第5話 父の死

 ハレムイアは家族の団らんに包まれながら短い休暇を過ごすと、再び戦争に駆り出され、瞬く間に三年の歳月が過ぎ去った。三年後ハレムイアがようやく国への帰還が許され、沢山の食べ物を携えて妻と子が待つ我が家に帰り着くと、ヘヌトミラは夫を優しく迎え、家族四人は束の間の幸せを味わうことが出来た。ところがその半年後にはシリア方面で戦争が始まり、ハレムイアは再び兵役に駆り出されてしまった。そしてその戦争を最後に二度と家に帰ることはなかった。ハレムイアは戦死したのだ。

 息子の戦死の知らせを風の便りで聞いたアメンナクテは、我が子の気持ちや長所を理解してやらずに、頑なに自分の考えを押しつけ、才能をつぶしてしまったことを激しく悔やんだ。さらに反発した息子を怒りにまかせて勘当したことが、結果、息子ハレムイアを死に追いやったのだと自分を酷く責め自分を憎んだ。アメンナクテの心は激しい後悔と悲しみと自己嫌悪と自己憎悪で暴れまくり、夢も希望も失うと、彼はますますアルコールに溺れるようになった。 

 ヘヌトミラは二人の子供を抱えて途方に暮れた。彼女は蓄えていた財産を売りながらなんとか生計をたてていたが、すぐに底が尽きた。家賃を払えなくなった家族は家を追い出され路頭に迷った。

 思いあまったヘヌトミラはアメンナクテを頼って職人長だった頃の彼の工房へ行ってみたのだが、彼の工房は無くて職人長の座を奪ったパネブ一族が栄華を極めていた。

 それを見たヘヌトミラは落胆するまもなく、亡き夫の弟パシェドがテーベの繁華街に工房を開いて成功しているという噂を町で聞きつけ、彼を頼ることにした。 

 早速ヘヌトミラがテーベ市の高級住宅街に家を建てたパシェドを訪ねると、よほど繁盛しているのかパシェドの家はまるで貴族の邸宅のように立派だった。

「ご主人様にお目にかかりたいという子供を連れたホームレスの女がいます」

 ヌビア人の女召し使いが来てパシェドの足下に跪き、彼にヘヌトミラのことを告げた。

「私はいま忙しいのだ」

 パシェドは、貴族が注文したイシスの石像を制作しているところだった。

「ハレムイアの妻ヘヌトミラと申しておりますが」

「姉上が」

 驚いたパシェドは制作を中断し弟子の一人を呼んで後をまかせた。それから急いで大理石で作られた円形の豪華な接客用のホールへ向かった。

「……」

 ヘヌトミラがアルウとムテムイアを連れて待っていると、

「姉上! お久しぶりでございます」

 パシェドが作り笑いをしながら大げさに出迎えた。

「とてもご立派になられて」

「いえいえ、まだまだこれからですよ」

 その時、パシェドの妻ヘリアが騒ぎを聞きつけてやってきて、嫌みたらしく声をかけた。

「あら、どなたかと思いきや、未亡人になられたばかりのお姉様でしたのね」

「ここに来たのは間違いでした」

 ヘヌトミラは自分が歓迎されない客だとすぐに気づき、酷く後悔した。

「お姉様、そう早合点をしないで下さい」

 妻の酷い言い方にパシェドが慌てた。

「どうせ居候でもさせて欲しいというのでしょ」

 ヘリアが見下すように言う。

「おい、言い過ぎだぞ」

 さすがにパシェドは妻を諫めた。

「もういいのです。ヘリアの言うとおりなのですから……ご不快な思いをさせましたね。他をあたります」

 そう言ってヘヌトミラが二人の子を連れて、パシェドの前から立ち去ろうとすると、

「姉上。ここにいて下さい。姉上の身の上はよく存じております。いま、姉上を帰らせたら私の名に傷がつく」

「……」

「外で物乞いせずにすんだわね」

 ヘリアはそう吐き捨てるように言うと、プイとそっぽをむいてその場から姿を消した。

「ご迷惑をおかけします」

 ヘヌトミラはヘリアのあまりの物言いに深く傷ついたが、二人の子供を食べさせるためには、自分のプライドなどどうでもよいと思った。

「姉上、歓迎します」

 パシェドの申し出にヘヌトミラは甘えることにした。

 自分一人なら「けっこうです。さようなら」と啖呵を切れるのだが、二人の子供のためなら我慢しなければならないと思った。

 こうしてヘヌトミラと子供たちは亡き夫の実弟パシェドの屋敷に身を寄せることになった。当然自分らを快く思わないヘリアから嫌みを散々言われるのは覚悟の上だったが。

「ここがお部屋です」

 召し使いに案内されてヘヌトミラ親子が通された部屋は、とても狭い部屋でテーブルも椅子も無い倉庫だった。

「……」

 ヘヌトミラがあまりの仕打ちに呆然としていると、

「食事は自分でまかなって下さいと奥様からの伝言です」

 召し使いはそう事務的に告げて去って行った。

「せめてこの子達に十分な食事を与えてやれると思ったのに。あたしが愚かだった……」

 ヘヌトミラは子供達に心配かけまいと無理に微笑んで見せた。もうすでにアルウは十三歳、次に生まれた妹のムテムイアは十歳になったばかり。二人の子供は育ち盛りなのだ。

(家賃の負担がない分働いたお金をこの子達の食費に充てることが出来るわ)

 そう考え直すとヘヌトミラは早速その日からアルウに妹のムテムイアの世話を任せ、自分は田舎に野菜を仕入れに行って、今まで通り市場で売る仕事をはじめた。こうして一週間が経ったある日のこと、ヘヌトミラ親子の粗末な部屋にパシェドがやってきて、

「姉上! 誰がこんな部屋に押し込めたのですか?」

 わざとらしく騒いで見せた。

「あなた方ではありませんか」

 ヘヌトミラはきつくパシェドを睨んだ。

「滅相も無い。きっと召し使いがとんだ間違いを犯したのです」

「……」

 ヘヌトミラは怒りを露わにパシェドをきつく睨む。

「姉上、お疑いのようだが、本当に私はこんな酷い部屋にあなたがたを住まわせようとは思っていなかったのです」

「なら、いつでも出て行きます」

「そういう意味ではありません」

「では私たちはどうすればいいと」

「はい、きちんとした部屋を用意します」

 パシェドは恭しくそう言い、ヘヌトミラ親子を邸宅の奥の広くて綺麗な部屋に案内した。

「今日からここを自由に使って下さい」

 大理石の部屋には広い木製のテーブルと椅子、衣服や雑貨を入れるためのタンスや棚が設置してあり、部屋の奥の少し小さめの部屋には、大人と子供用のベッドがあった。

「ところで姉上にお願いがあります」

 パシェドの改まった態度にヘヌトミラは戸惑い警戒した。

「なんでしょう」

「ムテムイアにレディとしての躾と教養を身につけさせたいのです」

「それはアルウも同じ。この子にも男子としての教養を身につけさせてやりたい」

「恐れながらアルウは男の子でもう十三歳です。姉上と一緒に商売をさせ、自分の力で生き抜く術を身につけさせるべきではないでしょうか」

「ではなぜムテムイアには教養を?」

「女が一番安定して幸せに生きるには出来るだけ社会的に地位が高い男と結婚することです。そのためには高い教養と美しい身のこなしを身につけさせておくことが有利です」

「そんな欲得では幸せな結婚など出来ません」

「ならば姉上のように一生野菜売りをしながら幸せになれるとでも」

「パシェド失礼です!」

「これは申し訳ないことを」

「……」

「姉上、一晩よく考えてみて下さい」

 パシェドはそれ以上何も言わず部屋を出て行った。

 結局、ヘヌトミラは一晩中悩んだすえ、パシェドの申し出を受け入れることにした。このままではムテムイアに満足な食事も教育も施すことが出来ないと判断したからだ。そしてこの屋敷から出来るだけ早く出るためにも、アルウには早く商売人として巣立って欲しいと願った。もちろんアルウに職人になって欲しかったのだが、この生活ではそれは叶わぬ夢だった。

 翌日からヘヌトミラは嫌がるムテムイアをパシェドが連れてきた家庭教師に預けると、自分はアルウと一緒に市場へ行き野菜売りを始めた。とにかくこれ以上パシェド夫婦の世話になりたくなかった。かといって他に誰一人として身寄りも無く、今の経済力では家も借りられず、子供達に満足に食べさせることすら出来ない。親子三人が水入らずで過ごせるようになるために、ヘヌトミラは沢山稼がなければと必死だった。


 パシェドとヘリア夫婦には二人の子供がいた。十五歳の娘のケイと十二歳の息子のパロイだ。パシェド夫婦は娘のケイを上流社会にデビューさせるため、息子のパロイは工房の跡取りにするため、二人の子供達に専属の家庭教師をつけて英才教育を施していた。

「子供達に自信をつけさせるには、人と競わせて勝たせてやらねばなりません」

 ヘリアは子供の躾を家庭教師に任せっきりのパシェドをつかまえて言った。

「そのために試験があろう」

「試験では人間を打ち負かせたという快感が得られません」

「おまえ何が言いたい」

「社会は競争、弱肉強食の社会で生き残るためには、あなたのように平気で親を裏切りライバルを蹴落とす冷酷さが必要です」

「何だと! 黙れ!」

 パシェドはヘリアの露骨なもの言いに苛だった。

「あたしはあなたが狡賢く貪欲だから惚れたのよ」

「……」

 あまりの妻の言いようにパシェドは沈黙した。

「うふふ」

「おまえは何が言いたいんだ」

「ちょうどいい鴨がやってきたということよ」

「なに」

「なにも知らぬアルウとムテムイアを、事あるごとに厳しく叱りつけて馬鹿にし、その度に我が子を褒めるのよ」

「愚かな」

「さぁどうかしら。人間は自分がいかに優秀であるかを、つねひごろから証明されれば、実力以上の力を発揮するものよ」

「何かにつけて比較し姉上のお子を蹴落とすのか」

「それで我が子に自信がつき才能が開花すればすばらしいことだと思いませんか」

「蹴落とされた姉上の二人の子はどうなる」

「社会の底辺で今まで通り生きていけばいいだけでしょう」

「おまえというやつは」

「あなたの妻ですから」

「……ふ」

 パシェドはニタリと笑い妻を見た。


 ヘヌトミラはパシェド夫婦の卑劣な陰謀が裏にあるとは思いもせず、ムテムイアに、きちんとした躾と教育を受けさせてもらえるものと信じ、毎日、命を削りながらアルウと一緒に野菜売りの仕事に汗を流していた。

 母親と兄がいない間、ムテムイアは毎日ヘリアや家庭教師から事あるごとに激しく叱られた。

 ムテムイアが食事をしていると、

「どうしてそんな食べ方しか出来ないの!」

 大声で怒鳴られ、

「……」

 恐ろしくて声も出ないでいると、

「おまえはろくに返事も出来ないんだね! 奥様申し訳ありませんでしょう」

 とさらに厳しく叱られた。

「お、奥様……」

「はっきり言いなさい!」

 ヘリアはいきなりムテムイアの頬を平手で叩くこともあった。

「あぁああ!」

 ムテムイアはあまりの仕打ちに大声で泣きわめいたが、ヘリアは容赦なくもう一発平手で叩いた。

「おだまり!」

 傍ではケイとパロイが笑いながらその様子を見ていた。

 ヘリアは子供達にあえて見せることが躾によいと考えていた。

 ムテムイアは食器の持ち方が悪いと言われては怒鳴られ、食べ方が下品だと言われては手を叩かれ、歩き方が悪いと叱れては足を引っかけられ倒された。

 パシェドの家に来て半月、ムテムイアの異変に気づいたヘヌトミラは、パシェドを頼った自分を激しく憎み、アルウとムテムイアとダイアンを連れてパシェドの邸宅から逃げるように出て行った。

 こうして行く当てを失った母子はテーベのスラムで路上生活を余儀なくされた。

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