第35話:四月一日

三月三十一日。

ついこの前まで俺と時雨の変貌ぶりに沸き立っていたクラスともすでに別れを迎えていた。

終業式も終え、さらに春休みも今日でもって終了だ。

少ないながらも時雨や佐久間などの友人を得ることもできたから、未練や後悔はない。


そんな日に、俺は綾香に誘われて、小高い丘の上にやってきていた。

そこは桜の木が多く植えられており、春の到来を唄うように小花が咲いている。

ここからだと都心の高層ビル群もとても小さく見える。


「――悠斗」


そこで綾香に下の名前で呼ばれ、驚いてしまう。

彼女は小学校までは下の名前で呼んでくれていたが、再会したときには苗字で呼んできていたからだ。

そしてそれは今という時を迎えるまで続いていた。

その不文律を破ったということは何か心境的な変化があったのかもしれない。


「どうしたんだ? 今までは苗字呼びだったのに」

「それはね――今日でわたしは悠斗とお別れだから」


こちらの胸がキュッと締めつけられるような微笑みでそんなことを言う。

綾香の笑顔は幾度となく見てきたが、こんな笑い方を俺は知らない。


「いよいよお前の両親に呼び戻されたか……」

「ううん、違うよ」


ゆっくりとした声音に、ならどうしてと問いかける。

予想していた答えと違う返答に戸惑いを隠せない。

ならどうして”別れ”などと言ったのだろう。

俺にとってその言葉ほど辛いものはない。


先に続いた言葉は俺が予想も予期もしていなかったことだった。


「四月一日――その日、わたしは死んじゃったんだ」


何気なく、少し残念そうな表情を浮かべながら頬を掻く。

そんな彼女に対して俺は神様に思った。


――ああ、神様はなんて意地悪なんだろう。


朝露事件で一人の女の子を奪い、殺人という名の失踪で一人の肉親を奪った。

その上、俺からまだ奪い足りないというのか。


拳を握る力と歯を食いしばる力の双方にとめどない痛みが宿る。


「嘘じゃ……ないんだよな」

「うん、全部本当のこと。悠斗も薄々は感じてたんじゃないかな。水族館に行ったとき、旅行に行ったとき、他にもいろんなところで他の人の視線が向けられていたこと」

「ああ、俺もそれは気になっていた。全部気のせいだと思っていたけど、あれはどういうことなんだ?」

「わたしはね、今は悠斗にしか触れられないし、触れることもできない。いつもわたしが君にボディタッチを求めていたのは、そうすることでわたしが現実に干渉できるようになるからだったんだ」


思い返せば、どんな時も彼女は物を持つとき、俺のどこかしらに触れていた。

唯一彼女がクレープを食べた時、その時は俺と彼女の身体はかなりの至近距離にあった。


そうか、そうだったんだ。

彼女は確かに人見知りだが、あれほど人を避けるような行動ばかりしていたのは、自分が他の人には見えないから。

時雨に会えないと言ったのも、彼女に綾香のことは見えないから。

思い返せば返すほど、不自然な点との整合性が取れていく。


「……なら、もしかして俺が安藤と童虎に絡まれていた時、突風を起こしたのって……?」

「まあね……。亡霊のわたしが君に触れずに何かを起こせるとしたら、それはポルターガイスト。二人が悠斗を傷つけようとしているのを見ちゃったから、抑えられなくって……」


あはは、と彼女は苦笑する。

今思えばあの日はほぼ無風状態であったにもかかわらず、局地的にもほどがある突風だったのだ。

それが偶然起こったという説明にもかなりの無理がある。

バラバラだった断片が綾香の言葉と共に組み合わさり、その一つ一つが綾香という人間がもうこの世にはいないのだと証明されていくようだった。


俺は四月一日という言葉に思い出す。

その日は確か朝から救急車が走っていたはずだ。

もしかしたらそれに綾香は担ぎ込まれたのかもしれない。


「綾香……お前が四月一日にこっちに来たのは俺のところを訪ねるためか?」

「そうだよ。わあって驚かせてあげようって楽しみにしてたんだけど、その日、車が突っ込んできてわたしはあっけなく死んじゃった」


『死んじゃった』とあっさり表現する綾香だが、俺は内心穏やかではなかった。

死神は俺なのかもしれない。

そう思えるほどに、大切な人たちが遠ざかっていく。


「今までは怖くて君の下の名前を呼べなかった。わたしは本当はここにいちゃいけない間違った存在だから。わたしが傍にいれば傍にいるほど、本来君の作れたはずの思い出をわたしが奪ってしまうから。でも、今は違う」


サアッと優しい春風が彼女のワンピースの裾をさらい、セミロングの髪が緩やかに靡く。

満開の桜に囲まれて笑顔を向けた彼女を俺は一生忘れないだろう。


「好きなんだ、君が」


時間が制止したように、俺の瞳に綾香の柔らかい表情が写り込む。

それはまるで奇跡のような瞬間だった。


「わたし、悠斗のことが好きで、最初は霊でありながら君に近づいた。世界の摂理に反したわたしの存在を許して、神様がくれた最後の猶予だから、できるかぎり君の傍にいたかった。でも、それは同時に悠斗を傷つけることでもあった。事実、こうして悠斗を悲しませてしまってるから」


俺の頬にはとめどない雫が溢れ出ている。

それを阻むことなどできなかった。


「本当はここにいちゃいけないわたし。わたしね、悠斗が遠くに行っちゃってから、すごく寂しかったんだ。何をするにもいない悠斗の影ばっかり追いかけてた。そんなとき気づいたんだ。ああ、あの人は――夜宮悠斗っていう一人の男の子は自分で思っているよりもずっとずーっと大切な人だったんだって。覚えてる? わたしと悠斗が初めて会った時のこと」

「忘れるわけないだろ……」


いつになったって忘れない

恥ずかしげにはにかむ綾香に俺は一枚の絵をあげた。

小さかった俺の精一杯の絵だった。

それを嬉しそうに受け取ってくれた初めての女の子。


「あの時からきっとずっと好きだったんだ。だからわたしは撥ねられて薄れていく最期の瞬間に、神様に言ったんだ。『あなたのところに行く前に猶予をください』って。不思議な温かさがあって気づいたときには一年間だけ猶予をもらってた。それが今のわたし。悠斗以外の誰にも認識してもらえない代わりに、君に触れている間だけは他のものに触れられる。これが四月一日に死んでしまったわたしの奇跡」


涙が頬を伝い、一滴また一滴と宙を舞う。

咲き誇っている桜がそれに呼応するように花吹雪を散らす。


「ふふふ、でもよかった……。わたしはわたしの未練でしがみついちゃった。でも、そのおかげで悠斗を元気づけて、後ろじゃなくて前を見てくれるようになったんだから。後悔は一つもないよ」


サクラの花弁のひとひらを手に取ろうとするが、俺に触れていない綾香は現実に干渉できない。

それを寂しそうに微笑む。


「バイバイ、悠斗。もし次なんてものがあるなら、わたしは何回だって悠斗を見つけて何回だって好きになるよ。それくらいわたしにとっては大好きな人だもん」

「俺だって綾香のことは好きだ! これからもそれは変わらない! 絶対……絶対にっ……」

「ふふふ、悠斗は優しくて強くて、でもやっぱり弱い人。いつかまた、今度は人として会えるように、そして悠斗につらい思いをさせなくて済むように……」


燃えるような橙色に綾香の輪郭がおぼろげになっていく。

金色の燐光がリボンの結び目をゆっくりと解いていくように、徐々に消えていく。


俺は必死で駆けよって綾香の身体を抱きしめる。

まだ、まだここに実在している。


だがそれも段々と触れている感覚が消えていく。

今の彼女に見えているもの、聞こえているもの、感じているものがどんなものなのかは分からない。

それでもすがるように俺は彼女を抱き寄せる。


「あ……ああ……っ」

「そんな、顔、しないで……。悠斗に看取られて、悠斗の腕の中で本当に死ねるんだ。すこしも、怖く……ない……」


太陽が地平の彼方へ沈むのと時を同じくして、桜瀬綾香はその身を天に昇らせた。

手のひらに残ったものはクリスマスにプレゼントした桜を象った髪留めだった。

ほんのりと彼女の温もりを感じてしまって。


「う……うぁああ……あああああぁああ!!」


涙が後から後からあふれ出てくる。

目元から頬を伝い、無機質な地面に染みを作る。


「あやかっ!! あやか……っ!!」


呼んでも返りごとはもうない。

これが本来の正常な世界。

言葉として理解していても、感覚としては納得できない。

当たり前の状態に戻っただけだというのに、胸には別れの悲哀ばかりが詰まっている。

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