第28話 新天地へ

「アルウ……」

 船がアビドスに近づく頃、長い眠りから覚めたようにティアの目に力が戻っていた。

「ティア」

 それでもアルウはまた彼女が暴れやしないかと心配だった。

「あたし今まで何をしていたの」

「ティア、全く覚えていないのか?」

「ええ……」

「アケトアテンでの出来事は?」

「あたしは村に戻らないといけない」

「村は戦火で無くなったよ」

「うそ!」

「ルカウを覚えているかい」

「とても親切な宗教指導者よ」

「あいつはヒッタイトと協力して王朝を滅ぼし、君を利用して自分が王様になろうとしてたんだ」

「そんなの嘘よ!」

「嘘じゃない。僕とモーゼは命がけで調べたんだ。そして君の忠臣ラモーゼも」

「ラモーゼが」

「だからラモーゼは僕らが逃げるのを助けてくれた」

「ラモーゼ……わからない……」

「ラモーゼは僕に君のことを託してヒッタイトの軍に突撃していったんだよ」

「ラモーゼは生きているの?」

「わからない」

「あたしは取り返しのつかないことをしてしまった」

「君のせいじゃない」

「いや、あたしのせいよ」

「人間なら誰だって、怒り、悲しみ、憎しみの感情で心の目が塞がれてしまうことがあるし、自分や相手を責める気持ちが一杯になり心に闇が出来ることだってある」

 ティアは沈黙しアルウの目を見つめ、それから大きな黒い瞳に涙を浮かべ小さく頷いた。大粒の涙がポロポロと滴り落ち船の床板を濡らした。

「あたしの心が弱いばっかりに」

「僕が君の立場でも同じ事をしたと思う」

「アルウごめんなさい」

 アルウがティアの肩を抱くと、彼女は彼の胸に顔を埋め涙を流した。

 二人を乗せた早船は無事アビドスに着くことが出来た。

「いったいどこに行くの」

「君に纏わり付いている、ルカウの魔術を切るために、オシレイオンに行くんだ」

「……」

 船を降りた二人はすぐに馬を借りてオシレイオンに向かった。ところがセティ神殿に近づいたとき、

「アルウ、馬を止めて」

 ティアが急に叫んだ。

「ヒイーン」

 手綱を引いて馬を止めたアルウに、

「馬から降りて」

 いつの間に抜き取ったのか、ティアがアルウの腰の短剣を持って彼の脇腹に突きつけた。

「ティア、いったいどうしたんだ」

「あたしはアケトアテンに帰るわ」

 セトが妖術でティアをコントロールしていた。

「あの廃都に村人もアテン信者もいない!」

「嘘よ!」

 その時セトが「刺せ」とティアに命じた。ティアはセトに命じられるままにアルウの脇腹を短剣で突き刺した。

「う……」

 アルウは左手で右の脇腹を押さえたまま落馬した。

「テ、ティア、行っちゃいけない」

 アルウは苦しみながら声をあげた。

「これ以上あたしの邪魔をしないで!」

 ティアは叫び声を上げると馬の脇腹を力任せに蹴った。ところが馬は走り出すどころか、突如、目の前に現れた双頭のコブラに驚き、

「ヒヒィーン!」

 大きくいななきながら前足で何度も空を蹴って暴れた。

「きゃー」

 彼女はその反動で馬から投げ出され砂地に〝ドサッ〟と鈍い音を立てて落馬した。

「ティア……」

 アルウは脇腹から血を流しながら砂地をはって彼女の所まで行こうとした。

 その時、双頭のコブラを術で呼び出したセバヌフェルが、倒れた彼の元へ駆け付けた。

「アルウ様、大丈夫ですか!」 

「僕よりティアを」

 アルウは落馬して動かないティアが心配でならなかった。

「大丈夫。ティア様は気を失っているだけです」

「ティアはまだ術がかかっている。オシリスから呪いをオシレイオンで切れと言われた」

 大量の出血で、アルウは意識が朦朧とし、目の前が霞みはじめた。

「アルウ様、あなたの傷の手当てを先にしましょう」

「セバヌフェルお願いだ。ティアを早くオシレイオンに運んでくれ。彼女の意識が戻らないうちに」

「それではあなたが手遅れになってしまいます」

「僕のことなんかどうでもいい。お願いだから……」

「アルウ様!」

 アルウの唇は真っ青で、全身が痙攣しはじめた。

「このままでは死んでしまう」

 セバヌフェルはティアとアルウの間に立って天を仰ぎ空に指で魔方陣を描くと、

「イシスよ、我に力を与え給え!」

 そう言って両手を天高く伸ばした。

 すると目も眩むような光の柱が天から降り、魔方陣を通過して三人を呑み込んだ。それから瞬く間に三人はオシレイオンの中に移動した。

「ここならティア様にかかった魔術も効かないわ」

 セバヌフェルは先にアルウの手当をするため、すぐに石棺の間から命の水を汲んでくると、彼の傷口にたっぷり注いだ。

「う、うう」

 アルウが微かに声を上げた。

「アルウ様!」

 セバヌフェルはアルウの傷口が治るのを確認すると、彼の頭を抱きかかえ、水瓶の水を少しづつ飲ませた。

「あ、ありがとう」

「もう大丈夫です」

「ティアは」

「いまからオシリス様が彼女にかかった呪いを切られます」

 セバヌフェルは右手を立てて腕を伸ばし、意識を失ったティアのほうに真っ直ぐ向け、

「えい!」

 と気合いを入れた。

 するとティアの体が浮き上がり、セバヌフェルの手の動きに合わせて空中を移動しながら、オシリス像の膝の上にゆっくり降りた。

「オシリスよ、どうかセトの呪いをお切り下さい」

 セバヌフェルが祈ると、オシリスの膝の上に横たわるティアが光に包まれ、彼女の魂と肉体に絡んだセトの呪いを全て切り刻んだ。

「う……」

 アルウとセバヌフェルが見守る中、ティアの瞼が微かに動いた。

「ティア」

 アルウはティアの顔を覗き込んだ。

 アルウの声にティアの心が敏感に反応した。

「ティア、僕だよ」

 ティアの瞼が微かに開いた。

「ア、アルウ」

「ティア!」

 ティアの意識が戻ると、アルウはオシリスの膝の上にあがり彼女をきつく抱きしめた。

「アルウ」

 するとティアも彼を強く抱きしめた。

「ここは」

「オシレイオンだよ」

「オシレイオン」

「そうだよ。そして僕らが座っているのはオシリスの膝の上さ」

「あなたが造ったオシリス」

 ティアはオシリスの顔を見上げた。

「うん」

「あたし、何が何だかわからない」

「ティア様は呪いをかけられていました。記憶が飛ぶのはそのせいです」

 そう言ってセバヌフェルが二人に微笑んだ。

「呪い……」

「でも大丈夫です。アルウ様のあなたに対する愛を認めたオシリス神が、セトの呪いを切ってくれました」

「あたしのせいで……ごめんなさい……」

「自分を責めないで」

「アルウ」

「うん」

 オシリスの膝の上で、二人はキスをして、いつまでも抱き合った。

「そろそろオシリス様が、足が痺れるとお怒りですよ」

 セバヌフェルが二人をちゃかすと、

「いけない!」

 慌てて二人はオシリスの膝の上から降りて跪き、

「オシリス様、ありがとうございます」

 一緒に感謝の祈りを捧げた。


 そのころ二人を追ったモーゼは神の導きでアビドスに船が着き、オシレイオンに向かっているところだった。

「上手くいったかなぁ。セバヌフェルがいるから大丈夫だと思うが」

 モーゼは照りつける太陽のもと、ひたすらオシレイオン目指して歩き続けた。

「モーゼ!」

 遠くから彼を呼ぶ女の声が聞こえた。

「セバヌフェル!」

 モーゼが大きく手を振ると、彼女の後ろからアルウとティアが姿を現した。

「ありがとう」

 アルウが大きく両手を振る。

 モーゼが三人のところに着くと、アルウとモーゼは抱き合ってお互いの無事を喜んだ。

「オシリスがティアにかけたセトの呪いを切ってくれたよ」

「それなら彼女はもう大丈夫だ」

「モーゼ、ルカウはどうなりましたか」

 セバヌフェルが心配そうにモーゼに訊いた。

「奴は滅びた」

「ルカウが死んだのですか」

 ティアはどうしても信じられなかった。

「奴はセトに魂を売り、君に呪いをかけた。滅びて当然だ。人を呪うと自分に返るという宇宙の真理を彼は理解していなかったようだ」

「ラモーゼは?」

「立派な最期でした」

 モーゼは俯きこぶしを握りしめた。

「死んだ……」

 ティアはあまりのことに気を失いそうだった。

「村は、村人は? あそこには沢山の母親や子供たちがいたのです」

「ティア、もうよそう」

 アルウはティアの肩を抱いた。

「アルウ、あなたは知ってるの?」

「あの村は戦場になって滅んでしまった」

「そ、そんな」

 ティアは涙で目を真っ赤に腫らし砂の上に両手をついて泣き続けた。

「みんなあたしのせいよ。あたしがみんなを殺したのよ!」

 アルウは両手で砂を握りしめ激しく泣き崩れるティアを優しく抱きしめた。

「お願い! もうあたしに近づかないで! もうこれ以上、人を不幸にしたくない」

「君のせいじゃない!」

「死なせて! お願いだから死なせて!」

 半狂乱になったティアはアルウの短剣を掴んで抜き取り、自分の喉元に突きつけた。

「ティア! やめるんだ!」

「アルウ、愛してくれてありがとう」

 ティアはアルウを見て微かに微笑むと、剣を握る手に力を込めた。

「ティア!」

 ティアの手が彼女の喉を突こうとした瞬間アルウは彼女の剣を掴んで握りしめた。

 アルウの血が剣を伝わってティアの手に滴り落ちた。

「どうして死なせてくれないの」

 ティアは剣を放して砂の上に座り込んだ。それから血まみれになったアルウの腕にしがみつき狂ったように叫んだ。

「死なせて!」

 暴れる彼女をアルウは力いっぱい抱きしめた。

「ああああー─」

 ティアはアルウの腕の中で激しく抗い大声で泣き叫んだ。

「ティア、生きるんだ」

 アルウは腕の中で暴れ、泣き続けるティアを絶対に放すまいと強く強く抱きしめた。

「死なせて。お願いだから」

 ティアがより激しく抗うと、アルウはさらに力をこめて彼女を抱きしめた。

 アルウは出来ることならティアの苦しみを全て代わってやりたかった。ティアの傷ついた心と魂が癒やされるのなら、自分の命など少しも惜しくないと思った。

「オシリスよ。ティアの心と魂を癒やして下さい」

 すると雲の中から金色に輝く光の柱が降りてきてアルウとティアを包みこんだ。

「愛する我が子よ」

 光の中にオシリスの姿があらわれ二人に話かけた。

「オシリス様」

 アルウとティアは天を仰ぎ見ながら跪き両手を組んだ。 

 オシリスの髪は美しい黒髪で、目は海のように深く青く、精神は全宇宙の愛の結晶のように気高く慈愛に満ちあふれていた。

 オシリスは優しい眼差しで二人を見つめ、愛の調べのように優しい声で仰せられた。

「東へ行きなさい。そして恐れず船で大海に出るのです。そこに楽園の島がある。その島であなたたちは生まれ変わるのです」

 オシリスは二人に短いメッセージを残すと光の柱とともに姿を消した。

 光が消えた後もアルウとティアは、暫くのあいだ手を組んだまま砂の上に跪き天を仰ぎつづけた。

 モーゼもセバヌフェルもまた、二人と同じように跪き手を組んで天を仰いでいた。

 暫くしてモーゼが二人に声をかけた。

「オシリスはなんと?」

 天を仰いだままアルウが返事をした。

「東へ行って大海に出ろと。そこに楽園があると仰せられた」

 アルウに続いてティアが口を開いた。

「生まれ変わりなさいと……」

 そう言うと、ティアの目から涙がポロポロと滴り落ちた。

「死と再生の神オシリスは、アルウ様とティア様が生まれ変わり、新しい人生を幸せに生きて欲しいと願ったのよ。植物が冬には枯れ春には芽吹くように、お二人の心と魂と人生の再生復活を願ったのよ。でもそれは全ての人間に対する願いでもあるわ」

 セバヌフェルはそう言って優しく二人に微笑んだ。

「僕たちはエジプトにいることはできません。セティ王はわたしの作品にアマルナの手法が編み込まれているのを見抜かれていたはず」

「それでもセティ王があなたを認めて下さったのは、あなたの真心を見抜いていたからだと思います。どうですか、エジプトに残りませんか?」

 セバヌフェルが優しい眼差しを二人に送った。

「セバヌフェル、ありがとう。でも僕ら新天地へ行きます。そこでティアと新たな人生を始めたい」

 アルウはセバヌフェルににっこり微笑んだ。

「あたしも新天地でアルウと人生を出直します」

 ティアも立ち上がり、アルウの手をとって目を輝かせた。

「ティア!」

 アルウは彼女を抱いた。

「あなたを必ず幸せにするわ」

 ティアも彼をきつく抱きしめた。

「あたしも嬉しい」

 セバヌフェルは二人を抱きしめた。

「君たちは幸せになるために生まれてきたんだ。今度こそ神様のギフトを受け取るんだ」

「モーゼ、ありがとう」

 アルウとモーゼは固く手を握り合った。

 モーゼはアルウの隣に寄り添うティアに語った。

「自分を責めることも人を責めることも同じだ。そのどちらも愛からは遠いところにある。人を幸せにするにはまず自分を愛し大切にすることだ」

「モーゼ、ありがとう。もう自分を痛めつけないと誓うわ」

 ティアはそう言って微笑んだ。

「残念だけど君たちとお別れか」

 モーゼが話し終えるとセバヌフェルが東の方角を指さした。

「ナイルを渡り東へ行けば紅海に出ます。そこから船で南へ向かって下さい」

「紅海を南へか……」

 アルウとティアの目が輝く。

「お二人にプレゼントがあるわ」

 セバヌフェルが神殿に向かって指笛を鳴らすと、厩舎から真っ白な馬が駆けてきた。

「エジプトで一番早い馬よ!」

「こんな立派な馬、受け取れないよ」

「遠慮しちゃ駄目」

「この子、名前は?」

 白馬がティアの体に大きな顔を擦りつけて甘えた。

「リゲルと呼んであげてね」

「リゲルか」

 アルウにもリゲルがじゃれて来るので、たて髪を撫でてやった。

「船はオシリスが紅海に用意しているよ」

 モーゼが微笑んだ。

「何もかもオシリスのお導きのままか」

「全ては上手くいく」

 そう言い合うとアルウとモーゼは笑い合った。

「さ、旅立つときが近づいてるわ」

 セバヌフェルに即され、アルウはリゲルの手綱をとった。

「元気でな」

 モーゼが軽くアルウの肩を叩く。

「気をつけてね」

 セバヌフェルが二人に微笑んだ。

「モーゼさん、セバヌフェルさん、ありがとうございます」

 ティアは二人に心を込めて感謝した。

「すべてはオシリスのおかげよ」

 セバヌフェルがそう言うと四人は天を仰いだ。

 雲ひとつない蒼い空に太陽が降り注いでいた。

 いつのまにか砂嵐の季節は過ぎ去っていた。 

「オシリス様。ありがとうございます」

 アルウとティアは手を組みもう一度神に祈った。

「アルウとティアをお守り下さい」

 セバヌフェルとモーゼは二人のために祈った。

 祈り終わったアルウは組んだ手を離しティアの手を優しく握った。 

「ティア。行こうか」

「はい」

 幸せそうにティアが頷いた。

 アルウとティアはリゲルに跨がると、モーゼとセバヌフェルはまるで家族のように見守った。

「お幸せに」

 セバヌフェルが笑顔で手を振る。

「神のご加護あれ」

 モーゼが二人を祝福した。

 アルウとティアは二人に手を振りながら笑顔でこたえた。

 アルウはリゲルの鼻を東に向けると、軽く馬の脇腹を蹴りゆっくりと走らせた。

 砂埃を上げ、砂漠に蹄の跡が少しずつ伸びてゆく。

 追いかけるアマルナの影はなく、ようやく二人は自由を手にしたのだ。

 アルウとティアが砂漠の彼方に消えてゆく。

 モーゼとセバヌフェルはいつまでも二人の後ろ姿を見守った。

                   了

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オシリスに愛されし少年 あきちか @akichica

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