第9話

 息を殺し、衣擦れがどこから聞こえてくるのか探る。

 板の間にいる佳穂には、二間の和室が見えているが、そこには何もおかしなものは見当たらない。


 また衣擦れの音がした。重たい服を着た何者かが、歩く度、その音は鳴る。

 死角になっている奥の部屋から、その音は聞こえていた。

 衣擦れは一歩ずつ、ゆっくりとその部屋から出てこようとしる。

 佳穂の目は、和室に釘付けられている。その瞳は恐怖に満ちていた。


 緩慢な衣擦れと共に現れた影を、佳穂の視界が捉えようとした瞬間。

 本能が警鐘を鳴らす。


 見るな。やめろ。それは禁忌タブーだ。


 佳穂の身体は無意識のうちに、顔を背けていた。

 一瞬、白い足袋が見えた気がしたが、記憶はすぐに恐怖の波に押し流される。

 心臓が爆発しそうだった。うまく呼吸ができない。


 顔は背けたが、視界の端にはちょうど板の間と和室の境界が映っている。

 衣擦れの音は徐々に近づいてきていた。視界の隅で影が動いたのが見える。

 まるで能の役者が舞台に向かうように、ゆっくりとした摺り足、衣擦れの音。

 影は佳穂の目前まで迫り、止まった。息遣いは聞こえてこない。


 佳穂はこの気配を知っている。見下ろされる感覚も。

 いつも背後にいた気配が、確かに目の前にいた。


 どれぐらい経っただろうか。

 数秒、数十秒のことだったのかもしれないが、佳穂にとっては永遠の時のように感じられた。


 影はまた緩慢な動きで向きを変えた。

 佳穂に背を向け、陽が落ち薄暗くなった縁側を歩き出す。

 端まで行ったかと思うと、そこで気配は消えた。衣擦れも聞こえない。

 姿勢を変えられないまま佳穂は浅く息をしていた。



 ヨエが夕食を持って戸口を開けるまで、佳穂は座布団の上で膝を抱えたままだった。


「まあ、まあ、こんなに怯えてしまって」


 薄黄色のエプロンをしたヨエは、怖い本を読んで泣く子供をなだめるような声で言う。

 どこからか持ってきたひざ掛けを佳穂にかけてくれた。


「先にお風呂を沸かしましょう」


 そう言って、ヨエは風呂場に向かうと、しばらくして戻ってきた。

 手には麦茶の入ったグラスを持っている。

 差し出された麦茶を少し口に含むと、どれほど喉が渇いていたのか実感する。

 佳穂はヨエの姿を見て安心し、内心泣きそうになっていたが、いい大人が恐怖で泣くのは恥ずかしかったので我慢した。


「……お会いしたのですね?」


 佳穂が落ち着くのを持って、ヨエが口を開く。

 表情はにこやかで、良い出来事が起こったと信じて疑わないようだ。


「……たぶん、そうなんだと思います。急に現れて、また急に消えて。すごく怖くて。私、あの気配を知っているんです」


 支離滅裂な自覚はあった。

 話したいことが一気に口から溢れてしまう。


「神様は幸せになりたいと思う人のことを、ちゃんと見ておられますからね」


 ヨエはどこか遠くを見ているような眼差しで語る。


「宮地様が幸せになりたいと願っているから、神様は宮地様の行いを見ているのです」


 それがただの信仰者の言葉でないことは分かっていた。

 そのは現実にすぐそばまでやってきて、自分を見ていたのだから。


「怖いと思うのは仕方のないことなのかもしれません。神様は私たちの、人の力を超えたもの。自然に畏怖の念を抱いてしまう」


 そう言い、そろそろお風呂が沸いた頃ですよ、とヨエは佳穂を風呂場へ促した。

 着替えを持ったまま心配そうにしている佳穂を見て、ヨエは微笑んだ。


「神様はお手洗いにも、お風呂にも用事がありませんから、ごゆっくりどうぞ」


 ヨエの言葉通り、風呂に入っている間はあの気配を感じなかった。そういえば、この家に来る以前も、トイレや風呂場では気配を感じたことはない。

 洗面台の前で髪を乾かし、脱衣所の引き戸を開けると良い香りが漂ってきた。

 目の前の台所でヨエが夕食を盛り付けている。

 その姿を見て安心した。一人でないというだけで、心持ちは変わる。


「すぐにお持ちしますから、そちらで休んでいてくださいね」


 佳穂に気づいたヨエが板の間に手を向けた。

 風呂に入る前にはなかった囲炉裏がそこに出現していた。赤く燃える炭と、川の流れのように描かれた灰模様が美しい。

 テーブルの位置が移動してあるのを見ると、どうやらその下に囲炉裏が隠されていたようだった。囲炉裏を覆っていた板が壁に立てかけられてある。


「お風呂の間に火を起こさせていただきました」


 夕食の乗ったお盆を手にヨエがこちらに向かってくる。

 テーブルに並べられた料理を前に、先ほどまで恐怖を感じていた佳穂の身体には空腹が戻ってきた。


「どうぞ、お召し上がりくださいませ」


 ヨエが囲炉裏の横に腰を下ろす。火箸で囲炉裏に炭を足している。

 数々の料理を目の前にどれから手を付けようか悩んでいた佳穂だったが、まずは角皿に盛られた刺身を口にする。


「おいしい……」


 思わず呟いた感想に、ヨエが囲炉裏端で、それは良かったと笑う。

 アワビやカニなど派手なものがあるわけではないが、どの料理を食べてみてもおいしかった。

 ヨエはその様子を囲炉裏のそばで見ながら、にこにことしている。


「今日は炭ですけど、普段はたきぎを使うんです。薪を使うと煙たくなってしまうんですが、それが家の乾燥や防虫に繋がります」


 その言葉を聞きながら、佳穂は初めてこの家の天井を見上げた。

 佳穂の頭上には、煤で黒光りする木の骨組みが見える。梁からは四角い木の板が、ちょうど囲炉裏の上に来るように吊り下げられていた。

 いかに自分が下ばかり向いて生きているか思い知らされる。


 吹き抜けになっているのは板の間の上部だけで、和室には天井が設けられていた。板の間との境界には格子がはめられていたが、下からでは何か置いてあるのか窺い知ることはできなかった。


「天井裏は」


 佳穂の視線の先を共に見つめながら、ヨエが語り続ける。


「物置や養蚕の場として使われていた家もあります」

「昔はこの辺にこういったお家がたくさんあったんですか?」


 茶碗を持ったまま佳穂はたずねる。


「この辺はだいぶ山なので、あまり家は建っていなかったと思います。もう少し下った川沿い辺りから茅葺や木造の家が建っていて、皆それぞれ田んぼや畑をやったり、海や川で漁をしていました。馬屋の前を通ると、急に馬の鳴き声が聞こえて驚くこともありましたよ」


 うんと昔の話ですが、とヨエは付け加える。

 ヨエのはっきりとした年齢は分からなかったが、おそらく戦後間もない頃の話なのだろうと想像する。頭の中で風景を思い描くと、勝手にモノクロで再現された。


 その後もヨエの昔話を聞きながら、夕食を食べ終える。ヨエが入れてくれた緑茶を飲んでいると、ふいに座敷の方で衣擦れの音がした。

 どきりとする。

 ヨエは今、目の前の台所で食器を洗っている。

 じゃあ、この音は――。


「見ては、なりませんよ」


 ヨエが背を向けたまま、佳穂に言う。

 見てしまわないように、顔は動かさず視線を壁にやった。

 しばらく衣擦れとヨエが食器を洗う音が聞こえていたが、やがて衣擦れの音だけが消えた。


 ヨエにとってはまるで普通のことのようだった。衣擦れの音がしたら、顔を向けず音がしなくなるまで壁などを見つめる。

 神の扱い方を知る者の振舞いを目にして、佳穂は自分の対処法が間違っていなかったと安堵した。


 洗い物を終えたヨエは持ってきた食器類などをてきぱきとまとめると、囲炉裏の火を落とした。茅葺の家は火事になると消火が難しいため、万が一に備えて、だそうだ。

 囲炉裏の火を消しても家の断熱性が高いため、寝るまでは暖かいままだろう、とも言われる。


「奥のお座敷にお布団を敷きましたからね」


 玄関で靴を履いたヨエが言う。

 やはり一人になるのは不安だったが、ヨエの対処法を見たため、気持ちは少し落ち着いていた。


「明日は七時半頃伺いますが、よろしいですか?」

「はい、ありがとうございます。よろしくお願いします」

「戸締りだけお願いします。それでは、おやすみなさい」


 ヨエが頭を下げる。


「おやすみなさい……」


 同じように佳穂は頭を下げ、夜道に消えていくヨエを見送った。

 玄関の戸に鍵をかける。

 電波を拾わないスマートフォンを見ると、時刻は二十一時を過ぎていた。

 対処法が分かったとはいえ、そう何度もあの気配に会いたくはなかった。早く寝てしまおうと決める。


 寝支度を済ませる間にも、あの衣擦れは聞こえた。和室の方から音が聞こえ始め、板の間を巡回し、今度は玄関の辺りで音が消える。

 歩くルートは決まっていないようだ。

 佳穂はびくつきながらも、何とかそれをやり過ごした。


 壁際に付いている明かりを消すと、板の間には闇が広がる。和室の明かりだけが頼りだ。

 佳穂は足早に和室までたどりつくと、一部屋ずつ慎重に電気の紐を引っ張った。全部消すのは心細かったので、常夜灯を点けて置く。オレンジ色の小さな明かりだったが、暗闇よりはいい。


 明かりが点いているのは、六畳間だけとなった。

 最初にあの気配が現れたのがこの部屋だったので、ここで寝るのは正直怖かった。

 しかし、せっかくヨエがこの部屋に布団を敷いてくれたのだから、ここで寝るほかない。隣の和室に布団を動かしても良かったが、それは何となく気が引けた。


 意を決し、佳穂は電気を消す。一回、二回と紐を引くと、オレンジ色の常夜灯に変わる。

 すぐさま布団に潜り込んだ。


 心臓の鼓動が聞こえる。

 大丈夫、何も見ていない。

 目を閉じ、気持ちが落ち着くようにゆっくりと深呼吸を繰り返した。


 何度目かの深呼吸に混ざって、遠くで衣擦れの音が聞こえた。

 落ち着いてきた心拍が一気に高まる。

 衣擦れはゆっくりと玄関の辺りからやって来る。息を潜めて、目を瞑りながらその様子を窺った。

 気配は縁側を通り、佳穂の布団のそばまでやってきて止まった。


 また見られている。

 明かりのついた部屋にいたときは、瞬きもせず壁など一点を見ていれば良かったが、今は暗闇の中で目を瞑っている状態だ。

 気を抜くと思わず目を開いてしまいそうで、佳穂は自分の瞼を閉じることに集中する。


 衣擦れの音はしない。

 その気配はまだそこに立っているのか、消えてしまったのかは分からなかった。

 目を開けて確認することは出来ないので、佳穂は必死に別のことを考える。


――今日の夕飯おいしかったな。マグロとイカの刺身が絶品だった。鮮度が全然違った。

 明日、帰る前にお父さんとお母さん、あと職場にお土産を買っていこう。木ノ内さんには、何か他の物も買わなきゃ。


 明日、起きたら幸せになっているのかな。

 どうやって幸せになるんだろう。

 泊まるだけで幸せになれるってことは、一夜明けたらそれでいいのかな。

 寝ている間に、ここに住んでいる神様が幸せにしてくれるってこと?

 ここに住んでいる神様……。


 神様が住む、神住みで『かすみの家』――


 そんな考えを巡らせているうちに、佳穂は疲れて眠りに落ちてしまっていた。

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