第10話

 気が付くと、佳穂は見覚えのあるアウトレットモールに立っていた。不思議と夢だという自覚があった。

 通路の両側に様々な店舗が並んでいるのが見える。

 休日のアウトレットモールは多くの買い物客で賑わっているが、彼らや景色に色彩は存在せず白黒だった。

 たくさんの話し声も聞こえるが、その一つ一つは判別できない。


 突然、目の前のベンチで子供が泣き出した。子供に目を向けると、トイレのマークなどに使われるピクトグラムのような見た目をしていた。表情は存在しない。

 ただ、泣き声だけで三、四歳の子供が泣いていることが分かった。


 周囲の買い物客は誰一人として、ピクトグラムの子供に近寄る素振りを見せない。

 このご時世、知らない子供に話しかけるだけで通報されてしまう危険性がある。

 誰もが危険には近寄りたくない。佳穂もその一人だった。


「迷子かな? 大丈夫?」


 男性が子供に駆け寄った。彼には色彩がある。

 色のついた男性は、しゃがんで一生懸命に子供に話しかけていた。


「佳穂、インフォメーションセンターってどっちだろう」


 男性が振り返った。

 婚約者の松島新吾だ。

 新吾は子供の手を引き、佳穂の所まで連れてきた。

 子供はいつの間にか泣き止んでいる。ただのピクトグラムだ。

 いつの間にか周囲の話し声も消えていた。


 この人と婚約して本当に良かったと佳穂は感じた。

 子供が泣いている時、老人が困っている時、新吾はそういう場面に出くわすと、反射的に身体が動いて助けに行ってしまう。そんな性分だった。

 きっと失敗なんて考えていない。

 そんな新吾と結婚したら幸せになれる。良い家庭が築ける。



 場面が切り替わった。



 アパートの玄関に立っていた。ここは同棲していた部屋だ。

 今度も視界に色彩はない。白黒の廊下と壁が目の前にある。廊下の先のドアは閉まっていて、様子を窺うことはできない。

 足元を見ると、佳穂と新吾の靴に交じって見知らぬパンプスが脱ぎ散らかしてある。

 ただならぬ気配を感じた佳穂は、冷たい廊下をそっと進んだ。


――これはあの日だ。


 日時は十二月二十五日、クリスマスの十時頃だ。

 前週に急遽入った泊りがけの研修が思ったより早く終わり、予定より数時間早くアパートに帰ってきたところだった。


 クリスマスイヴに新吾と二人で過ごすことができなかったから、近くの洋菓子店でケーキを買って帰った。それを右手に提げ、音を立てないようにリビングのドアを開ける。

 テーブルの上にはアルコール飲料の缶が数本転がっている。

 床には男女の衣類が脱ぎ捨ててあった。それはリビング横の寝室に、道標みちしるべのように並んでいる。


 ケーキをテーブルに置くと、佳穂は忍び足で寝室に近づいた。

 ダブルサイズのベッドには二つの膨らみがある。おもむろにベッドを覗くと、色彩のない新吾と小柄なピクトグラムが顔を寄せ合うようにして眠りについているのが見えた。

 新吾の半身が毛布から出ている。裸だ。きっと隣のピクトグラムも裸なのだろう。


 夢の中なのに現実世界で起きたことを佳穂は振り返る。

 現実ではもちろんピクトグラムではなく、金髪の女が寝ていた。妙に頭が冴えてしまって、冷静にスマートフォンで動画を撮りながら新吾に声をかけたことを思い出す。

 少し動揺はしたが、新吾の浮気に思っていたほどのショックは受けなかった。佳穂自身がいずれこうなることを予想していたからかもしれない。


「弱者を反射的に助ける」という新吾の長所は、「衝動的に行動してしまう」という短所の裏返しだった。

 突然大きな買い物をする、佳穂の予定を反故にし友人と旅行の約束をする……思い出すときりがなかった。

 そんな男だったため、いつか衝動的に浮気をするのではないかと心のどこかで思っていた。考えておくことで、少しでも自分の受けるダメージを減らそうとしていた。


 ベッドに横たわる新吾を見て、どうしたものだろうか、と佳穂は考える。

 随分と都合の良い夢だ。きちんと考える時間が与えられている。


――この男に恥をかかされた。


 上司の木ノ内に婚約の報告をした後、それが破談になったと伝えた時の恥ずかしさがこの男には分かるのだろうか。

 結婚に失敗してしまった自分の気持ちが分かるのか。

 恥をかかないように生きてきたのに、恥をかかされた気持ちが。


 憎しみが湧いてくる。


 ベッドの男を睨みつける。新吾は眠りについたままだった。幸せそうな寝顔を見て、憎らしさが増大する。

 思わず持っていた鞄をベッドに叩きつけた。中に納められていた財布や手帳が音を立てて外に飛び出す。


 それでも彼らは目を覚まさなかった。佳穂の怒りなど知らぬように眠り続ける。

 佳穂は眉間にしわを寄せ、唇をかみしめる。

 もう我慢は出来そうになかった。


――こいつのせいで私は不幸になった。


 床に散らばる鞄の中身から、目についたものを手に取った。手帳に挟んであったボールペンだ。

 それを勢いよく、新吾の顔に突き立てた。

 

 障子に穴が開いたような音を立て、ボールペンは頬の辺りに刺さった。

 新吾は叫び声を上げるわけでもなく、痛がるわけでもなく、安らかな寝顔のままだ。

 ボールペンを引き抜くと、紙のような皮膚の下には頭蓋骨などなく、ただ闇が広がっていた。

 今度は目を狙ってボールペンを振り下ろす。そして、また引き抜いた。紙に穴の開くような音が何度も白黒の部屋に響く。


 気が付くと新吾の顔は蜂の巣のようになっていた。

 白黒の顔にたくさんの穴が開いている。穴の中の暗闇を覗くと、赤い液体を湛えているのが見えた。

 佳穂は大きく息を吐く。身体は達成感で満ち溢れていた。

 握りしめたボールペンからは新吾の皮膚の下に見えたのと同じ液体がしたたっている。


 トトトト、とリビングの方から小さな足音が聞こえた。振り返るとコタローが軽快な足取りで向かってくるのが見えた。

 コタローは尻尾をくねらせながら、佳穂のふくらはぎに何度も頭を押し付ける。ボールペンをポケットにしまうと、佳穂はしゃがんでコタローのあごの下を撫でた。ゴロゴロという振動が手に伝わってくる。

 撫でられるがままになっていたコタローが、ふいに佳穂の背後を見上げて、にゃあと鳴いた。つられて佳穂が振り向く。


 白黒の部屋の中央に真っ白な塊が立っていた。佳穂の両腕で輪を作る時よりも、二回りほど大きい塊が出現している。

 いつの間にか部屋の天井はなくなり、吹き抜けになっていた。

 佳穂は立ち上がる。そしてゆっくりとその塊に向き合った。

 不思議と恐ろしさは感じない。


 真っ白な塊にはぼやけた黒い輪郭があった。その輪郭は天高くどこまでも続いており、見上げても顔にあたる部分は見ることができない。

 塊の足元を見ると足袋のようなものが見えた。しかし、今見えたはずの足袋は、一瞬にして輪郭がぼやけ、白い塊の一部に戻ってしまう。輪郭がはっきりしていない。


 すうっと白い塊から腕が伸びてきた。腕は佳穂の目線の辺りから生えている。

 その腕の上には白い塊が長く続いているから、この塊は異常に首か頭が長いことになる。

 腕は何かを要求するように、佳穂の半身ほどの大きさがある手のひらを上に向けた。人の手に見えたような気がしたが、これも一瞬のうちに輪郭がはっきりしなくなる。


 にゃあ、とコタローが鳴いた。はっとして佳穂はコタローを抱き上げる。

 コタローは大切な家族だ。あげられない。


 しかし、手はずっと何かを欲しがるようにして、手のひらを上にしたままだ。

 この塊にあげられる何かはないだろうか。しばらく佳穂は考え込む。


「あ」


 思いついたように佳穂はコタローを抱き上げたまま、寝室の壁際に置かれた鏡台に向かった。ベッドには変わらず男とピクトグラムが横たわっている。いつの間にか、男の顔に開いた穴からは赤い液体が溢れ、シーツや毛布を赤く染めていた。


 佳穂は鏡台の引き出しを開け、小さな白い箱を取り出した。顔に穴が開いている男から十二月の初めにもらったものだ。ダイヤモンドのついた指輪が入っている。


 自分を不幸にした男はもう必要なかった。だからこの箱もいらない。


 その小さな箱を持って白い塊に近づく。コタローは大人しく左腕で抱きかかえられたままだ。

 白い塊は手のひらを表にしたまま微動だにしない。

 佳穂は大きな手のひらの上に、そっと小さな白い箱を乗せた――



 チチチチ、と鳥の鳴き声が聞こえている。

 お腹の上に乗ったコタローを降ろそうと手を伸ばしたはずなのに自分自身に触れて、佳穂は目を覚ました。

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