼろぼろの辞書を引きながら、ひとつひとつ丁寧に言葉を拾い集める祖母。それがなにより、目に焼きついて離れない。

 祖母が亡くなる数週間前。刷りあがったばかりの本を、母に託した。そのころには起き上がるのもつらかった祖母は、それでもなんとか、ぼくの作った本に目を通してくれた。すごいねえ、と弱々しい声で。やがて文字を追うことすら難しくなれば、その代わりに何度も何度も、その表紙に触れていたという。

 その本とともに祖母は旅立った。享年八三。祖父は母が若い頃に亡くなっていたから、ようやくその元へ行けたのだ。ゆっくり、足を引きずりながら。時折休んで、ぼくのつくった本を読んで。

 ばあちゃん、と声が漏れる。気づけばぼくは泣いていて、冷たい床にくっきりと涙の道筋をつくっていた。ひとりでよかったと思う反面、背中をさすってくれただろう祖母がもういないさみしさに、必死に歯を食いしばって耐え忍ぶ。

 祖母は、ぼくのよきの理解者だった。孤独な創作活動の道を選んだぼくを、浪人して自暴自棄になっていたぼくを、ただただ、受け入れてくれた。

 そんな祖母に、ぼくはどれほどの感謝を伝えられたというのだろう。

 母はそのままでいいと言ってくれた。ばあちゃんはそれだけでしあわせだよ、と。

 しかしそれでは、ぼくの心にかかったもやは消えてくれないのだ。

 母はきっと、死ぬまで叔母を赦しはしない。当然だ。母にはそれだけの権利がある。ぼくたちが口を挟むまでもなく、その怒りは母のものだから。

 もうぼくの知っている叔母はいない。連絡先も消してしまった。なにかあったとして、ぼくたちにはどうしようもない。だってもう、彼女はこの家の人間ではない。

 力なく転がった視線の先、日光を遮る重いカーテンに、視線を投げる。

 かつて逃げこんだその内側に、ぼくの求めるこたえが隠れてはいないだろうか。

 ありえない空想を、しかし瞬きひとつで蹴り飛ばす。

 埃臭かったけれど、どうして肌に心地よかったレースのカーテン。すっかり日に焼けてしまったそれをまとったところでぼくはきっと救われない。祖母の元に行けるはずもない。

 だが、そうだとしても。

 乱暴に涙を拭う。がびがびの顔のまま、むくりと起き上がる。

 ぼくはいつだって傍観者だった。大切に、守られて。白い繭のなかで、いつか羽化する日を待っているだけの。

 蝶になれるともしれない明日を、夢見ているだけの。 

 しかしそれに、ぼくは否と叫ぶのだ。

 やさしい檻を蹴破ろう。噛み砕こう。ぼくがぼくであると、証明するために。ぼくが生きていると、世界に宣言するために。

 だからぼくは書かねばならない。たとえどんな不幸のどん底にあろうとも。

 ノートを開く。なにもないこの家に、ぼくは祖母の影を追いかける。

 ぼたりと落ちた大粒の涙が、白いページにくっきりと浮かび上がる。だが書くことだけは止めなかった。それがぼくの在り方だから。

 だが、それでも。

 たったひとつ、願ってもいいのであれば。

 ぼくは。

 淡い春の陽射しに似た、あのぬくもりのなかに、かえりたい。

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