第13話 深夜病棟 ―――赤羽涼太

奴が、一歩一歩ゆっくりと向かって来ると同時に、お線香の様な匂いが廊下中に漂い始める。しかも、普通のお線香よりも匂いが強く感じる。

何で、こいつが今、ここで俺達と対峙しているのか、全てが解らなかった。

ただ、一つだけ言えるのは、こいつは俺達を排除しに来たに違いがないって言う事だけは、何となく悟る事が出来た。

一歩一歩…ズズズッ…ズズズッと、足音を立てて近付いてくる。

お祖母さんがお経を唱えているが、効果がないのか、状況が何も変わらない。

天井の蛍光灯が、バチバチッと消えたり付いたりを繰り返す。

薄暗い廊下が、明るくなったり、暗くなったりする中、宏美が一歩前に出て、奴に向かって言葉を発した。

「お前は誰だ!どうして、敦司に憑依しているんだ?」

何者かに憑依されている敦司の足がピタッと止まり、ニヤっと笑いながら答えた。

「ククク…憐レ過ギテ見テイラレナイカラ、コイツニ教エテヤッタノサ…」

敦司の声ではない。

低く籠った様な声は、更に不気味さを増したのだ。

俺達と、敦司の間にある天井の蛍光灯がバリンッと割れた。

床に落ちた破片の上を、奴は気にもせず歩き始めると、太田が宏美に言った。

「やっぱ、思った通りだったでしょ?昨日から、宏美の旦那の体はすでに何者かに憑依されていたのよ…」

「うん」宏美が頷く。

憑依?一体、誰が敦司の体を支配しているのだ?

奴は、手を伸ばせば触れられる距離まで来た。


「敦司ハ、気ガ弱イ男ダカラ、代ワリニ俺ガオ前達ヲ裁ク」

そう言って、奴は俺達に向かって手を伸ばした。その指先が宏美の手首を掴んだ瞬間、宏美はその場でしゃがみ込んでしまった。

焦点の合わない黒くて大きな眼球でお祖母さんを見つめる。

お祖母さんはお経を止めずに唱える。しかし、奴はもう一つの腕でお祖母さんの口を塞いだ。

塞がれると、お祖母さんはその場に跪き意識を失った。

「無駄ダヨ…。宏美、コノ映像ヲ見ロ」

宏美の脳裏に、何か見えた様で、暫くすると絶叫をして涙を流した。

一体、何を見せられたと言うのだ?

「涼太、友達ダト思ッテイタノニ…」奴は、宏美とお祖母さんから手を放すと、今度は俺を掴もうとし、手を伸ばして来た。

その手を太田が払いのけると、ポケットからお札を取り出して敦司の体に貼り付けた。

敦司の顔が歪む…

苦悶の表情へと変わり、後退りする。

お祖母さんが意識を取り戻し、すぐにお経を唱えながら、塩を掛ける。

「ユ…ルセ…ナ…イ…」と、途切れ途切れ言葉を発しながら、必死に手を伸ばすが、その手を太田が蹴り上げると、その場で崩れ落ちる様に顔から床へと転がった。

太田は、数枚のお札を敦司の体に貼る。

両手、両足、額、心臓に貼られたお札は、どうやら結界の様になるらしく、これで一安心だと、太田が教えてくれた。

お祖母さんは、倒れている宏美を抱え起こす。


宏美が言うのは、敦司に憑依していたのは純平で、その純平に見せられたのは、俺と宏美が密会している映像と、純平が祥子の家に火を付けた映像だったと言う。

純平は、俺達の関係を知っていたのだろう。それを、憑依と言う形で敦司に教えたと言うが、そんな事が現実にあるのか?

そして、自分の犯した罪さえ、宏美に見せた理由の意図は?

純平は、すでに死んでいるから、それが解る事はないけれど、何かしら意味があると、俺は感じた。

お祖母さんが、ナースステーションにいる看護師に断って電話を借り、誰かに電話を掛けた。

誰に電話をしたのか、それが解るのは30分が経った頃だった。


「それにしても、唯、凄いね」宏美が驚いた表情で言う。

「私なんか、たいした事はないよ。お祖母さんがお経を唱えてくれたり、塩を掛けてくれたからだよ」謙虚に返事を返すと、お祖母さんも含め、三人が笑った。

一度、きちんと整理すると、昨日、お見舞いに来た時点で、敦司は純平に憑依されていたと言うのだけど、それに気付いたのは太田だけ。

おかしいな、と思ってはいたが、何も出来ない自分の無力さを痛感している時、宏美から俺を狙う奴がいるから行っても良い?と、言われたと言う。

その電話で、お互いが感じている得体の知れない力を確かめ合って、今に至ると言うが、嘘みたいな話に聞こえるけど、これが実際にあったのだから、信じるしかない。

しかし、まさか純平にバレていたとは…

そして、祥子の家に火を付けたのが純平だったとは…

とにかく、たった数分の間に、色んな事があったなと改めて痛感した。


30分程経った時、高部さんと知らない男がやって来た。その男は、高部さんの大学時代の友人だと紹介されたが、実は太田の兄だとも紹介された。

―――太田直人

普段は、前橋市内で霊視や占いなどで生計を立てていて、稀にであるが、雑誌やテレビにも紹介もされた事があるとの話だ。

太田と同じで、霊感が強く、俺の写真を見ただけで危険を察していたらしい。そんな男と友達なんて、やっぱ、この高部と言う警官は凄い人だと思った。

太田さんが倒れている敦司に近付くと、お札を剥がして人差し指を眉間に当てて念じると、敦司の体から白い煙の様な物がスーッと抜けて行く。

その白い煙が、純平の怨霊だと言う。

「彼に憑依した理由は、何も知らなかった彼がかわいそうだと思ってだと言ってたし、自分が自殺した真相を伝えたかったんだって。ただ、一つ気になる点が残ってるんだけど、君達の知り合いに、くるみって子はいるよね?」

「上野くるみって同級生がいますが、何か関係が?」

俺が言うと、「その子が彼に憑依して火を付けたみたいだよ」

つまり、敦司は自らの意思で祥子の家に火を付けたのではなく、くるみに憑依されて火を付けたと言うのか?そして、その罪滅ぼしで自ら首を吊って…

今度は、その純平が敦司に憑依して、俺と宏美の関係を教えつつ、真相を伝えたと…

複雑に絡み合った糸が、また更に複雑に絡み合った。

何が何だか解らないけど、とにかく、敦司も純平も被害者だと言うのか?

「ねぇ。涼太、風香の写真を見て貰ったらどうかな?」宏美が提案する。だが、俺はスマホが壊れてしまって写真がない事に気付いた。

「写真がないんだよ、スマホ壊れちゃって」そう言うと、そうだよね、と言って宏美が自分のスマホをポケットから取り出して風香の写真を選んで、少し前のだけど…と言い、太田さんに見て貰う事にした。


太田さんは、目を閉じて写真に手を翳し集中した。

「この子は、まだどこかで生きている。どこかは解らないけど。ただ、生命力は低下しているから急がないと…」

その言葉を聞いて、安心したと同時に希望が持てた。

今すぐにでも風香を探そうと、そう決心したのだが、この体では何も出来ない。

「さて、事も済んだし、ここにいたら仕事に支障が出るから、一度ここから出よう」と、高部さんが正論を言った。

それに従って、宏美達は病棟から帰る事になった。

まだ、意識のない敦司は、しっかりお祓いをしないと危険だからと言って、太田さんが連れて帰る事になり、高部さんが背負って帰った。


その夜、なかなか寝付けなかったが、気が付けば朝を迎えていた。

太田が朝の巡回に来ると、昨夜の話を少しだけしたのだが、夢ではなく現実に起きた事だと、再確認した。

俺は、とにかく暇だったから、昨夜の出来事を整理する事にしたが、宏美との関係が敦司にバレた今、どうする事も出来なかった。

しかし、この事に関しては、高部がお見舞いに来て解決した。宏美も同席して話を聞いたのだけど、憑依されていた記憶と、純平に見せられた密会に関しては、敦司には一切の記憶がないと言う。

ないと言うより、太田さんが消してくれたと言うのだ。その記憶がある限り、また同じ事を繰り返す原因に繋がるらしいから。



2022年 4月29日


予定より少し早いが、明日の午後、退院の許可が下りた。骨折は治ってはいないが、まだ仕事は出来ないけれど、日常生活には、そこまで支障はない。

痛みも和らいで、暫く通院で良いと担当医に言い渡されたのだ。

今日は、太田の勤務は日勤だった。久し振りに再会したと思ったら、あんな出来事に遭遇してしまい、しかも、命を助けられたのだ。入院先が、この病院で良かったと、心の底から思った。

母親、父親が最後のお見舞いに来て、続けて宏美や敦司も来た。久し振りに敦司に会ったが、高部さんが言う通り、何も記憶になかったから安心した。

でも、それだけの事を、俺達はしていたのだから、責められても仕方がないし、何も言えないのも事実だ。

敦司には悪いが、記憶から消えてくれた事に安心している。

日勤の太田が帰る時間を過ぎると、俺の病室に来て、また明日も日勤で来るからね、そう言って帰って行った。

明日は、やっと退院だと思うと、その日はなかなか寝付けなかった。

消灯時間が過ぎても眠れなかった。

風香は、今どこにいるのだろう?そして、何をしているのだろう…そんな事を考えていると、ふと、何かに導かれる様に窓の外が気になった。

カーテンを開けると、駐車場が見えるだけで、特に変わった印象はなかった。気のせいかと思い、カーテンを閉めようとした時だった。

赤い服を着た女が視界に映り込んだ。それが、誰なのか解らなかったが、遠目だけど見た感じが風香の様にも思えた。

風香らしき人影が、俺の病室を見上げている。何となく、目が合った錯覚がした。

ブルブルと、身震いする何とも言えない寒気を感じたが、俺は目を逸らす事が出来なかった。何故、目を逸らせなかったのか、俺にも解らないけど…

だけど、その赤い服の人影が、風香に見えて仕方がない。思い込み?いいや、あの背丈や髪形や雰囲気は、当時の風香そのものにしか見えない。

風香らしき人影が手を振る。きっと、風香だと思い、俺は慌てて病室を出て会いに行こうと決めた。痛みも和らいだから、ベッドから起き上がるのも楽になり、すぐに廊下へ出ると、さっきまで外にいた筈の風香らしき人影が奥に見えた。

よく見ると、風香だ。風香以外には見えなかった。俺は、やっと風香に会えた喜びで、それまであった疑問すら頭の片隅から消えていた。


「風香…」俺は、風香の立つ場所まで歩いて向かった。

風香は、その場から動かない。確か、あの場所は階段の場所だと、思い出した。

もう少しで風香に触れられるって距離になる。

風香は、ただ俺の事を見ている。声を掛けると、言葉を無視して階段を下りてしまった。

まさか、風香じゃなく、人間違いだったのか?いや、絶対に風香に間違いない。

俺は、追い掛ける様に階段を下り様とした。

踊り場に風香が立っている。

「風香、俺だよ、涼太だよ」いくら呼び掛けても返事はない。

その時、肩を叩かれた。

看護師の巡回の時間かなと思い、振り返ると、目の前にいた筈の風香が背後に立っていた。

よく見ると、風香の姿をしているが、こいつは風香じゃないと悟った。

その瞬間、俺は背後にいた風香に突き落とされた。

階段から転げ落ちると、額を床に擦り付けたからか血が流れた。

ドクドクッ…ドクドクッ…心臓の鼓動が高まる。

静寂の病棟に響く。

体を起こし、床にしゃがむ形になると、風香が近付いて来た。

その表情は、青冷めた顔色に不気味に開いた口と、眼球が抉り取られている様に、真っ黒な目元。その目元からはドス黒い血の様なモノが流れている。

しゃがみ込んだ体勢で後退りすると、壁に背が付き、そこから動けなくなってしまった。

風香が近付いて来る。

誰か助けて…声が出ない…

風香が手を伸ばす。

視界が真っ暗になった。

恐怖や痛みを越した何かを感じたが、それも一瞬の事だった。


2022年 4月30日 AM 1:19 赤羽涼太、高崎北総合病院、二階と三階の間にある踊り場にて、転落後『両目』を抉り取られ謎の怪死…



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