泡のようにパチンと消えた

くろねこどらごん

第1話

「ねぇ黒峰さん、今日はどこかに寄って帰らない?」


 放課後の教室で、今日も彼女は誰かに誘われている。


 黒峰優菜くろみねゆうな

 容姿端麗。スポーツ万能成績優秀。

 さらには天使のような性格にコミュ力抜群という、完璧という言葉すら生ぬるい少女。

 うちの学校でも一番の人気を誇る美少女は、常に誰かに囲まれている。


「ねぇ、いいでしょ?カラオケにでも行こうよ」


「えっと…」


 そんな彼女が、チラリとこちらに視線を向けた。

 ほんの一瞬のことだったから、きっと誰も気付くことはなかっただろう。

 僕もなにも気付かなかったふりをして席を立つ。

 素知らぬ顔で話し込む彼女達の脇を通り過ぎると、そのままひとり廊下を歩いて昇降口へと向かった。


「人気者は大変だね」


 それは決して彼女に伝えることのない、僕なりの皮肉だった。



 僕、藤山陣矢ふじやまじんやは凡人だった。

 学力運動神経共に平均以下。

 これといった趣味もなく、友人だって数えるくらいしかいない。

 傍から見れば、僕はきっとすごくつまらないやつに見えるだろう。

 笑えるくらい典型的な、スクールカーストの底辺に属してる人間だ。



 黒峰優菜が物語の主人公であるなら、僕は脇役にすらなれない通行人A。

 彼女の一挙一動に皆が注目するなかで、僕はどれだけ努力したところで注目を浴びることのない、石ころみたいな存在だろう。



 役者が違う。住む世界が違う。

 手の届かない高嶺の花。


 それが黒峰優菜という少女。

 僕のような凡人と彼女では、時代が違うならきっと、かかわり合いになることすら許されなかったことだろう。


 それが正しいと思う。

 彼女はきっと、光り輝く世界の住人で、僕のような日陰者とは違うから。

 ずっとずっと、僕はそう思って生きてきた。







 家に帰って、数時間が経っただろうか。

 いつものように、僕は机に向かって勉強していた。

 別に真面目ってわけでも、勉強が好きなわけでもない。

 もっと切羽つまった事情。そうしなければ授業に追いつけないという、ひどく情けない理由によるものだ。

 今通っている高校は本来の僕の偏差値より高いところで、周りの同級生は毎日遊べるくらい余裕があっても、僕にはそんな余裕はない。

 入学できたのさえ、奇跡に近かったのだ。

 ただでさえ平均以下の成績だから、こうして毎日勉強しないととてもついていけそうにないのが現状だった。

 いや、予習していても、ジリジリと点数は下がってる。



「……また間違えた」


 ほら、またミスしてる。

 これで何問目だろう。間違いを見つけるたびに、自分で自分が嫌になった。


(くそ…!)


 見えない焦りと苛立ちに任せ、消しゴムをノートに擦りつけようとした時だった。



 コンコン



 ふと、なにかを叩く音がした。

 虫がぶつかったような音じゃない。もっと規則的なリズムがある。

 反射的に音がした目を向けると、そこはカーテンを締めた、ベッドのある窓だった。

 見えない向こう側で、またコンコンと、ガラスが叩かれる音がした。

 反射的に壁にかけてある時計を見ると、針は19時を過ぎている。


(……帰ってきたのか)


 僕は勉強道具を放り出すと、ベッドの方へと歩き出す。

 二回窓を小さくノック。それは小さい頃に決めた、僕と彼女だけの知る合図だ。

 シャーっとカーテンを引くと、そこには小さい頃から見慣れた端正な顔の少女が、自分の部屋の窓に寄りかかりながら、柔らかな笑みを作ってる。


「こんばんは、陣くん」


 そして挨拶をしてくる。

 これも昔から聴き慣れた、綺麗な声。

 僕なんかに向けられていいのかと思ってしまうほど、ひどく優しい声でもあった。


「ごめん、気付くの遅れた」


「いいよ、私も今帰ってきたところだから」


 そう言って、彼女は笑う。

 その笑顔を見るたび、僕はいつも、胸が締め付けられるような感覚を覚えた。


「そっか。なら、良かった」


 それを誤魔化そうとして、僕も笑うけど、きっと彼女みたいに上手く笑えてなんていないだろう。

 僕は昔から自分でもわかるほど、笑うのが下手だった。

 昔からの付き合いである隣の家の彼女は、とても綺麗に笑うのに。


「うん」


 なんでこうも違うんだろうと、いつも思う。

 そう、僕とこの子は違う。

 彼女は凡人では手の届かない高嶺の花。

 凡人が触れると、いっそ罪悪感すら覚えてしまうほど、綺麗な存在。

 一緒にいると、ひどく自分が惨めに思えてしまう幼馴染。

 黒峰優菜その人だった。





 僕と優菜は、小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた、所謂幼馴染だった。

 親同士が仲が良く、家も隣同士。

 精神的にも物理的にも距離が近く、さらには同い年とあっては、仲良くならないはずもない。

 それこそ小さな頃はずっと一緒で、どこにいくにも離れることは決してなかった。



 それでも学年が上がれば、男女の間に差が生まれていき、自然と離れていくものだけど、僕は友達を作るのが下手だった。

 優菜といるときは自然体で話せるのに、他の人相手だとどうしても緊張して、上手く話す事ができない。他の人との接し方がわからないのだ。

 所謂人見知りだったわけだけど、優菜は僕とは違い、そんなものはなかった。

 むしろ色んな子に、積極的に話しかけられていたと思う。

 幼いながらも当時から抜きん出た容姿を持っていた優菜の周りには、自然と人が集まるようになっていたのだ。



 そう、最初から優菜は違ってた。

 人は平等だなんて嘘だ。頭角を表す人は、決して周りが放っておかないように世の中は出来ている。

 だから輪の中に溶け込めない僕は取り残され、優菜は僕から離れ、たくさんの友達に恵まれて中心になっていく。

 それが本来、正しいことのはずだった。

 それなのに―――


「ねぇ、陣くん。今、暇?」


「え…?」


「私、今日は陣くんの部屋に行きたいな」


 いいでしょ?そう言って上目遣いで見つめてくる優菜。

 その仕草はとても可愛らしいもので、男のツボを的確に捉えてくる。

 きっと他の男なら、一も二もなく頷くに違いない。


「えっと…」


「もしかして散らかってたりする?」


 言葉を濁していると、優菜は首を伸ばして部屋の中を覗き込んでくる。


「いや、掃除はしてるから」


「そうだよね。陣くんの部屋って、いつも綺麗だもん。私の部屋より綺麗で、ちょっと自信なくしちゃうくらい」


 軽く優菜は笑うのだけど、その顔には含みがある。

 なら、私が行っても問題ないよね?

 そう思っているのが見え見えだ。長い付き合いだからわかる。

 こういう顔をするときの愛菜は、かなり頑固であることも。

 それが分かっているから、僕は窓から少し離れて距離を取る。

 すると愛菜は嬉しそうな顔をしながら窓から身を乗り出し、「お邪魔します」と僕の部屋へと入ってくるのだ。

 昔からずっとしてきたこととはいえ、危ないからやめてほしいのだけど、聞き入れてくれないのが、少し困りものだった。


「うん、やっぱり綺麗だね。というか、少し殺風景なくらい。もう少し物を置いたほうがいいんじゃない?」


 そう言いながら、優奈は部屋の中央に置かれたソファーに座り込む。

 こうなると、優菜はしばらくは出て行かない。

 ため息をつきたくなるのを我慢して、僕は彼女の隣に座る。


「こっちのほうが、僕は落ち着くから。本棚があれば、僕はそれで事足りるよ」


「陣くんは昔から本が好きだったもんね。そういうとこ、変わってないなぁ」


 昔を懐かしむような、穏やかな微笑みを浮かべる優菜。


「優菜も変わってないじゃないか。人に好かれて、いつも誰かに誘われてる。凄いと思うよ」


「そんなことないよ。それに、囲まれるのは好きだけど、疲れちゃうから。今日も色々聞かれて、少し困っちゃったの」


 そう言うと、優菜は僕の肩にコテンと頭を乗せてくる。

 途端、甘い香りが鼻をくすぐり、僕は少し困ってしまう。

 優菜には昔からこうして、二人きりになると甘えてくる癖があった。


「どんなことを聞かれたの?」


「今度どこかに遊びに行かないとか、テストが近いから勉強を教えて欲しいとかが多かったかな。今日はカラオケだったし、好きな曲について聞かれたりもしたなぁ」


 優菜が口にするのはいつも、他愛もない内容だ。

 人のことを悪く言うのが嫌いな優菜にとって、これが口に出せる精一杯の本音なんだろう。

 彼女から他人の悪口を聞いたことがなかった。

 それを話す事がでるのは、きっと幼馴染の僕だけで、それだけ信頼してくれているということなんだろうけど、こちらとしては複雑だ。

 ただ話を聞くだけで、アドバイスのひとつもできないのが、いつものことだったから。


「それと…」


「それと?」


 オウム返しに聞き返すと、優菜は肩に顔を乗せたまま、僕の顔を上目遣いに見上げてくる。


「好きな人はいるのって、聞かれた」


 そして僕の目をジッと見つめながら、そんな言葉を口にした。


「…………」


 一瞬、言葉に詰まる。

 なんて答えればいいのか、迷ってしまう。


 ―――優菜はなんて答えたの?


 普通なら、ここで言うべきセリフはこれなんだろう。

 もしくは茶化したように、「好きな人いるの?」と聞くのかもしれない。


「そう、なんだ。そういうことも聞かれるなんて、人気者は大変だね」


 だけど、僕は言えない。

 言えるはずがない。

 だって、それを口にしたら―――僕らの関係は、きっと変わってしまうから。


「…………そうだね。うん、そうかも」


 僕の顔をじっと見つめ、曖昧に頷く優菜。

 その目には不満があるのが明白だったが、それでも彼女はそれ以上踏み込んでくることはない。

 優菜は他人に嫌われるのを、極端に恐れる傾向がある。

 だから、気付かないふりをしていれば、この話はこれで終わりだ。

 後はほんの少しだけ、話題の方向性を変えてやればいい。


「僕じゃ、そういうこと聞かれないからなぁ。そもそも話しかけてくる人もいないし」


「……ごめんね」


「いや、優菜を責めてるわけじゃないよ。悪いのは僕のほうなんだから」


 そうだ、責めてなんかない。

 こう言えば優菜の罪悪感が高まることがわかっててやっている。

 だからこんなクズのことなんて、早く見捨ててくれれば、それでいいのに、


「ううん、私が悪いの。私が弱いから、陣くんと一緒にいれないんだ」


 優菜はそう言って、力なく笑った。

 自分が悪いんだと自嘲しながら、心の底から申し訳なさそうに俯いている。


「……それは違うよ」


 優菜は悪くなんてない。

 悪いのは僕のほう。僕が優菜の幼馴染だから、彼女にこんな顔をさせてしまっている。


「悪いのは、全部僕なんだよ」


 神様は間違えたんだ。

 優菜みたいな子には、もっと相応しい人を隣におくべきだったのに、よりによって僕なんかが、彼女の一番近い存在として生まれてしまった。


「ごめん、優菜」


 そのことが、本当に申し訳なくて仕方ない。

 そうでなければ――優菜は、僕のことを選ばなかったはずなんだから。






「ねぇ、陣くんは皆と一緒に遊ばないの?」


 小さい頃、ひとりで砂遊びをしている僕のところにきた優菜は、そんなことを聞いてきた。


「うん」


「なんで?みんないい子だよ?」


 優菜からしてみれば、単純に不思議だったんだろう。

 遊ぶ相手はたくさんいるのに、なんでわざわざひとりでいるのか、きっと彼女には理解できなかったんだと思う。


「僕、混じるの苦手だから。なに話せばいいのかわかんないし、こうしてるほうが楽しいんだ」


「そうなの?でも、やっぱりみんなと一緒のほうが楽しいよ。私が話して仲間に入れてあげるから、陣くんも一緒に遊ぼう?そのほうが絶対楽しいもん」


 黙々と砂のお城を作る僕の手を、優菜は握ってきた。

 ただ純粋に一人ぼっちの僕のことを心配してくれていたんだと思う。


「っやめてよ!」


 そんな優菜の手を、幼かった僕は振りほどいた。僕の行動に、優菜はびっくりして目を丸くする。


「あっ…」


「…僕はひとりがいいんだ。優菜はみんなと一緒に、遊んだらいいだろ」


 それだけ告げて、僕は砂遊びを再開した。

 この時には既に、僕の中には優菜に対する劣等感があったのだ。

 小さかった僕にはそれを上手く言葉にできなくて、乱暴なやり方で遠ざけることしかできなかった。

 そうすれば、優菜は僕から離れていってくれると思ってた。


「……そんなの、嫌だよ」


 だっていうのに、優菜は消えてくれなかった。


「優菜…?」


「陣くんと遊べないの、嫌だ」


 僕のそばにしゃがみこむと、同じように砂をかき出し始める優菜。


「私は陣くんも一緒じゃないと嫌だ。楽しくないもん」


「でも、ほかの友達は優菜のこと…」


「いいの」


 そう言うと、優菜は僕に顔を向けた。


「だって、私は陣くんが一番大事だから」


 優菜は笑っていた。

 本当に嬉しそうに、笑ってた。

 その顔があまりにも綺麗に見えたものだから、僕はなにも言えなかった。


 でも、この時僕は優奈の申し出を拒否するべきだったんだ。

 他の友達と遊びなよと、頑なに彼女を拒むべきだった。

 優菜のことを友達と思っていたのなら、たとえそれで優菜から嫌われて、本当に一人ぼっちになってしまったとしても、そうするべきだったんだ。


 だって、優菜は僕と違って、人との繋がりを求める子だったから。


 多くの人から愛情を受けるのを当然のものとして育った優菜。

 みんなから愛される子であった彼女は、人に嫌われることを知らなかった。

 だから本当はすごく傷つきやすくて、繊細な性格の持ち主だったのに、僕は気付くこともできなくて。


「……ありがとう」


 ただ情けなくとも見当違いのお礼を、口にすることしかできなかった。


「陣くん、私ずっと一緒だよ!約束だからね!」


 本当に、優菜の笑顔は綺麗だった。

 他に友達なんてできなくても、優菜がいたらそれでいいと心から思えるほど眩しかった。

 その笑顔が見れなくなるなんて、この時の僕には想像ができなかったのだ。


「うん!」


 だから頷いてしまった。

 優菜の優しさを受け入れてしまった。


 ―――それこそが僕の罪。藤山陣矢という人間の弱さであり、咎。


 僕ひとりを選んだ優菜が、友達から無視されるようになったのは、それからすぐのことだった。









「嫌な夢を見たな…」


 次の日の寝起きは最悪だった。

 頭が重いし汗もひどい。昔の夢を見るといつもこうだ。

 べっとりと張り付くように、背中にTシャツがくっついている。


「くそ…」


 情けない。高校生になってもこれか。

 あれは実際にあった過去。

 友達をろくに作れない不良品が、完璧な存在を巻き込んで消えない傷をつけてしまった、ろくでもない記憶の断片。


 それが時たま思い出したかのように、夢としてあの頃の光景と感情を再生してくるものだから、忘れたいのにできやしない。

 鮮明に脳内に焼きついて、いつまでも自分の罪を見せつけてくる。

 そうして夢を見るたび落ち込んで、気分も心も滅入っていくのがお決まりだった。


「なんでこうなるんだよ…」


 わかってる。

 全て僕の弱さが悪いんだってことは、十分すぎるほどわかっているんだ。

 結局現在に至るまで引きずっているというのだから、本当にどうしようもない。

 これはきっと、これから先も続いていくのだろう。

 優菜が僕の近くにいる限り、ずっと。






「おはよう、陣くん」


 玄関を出ると、家の前で優菜が待っていた。


「おはよう、優菜」


 優しく微笑む彼女に、僕も軽く挨拶を交わして横に並ぶ。

 そしてそのまま歩き出すのが、中学の時から続く、いつもの朝の光景だった。


「今日は少し遅かったね。なにかあった?」


「いや、ちょっと寝るのが遅かったから、少し寝坊しちゃったんだ」


 自然な流れ、自然な成り行きを意識しながら、優菜と会話を交わしていく。

 今朝見た夢の内容を気取られることはないだろうけど、優菜に心配をかけたくない。

 それはもう、二度とてしてはいけないことだから。


「そっか。それってやっぱり、私が昨日遅くまでいちゃったから、だよね」


「いや、違うよ。あの後勉強してたら、結構時間が経っちゃってさ。優菜は全然悪くない。僕のミスだよ」


 顔を曇らせる優菜を見て、咄嗟に出てきた言い訳に、彼女はピクリと反応する。


「そんなに遅くまで勉強してたの?」


「え、あ…」


 しまったと思った時には遅かった。


「どの教科?中学の時は、数学苦手だったよね?わからないところがあったの?それなら言ってくれたら良かったのに!」


「いや、僕は…」


「そうだ、期末テストも近いし、また一緒に勉強会しようよ?その方がいいよ、絶対!ひとりで勉強するより、効率だって上がるもの!」


 目を輝かせながら、優菜はしきりに食いついてくる。

 元々口は上手くないんだ。下手に取り繕ったりするんじゃなかったと後悔するが、完全に後の祭りである。


「今日の夜に、また陣くんの部屋に行くよ。私が教えるの下手な訳じゃないことは、陣くんもわかってくれてるよね?」


 優菜の中では僕と一緒に勉強会をすることは、既に決定事項になりつつあるらしい。

 ひとりで勝手に盛り上がり、勝手に段取りを決めている。

 それが正しいと言わんばかりだ。実際学力を向上させたいだけならば、彼女の言うことはまったくもって正しいものだ。

 なんせ優菜には中学の僕を、学力の届かなかった今の高校に合格させたという実績がある。


(受かるつもりなんて、なかったのにな)


 受験が迫った当時、帰り道でユウナにどこの高校を受験するのか聞いたことが発端だった。

 その際、僕の進路に合わせるとあっけらかんと言い放った優菜の顔を、今でもよく覚えている。


 当然と言わんばかりの彼女の表情を見て、僕は慌てた。

 出来の悪い僕と違い、優菜の成績は常に上位であり、どの進学校だろうと余裕で合格できる学力があったからだ。

 合わせるというが、その場合明確にランクを下げることになるし、将来にだって影響するだろう。


 それはつまり、僕が優菜の足を引っ張ることになるということだ。

 そんなの許容できるはずがなく、結果僕のほうが優菜のランクに合わせるために、勉強を頑張り、ギリギリだったが合格したというわけだ。いや、合格してしまったというべきかもしれない。


 本当は僕だけが落ちて、こっそりどこかの私立を滑り止めとして受けるつもりだった。

 優菜には単願で受験すると言ってあったし、優菜もそうした。

 優菜に勉強を見てもらった効果もあり、目に見えて学力は上がってはいたものの、受かるはずがないとタカをくくって、真面目に入試テストを解いてしまったのも悪かった。

 その結果、合格発表の際に僕と優菜の受験番号が見事に並び、ふたり揃って同じ高校に行くことが決定してしまったというわけだ。


 けど、所詮はまぐれ合格。

 方や元々学力があって地頭の良い優菜とは、学習能力に雲泥の差があった。

 真面目に勉強しているのに追いつけず、むしろどんどん差が広まり引き離されていく一方なのが現実だった。

 そのまま置いていってくれたなら、いっそどれほど気が楽だったことだろう。


「私に任せてよ。受験勉強の時みたいに、分からないところがあったら教えてあげるから」


 だけど、優菜はそうしてくれなかった。

 僕をひとりにすることなく、彼女は手を差し延べてくる。

 その行為が僕の心に、どれほど痛みを与えるかも知らないで。


「っ……」


 ザクリとしたナイフが、胸をえぐって食い込んでくる。

 やめてくれと悲鳴をあげる。救いの手はいつだって、かつての罪を思い起こさせる咎だった。


「陣くん?」


「あ、ああ…」


 底なし沼に沈んでいくだけの馬鹿に、この手を取れと笑顔で言える人間が、いったいどれほどいるというのか。

 馬鹿は救えないから馬鹿なんだ。

 自分の欠点を自覚していても、どうにもできないし変われない。


「そう、だね。じゃあ頼もうかな」


 拒絶もできないんだから、本当に救えない。

 引きずり込んで、巻き込もうとする人間を、愚かと言わずになんというのか。


「!うん!」


 頷くと同時に、嬉しそうな笑顔を浮かべる優菜。

 彼女は気付いていないんだろう。自分が好意を寄せてる人間が、どれだけ救えない人間であるかわかってない。


 そう、僕は気付いてた。

 優菜が僕のことを憎からず思ってくれていることを、中学の頃から知っていたのだ。


 事あるごとに一緒にいたがり、二人きりになると甘えてくる優菜の目に、他の人を見るときとは違う色が混ざっていることに気づかないほど、鈍い人間にはなれなかった。


「あはは…優菜は大げさだなぁ。勉強会なのに、そんなに気合いいれることないじゃないか」


 今だって、熱のこもった瞳が僕のことを射抜いてる。

 それに気付かないふりをして、愛想笑いをして誤魔化すのも、いったい何回目になるだろう。

 この最低な行為を、僕はずっと繰り返していた。


「…気合いも入るよ。私、陣くんといれるのが、やっぱり嬉しいから。」


 気のない返事をするたびに、優菜は傷付くことが分かっているのに。

 今もまた、整った顔に儚い笑みが浮かんでる。


 ーーーまた私だけ、空回っちゃった


 そう考えて落ち込んでいることが、手に取るようにわかってしまうのだ。

 長い付き合いだというのもあるけど、優菜は真っ直ぐで、嘘の下手な子だったから。


「そっか。嬉しいな。ありがとう、優菜。僕も一緒にいると、楽しいよ」


 彼女なりに勇気を出して、僕にアピールしていることも、気付いてた。

 気付いてて、気付かないふりを続けてる。

 その気持ちに、応えられるはずがないからだ。


 例え、互いに気持ちが通じ合っていたとしても


 僕の口から優菜への想いを伝えるなんて、できるはずがないじゃないか。

 だってそうだろう。僕と一緒にいたら、また優菜を不幸にしてしまうのは、とっくの昔にわかってるんだから。


「……うん」


「学校、見えてきたね」


 だから最低だとわかっていても、関係を進めることはしない。

 むしろ優菜から離れていくことを、僕は望んでいた。


「あ……そう、だね」


「じゃあ、そろそろ離れて歩こっか。クラスの人に見つかるの、良くないだろうし」


 その一環として、学校に近づくと距離を置くのが僕らの決まりで、声をかけるのはいつも僕の役割だった。


「……ごめんね」


「いいよ、気にしないでいいって、いつも言ってるじゃないか」


 僕の言葉を受けると、優菜はいつも泣きそうな顔をする。


 小さい頃、僕を選んだ優菜は心に深い傷を負った。

 友達だと思っていた子達から、無視されるようになったことが、ひどく堪えたんだろう。

 笑顔が消えて、沈んだ顔をすることが多くなった。


 笑わなくなった優菜を見て、僕は自分がどうしようもなく馬鹿なことをしてしまったことに気付いたが、その時にはもうどうしようもなかった。


 優菜と仲直りして欲しい。

 そんなこと、どの口で言えると言うんだ。


 僕が全ての元凶だ。

 僕が優菜から笑顔を奪った。

 あんなに綺麗な顔で笑う彼女から、僕が全てを奪ってしまった。


 その罪悪感から、小学校に上がったときに、僕は優菜とある取り決めをした。

 学校では、極力僕らは距離を置こう。

 そう提案したのだ。もちろん優菜は嫌がったが、それでも根気よく説得すると、渋々ながらもようやく頷いてくれた時は、ひどくホッとしたものだ。


 人見知りだった僕と二人で遊んでばかりだったことが、優菜が無視された原因だ。

 距離を置いたことで、優菜に話しかける子がひとり、またひとりと次第に増えていったのは、当然の成り行きだったんだろう。


 元々社交的で面倒見の良い性格である優菜は、あっという間にクラスの人気者になっていた。

 気付けば優菜に笑顔が戻り、楽しそうに友人と話す彼女を見た時には、心底安堵したものだ。

 それを見て、僕は自分が間違ったことをしていないことを確信した。


 …例え、彼女を取り巻く輪の中に入ることができなくても


 笑顔を取り戻して幸せそうに笑う優菜を見るだけで、僕は幸せだったのだ。



「おはよう、優菜!」


「今日も可愛いねー!さっすがー!」


 遠くで話しかけられる優菜を見て、その時の気持ちがふと蘇って懐かしい気持ちになる。

 子供のときの取り決めは、今でもまだ続いていた。


「良かった…優菜は今日も人気者だ」


 優菜は変わらなかった。今もクラスの人気者で、人の輪の中心だ。

 僕は変われなかった。人が苦手なまま、優菜への罪悪感を抱え込んでここまで来てしまった。


 これはただ、それだけの話だ。

 本当に、優菜は何ひとつ悪くなかった。

 だからもう、あんな顔をしなくていいのに。


「そう言えば優菜って、この前告白されたんだっけ?」


 不意に飛び込んできた言葉に、僕はハッと顔をあげる。


「え…と…」


「え、そうなの?」


「うん、あゆが見たって言ってた。バスケ部の先輩だっけ。あのイケメンで有名な」


「うわ、マジ!?凄いじゃん!」


 会話が続く。女子特有の恋愛トークだ。

 告白された本人を置き去りに、彼女達は勝手に盛り上がる。


「あの、その話はやめよ?もう断ってるし…」


「え、また!?」


「これで何度目よ。あの先輩でもダメって、優菜理想高くない?」


 恐る恐る会話に混ざる優菜だったが、それは逆効果だった。

 ますます燃え上がる着火剤となり、話はさらに弾みをつける。


「そんなことないよ。ただ、あまり知らない人はちょっとっていうか…」


「お!となると、これはあれですな」


「うん、可能性は上がったね」


「え、と。何の話?」


 盛り上がる彼女達に、優菜はすっかりついていけなくなっているようだ。

 ただ、後ろを気にしているような気配だけは、なんとなくわかった。


「あはは。こっちの話ー」


「うんうん。いい情報も手に入ったし、これは近いうちにビッグニュースができそうですなー」


「…………?」


 会話はそこで区切られて、最近見た番組の話に切り替わる。


 でもなんでだろう。

 なんだか悪い予感がする。


 大切だったものが、遠くにいってしまうような、そんな予感。


 それはその日のうちに、すぐ的中することになる。





「ーーー黒峰さん、柴田先輩の告白断ったんだってさ」


 そんな言葉が僕の耳に飛び込んできたのは、昼休みのことだった。


「そうなのか?」


「ああ。佐藤達が聞いたらしいぜ。噂聞いた時はヒヤッとしたけど、まぁ一安心ってとこだな」


 用を足すために向かったトイレで、何人かの男子が会話していた。

 その内容は優菜に関するものだから、自然と意識が集中するも、その中のひとり、一際顔立ちの整った男子が苦笑する。


「お前が安心してどうするのさ」


「いやいや、マジで心配だったんだって!なんにせよ良かったじゃん、宮野が黒峰さんと付き合える可能性が上がったってことだろ?」


 ドクンと、心臓が跳ねた気がした。


「可能性としてはそうかもしれないけど、分からないよ。黒峰さんの気持ちを聞いたわけじゃないんだ。俺が告白したところで、断られるかもしれない」


「大丈夫だって!てか、お前でダメならもう誰でも無理だろ」


「同感だ。宮野以上のやつなんて、うちの学校にはいないしな。普段だって仲いいだろ?絶対お前に気があるから断ったんだと思うぜ」


 ドクンドクン


 心臓が五月蝿い。

 音が聞こえてくるようだ。


 宮野という名前には聞き覚えがあった。

 うちのクラスの男子のひとりで、サッカー部のエースだったはず。

 加えて成績も優秀という文武両道な生徒であり、読者モデルをしているほどのイケメンという、まさに完璧超人だ。

 優菜と対をなす、学校のトップカースト。

 僕も同じクラスだから何度か話す機会があったが、嫌味のない爽やかな性格をしていると感じた覚えがある。


「どうだろう。人の気持ちは分からないよ。絶対なんてないんだし、楽観的に考えるのは黒峰さんにも失礼だ。黒峰さんのことは確かに好きだけど、彼女の気持ちを勝手に決め付けて動くようなことはしたくないよ」


 その感覚は正しかったようで、宮野はひどく冷静だった。

 周りに焚き付けられても調子に乗ることもなく、この場にいない優菜のことを尊重している。

 いいやつであり、好きな人を大切にするタイプなんだろう。

 傷付けることしかできない僕とは、まるで違う。


 ーーー勝てない


 そんな言葉が、脳裏に浮かんだ。


「ちぇっ、真面目だなぁ」


「てか、さっきからなに聞き耳立ててんだよ、お前」


 不意にギロリとした視線が僕を射抜く。


「え…」


「お前だよお前。さっきからこっちの話聞いてたろ。盗み聞きしてんじゃねーよ」


 僕の行為は、彼らに完全にバレていた。

 明確な敵意を向けられ硬直していると、彼らは距離を詰めて近づいてくる。


「こいつ、うちのクラスの藤山だぜ」


「あー、見覚えあるわ。いっつも一人でいるやつだな。普段もそうやって、人の話盗み聞きしてんのか?趣味悪いぜ」


「あ、その」


 誤解だ。そういうのは簡単だけど、きっと彼らは信じてくれないだろう。

 今の彼らからすれば、僕の印象は最悪だ。


「なら、誰かに話すこともないんじゃねーか?放っといてもいいだろ」


「いや、こういうやつがしれっとめんどくせーことやるんだよ。クラスのチャットに書き込んだりな。そうされると面倒だし、釘刺しとこうぜ」


 普段の信用のなさが、こういう時にはモロに出る。

 僕のことを口の軽いやつだと決めつけたらしい。

 口止めすべく、彼らは僕へと手を伸ばしてーーー


「おい、もうやめないか」


 そして宮野に止められた。


「藤山はなにも悪いことをしてないじゃないか。暴力を振るうなんて、そんなことは友達といえど見逃せない」


「宮野…いや、でも」


「そもそも落ち度は俺達にある。人が聞こえる場所で話してたんだ。黒峰さんは人気があるし、藤山でなくても気になるやつがいても当然だろ?悪いのは俺達のほうだよ」


 落ち着いた姿勢を崩さない宮野の正論に、彼の友人達は押し黙った。

 元々話していた内容が宮野に関することだ。

 本人からこうも言われては、反論することなどできるはずもない。


「悪かったね、藤山。もっと早く止めれば良かったんだけど、スルーする流れになりそうだったから口を挟みづらかったんだ。本当にすまない」


「あ、いや、そんな…」


 止めてくれただけでも有り難いのに、謝られるなんて思わなくて、ついたじろいでしまう。


「皆にも悪気はないんだ。俺の為に色々考えてくれていて…いや、これは言い訳だな。とにかく、もうしないから、気にしないようにして欲しい。こんなことでクラスメイトと、仲が悪くなりたくないんだよ」


 そう言うと、宮野は頭を下げてきた。

 躊躇も不満も、微塵も感じさせなかった。


「ちょ、ちょっと!やめてよ!」


 僕は慌てた。

 当然だ。トップカーストに君臨する生徒に頭を下げられ、動転しない生徒はいないだろう。

 増して宮野本人に落ち度はないのだ。聞き耳を立ててたのは事実であり、怒られるのは当然のことだと思ってた。


「僕は気にしてないし、誰にも話さないから!ね?だから顔を上げてよ」


 だっていうのに、こんなのずるい。

 先に謝られては、僕が許す立場に成らざるを得ない。

 僕が宮野に謝れない。恨むことも、心の中で口汚く罵ることも出来やしない。


 現実と、向き合わざるを得ない。


「だけど…」


「いいからさ、ね?本当に僕は、さっきの話を誰にも言わないよ。黒峰さんにも、漏らさない」


 惨めだった。

 申し訳なさそうに僕を見上げる宮野の目は真摯で真っ直ぐで、それが僕との差をどこまでも見せつけてくるようで、どうしようもなく惨めだった。






「くそ…」


 その後、宮野達から開放された僕は、ふらふらと廊下を彷徨い歩いていた。


「くそ、くそ…!」


 さっきかな思い浮かぶのは、宮野のことばかりだ。

 僕にはできない。

 あんなふうに、誰かに真っ直ぐ謝ることなんて出来やしない。


 僕はずっと、人と関わるのを避けて生きてきた。

 誰かと正面から向き合った経験なんて、きっとない。


 幼馴染である優菜ですらそうだった。

 彼女の気持ちを知っていながら、ずっと見ないふりをし続けてきた。

 傷付けているとわかっていながら、それでも傷を刻み続けてきたのだ。


「宮野が知ったら、怒るんだろうな」


 当然だろう。

 本人がいない場所でも、あいつは優菜のことを気にかけていた。

 僕みたいに傷付けるようなことはしないに違いない。

 そもそも傷付けてしまったと感じたら、きっとすぐに謝るだろう。

 そういう誠意を、宮野はちゃんと持っていた。


「僕とは大違いだな…」


 思わずひとりごちる。

 ひどくやるせなかった。自分の小ささを、見せつけられた気がした。


 僕は結局、自分が一番大事なのだ。

 傷付けたくないと思いながら、傷付けたら見ないフリをして誤魔化して、そしてまた同じことを繰り返す。

 解決する方法なんて、とっくの昔にわかっているのにそうしないのは、なんだかんだと言い訳しながら、いつかなにかのきっかけで素直に気持ちを告げられて、ハッピーエンドで終われるはずだと心の底では思っているからだ。どこまでも都合よく、自分のいいようになると、そう考えているんだ。


「ちがう…」


 そうだ、正直になれよ僕。

 優菜の気持ちが変わらないと思ってるんだろう?

 あれだけ傷付けてきて、心に消えない傷さえ負わしたのに、まだ僕を一途に求めてくる優菜の視線が、本当は心地良かったんだろう?


「ちが、う…」


 人気者の優菜から好意を寄せられていることに、優越感を感じていたんだろう?

 今の僕を優菜は受け入れてくれているんだと思ってるから、変わろうと思わなかったんだ。


「違う…!」


 なにもしないくせに、先延ばしにして。

 釣り合わないとわかってると言い訳しながら優菜を開放しようともしない。



 なあ僕、お前はいったい、何様のつもりなんだよ



「違う!!!」


 気付けば僕は叫んでた。

 幸いなことに、僕がいた廊下に人の影はなかったけど、別に救いになるわけでもない。

 そもそも僕は、救われてはいけないのだ。


「……僕は、僕は本当に、優菜が大切だったんだよ…」


 だから距離だって置いた。

 一緒にいないようにした。

 優菜の笑顔を見ているだけで、僕は幸せだった。


「なのに、なんでこうなるんだよ…」


 気付けば想いは歪んでいた。

 想いに応えられる器ではなくなってた。

 僕という人間はねじ曲がり、想い人の気持ちに向き合うことすら出来なくなった。


「畜生…畜生…!」


 やっぱり、神様は間違っていたんだ。

 僕と優菜は、出会うべきじゃなかった。

 傷付けることしかできないやつが、彼女の隣を歩くことなんてあってはならないことなんだ。


「優菜ぁ…」


 だからもう、捨ててしまおう。

 彼女への気持ちは、この涙と一緒に流すべきだ。

 それが僕の、そして優菜のためでもある。


「ああああ………」


 そのはずなんだと言い聞かせて、僕は午後の授業をサボって泣きじゃくった。







「話ってなに?陣くん」


 その日の夜、僕は優菜を近所の公園へと呼び出していた。


「うん、ちょっとね」


「大丈夫?今日の午後、授業休んでたけどそのことかな」


 僕を見る優菜の目は、心配げに揺らいでいた。

 なにも告げずに休んだし、連絡も僕からするまでは無視してたから、当たり前といえば当たり前か。


「いや、違うよ。そのことは…まぁ、関係ないとは言わないけど、正解でもない」


「…宮野くんがね、心配してたよ。陣くんが休んだの自分のせいかもしれないって、落ち込んでた」


 はぐらかすつもりだったけど、そうはいかないようだ。

 どうも宮野は僕が思ってたよりずっと誠実で、善人なのかもしれない。

 勝てないなと、つくづく思う。


「あー…そっか…」


「ねぇ、本当に大丈夫だったの?なにかあったなら、私許せないよ。私から注意しておいたほういいよね?」


 俯く優菜に、僕はやんわりと首を振る。

 だって、優菜の手はこんなに震えているじゃないか。


「いいよ」


「でも…」


「本当に宮野とは何でもなかったし、大丈夫だから」


 人に嫌われることにトラウマを持っている優菜が注意なんてしたら、ひどく落ち込むことだろう。

 そんなことはさせられないし、させちゃいけない。


「それより、本題に入りたいんだ。今日優菜を呼んだ理由を、これから話すよ」


 優菜はこれから、傷付くことになるんだから。

 …いや、違うか。


「優菜。僕は、君のことが好きだった」


 僕がこれから、傷付けるんだ。




「…………え」


 どれくらい時間が経っただろう。

 僕の告白を受けた優菜は、しばらくの間固まっていた。


「う、そ…ほんと…?」


「うん。本当だよ」


 パチクリと何度もまぶたを閉じては僕を見る姿は、現実を反芻するかのようだった。

 頷く僕を見て、ようやく認識が追いついてきたのか、じょじょに広角が釣り上がる。


「そう、なんだ…そうなんだ…!」


 声も上ずっていた。

 喜びを隠せない、そんな声。

 長年の夢が叶ったかのような感動に、優菜の体は震えだす。


「あの!あのね陣くん!私も同じだったの!ずっとずっと、同じだったの!」


 彼女には珍しく、要領を得ない台詞だった。

 僕よりずっと頭がいいはずなのに、上手く中身を汲み取れない言葉の選び方は、それだけ動揺していると思えばいいのだろうか。


「…同じって?」


「えっと、だからその、ああもう!」


 珍しく優菜が苛立っているのは、きっと頭の中が整理しきれていないからなんだろう。

 その証拠に優菜は一度大きく深呼吸をし始める。

 気持ちを落ち着かせるためなんだろうな…そんな分析ができるほど、さっきから頭の中がやけに冷えている。

 だからだろうか。


「私も、私も好きだったの!陣くんのことが、ずっとずっと好きだったんだよ!」


 ずっと聞きたくて、聞きたくなかった言葉を耳にしているのに、自分でも驚くほど冷静な自分がいた。


「え、えへへ…やっと、やっと言えたぁ…」


 安心するように顔をほころばせる優菜を見ても、同じだ。

 もしかしたら、一種の防衛機能のようなものが働いてるのかもしれない。

 罪悪感は確かにあるけど、これから自分がすることを思うと、こうでもないと耐えられないと考えるとしっくりくる。


「ずっと言いたかったんだ…でも違ってたらどうしのうって思うと、言えなくて…私達、両想いだったんだね…ねぇ陣くん。これからは恋…」


「違うよ、優菜」


 罪が、増えようとしている。


「僕の話、聞いてなかったの?」


「え…」


「僕は、好きだったって言ったんだよ」


 結局僕は、優菜を傷付けるやり方しか知らなかった。




「…………え。なにを、言っているの」


「過去形だよ。僕は優菜を好きだった。でも、新しく好きな人ができたんだ。その人のことを優菜よりもっと好きになってしまった」


 本当に、僕は何を言っているんだろうな。

 自分でもつくづくそう思うよ。よくもまぁこんなにも、嘘を並び立てられるもんだと呆れてしまう。


「優菜に来てもらったのは、ケジメをつけたかったからなんだ。未練を残したくなかったから、優菜を好きだった自分に別れを告げて、新しい恋に進みたかった…優菜も僕を好きだったなんて、思ってなかったけど」


「う、そ…」


「嘘じゃない。優菜の気持ちは嬉しいけど…僕の気持ちはもう優菜にはないんだ」


 嘘で嘘を塗り固めていく。

 全てが嘘でしかなくて、口先がひどく薄っぺらに思えた。


「だから、ごめん。僕はもう優菜を好きじゃない。勉強会もなしにしよう。一緒に登校するのも、もうやめよう」


 突き放す言葉を言いたいがために、傷付ける言い方しかできない。

 優菜のためなのか自分が楽になりたいかも曖昧で、冷静だった頭の中もごちゃまぜになっていく。


「なんで…?」


「好きな人がいるのに、他の女の子と一緒にいるのは、不誠実だと思うから…優菜にも、悪いよ」


 ただ、吐き出した言葉を飲み込むことだけはしなかった。

 もう僕達は、止まれないんだ。


「私はいいよ…私は陣くんと、一緒にいたいんだから…」


「ダメだよ。優菜は僕と一緒になんていたら…」


「私はいたいんだよ!!!」


 優菜が叫んだ。


「ずっと、ずっと我慢してきたんだよ!?学校でたくさん話をしたかった!もっと一緒にいる時間が欲しかった!でも、陣くんは人といるのが嫌いな人だから、仕方ないと思って!そんな陣くんの特別なのが私だからって、自分を無理矢理納得させてきたのに!なんでそんなこと言うのよぉっ!」


 優しくて穏やかで、本当は寂しがり屋な幼馴染が、声を荒らげて叫んでいる。

 初めて見るその姿は、どうしようもなく痛ましかった。


「好きな人って誰なの!?私が、私がずっと一緒にいれたらその人に気持ちは向かなかったの!?しょうがないじゃない!周りに誰かがいないと怖いんだもん!寂しくて寂しくて、どうしようもないんだよ!自分でもどうしようもないんだもの!頭がおかしくなりそうなの!陣くんがいればそれで良かったはずなのに、どうにもならなかったんだよぉっ!!!」


 泣かないで欲しかった。

 優菜のせいじゃない。僕という人間が全部悪くて、僕が付けた傷が原因で、優菜はそうなってしまったんだ。


「ごめん…」


「謝らないでよ!謝るくらいなら、一緒にいてよ!私のことを、寂しくなんてしないでよ!」


 本当に痛ましかった。

 ここにいるのは人気者の黒峰優菜じゃない。

 寂しがり屋で傷付きやすい、ガラス細工のような女の子がここにいる。


「陣くんがいればいいんだって、また私に思わせてよぉっ!」


 それができる人間だったなら、どんなに良かったことだろう。

 それが出来なかったから泣かせているのに、そのことを優菜はまるでわかっていないし気付いていないんだ。


「できないよ、優菜」


 僕らの心は、どうしようもないほどズレきって、そしてすれ違っていた。


「もう、出来ないんだ。僕は僕の道を行く。優菜も、僕なんか忘れて新しく好きな人を見つけて欲しい」


「無理だよ。そんなこと、できるわけない…!」


「できるよ、優菜なら」


「無理だよ!ずっと、ずっと好きだったんだよ!陣くんのことを忘れられるはずないよ!!!」


 そんなことはない。

 僕よりずっと、優菜は凄い子なんだ。

 現に優菜のことをとても考えて、想ってくれてるやつのことを僕は知っている。

 そいつなら、きっと優菜を寂しくなんてさせないし、幸せにしてくれることだろう。


「さよなら、優菜」


 それだけ告げて、僕は彼女に背を向けた。

 背後から優菜の声が聞こえてきたが、聞こえなかったふりをして、思い切り地面を踏み締める。


 最後の別れも、僕は結局逃げ出した。

 結局僕は、好きな人を傷付けることしか出来なかった。


 罪を増やして弱いまま。

 そんな人間が、幸せになんてできるはすがない。


 ただ、もう昔の夢を見ることはないんだろうと、それだけは思えた。


 幼い約束と淡い想いは、泡のようにパチンと消えた

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泡のようにパチンと消えた くろねこどらごん @dragon1250

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