バチカン

 その日の夜九時、二階で宿題をしていた千穂をたすくが呼びに来た。援は店の従業員でバリスタである。まだ若いがその道ではなかなかの有名人で、彼のコーヒーを目当てに店に来る客も多い。


 類は友を呼ぶと言うが、援も千穂たちと同じような能力の持ち主だ。


 千穂が下りていくと、店の壁にスクリーンが掛けてあり、中央のテーブルにはパソコンと映写機が置かれていた。アイキノミコトと叡智あきらは既に席に着いている。援は千穂をスクリーンの正面に座らせると自分はパソコンの脇に座った。


「何が始まるの?」


 千穂は不審そうに皆の顔を見たが、皆ニヤニヤするばかりで何も言わない。間もなく灯りが消え、スクリーンに壮麗な壁画が映し出された。千穂の口から驚嘆の声が漏れる。


「これはシスティーナ礼拝堂。バチカンにある世界的に有名な礼拝堂だよ」


 援がパソコンを操作しながら説明をする。


「バチカン? バチカンってお母さんのいる?」


 千穂が身を乗り出した。


「お母さんがいるのはこっち」


 画面はぐっと引きになり建物の外に出ると、隣の建物に入っていく。いくつもの通路を抜けた先の大広間にも壁一面の壁画があり、その前で数人が作業していた。年齢も肌の色も髪の色も様々だ。皆真剣な顔で色褪せた壁を塗り直している。その中に紗和さよりがいた。


 紗和は脚立に乗って優しげな女性の絵を丁寧に塗り直していた。幼いキリストを抱いた聖母マリアと思われる絵だ。少し塗ると脚立を降りて離れて確認し、また戻って色付けをするという作業を延々と続けている。いつの間にか画像が早送りになっていたから、いったいどれくらいの時間それを続けていたのかわからない。千穂は瞬きをするのも忘れてその姿に見入った。


「Hey, Sayori. Let's take a break.」


 近くにいた黒人男性が紗和に声を掛けた。すると画面の下に「おい、紗和。休憩しようぜ」という字幕が入った。千穂が振り向くと援が親指を立ててウインクをした。千穂も笑顔で親指を立てて応え、再びスクリーンに視線を戻した。


 黒人男性は部屋の中央にシートを敷き、その上に大きなポットと紙コップ、それにクッキーの入ったタッパーを置いた。皆が輪になって紙コップのコーヒーを啜り出す。それまでシンと静まり返っていた広間にお喋りと笑い声が溢れ、紗和もまた楽しげに会話に加わっている。


「ところで、紗和。クリスマスには日本に帰るんでしょ」


 隣の年配の女性が紗和に話し掛けると、すかさずスクリーンに字幕が現れた。


「いえ、別のセクションの工期が遅れてて帰れそうもないのよ」


「まあ、なんてこと! いくら紗和がチームリーダーだからってそれは酷いわ。私が総監督に掛け合ってあげましょうか!」


 女性は今にも立ち上がりそうな勢いだ。


「ありがとう、ジェシー。大丈夫よ」


「でも、愛する夫や可愛い娘に会いたいでしょう」


「もちろん会いたいわ。でも、もう二度もリミットを伸ばしてるのよ。さすがに次はないわ。必ず来月中に終わらせなければならないのよ」


「ああ、紗和。私が代わってあげられたらいいのに。でも、あなたのテクニックはとても私には真似出来ないわ」


「ジェシー、本当にありがとう。あなたがいてくれるだけで私は心強いわ」


「ねえ、紗和の娘はいくつ? どんな子なの?」


「そうね、写真見る?」


 紗和は絵の具だらけのエプロンのポケットからスマホを取り出してジェシーに見せた。つい最近の写真から始まって、終いには胎児のエコー写真にまで遡る一連のアルバムになっている。


「このアルバムを見るのが私の楽しみなのよ」


「何て可愛らしい。今すぐハグしたいわ」


「ホントにそう。テレビ電話で話してても触れられないのが寂しくてね。最近はちょっと生意気になってきたからもうハグさせてくれないかもしれないわ」


「彼女も寂しいでしょうね」


「申し訳ないと思ってるわ」


 ジェシーは慌てて胸の前で両手を振った。


「ごめんなさい、あなたを責めたわけじゃないのよ」


「いえ、いいのよ。本当の事だもの。でもね、私は自分の仕事に誇りを持っているわ。今は無理でも、いつか理解してくれたらいいと思ってるのよ。勝手な言い分だけど、一緒に闘ってる気分なの。彼女は泣き言ひとつ言わずに留守を守ってくれているわ。彼女は私の誇りよ」


 千穂はproudという最近習ったばかりの単語を聞き取って胸が熱くなった。

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