第30話

 リビングに入ると、両親が過ごしていた形跡があった。テーブルの上にはマグカップが二つと皿に盛られたクッキー、それから浩司は名前しか知らない歌手のCDが置かれている。それらを横目に、浩司は旅行土産を母に手渡した。


「あら、あっちのほうに行ってたの」


 カップを持っていないほうの手で箱を受け取ると、前面に夜景がデザインされたパッケージを見て母はそう言った。夜にお父さんと一緒に食べましょ、と言いながらキッチンへ持っていく。


 浩司は父の謝罪の経緯を聞きたくてそわそわしていた。旅行に出る前はあんな態度だった父が何故変わったのか理由が知りたい。


 そんな浩司の気も知らず、母は鼻歌交じりにコーヒーを淹れると、いつまでも立ったままの浩司に着席を促し、目の前にカップを置いた。


「父さん、何があったの?」


 母が席に着いたのを見計らって、浩司はコーヒーに口もつけずに訊ねた。対面に座った母、和子はゆっくりとコーヒーを飲み、それからクッキーを一枚口に放り込んだ。


「ねえ、母さ……」

「浩司、その人知ってる?」


 浩司の言葉を遮って、和子がテーブルの上に置かれたCDを指差す。ジャケットの写真はギターを持った男性がマイクに向かって叫んでいるものだ。名前は知っているが、歌は聞いたことがなかった。


「この人ねえ、自殺しちゃった人なの」


 浩司の答えを待たず、和子がぽつりと言った。浩司は思わず母の顔に目を向ける。母はCDを見つめていた。


「すごく流行ってた人なんだけどね。有名になったせいなのか、週刊誌であることないこと書かれて。それを信じた人たちからの誹謗中傷、っていうの? そういうのがすごかったのよ」


 ずず、とコーヒーを啜る音がする。


「それでたぶん味方がいなくなっちゃったんだろうなあ。……違うわね、味方は最後までいたんだろうけど、そうじゃない人が多くなりすぎて独りぼっちに感じちゃったのかもしれない。それである日……」


 言いかけて母は言葉を濁した。CDを手に取り眺めた後、浩司に目を向ける。


「お父さんね、この人の大ファンだったの。今でもたまに聴いてるのよ」


 浩司は何も言わずに母の顔を見つめた。初めて聞く話だった。父の音楽の趣味を浩司は知らない。それどころか、好きなもの全般をよく知らないことに浩司は気づいた。


「……お母さん、浩司が旅行するって聞いた時、もしかしたら死んじゃうんじゃないかって思ったの」


「へ?」


 浩司は驚いて間抜けな声を出した。母がそんな心配をしていたなどと思いもしなかったのだ。


「しかもお父さん、出掛けに余計なこと言ったでしょ。それで、お母さん心配して。もし、それが最後の一押しになったらって……」


 どうやら昨日、浩司が家を出る前に父から言われた言葉を母は耳にしていたようだった。自分は相当心配をかけていたらしい、と浩司は少し反省する。


 浩司は幸せになるために、望んであの場所へ行ったのだ。まさか死に場所を探す旅に出たと疑われるなんて考えもしなかった。今にして思えば、はっきりとした行先も告げず、ふらりと鬱病の息子が旅に出れば心配もするはずだ。


「それでお母さん、お父さんとここで話をしたの。あなたの好きな歌手はどうやって死んだか覚えているのかって。自分も追い詰める側になってるのよって」


 母はどこか遠くを見ている。昨日の様子を思い出しているのだろう。


「そしたらお父さん、はっとした顔をしてから部屋に籠っちゃって。しばらく出てこなかったわねえ。だいぶ経ってから出てきて、俺はとんでもないことをしたって言ってね。今までのことを色々思い返したんでしょうね。でもそうやって後悔しても、もう浩司は家を出た後でしょう。日曜日には帰るって言ってたから、とりあえずそれまでは待って、帰ってきたらちゃんと謝ろうっていうことになったの。もし、帰ってこなかったら、その時は……」


「ちゃんと帰ってきたから、警察のお世話にならなかったわけだ」


 そう言ってようやく浩司はコーヒーを口に含んだ。危うく行方不明者届を出されるところだったと少々ひやりとしたが、事の顛末が明らかになって何だか力が抜けたような気がする。


「そういうこと。本当に帰ってきてよかった。結構心配してたのよ」


 安心した表情で和子はまたクッキーを一枚口に入れた。浩司もそれに倣ってクッキーをつまむ。


 まだ父とはぎくしゃくすることもあるだろう。しかし、工藤家の未来に明るい兆しが見えたような気がする。兄も含めて、四人で仲良く会話をする日もそう遠くなさそうだと思えた。


――これもかすみの家の影響なんだろうか。


 ヨエは定められた運命が徐々に良いほうに変わると言っていた。まさしく今起きている変化は、かすみの家の神に不幸を渡したことによって得られたものなのではないか。


 そう考えると、自然と蓮人の顔が脳裏に浮かんだ。


「M市のあたりに行ってたの? どうだった?」


 クッキーを呑み込んだ母が何気ない感じで言う。母に蓮人のことを話したら、少しは楽になれるのだろうか。浩司は再び湧き始めた罪悪感の中、そう思った。


「あー、実は……」


 そこまで言いかけて、浩司ははっとして口をつぐんだ。かすみの家のことを誰かに話してはいけない。忘れかけていたルールが警告するように脳内に蘇った。


 その瞬間、背後に視線を感じた。


 浩司の背中に張り付くような気配。息遣いが聞こえそうな距離に何かがいる。そのはずなのに、浩司の対面に座っている母は何かに気付いた様子は見せない。視認できるようなものが突然浩司の背後に現れたなら、叫び声の一つくらい上げるだろう。


 浩司の身体は硬直したままでいる。ごくり、と唾を呑み込む音がやけに大きく聞こえる。


 自分の背後に立つ気配は、あの葉書を出した後から散々経験したものだった。浩司はすぐに後ろの気配が何であるか理解する。


――かすみの家の神様だ。


 不幸を渡したとしても、あの神との縁は切れることはないのか。背後の気配に心臓が高鳴るのを感じながら、浩司はその事実に恐怖した。


 今、あの気配が背後に現れたのは、浩司がルールを破ろうとしたからなのだと直感的に理解した。いつまでも浩司は監視され続けるのだ。あの家で起こったことを誰かに話してしまわないように。


 そしてそれは蓮人のことを誰にも話すことはできない、ということも意味している。蓮人がどこでどう消えてしまったのか。そしてそれは自分のせいかもしれない。そんな懺悔も含めて口にすることはできないのだと浩司は悟った。背後には真っ暗な絶望が立っているのだ。


「浩司?」


 母の声が聞こえて、それと同時に身体が解放される。浩司は思わず後ろを振り向くが、そこには何もいない。当然のように白い壁があるだけだった。浩司は手のひらが汗でびっしょりと濡れていることに気がついて、ズボンで念入りに拭った。


「……実はせっかく旅行に行ったのに、ホテルでごろごろしてただけだったんだよね」


 浩司はぎこちなく笑顔を作る。口の中はからからに乾いていた。


「じゃあゆっくり羽を伸ばしてきたのね」


 先ほどの浩司の行動を気にも止めず、和子は笑った。息子が無事に帰ってきてくれたことにほっとして、他のことは目に入らないのかもしれない。


 浩司はぬるくなり始めたコーヒーを一気に飲み干した。好転し始めたように見える自分の人生に、蓮人の存在が暗く影を落としている。誰にも言えないまま、それを抱えて生きていかなければいけないことを考えると、自然と深いため息が出た。

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