眼鏡女子だからこそ、出来る恋がここにある

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眼鏡女子だからそこ、出来る恋がここにある



 きっかけは体育の授業中。一月の空気の冷たさに体を縮こませていた私の顔面にバレーボールが直撃したのが全ての始まりだった。


 私の眼鏡はいとも簡単にひん曲がり、レンズがポロリと外れ、その役割を果たさなくなった。必死に謝ってきたクラスメイトにはひたすら笑顔で大丈夫と主張し続けたけど、実際は全然大丈夫じゃなかった。だって、私の裸眼視力は0.05。メガネがなければ周囲は沸き立つ湯気の中、すりガラス越しの景色、何もかもが輪郭のぼやけた曖昧な世界になってしまうのだ。


 不幸中の幸いで体育はその日最後の授業だった。私は部活を休み、北風を受けつつ親切な友人の腕に縋りつき、裸眼のまま学校から最寄りの眼鏡屋さんに行った。


「いらっしゃいませー」


 眼鏡屋さんに入った瞬間、若い男の人の声とおじさんの低い声がした。私の手を引いた友人が店員さんに声を掛けてくれた。


「あの、この子の眼鏡が壊れちゃって、直してもらっても良いですか?」


「かしこまりました。こちらのお席にどうぞ」


 返事をしたのは若い男の人の声だった。私は友人と一緒にカウンター席に座り、壊れた眼鏡を鞄から取り出した。


「ありゃあ! 派手に曲がっちゃいましたね!」


「体育でボールを顔面でキャッチしちゃって……」


 見えない相手の遠慮のないリアクションに自然と俯いてしまう私。笑われるのを覚悟して道家になろうと間抜けなネタを提供したら、予想外の言葉が頭上から降ってきた。


「ええっ、大丈夫でした!? 怪我とかしませんでした!?」


 それは真剣に心配している声だった。意外な反応に顔を上げてみたけれど、眼鏡をしていないから何もかもはっきりとは見えない。ただ、ぼんやりとした視界の中でグレーのスーツを着た男の人が自分をカウンター越しに見下ろしている事だけが分かった。


「あっ、ええっと、大丈夫でしたっ。痛かったけど、今はなんとも……」


「そうですか。なら良かった! 眼鏡直るかどうか見てみますね」


 少々お待ち下さいと言って、カウンター奥のスペースに店員のお兄さんは消えていった。笑わずに純粋に心配してくれたことがなんだかとても嬉しくて、ここに来るまで憂鬱だった心がやっと少し晴れた。


 友人と小声で取り留めのない話をしながら待っていると、店員さんが戻ってきた。そして申し訳なさそうに声を掛けて来た。


「あの、レンズは嵌ったんですけど、横の丁番が大きく曲がってヒビが入ってしまっています。申し訳無いのですが、この部分は修理するのは難しそうです」


 どうやら私の眼鏡はもう復活しないらしい。曲がり方からそんな予感はしていたのでそこまでショックはない。家には前に掛けていた古い眼鏡があるから、明日からの生活もどうにか送れるはず。けれど、ここから帰るには電車に乗って暫く歩かなくちゃいけない。眼鏡がないとそれは不可能だ。私はどうしようかと内心で頭を抱えた。友人とは帰る方向が逆なのだ。


「ちょっと待っててくださいね」


 黙り込んでしまった私に声を掛けた店員さんはおじさん店員のところに行った。少しその場で話した後、お兄さんの方はまたカウンターの奥に引っ込み、暫く経つと戻ってきた。


「ちょっとこの状態で掛けてみてくれませんか?」


 言うと同時に店員さんの手が伸びて来て、優しい手付きで直接眼鏡を掛けさせられた。若い男の人に眼鏡を掛けて貰うのがなんだか恥ずかしくて、視線が自然と下がってしまう。すると下がった視線の先に鏡が置かれた。


「ちょっと掛けた時に違和感があるかもしれません。見た目も少し変かもしれませんが、これなら家までは何とか帰れると思うんです。どうですかね?」


 覗き込んだ鏡の中には少し歪んだ眼鏡を掛けた自分がいた。右耳側の僅かな違和感を確認しようと首を捻ると、そこには今までのメガネとは全く違うテンプルが付いていた。


「あの、これっ?」


 驚いて店員さんを見上げて、私は更に驚いて今度は言葉を失った。


「僕の古いメガネのパーツなんですけど丁度良く嵌ったから、嫌でなければ家に帰るまで使って下さい」


 見上げた先にいたのは優しい笑顔が印象的なとってもカッコイイ男の店員さんだった。





 一目惚れという現象を自分が経験することになるなんて全く予想外だった。だけれど、私の胸は顔面に当たったバレーボール何かよりも何倍も強い衝撃を受け、どうしようもなく熱くなってしまった。


 恋した相手は眼鏡屋さんのお兄さん。名前は武内仁さん。こっそり盗み見たネームプレートに書いてあった。眼鏡を修理してもらってから私はずっと武内さんのことばかりを考えてしまっている。


 あの人はわざわざ自分の眼鏡のパーツを私の壊れた眼鏡のパーツと入れ替えてくれた。話し方が穏やかで、間抜けな私が怪我をしていないか心配してくれて、笑顔が爽やかで、シルバーフレームの眼鏡が良く似合う、とってもかっこいい大人の男の人。


 はじめは自分の感情が恋なのか疑った。ただの憧れ、勘違い、気の迷い。様々な可能性が脳裏を過った。ソワソワと落ち着かなくなった私は友人に相談した。あれこれと思いの丈を語って聞かせたら、即答で「それは恋だ!」とお墨付きを貰った。そうして、この胸から溢れんばかりの感情に恋と名前を付けた私は居ても立っても居られなくなった。


 その結果、今の私は眼鏡屋さんにいて、武内さんの接客を受けている。


「高校二年生だよね? だったら可愛い感じのアパレルブランド系のフレームがいいかな? 最近の若い女の子はレトロなタイプの眼鏡を敢えて掛けるのが流行ってるみたいだけど――」


 私はお母さんに眼鏡を新調するためのお金を貰って、放課後に一人で武内さんの眼鏡屋さんに来ていた。私の眼鏡の壊れっぷりは武内さんの中でも印象的だったらしく、入店すると同時に「あの時の――」と声を掛けられて、嬉しいやら恥ずかしいやらで私の掌は手汗で凄いことになった。


 店内に居るお客さんは私とももう一人だけ。そのお陰で武内さんは付きっきりで私に似合うフレームを選んでくれた。しかも、前回は完全な敬語しか使ってこなかったのに、今回は言葉遣いを崩してくれている。さらには、新しいフレームを掛けた私の顔をまじまじと見て似合っているかどうかの意見を率直に言って来るから、正直かなり緊張してしまった。


 でも私の緊張はフレーム選びの時よりも視力検査をしている時の方が高まった。パーテーションで仕切られた狭いスペースで視力検査をされるのは、個室に二人きりでいるような錯覚を私に起こさた。かなりドキドキした。武内さんは検査用のフレームに真ん丸なレンズを入れてたり外したりして適正な度数を調べてくれる。そのために顔付近に何度も手を伸ばされる。触れられたわけでもないのに、武内さんの手が近づくたびにその付近が熱を帯びているような気がした。


 顔に手が届く範囲に座っている武内さんとの距離は近い。いつの間にかもう一人のお客さんが居なくなって店内はとても静かだった。自分の馬鹿みたいに大きく脈打っている心音が聞こえてしまうのではないかと余計な心配をしてしまった。そんな精神状態の私の視力はどうやらかなり不安定だったらしく、武内さんは焦った様子で何度も私の視力検査を繰り返していた。申し訳ないと思いつつ、二人きりのような時間が少しでも長くなるのは嬉しかった。


「受け取りは一週間後です。それまではその眼鏡で頑張ってね」


 視力検査をなんとか終え、カウンターでレンズを選んでお会計を済ませた。そうして、武内さんは最後にレシートと眼鏡の引き換え券を私に渡しながらクスリと笑った。笑われた理由は直ぐに分かった。私は昔使っていた家の予備眼鏡を掛けずに、武内さんに直してもらった不格好な眼鏡を掛けていたからだ。好きな人が直してくれた眼鏡は不格好でも身に着けていたい、そう思った私はずっとこの眼鏡を掛け続けていた。


 私が入店して直ぐにそれに気が付いた武内さんは驚いた顔で「家にある予備の眼鏡を掛けないの?」と聞いてきたが、私は頬に熱を集めて「これが一番見やすいから……」と小声で返すことしか出来なかった。


「あのっ、新しい眼鏡が出来たらこのお借りしてるパーツちゃんと返します。……だから、後一週だけ、コレ、お借りします!」


 私はお店を出るのが名残惜しいのと、少しでも武内さんと特別な関係なんだと実感したくて、借りているテンプルというパーツを指で触りながら頑張って武内さんを正面から見つめた。すると武内さんは軽く目を見張った。


「いや、わざわざ返さなくても大丈夫だよ。本当に全然使っていないフレームだったから。こっちはもうあげたつもりでいたんだけど」


「えっ、そんなっ、ちゃんとお返しします! あっ、でも、私が使った後のコレを使うのが嫌だったら、べっ弁償します……」


 それまで考えてもみなかったけれど、片側のパーツだけとはいえ肌が触れる部分を私は使わせて貰っているのだ。もし武内さんが潔癖症だったら、いや、潔癖症じゃなかったとしても、私が一週間以上も日常的に身に着けていた部品を返されても、気持ち悪いだけかもしれない。そう思われているかもしれないと思うと私の血の気が一気に引いた。恐る恐る武内さんの顔色を窺う。彼は慌てた様子で両手を振った。


「嫌なんてことはないよっ! 僕が勝手にしたことだから弁償なんて絶対に必要ない。返してくれるのなら勿論助かるよ。逆に気を使ってくれて有難うね」


 武内さんは最後は優しく微笑んでくれた。私は自分が使ったパーツが拒否されなかったことにホッと胸を撫でおろすと同時にキュンと胸を高鳴らせた。


 まだ二回しか会ったことのない相手だけど、やっぱり自分は武内さんのことが好きだ、そう強く思った。






 私は眼鏡を受け取る一週間後が待ち遠しくて堪らなかった。カレンダーを見て指折り一日一日が過ぎるのを数えた。早く武内さんに会いたい。そんなことばかり考えていた。


 そんな私はアンラッキーな幸運に見舞われた。受け取りまであと三日の土曜日の朝。寝ぼけた頭のまま家の廊下を歩いている時に弟とぶつかり、歪みを直してもらった方の眼鏡のレンズが外れてしまったのだ。私は弟に口先だけで文句を言って、内心でグッジョブと褒めた。武内さんに会う口実が出来たからだ。


 私は予備の眼鏡を掛けて、武内さんの眼鏡屋さんに向かった。はじめて私服で行くので服を選ぶのに一時間以上時間を掛けてしまった。電車に乗り込み、窓の外の景色を眺めている間、私は武内さんに私服姿の自分がどんな風に見られるのかを想像してドキドキソワソワした。不安もあったけれど同時に楽しくもあった。武内さんの顔を思い浮かべるだけで心が浮き立った。


 しかし、私は帰りの電車で涙を流すことになる。


 到着した眼鏡屋さんの店内はいつもと全く違う雰囲気だった。お客さんが大勢いて、店員さんが武内さんとおじさんだけではなかった。私が入店したとき偶々視力検査を担当していた武内さんは私の存在に気が付きすらしなかった。


 そうして私は好きな人に自分の存在を気が付かれないまま、他の様々な事に気が付かされた。


「あの店員のお兄さんカッコイイね」


「だよね! ニコニコしながら凄く真剣に眼鏡のフレーム選んでくれたよね。ちょっとドキドキしちゃった」


 視力検査待ちをしていた若いお姉さん二人組が武内さんを見つめながらコソコソと話している声が耳に入る。


 私にだけ特別に優しかった訳じゃなかった。


 視力検査を終えた武内さんが私に気が付かないままカウンターの中に入り、見知らぬ綺麗な女の店員さんと親し気にやり取りして、私が知らない表情で笑っていた。


 私は全然武内さんのことを知らないし、全然身近でもなかった。


 武内さんがカウンターに座って中年のおじさんに接客をした。その顔には私に向けるのと同じ笑顔が浮かんでいた。


 私は武内さんにとって、ただのお客さんだった。


 気が付いた時には何もせずにお店を出ていた。心の中で当たり前のことを知っただけだと冷静に語りかけてくる自分と、勘違いして舞い上がって恥ずかしい奴だと罵ってくる自分がせめぎ合いをして、後者が勝った。


 勝手に自分は少女漫画の中に入り込んだような気持ちでいた。けれども、少女漫画要素は私に劇的に発生した恋心だけで、他には何一つドラマチックな要素は存在していなかった。


 盛り上がっていたのは自分だけ。


 その事実は私の涙腺をいとも簡単に刺激し、頬に温い水を這わせた。行きは全く感じなかった寒さが、電車内であっても扉の開閉毎に身に染みた。





 散々落ち込んだ後、私は家のベッドの上で丸まったまま気がついた。終わったような気分になっていたけれど、まだ何も始まっていない事に。


 私はただスタートラインから一歩踏み出して、周囲のランナーが自分より実力者でコースのコンディションが良くない事に気がついただけだった。私はその場に立ってゴールを見つめた。そのゴールは目指す価値があるのかと。


 私は眼鏡の受け取り期日までそれを考え続け、一つの結論に辿り着いた。






 新しい眼鏡の受け取り日、私は放課後のまだ明るい時間に眼鏡屋さんに向かった。手にはお世話になった事とテンプルというパーツを借りたお礼が入った紙袋。中身は何の変哲もない紳士物のハンカチ。敢えて形に残る物にした。


 心臓が口から出るんじゃないかっていうほど緊張して、晴天の冬の空気が喉の奥をひりつかせた。でも私の脚は淀みなく前に進む。覚悟はもう決めてあった。


 辿り着いた眼鏡屋さんにお客さんは誰も居なかった。武内さんがいつもの笑顔で私を迎えた。


 新品の眼鏡を掛けるとそれまでと比べて私の世界はクリアになった。勧められるがままに選んでいたボストン型の細身のセルフレーム。今時の女子っぽいデザイン。それを掛けて最新の私になった横顔を武内さんが凝視する。フレームのフィッティングのためだ。


「失礼しますね」


 そう言って私の耳裏にするりと触れる武内さんの手はとても業務的だった。それでも私の顔や首筋は馬鹿みたいに熱くなる。それがバレているかは分からない。ただ、私から丁寧に眼鏡を抜き取った武内さんは何故だか少し楽しそうに笑っていた。


「コレ、有難うございました。お返ししたいので外して貰えますか?」


「お役に立てた?」


「はい、とっても助かりました」


 フィッティングやその他の説明が終わって、もう帰るだけになったタイミングで私はレンズの外れたぼろぼろのフレームを差し出した。武内さんは言われた通りテンプルだけを取り外して、私に前の眼鏡を返した。もうやるべき事は私の私事しか残っていない。


 ああ、これでおしまいだ。


 心の中でそう嘆いた。


 そう、ぬるま湯に浸かっているような、ただ好きだと思うだけの時間はもう終わり。


 私はハンカチが入った紙袋を武内さんに差し出した。


「あのっ、これ、特別にお世話になったお礼ですっ」


 勇気を振り絞って武内さんの目を真っ直ぐ見ながら紙袋を差し出す。武内さんは恐縮しながら店員として受け取る事は出来ないと一回断った後、私が引かない事を悟って受け取ってくれた。


「中身を、今、見てもらっても良いですか?」


 武内さんは笑顔で了承してくれて、ラッピングされたハンカチを取り出した。純粋に嬉しそうにしてくれる顔がとても格好よくて可愛くて、好きだと思った。


「あれっ、まだ何か入ってる?」


 武内さんが紙袋の底に忍ばせておいたアレに気が付いた。私の体は最高潮の緊張でガチガチに硬くなる。


 無言の私の前で武内さんはアレ――――手紙をを取り出して私の前で開いた。文字を目で追った後、武内さんの目が驚きで見開かれるのが見ていてとてもよく分かった。


 その瞬間、私は勢いよく立ち上がった。


「まっ、また来ます!!」


「えっ? あっ、ちょっと待っ――――」


 私は武内さんの声を無視してお店から飛び出した。


 走って走って走りまくって、絶対に武内さんが追って来ないと確信出来るところでやっと止まった。脳裏に浮かぶのは最後に見た武内さんの驚いたような焦ったような表情と手紙の文面。


『勘違いとかでは絶対なく、貴方のことが好きになりました。だからこれから好きになってもらえるように頑張ろうと思います。宜しくお願いします――――』


 メッセージに添えて私のSNSが検索できる情報を羅列しておいた。まずは自分を知ってもらわなきゃ始まらない。


 武内さんに好きな人がいるとか彼女がいるとかそんな事は今はどうでもいい。それならきっと次に会った時に教えてくるだろう。それで諦めたくなったら諦めればいいし、諦められなかったらその時考えよう。


 今はとにかく――――


 ――――好きになってもらなきゃ。

 

 ――――手に入れたいものがあるなら、頑張らなくちゃ。


だって私の恋は始まったばっかりだから。





 その後、私は何かと理由を付けて武内さんに会いに行った。


 告白してから一番最初に会いに行った時に、気持ちは嬉しいけどお客さんと交際する事は出来ないと言われた。私は逆に好きな人か付き合っている人がいるのか聞いてみた。いないと言われたので交際を断られた事を忘れて喜んだ。


 はじめのうちは月に一回か二回のペースで会いに行った。そうしている内におじさん店長と他の店員さんに私の存在が知れ渡り、何故だかみんなに面白がられた。そうして、武内さん以外の店員さんを味方に付けた。彼らはいつでもおいでと言ってくれた。もう遠慮はいらないと判断した私は週に一回か二回のペースで眼鏡屋さんに行くようになった。


 武内さんは会いに行くといつも気まずそうに笑った。そうしてわざとらしく私をお客さん扱いし、重ねて子供扱いした。SNSはチェックしてくれていないらしい。眼鏡屋に来る正当な理由がないと直ぐに帰れと言ってくるので、私は毎回眼鏡を洗浄してもらって、歪みやネジの弛みを直してもらう。加えて必ずフィッティングをしてもらった。


 それは、唯一私が武内さんのパーソナルスペースに入れて貰える儀式。仕事であるからと言って毎回武内さんは真面目に見てくれる。歪みがないか、ズレがないか、指でフレームに触れて確かめる。私は平気な顔をしてそれを受けていたけれど、毎回心臓バクバクだった。少しでも良く見られたくて、香りの良いシャンプーにしてみたり、見た目に気を遣ってメイクを覚えたりした。そして私は毎回フィッティングが終わった瞬間に武内さんを上目遣いで見つめて問うた。


「そろそろ付き合ってみませんか?」


 返事はいつもNOだった。それでも私は完全に拒絶されていない雰囲気を感じ取り、めげずに武内さんに会いに行った。


 そうしている内に、私は高校を卒業して大学になった。


 大学は高校とは反対側に電車で一時間半の立地。勉強にサークルにバイトで忙しい毎日。入学式直前まで毎週通っていた眼鏡屋さんに私はぱったりと行けなくなった。


「今日は視力検査をしようか」


 三ヶ月ぶりに会いに行った武内さんに笑顔は無かった。他のお客さんにはいつも通りの爽やかスマイルを向けるのに、私にだけ仏頂面。三ヶ月会わない間に自分が何かをやらかしたのではないかと焦った。会っていないのだからやらかすも何も無いのに。


 でもって、武内さんは何故か不機嫌な顔で私に視力検査を勧めた。最初に眼鏡を作った時以来のパーテーションの中はとても狭く感じた。それと同時に当時感じたドキドキが今も遜色無く私の胸にある事に気が付いて、我ながらしつこい恋心だと実感して、思わず苦笑した。


 検索用の椅子に座り、目の前に機械をセットされる。すると視界から武内さんが消えて、不機嫌な声だけが耳から入ってくる。緑と赤の画面を見比べさせられ、放射状になっている線の濃淡を確認させられる。それは私が人生で何度も経験してきた普通の視力検査だった。そこまでは――――。


「これから幾つか質問をするから答えて」


 検査中と同じ淡々とした声に、私は未だに視界が検査機に塞がれている状態で「はい」と返事をした。


「大学は楽しい?」


「新しい友達は出来た?」


「勉強は大変?」


 検査の延長だと思っていた私に投げかけられた質問はどれもこれも私のプライベートに関することだった。今までずっと私のことをお客さん扱いしてきた武内さんには有るまじき行為だ。私の頭の中は疑問で一杯になる。もし、笑顔で問いかけてくれるのならば、やっと自分に興味を持ってくれたのかと両手を挙げて喜びたいところだ。しかし、今の武内さんの声は単調でとても微笑んでいるようには感じられない。きっと仏頂面のまま。ならばこの質問にはどんな意味があるのだろうか。私は律義に質問に答えつつも、状況が理解出来ずに混乱し不安になった。そんな私に新たな質問が投げ掛けられる。


「……今日は何しに来たの?」


「えっ? そんなの決まって――――」


「三ヶ月間、来なかったのはもう他に好きな相手が出来たから?」


「えっ? 何言って――――」


「大学生になって、他に好きな人でも出来た?」


「武内さん!?」


 私は堪らず検査機から顔を離し、トレーに置いてあった眼鏡を掛けて武内さんを直視した。目が合った武内さんははっとした表情をした後に、一瞬で顔を真っ赤に染めた。そして、自分の顔を片方の掌で隠すと同時に俯いてしまう。


 ――――これはどういうことだろう?


 私の中に浮かんできた疑問は直ぐに消えた。あれよあれよという間に都合が良い方向に状況を判断しようとする自分に待ったをかける。駄目だ、早まるな、と自らに警告をしつつも、私は頭に浮かんだ可能性を捨てきれず、気が付いた時には勝手に口が動いていた。


「私、今でも、武内さんが好きですよ。だから今日もここに来たんですっ」


 久々に口にした思いの丈。私の中の感情が溢れて止まらなくなる。


 出会った日からずっと好き。その好きは私の身体に蓄積する一方で、減退したことなんて一度もない。忙しくて会えなかった三か月間はとても寂しかった。


 勢い余って感情のままに気持ちを伝えると、武内さんは顔の下半分を掌で覆って、ゆっくりと俯いていた顔を上げた。


 何か言葉が聞けると身構えた私の期待に反して、武内さんは真っ赤な顔で無言のまま。そうかと思ったら突然検査スペースの壁に貼ってある視力検査表を指差した。


 ――――えっ、この状況で視力検査を続行するの?


 心底そう思った。ただ、表の上を指差す武内さんの指がぷるぷると小刻みに震えているように見えて、無視することが出来ない雰囲気に流される。私は促されるがまま指し示されたマークを見た。


 中段の右端。


「お」


 上段の真ん中。


「れ」


 下段の右端。ちょっと見えづらい。


「も?」


 また冗談に戻って左端。


「す」


――――あれ?


――――もしかして?


 私は張り裂けんばかりに心臓を高鳴らせながら次に指し示されれば良いと思うひらがなを表の中に探した。それは中段の真ん中。そこにゆっくりと武内さんの震える指が伸びる。私はフライング気味でその一文字を読んだ。


「き!」


 ついつい大きな声を発してしまった私の前で武内さんは顔を両手で覆って、心底恥ずかしそうに「ですっ」と律義に付け加えた。






「仁さんは本当に緊張しいですよね。ドキドキし過ぎると声が震えちゃうとか、可愛いんですけど」


「うるさいなぁ! コンプレックスなんだから何度もそれを弄らないでよ!」


「だって、今日も何回も声がぷるぷるしそうになってて、何度私が代わってあげたいと思ったことか!」


「両親への挨拶を彼女に代わられるなんて珍事は御免被る!!」


夜の車中、仁さんが運転する車の助手席で私は会話を楽しみながら左手の薬指に輝く指輪を見つめた。高校時代に恋した相手は今や私の婚約者。次の目指すのは夫婦。


「結婚式はやっぱりウェディングドレスを着てチャペルでしたいなぁ」


「それはいいけど、一つ問題があると思うんだよね」


 いつの間にか私の住むマンションの駐車場に辿り着き、停まった車の中で仁さんがした発言に私は首を傾げる。すると仁さんの指が伸びてきて私の眼鏡に触れた。


「二人とも眼鏡派じゃん。本番は外せないだろうから練習が必要だと思うんだよね」


 何年経っても整った爽やかなイケメン顔がにっこり微笑む。その笑顔の意味を図りかねて私は益々首を傾げる。すると、眼鏡に触れていた指先が眼鏡の店員さんとしてだったら絶対に触れない顎先にするり移動しきて、私ははっとした。


「……誓いのキスのこと?」


「そっ。眼鏡がぶつかって失敗とか眼鏡屋としてカッコ悪いから、沢山練習させて?」


 言うなりガチャリとシートベルトが外れる音がして、私の視界に影が落ちる。


 ――――幸せだ、突っ走って、諦めなくて良かった。


 久々に昔のことを思い出して胸が震えた。


 そうして、私は今も昔もずっと好きな人のご希望に応えるべく、大事な眼鏡がカチリとぶつからないように首を傾け、そっと瞳を閉じた。

 

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