母を思う心

 千穂が学校へ行くと、それまでのんべんだらりと過ごしていた神々も自分の持ち場へと戻って行き、店内にはアイキノミコトと叡智あきらだけが残された。


「このフレンチトーストとやらは絶品じゃな。なかくにには旨い物がたくさんあるとは聞いていたがこれ程とは思わなんだ」


 アイキノミコトは満足そうにべろりと唇を舐めぷっくり膨れた腹をさすった。それからカップに残ったコーヒーをひと飲みに飲み干した。


「コーヒーとやらも最初は苦くてかなわんと思うたが、なかなかに味わい深い。酒とちごうて頭がスッキリするのもいいものじゃ」


「気に入ってもらえて何よりです」


「ところで、ただす殿」


「どうぞ叡智あきらと呼び捨ててください。ここの神々は皆そうしております」


「わかった。では叡智よ」


 アイキノミコトは真顔になって叡智を見た。


「はい」


「そなた、何者じゃ?」


 予想外の問いに叡智は戸惑いを隠せない。


「え……何者と言われましても……私はこの神社の雇われ宮司ですが」


「では訊くが、中つ国にはこのような人間と神々が近しく集う場所があちこちにあるのか?」


「……いえ、私の知る限りでは他にありません」


「ワシも聞いたことがない。これはどういうことなのじゃ」


「どうもこうも、私は生まれた時からずっとこのように過ごしてきたので、どういうことかと尋ねられましても答えようがありません」


「何と……」


 アイキノミコトは何故アマテラスが自分をあの神社へ降ろしたのか少しわかった気がした。


「怒っているようでも、こうして気遣ってくださっていたのだな」


 アイキノミコトは袖でそっと涙を拭った。


「叡智よ、姉上の温情に応えるためにも、ワシは一日も早く使命を全うして高天原に帰らねばならぬ。そのためには人々の願いを叶えまくらねばならぬのじゃ!」


 立ち上がり、腕を突き上げて叫んだアイキノミコトの鼻息が、通路に置いたドラセナの葉を大きく揺らした。


「その意気でございます、アイキ様」


 叡智はパチパチと手を叩いた。


「そこでじゃ」


 アイキノミコトは椅子に座り直すと再び真っ直ぐ叡智の顔を見た。


「記念すべき初仕事は千穂の願いを叶えてやりたいと思う」


「千穂、ですか?」


 きょとんとする叡智に、アイキノミコトは神社で見た千穂の様子を話して聞かせた。


「千穂が、そんなことを……」


「正月といえば、どこの家でも家族が揃うものであろうに、千穂の母親はどこで何をしておるのじゃ。まさか夫婦の縁を切ったのか?」


「いえ、そういうわけではありません」


 叡智は千穂の母親について説明した。名を紗和さよりと言い、美術品の修復の仕事をしていること。腕が良くて責任感が強く、更に語学が堪能なため海外からも依頼が多くて今はバチカンにいること。二十年先までスケジュールが埋まっていることなどだ。


「そうであったか。千穂はさぞかし寂しい思いをしてきたことであろうな」


 アイキノミコトはまたしても袖で涙を拭った。


「迂闊でした。毎週末にはテレビ電話で話していますし、普段は気丈に振る舞っていますからそんなふうに思っていたとはまるで気づきませんでした」


 ふたりは暫く黙り込んだ。北風が曇ったガラス窓を鳴らすカタカタという音だけが店の中に響いていた。


「のう、叡智よ。ワシが高天原で悪さをしたのは何故じゃと思う?」


「……さあ」


「ワシは姉上のもとで記録係の仕事をしておった。そりゃあもう退屈な仕事じゃ。ワシは心底うんざりしておってな、腹いせをしたかったんじゃ」


「はぁ」


「つい先程までそう思っておったのじゃよ。だが、千穂のことを考えていて気づいたのじゃ。ワシには母はおらぬ。その代わり、姉上が何くれとなく面倒を見てくださった。しかし姉上は恐ろしく多忙じゃ。高天原のみならず、中つ国や黄泉よみの国のことまで考えねばならぬ。それ故、同じ神殿にいても会うことも話すこともままならぬのじゃ」


 アイキノミコトは席を立って窓際に行き、曇った窓を袖で拭いて空を見上げた。


「ワシは姉上に注目して欲しかったのじゃと思う。たとえ叱られることになろうともな」


「アイキ様……」


「千穂はワシのように暴れもせずじっと耐えておる。何といじらしいことか。最初は生意気な娘だと腹が立ったがの」


 そう言うと、アイキノミコトは口元を押さえてフォッフォッと楽しそうに笑った。


「それにの、神としての力を奪われ、此度こたび初めて腹が空くという体験をしたが、これほど辛いものとはついぞ知らなんだ。千穂が作ってくれたフレンチトーストはそんなワシの腹のみならずすさんだ心をも満たしてくれたのじゃ。今度はワシが千穂の心の大穴を埋めてやりたい」


「ありがとうございます。でも、どうやって」


「それはこれから考える」


 叡智はズコッと椅子からずり落ちた。


「ところで叡智よ、テレビ電話とは何じゃ?」


「ん〜、難しいな。それはですねえ……」

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