第22話 二人の王女の愛

 王子を救ったアルウは、ラムセスと一緒にテーベに凱旋した。テーベの王宮で王様・セティ一世の歓待を受けたアルウは、名誉国民とされ、貴族と同等の地位を得た。ついにアルウの名誉は回復した。こうしてアルウが再びテーベの職人長に返り咲くと、王様はアルウの住まいと工房を王宮の敷地内に与えたのだ。

 その後、殺人と放火で行方を眩ましたコンスの父親パネブは、副総理ペンタウェレトとの贈収賄が明るみに出ると逮捕され百叩きの上アスワンの石切場に労働者として送られた。一方、ペンタウェレトも裁判によって多数の収賄があきらかになると、失脚して投獄、不当に得た財産は全て没収された。

 アルウの無罪が証明されて三日後、王様から与えられた邸宅のバルコニーで、アルウとネフェルタリは二人して肩を並べ夜風にあたっていた。

 夜空には三日月を挟んで水星と木星が縦一列に並び、星空の神秘さを際立たせている。

「母と妹の行方がわからないのです」

 月明かりに浮かび上がるナイルを、アルウは見えなくなりかけた目で眺めながら拳を硬く握りしめた。

 アルウの目は過酷な鉱山労働と栄養失調で眼病を患っていた。病は重く視力を徐々に奪い、彼がテーベに帰ってきてからも視力の衰えは歯止めがかからなかった。

「きっとどこかで無事にしていらっしゃるわ」

 アルウの握りしめた拳に優しく手を添え、ネフェルタリは彼の横顔を見つめた。

 焼き払われたテーベの家。母や妹の嘆き悲しむ声。

 柱や床や家の中の全ての物が家族の大切な思い出だった。その大切な家族の宝物が、異端、邪神の名の下に焼き払われた。

 アルウは思う。信仰とは人々の心を豊かにするもの、心の拠り所ではないのか。

「信仰とは愛よ」

 ネフェルタリは呟いた。

 アルウはネフェルタリの言葉に驚き、彼女の方に向き直った。

「人間はどんな神様でも信じていい。その人が一番大切な神様を自由に信仰していいのよ」

「エジプトには沢山の神様がいる。村にも村の神が。町にも町の神が。都市にも都市の神様がいる。どの神様が偉いだなんて人間のエゴが決めたことで神様が決めたことじゃない」

「アルウはエジプトが憎い? アメン教徒や神官団が憎い?」

 エジプトを愛しアルウを密かに愛するネフェルタリにとって彼の返事が恐かった。

「いや」

 アルウはその一言だけ呟いた。それ以上は答えようがなかった。

 アメン神もアテン神も同じエジプトの神だというのに、どうして人間はお互いを認め合おうとしないんだ。

「どれだけ沢山の神様がいても、元を糺せば、この世界を、この宇宙を創成した神様はひとつなんだ。それなのに……」

「ヘリオポリスの神話ね」

 ネフェルタリは幼い頃に、ギリシア人家庭教師から学んだことを思い出した。

「どうして人は忘れてしまったんだろう」

「人間は弱いからよ」

 夜の静寂が二人を包んだ。月明かりがナイルとオアシスを幻想的に照らし出す。

「ネフェルタリ、僕を部屋の中に連れていってくれないか」

「いいわよ」

 ネフェルタリは嬉しそうに微笑み、アルウの左手を優しく握り、ほとんど目が見えなくなった愛しい彼を、バルコニーから部屋の中に導いた。

 ネフェルタリはアルウにいつも寄り添い、そして助けた。家族を失い独りぼっちになった彼の家族になりたいとさえ思った。


 そのころ命からがら戦線離脱したティアは、家臣団とアテン教徒らに守られ故郷のアマルナに帰っていた。

「お母様とムテムイアを彼の所に連れて行かないと」

 ティアは今となっては敵となってしまったアルウの家族を、これ以上匿うことは二人の命を危険に晒しかねないと感じ、ラモーゼに二人を秘かにアルウの元へ帰すよう命じた。

「ティア、あなたは一緒に来ないの?」

 何も事情を知らないヘヌトミラは残念がった。

「すみません……」

 それ以上ティアは、なにも言えなかった。

「ティアちゃん」

 ムテムイアがティアの手をとると、二人は抱き合って涙を流した。

「船が出ます。急ぎましょう」

 ラモーゼが月明かりで浮かび上がる船着き場の船を指さした。

「ありがとう」

 ヘヌトミラがティアとムテムイアを抱きしめると、三人は涙を流して別れを惜しんだ。

 ラモーゼを先頭に、二人が無事に船に乗り込み、三人を乗せた船が船着き場を出ると、ティアはナイルの葦の茂みに屈みこみ、両手をついて泣き叫んだ。

 どうして……

 あたしはどうしたらいいの。

 あたしの戦いは聖戦。

 あたしの願いは、戦争をなくし世の中にアテンによる真の平和を取り戻すこと。

 なのにどうして?

 なぜ戦えば戦うほど愛する人を失うの?

 なぜ戦えば戦うほど平和は遠のくの?

 愛を犠牲にしてまで、あたしはアテンに仕えたというのに。

 ティアの目頭が熱くなった。

悲しくて死にそうだった。

 胸が締め付けられ今にも張り裂けそうだった。

「あああ!」

 ティアの心の叫びは嗚咽となって漏れた。心が流す血は、燃えるように熱い涙となって涌き上がった。

 ティアは涙が涸れてしまうまで泣き続けた。


 マーネを殺しアビドスから逃亡していたコンスは、砂漠を東へ東へと紅海を目指して進んでいた。食べ物も水もなかったので、彼は通りすがりの貧しい村や女子供しかいない遊牧民から水や食べ物を奪っては逃走を繰り返した。

「どうせ俺は人殺しだ。何人殺したって罪は死刑だ」

 犯罪を繰り返す度にコンスの心は荒み、心が闇に沈むと彼の魂は深く悲しんだ。

「あと少しで紅海だ。海を渡れば自由がある」

 その時、鋭い矢がコンスのこめかみを貫通し彼は息絶えた。

「早くしろ」

 盗賊達がコンスの遺体から黄金が入った羊皮の袋を奪い取ると中身を確かめ狂喜した。

 その盗賊達も黄金で仲間割れをして、一人を残してみな死んだ。残った一人も砂地獄に呑まれて死ぬと、彼らの霊魂はオシリス審判を受けるため冥界に連れて行かれた。

 死者の霊はオシリスの前で四十二項目の罪を犯さなかったことを告白させられ、もし一つでも嘘をつけば地獄行きが決まるのだ。

 その一、盗みをしなかったこと

 その二、悪事をしなかったこと

 その三、強奪をしなかったこと

 その四、……

 彼らはみな嘘をつき有罪。彼らの心臓は怪物アメムトの餌食になって地獄へ落とされた。


 ティアの命を受けたラモーゼは、アルウの母親と妹をアマルナから船でテーベ近郊の船着き場まで送り届けると、

「ティア様の密使がアルウ様の元に手紙を届けていますので、今暫くここでお待ち下さい」

 そう言って迎えが来るのを待った。

「お母さま」

 不安がる娘をヘヌトミラが抱きしめていると、ナイルの流れる音に混じって馬車の蹄の音が聞こえてきた。

「お迎えのようです」

 短く言ってラモーゼが船に乗ろうとすると、

「ありがとうございます」

 ヘヌトミラは丁寧にお礼を言って感謝した。

 ラモーゼは静かに頷いて、

「ではこれにて」

 そう言って足早に姿を消した。

 いつのまにか夜が明けていて、朝日がナイルと砂漠を黄金色に染めていた。

 馬車が二人の目の前に停まり、アルウがネフェルタリに手をとられて降りてきた。

「アルウ」

「母さん」

 ヘヌトミラがアルウをきつく抱きしめると、

「兄さん」

 ムテムイアも泣きながらアルウに抱きついた。

「ムテムイア」

 親子三人は家族の無事を神様に感謝し、暫く抱き合って涙を流した。

「アルウ、よかったね」

 抱き合う親子三人を傍で見守るネフェルタリも、心から親子の再会を喜び大きな瞳を涙で一杯にした。

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