フナの日


 ~ 二月七日(月) フナの日 ~

 ※呑舟之魚どんしゅうのうお

  尋常ならざる才能を持った大物




「危ないからやめとけって」

「大丈夫。足をね? ドスンってしなければ結構平気……」


 この間、氷を踏みぬいて落っこちて。

 唇を真っ青にさせて震えるほどの目に遭ったくせに。


 凝りもせずに、小川に張った氷の上に乗るこいつは。

 舞浜まいはま秋乃あきの


 ここの所、連日冷え込んでいたから。

 流れの穏やかな小川が、それなり厚い氷で蓋をされる事になるのは分かるんだが。


「また落ちるぞ」

「…………ねえ、立哉君。魚も凍ってる?」

「誤魔化すな」

「誤魔化してない……。冬って、どじょっこもふなっこも見かけないから寂しくて……」

「凍るこたないだろ。氷の下で普通に生きてる」

「そうなんだ……。土に潜って、冬眠してるのかと思ってた」


 まるで子供のようなその発想。

 でも。


 どじょっこふなっこが。

 春になると、もぞもぞ起きてくる姿はちょっと可愛いかも。


「たまには可愛いことを言う。ひょっとしたら、ほんとに冬眠してたりして」

「うん。春に元気に泳ぐために必要なことだから、姿が見えないのはいいこと」


 そして、自分の説に勝手に納得したのか。

 秋乃は、冬の間に魚の姿が見えない寂しさをプラスに考え始めた。


「どじょうは、寒くなると土に潜る」

「なるほど、吉兆なんだな」

「あつくなると、豆腐の中に潜る」

「なるほど、吉四六きっちょむさんだな。ってばかやろう」


 可愛らしい話からどうして落語になった?


「豆腐にどじょうが潜り込むって話は信ぴょう性が無いらしいぞ?」

「な、なら良かった……。想像すると、ちょっぴり怖かったから……」

「わかるー」


 当たり障りのない。

 何の生産性も無い俺たちの会話。


 やたらと冷え込んだ日の夕刻。

 こんな寒空で暇つぶしをするのには訳があって。


「……凜々花に気を利かせすぎでは無いのか、二人とも」

「いいや? それを言うなら三人だろう」


 俺の切り返しに。

 ウフフと笑うのは、春姫ちゃん。


 今日は春姫ちゃんが凜々花の勉強をみて。

 俺が秋乃にチョコづくりを教える予定だったんだが。


「あんなに真面目に勉強されたら、キッチンで騒ぐわけにもいかねえからな」

「……教えていた私すら邪魔になるほどだった」

「そ、それより、春姫は早く帰った方が……」

「そうだ。こんな時期に風邪ひいたら大変だぞ?」

「……心配ご無用。まだ、風の子と呼ばれて差し障りのない年齢だという自負がある」


 えっへんと胸を張る春姫ちゃんだが。

 そんな言葉とは裏腹に。

 初めて出会ったころと比べて、随分大人びたすまし顔。


 中二から、もうすぐ高校生。

 そりゃあ変わりもするよな。


「……それより、私としてはお姉様が心配だ。今立たれている場所、以前水没した辺りでは無かったか?」

「そう……、だっけ?」


 春姫ちゃんに言われて、秋乃は急にそわそわし始めたんだが。

 大人に近付いていく春姫ちゃんとは対照的に。


 なんだかこいつ。

 日に日に子供っぽくなっているような気がする。


「春姫ちゃんの言う通りだ。また落ちるからいい加減出て来い」

「へ、平気……。それより、今……」

「ん?」

「……立哉さん。デリカシーのない単語を口にしないように」

「おっと、いかんいかん」


 いくら合格率80%とは言え。

 春姫ちゃんだって受験生。


 落ちる、滑るは絶対禁止だ。


 自分が、不合格とは無縁の人生を送ってきたせいで。

 禁句に気をまわすことができないなんて。


「気を付けねえと」

「……本当に勘弁してくれ。勉強のお供にどうぞとか言いながら落花生を出してきたときには肝が冷えた」

「面目ない」


 いつもと同じ光景。

 秋乃も俺も、春姫ちゃんには形無しだ。


 でも、この春からは同じ学校の三年生と一年生になるわけだし。


「立派な先輩として威厳を保たないとな」

「……そうだぞ、先輩。しっかりしてもらわないと」

「まあ、春姫ちゃんの先輩になるのはほぼ確定として、アイツは……」

「……ふむ。あの調子なら大丈夫だろう」

「そうかぁ?」

「……凜々花の集中力は尋常ではない。今の凜々花なら、三日でひと教科、試験範囲の全てを丸暗記できるだろう」


 春姫ちゃんの言う通り。

 今日の凜々花は尋常ならざる速度で参考書を読み進み。


 春姫ちゃんが時折出す問題に、完璧な答えを出していた。



 でも。



 俺としては、二つの不安があって。


 一つは、これが何日ももつのかという事。

 そしてもうひとつが。


「なあ、春姫ちゃん」

「……なんだ?」

「凜々花が急に真面目になったの、なんでだ?」


 散々苦労したのに、まるで勉強してこなかった凜々花の変貌。


 もちろん喜ばしいことなんだが。

 理由が今ひとつわからない。


 そんな俺の疑問に。

 春姫ちゃんは、一瞬目を泳がせた後。


 小さくため息をついてから。

 事情を話し始めたんだが……。


「……うむ。言っていいものかどうか微妙なのだが」

「教えてくれよ」

「……凜々花のクラスにな? その……」

「はっきり言えって」

「……やれやれ、仕方ないな。凜々花のクラスに、ルックスは月並みながら尊敬できるほど優しい男子がい」

「お兄ちゃんは! 許さんぞ!!!」


 なんだとぉ!?

 そいつも同じ学校目指してるってのか!!!


「……問題文の途中で早押しするな。不正解だ」


 落ち着き払った春姫ちゃんが。

 携帯から、ブブーと不正解のブザーを鳴らしながら肩をすくめる。


「……とはいえ、まあ、勉強し始めた理由は理解したようだな」

「まだ中学生にチューなんて早すぎる!!! ダメ絶対!!!」


 ブブー


「……なんという想像力。まずは落ち着け」

「これが落ち着いていられるか!? くそう、そいつの家に行って勉強の邪魔をしてきてやる!」


 ブブー


「今から凜々花の志望校を変えて……」


 ブブー


「ああもう! どうしたら!?」


 慌てふためく俺の姿を見て。

 くすくすと笑う舞浜姉妹。


 そのうち、春姫ちゃんが。

 嬉しそうに微笑みながら呟いた。


「……凜々花は、幸せ者だな」

「好きな男が出来たって事が!?」

「……そうではないよ。やれやれ、そんな調子で立派な先輩とやらになれるのか?」

「それは秋乃に任せた! 俺はお邪魔なおにいになってくれる!」

「……ははっ。だ、そうだぞ、お姉様」


 春姫ちゃんが。

 立派な先輩役を俺から託された、秋乃に話を振ると。


 いつものわたわたはどこへやら。

 任せておけと胸を叩いて。

 えっへんと仁王立ち。



 ……それと同時に。



 落ちる、滑るは絶対禁止な春姫ちゃんの目の前で。

 つるりと滑って。

 氷を突き破って川の中に落ちて行った。



「うはははははははははははは!!!」


 呆れながら俺を見上げる春姫ちゃんの手を引いて。

 小川に駆け寄って秋乃の様子をうかがえば。


 這い出そうにも、体が凍えてままならないという。

 なんとも情けない先輩の姿。


「つ、冷たすぎて冬眠しそう……」

「じゃあ、そのまま土に潜ってしまえ」

「冬眠するなら、お布団の中がいい……」


 

 仕方がないので。

 俺と春姫ちゃんとで力を合わせ。


 立派な先輩を。

 川から引き揚げると。


 氷の割れた水面下。

 フナが横切る姿が見えた気がした。



「……わりいな、春が来る前に起こしちまって」

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