第29話

 大きな湾に沿うように、二両編成の電車はひたすら線路の上を走っている。海鳥が風に乗り、海面はきらきらと光を反射している。浩司は車窓の風景が後ろに流れていくのを、ただぼんやりと眺めていた。


 日曜ということもあり車内にはそれなりに乗客がいるが、浩司は運よくボックス席を独り占めすることができた。決して散らかしているわけでもないのに、対面の座席に誰かが座る気配はない。周りのボックス席からは時折若い女性や家族連れの談笑が聞こえる。浩司のような一人客は少ないのかもしれない。


――昨日の電車は二人だったのに。


 行きと帰りで人数が変わってしまったことを考えると、自然と気分が沈んだ。一人だけ切り取られたような空間で浩司は何をするでもなく、ただ静かに窓の外を見ていた。


 窓際に置いていたビニール袋ががさりと音を立てた。中には両親に買った土産と空になったプラスチック容器が入っている。


 プラスチック容器には鮭のおにぎりと卵焼きが入っていた。駅まで送ってもらった時に、ヨエから昼食として渡されたのだ。それを浩司は感謝と困惑の入り混じった複雑な思いで受け取った。最後まで一貫してヨエは優しかった。しかし、その裏に浩司では計り知れない信仰や考え方が存在している。


 ヨエとはあの後、かすみの家や蓮人の話をすることはなかった。ヨエが何かを語ることはなかったし、浩司も詳細を問うことはしなかった。あれ以上、かすみの家に住む神のことを知っても、浩司の理解の範疇を超えてしまう。


 蓮人は神の国に行ったから、きっと今は幸せだろう。それを鵜呑みにして、納得することは不可能だった。これが宗教の教義的な話であれば、仏教における極楽浄土、キリスト教における天国のように、信仰の中で存在する想像上の場所の話だと理解することはできる。


 しかし蓮人は現実に、あの家の中で消え失せた。その現実世界で起こった出来事を、神の国に連れていかれたという非現実的な理由で説明されても納得するのは困難だった。だが、蓮人が消失したという現実を受け入れるためには、その説明で何とか自分を納得させる必要があるのだ。


 ヨエの話の理解を促すように、ある記憶が蘇っていた。つい十日ほど前に自室で偶然手に取った「怖い! 日本昔話」だ。その中にあった短い文章が脳内に浮かび上がる。


――イザナギは妻の腐敗し変わり果てた姿を見て……


 その一文を何度も思い返していると、浩司の中で一つの解釈が生まれた。


 死んで黄泉の国に行ってしまったイザナミは腐敗し変わり果てた姿になっていた。それは単純に時間が経ったため死体が腐乱したということではなく、黄泉の住人になったから、そのように姿が変化したのではないだろうか。この世ではない、異界の住人になってしまえば、その世界に合わせた形状になってしまうのではないか。


 そして、それは蓮人にも言えるのかもしれない。川端家で見た夢で蓮人の顔が五つの口だけで構成されていたのは、彼が神の国の住人になったから――


 浩司は小さくため息をついた。随分いい加減な仮説が思い浮かんだな、と自分でも思う。大体、川端家で見た夢についてはヨエに何も話していないから、あの神に関係があるのかどうかも知らない。ただの夢の可能性のほうが高いはずだ。


 それでも浩司はその考えを否定することができなかった。現実に体験した非科学的なことを受け入れるためには、自分の常識の範囲外のものでどうにか理由をつけるしかない。


 先ほどより大きな溜め息を浩司はついた。


 これ以上、蓮人のことを考えたところで何になる。ヨエの話だと、蓮人は神様の国で幸せに暮らしているのだろう。そのきっかけが浩司だったとしても、形はどうであれ当初の目的通り幸せになれているのならそれでいいような気さえしてきた。こうして浩司が蓮人の消えた原因やらを考えていても、おそらく彼がこちらの世界に帰ってくることはない。自分にはもう、どうすることもできないのだ。


 だったら、蓮人とは再会していなかった、ということにして生き続ければいい。幸か不幸か、蓮人と再会して交友関係が復活したことは誰にも話していなかった。だから浩司さえ黙っていれば、かすみの家での出来事はなかったことにだってできる。


 そこまで考えを巡らせて、浩司は目を閉じて身体を背もたれに預けた。自分にそんな生き方ができるのか甚だ疑問だった。何でもすぐ気にしてしまう性分だというのは、自分が一番良く分かっているというのに。きっと自分は一生、ふとした瞬間に蓮人のことを考えてしまうのだろう。


 浩司がそうして憂鬱な気分に浸っていると、突然ポケットに入れていたスマートフォンが震えた。おもむろに画面を確認すると、兄の作ったアプリからの通知が届いていた。そういえば、何度か通知のテストを行うという話をしていたことを思い出す。


 浩司が通知メッセージをタップすると、自動的にアプリが開いた。少し前に兄からテストプレイを頼まれた間違い探しのゲームアプリだ。しばらくしてゲーム画面が表示されると、浩司の手がぴくりと震えた。


 画面上部に表示されているスコア。そこに表示されている数字は、前回浩司がテストプレイした時のものではなく、大幅に更新された数字だ。


――蓮人だ。


 浩司はかすみの家で蓮人にスマートフォンを貸していたことを思い出す。つい数分前まで蓮人との関係をなかったことにしようなどと考えていたはずなのに、データ上に残った蓮人の痕跡を目にしただけで旧友を失ったと寂しさが襲ってきた。自分はなんてことを考えていたんだろうと後悔の念が溢れる。


 もう蓮人はこの世にはいない。それは死んでしまったというのと大差ないことだ。その事実が浩司の中で大きく膨らんで、一気に喪失感が押し寄せてくる。


 ぽたり、とスマートフォンの画面に涙の粒が落ちた。浩司は声を押し殺し、一人きりのボックス席で泣き続けた。




 自宅が近づくと、自然と足が重くなった。今日は日曜日だから家に帰れば父がいる。


 旅行だなんて、やっぱり甘えじゃないのか。


 嫌でもその言葉と父の顔を思い出してしまう。帰りたくない気持ちと、早く自室で休みたい気持ちが半々だった。時刻は十五時を過ぎていたが日差しはまだ強く、じりじりと熱せられたアスファルトには陽炎が立ち上っている。汗が首筋を伝った。


 家に帰ればエアコンの効いた涼しい部屋で休めるのに、歩みはそう早くならない。疲労、蓮人のこと、それから父のこと、その三つが足枷になって浩司の足は重くなる一方だった。浩司は額の汗をTシャツの袖で拭う。


 母には電車に乗った時点で家には何時頃に着くと連絡してしまっていたから、あまり帰りが遅くなると心配してしまうだろう。帰宅を嫌がる気持ちを抑えつけ、ただ家路を進むことだけに浩司は専念した。


 ようやく自宅に辿り着いて玄関のドアを開けると、予期しないことが起こった。


 ただいまという浩司の小さな声を聞きつけて、母ではなく、焦ったような様子の父が出迎えてくれたのだ。そして浩司の顔を見て、ほっとした表情をする。目は潤んでいるようにも見える。浩司は訳が分からなかった。


「母さん、浩司が帰ってきたぞ!」


 父がリビングにそう声をかけると、母も慌てた様子で玄関まで出てきた。母も心なしか安心したような顔をしている。


 久しぶりに親子三人が同じ空間に集合することになり、浩司は困惑を隠せない。浩司が靴も脱がずに固まっていると、父が頭を掻きながら近づいてきた。浩司をしっかりと見つめた父の目は、いつもの軽蔑したような眼差しではなかった。


「浩司。……その、父さん、今まで浩司が辛い思いしてるのに、全然分かってやれなくて、嫌なことばかり言って。本当に申し訳なかった。すまん」


 目の前で父が頭を下げた。父が自分に謝罪している。浩司は状況を理解できずに硬直した。突然、父が今までの態度を謝ってきた。一体何が起きたのかは分からないが、浩司にとって喜ばしいことだった。何か言わなければ、と浩司は焦る。


「……うん、わかった。大丈夫。ありがとう、分かってくれて」


 何とか父に返答するが、困惑が勝っているために不自然で細切れな言葉になってしまう。それでも父は浩司の返答を聞いて安心したのか、目を真っ赤にして、ありがとう、すまん、と言いながら自室に入っていった。大の男が泣くところは見せられないということだろうか。


「コーヒーでも飲む?」


 呆然と立ち尽くしたままの浩司に、今まで様子を見守るだけだった母がいつもの口調で言った。浩司はぎこちなく頷いて、ようやく靴を脱ぎ出した。

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