第37話 殺人鬼

 私は一人のホストに夢中になった。ググトなのに・・・。でもそのためには何でもする。ーーーーググトのいる平行世界から現実社会に来た私(ググトの川口京子)の話。


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 私がこの異世界に来てしばらくの頃だった。ここは以前いた世界とは似ているが違う世界だった。街では人間は大手を振って自由に動き回り、向こうの世界になかった華やかなものであふれ、社会全体が活気で満ちていた。私はこの世界が気に入っていた。それは以前いた世界では考えられない・・・。

 特に夜の街は私を魅了した。暗いはずの夜をネオンが明るく輝かせ、多くの人間が集まって陽気に騒ぎ、その喧噪が暗く委縮した私の心を開かせようとしていた。


 私はググトだ。普段は若い人間の女性に擬態している。この姿で以前の世界でも多くを生きてきた。人間であるかのように・・・。だが一つ違うのは人間の血を吸って生きているということだけだ。普段は朽ちかけた古いアパートの1室に住み、人と接しない仕事をしてお金を稼ぎながら地味に生活をしていた。とにかくマサドに見つからぬようにひっそりと生きてきたのだ。

 この世界に来た時も周りの環境は変わらなかった。偽名で使った「川口京子」という名、住んでいたアパート、工場のラインの仕事・・・すべて同じだった。元の川口京子が人間であったという以外は。

 このアパートからあの街までは少し距離があった。夜の食事のときに偶然、通りかかったのだ。そこは私の住む場所とは大いに違っていた。それから私はその街に出かけるようになった。特に用もなく、ただふらふらと・・・。


 それがある日、私は出会ってしまった。「翔平」という男に。


 私はいつものように街を歩いていた。その時、酔っぱらいの中年男が私に絡んできた。ヨレヨレの背広に緩めたネクタイ・・・ただのサラリーマンのようだったが。


「よう、ねえちゃん。一緒に飲まねえか!」


 私はそんな人間は嫌いだった。相手にする気さえなかった。だから何も言わずにプイとそこから逃げようとした。だが男はしつこく追い回してきた。


「どこ行くんだよ!」


 私は騒ぎになったらまずいと逃げようとするが、男は乱暴に私の手をつかんだ。


「シカトしてんじゃねえぞ!」


 男は汚い言葉を投げつけてきた。誰もいなければこんな男、触手で吹っ飛ばせるのだが、こんなところでそれはできない。騒ぎに多くの人が集まって見ている。


「許してください・・・」


 私はそう言うしかできなかった。か弱い女性を演じておけば、男がやめるかもと思っていたが、そうではなかった。


「許せねえ! ちょっと一緒に来てもらおうか!」


 男は私の手をさらに乱暴に引っ張っていく。こうなったら人目につかない路地裏で始末しるしかない・・・私は思っていた。するとその男が急に私から離れた。


「嫌がっているだろう!」


 それは若いイケメンの男だった。中年の酔っぱらい男の胸ぐらをつかんで、一発、その顔にパンチした。すると中年男は路上に転がった。周囲で見ている人からは歓声と拍手が起こった。


「なにするんだ!」


 中年男はそう叫んでふらふらと立ち上がった。だが若い男はその前に立って、じっと威圧するように睨んでいた。その迫力にさすがの酔っぱらいも酔いが覚めたようで、


「お、覚えていろ・・・」


 とよろけながら逃げて行った。私はその光景をぼうっと見ていた。


(こんなことってあるの・・・)


 か弱い女性が絡まれて困っているのを助けるイケメンの男・・・それはドラマでありがちの場面ではあった。しかし目の前で、しかも自分がその当事者になると・・・私は体中が火照る思いがした。たとえ私がググトであっても・・・。もっとも私は人間に擬態して生きている時間が圧倒的に長いから、心は人間に近いと言っていいのだけれど・・・。


「大丈夫かい?」


 その若い男は私に微笑みかけてきた。


「あ、ありがとうございます・・・」


 私はとにかくそれだけ言った。自分でも顔を真っ赤にしているのがわかった。


「それはよかった。俺は翔平。あの角のRという店でホストをしているんだ。よかったら遊びに来てよ。」


 男はさっと胸元から名刺を差し出した。私はそれを受け取った。


「じゃあな。気を付けるんだぜ!」


 翔平はそのまま人ごみに消えていった。私は名刺を手に握り締めたまま、その後ろ姿を見送っていた。



 その日は後のことを覚えていない。しかしあの出会いの場面が強烈過ぎて、次の日からそのことが頭を常によぎっていた。そしてそれを思うたびに心臓がバクバクと鼓動し、顔が赤くなるのだった。


(私はおかしくなってしまったのかしら・・・)


 人間じゃあるまいし、こんなことがググトに起こるなんて思いもしなかった。しかし時間が過ぎれば過ぎるほど翔平に会いたい気持ちが強くなっていた。


(もう一度、翔平に会おう。そうしたら満足して、そんなことは忘れられるかも・・・)


 私はなけなしの金をつかんで夜の街を訪れた。行き先は翔平の勤めるRという店だ。


「いらっしゃいませ!」


 店に入ると、多くのイケメンが笑顔で迎えてくれた。きらびやかな店内に地味な私は不釣り合いのようでもあった。しかしホストはそんな顔をおくびにも出さず、テーブルに案内した。


「ご指名は?」

「あ、あの・・・翔平さん・・・」


 私は緊張したが、何とかそう言えた。するとしばらくして翔平が来た。


「来てくれたんだね。うれしいな。」


 翔平は私のことを覚えていてくれていた。私はそれだけでうれしくなってしまった。


「この間は・・・」

「いやいや、そんな話はいいからもっと楽しい話をしようよ・・・」


 翔平はいろんな話をして私を楽しませてくれた。私は何も飲めず食べられなかったが、代わりに翔平が飲んでくれていた。その楽しい時間はあっという間だった。翔平は帰りがけに言った。


「また来てよ。」

「ええ、いいわ。また来る。」


 私はそう言った。だが料金はかなり高かった。ホストクラブだから仕方がないにしても私のありったけの貯金がなくなってしまった。これではまた行くことなどできない。翔平に次、いつ会えるのか・・・。




 それからも翔平のことが頭から離れなかった。もう一度会いたい・・・と思うのだが、もうあの店に行くお金がない。だが我慢などできない・・・ギリギリのところに来ていた。そしてついに・・・


 私は禁忌を犯してしまった。


 ググトが人間を襲い、血を吸うのは食物連鎖自然の摂理だ。それでググトは命をつないでいる。だが襲った人間からそれ以上の物を奪ってはならない・・・それはググトの精神の根幹に刻みつけられているはずだった。しかし私はそれを破ったのだ。

 数日に一度、私は夜に出かけて人を襲い、その血を得る。その日も人のいないところを恰幅のいい男が歩いていた。私はそっとその後をつけ、そして頃合いになってその男に襲い掛かった。後ろから触手でぐっと引き寄せ、口をふさぎ、そして鋭い口で体を傷つけた。そして流れる血をなめとるように吸っていた。その時、その男の懐から財布が見えた。それはワニ革の上等なもので大きく膨らんでいた。中には札が詰まっているに違いない。これがあれば・・・。私にはその恐ろしい考えを打ち消す余裕はなかった。右手が出てしまったのだ。

 家に帰って気が付くと、その財布は私の右手にしっかりと握られていた。


「あわわわ・・・」


 私は悲鳴にも似た声を上げた。こんなことをしてしまった。ググトなのに・・・。私は怖くなって財布を壁に投げつけた。すると財布の中から札束がこぼれ出て来た。それは私を誘惑していた。


(返してくるんだ! こんなことをしていたら・・・)


 という私と、


(頂いとくんだ。あの人間は死んでしまったから使いようがない。)


 という私が心の中にいた。私は決して倫理がどうかとか、悪いことをしてバチが当たるとか、そんなことを思っているのではない。ググトとしてやってはいけないことをしてしまったのだ。こうなったら自然界の人間の上位に位置する者ではない。ただの野獣にすぎなくなる。

 私はその札束を拾い上げた。それは見た目以上にずっしりとした手ごたえが感じられた。これだけあれば・・・


(私は翔平に会いたい。たとえググトでなく、ただの野獣になり下がったとしても・・・)


 私はあふれてくる悲しみで涙がこぼれていたが、その札束を大事にしっかりと抱えていた。




 あれから私はRに通い詰めた。翔平はその度に喜んでくれた。


「京子が来てくれるからうれしいよ。それに俺、この店で3位に上がったんだ!」


 この店で翔平はただの駆け出しのホストだった。しかし私が通うことで売り上げが伸びたようだ。


「俺、この店でナンバーワンになりたいんだ!」


 翔平は私にそう言った。あの男から奪った札束の金はなくなりかけているが、彼の頼みを聞かないわけにいかない。私が何とかしないと彼の地位が落ちてしまうのだ。


「わかったわ。だからどんどん注文して!」


 確か、今のナンバーワンのホストの男は太い客が何人もついていた。中でも大会社の社長令嬢というのがそのホストに入れあげているようだった。


(負けるもんですか!)


 私は対抗意識を丸出しにしていた。多分、その令嬢は親の金で苦労もなく、優雅に遊んでいるんだろう。私はググトの魂を売ったのだ。もう怖いものなどない。



 私は食事のたびにその人間の財布も狙った。そしてそれに罪悪感を覚えなくなっていた。しかもそのターゲットをうまそうな血を持っている人間ではなく、懐具合がいい人間に絞って襲うようになっていた。


(だめだ・・・これでも足りない・・・)


 私はRに毎日のように通い、多くのお金を落としていった。しかし相手の方はそれ以上にお金を使っている。翔平はいつまでたっても第2位のままだ。


(京子さん。やっぱりまだ足りないんだ・・・)


 翔平が甘えるようにそう言う。こうなったら派手な遊びを繰り返すしかない。高価なシャンペーンでタワーでも作ってみるか・・・。それには・・・


(もっともっと金を・・・)


 私は必死になっていた。店を出てから日が開けるまで夜通しで狩を続けた。もう血を吸うのではない。金を奪うのが目的だ。今日も何人も殺し、財布を奪って来た。もう後には引き返せない・・・。


 私はググトでなくなった。ただの殺人鬼となり果てたのだった。

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