第二章

 ある日藤子が泊っているホテルに、雄太がかつて勤めていた会社の同僚と名乗る中年女性が訪ねて来た。どこでどう調べたのかと不審に思ったが、みなみ和香わかと書かれた名刺にフリーライターの文字を見つけて納得した。

 藤子の居場所を知っているのは、兄や美奈代と彼らが雇った弁護士や調査会社とその後雇い直した弁護士の他に、手配してくれた編集部の一部しかいない。そこから推測するに、どうやら彼女は出版社ルートの人脈を駆使し、ここに辿り着いたのだろうと思われた。

 藤子に対しての批判は、テレビや週刊誌で扱われる頻度がやや減少傾向にあった。それでもネットニュースやSNS上での誹謗中傷は、まだ沈静化にまで至っていない。今回の騒動は藤子の件だけに留まらず、これまでにも何度となく問題視されてきた話題が含まれていたからだろう。

 例えば女性作家に対する蔑視、外見や話題性を重視する偏った報道の在り方など、なかなかなくならない差別問題が根底にあった。その為藤子に対する嫉妬や批判はあらゆる方面へ飛び火し議論され、対立をあおるものは後を絶たず長引いているのだと思われる。

 女性作家という呼称一つとってもそうだ。中には女流作家と何故名付けるのか。男流作家とは言わないだろう。ジェンダーについての世界的な流れからすれば、わざわざ性で区別する必要があるのか。さらには超高齢化社会で少子化が進んでいる日本では、独身だと駄目なのか。子供を産まないのは罪なのか、との論争にまで発展していた。

 SNS上では具体的な事例を挙げ、深層心理にある差別を取り上げていた。それはある女性が家電ショップに一人で行き、新しいパソコンの購入検討をしていた時の話だ。

 近くに寄ってきた店員にいくつかの質問をしたところ、何故か夫、または家族がいる前提で会話が進んだという。これは女性が家電に弱いとの先入観からか、一人で使用する為だと想像すらしていないに違いないと騒がれ、プチ炎上した例だ。

 独身の作家なら、執筆で使用するパソコンを新調しようと一人で店を回る場合がある。会社員だとしてもコロナ禍によりリモートワークの機会が増えた為、買い替えようとするケースだってあるのだ。もちろん故障だってするだろう。それなのに女性が自分だけで使うと、何故その店員は思わなかったのだろうか。

 そうした経験談をあげると、他にも同じ思いをしたので二度とその店には行かなくなった等、賛同する意見が少なからず書き込まれていった。つまりそういう差別的待遇された女性が、それなりにいるという現状を表している。

 他にも外見を揶揄する発言、態度といったセクハラに関する話題が多く上がった。今では学校であだ名を禁止したり、呼び名は男女ともさんづけさせたりといった風潮も出て来てはいる。

 しかし一九七〇年代から八十年代という藤子の子供時代などは、人の体形や顔の造作、動きなどをからかって名づけるケースが当たり前のようにあった。デブや豚、チビやブスといった直接的なモノもあれば、間接的に連想させて馬鹿にする呼び方も多い。

 男性が女性的、またはその逆の場合の言動があれば、苛めやからかいの対象となった。今では性同一性障害という言葉が、世間でも浸透してきている。かつてはテレビでも少数派として、面白くおかしく扱われていた時代があった。けれど近年トランスジェンダー等多種多様な人達の存在は、広く認識されるようになってきた。

 それでも性的マイノリティへの理解はまだまだ不十分な点が多い。特に学校などでの教職員を含む、大人達の認識不足が問題となっている。男または女のくせに気持ち悪い等の差別的あるいは侮辱的な言葉を投げつけ、自尊感情を深く傷つけたあるいは傷つけている場面を見た経験を、皆一度くらいしているのではないだろうか。

 有名大学の学生でも実際そうした嗜好しこうをばらされ、苛められからかわれて自殺した人がいる。社会人になってもLGBTQであると打ち明けたところ、仕事から外されるまたは辞めさせられたとの声も少なくない。

 そこまで騒ぎが拡大し収拾がつかなくなってしまった状況だからこそ、藤子はホテルに隔離され、外にもろくに出られなくなったのだ。そんな中、マスコミ関係の人間が接触してきたのである。

 無暗むやみに追い返せば、他のマスコミにリークされてしまうかもしれない。そうなれば、また他のホテルへ逃げ出さなければならなくなる恐れもあった。といって彼女の用件に答えるとなれば、他の人には聞かれたくない話も出るだろう。そう考え藤子はやむを得ず、ロビーではなく部屋の中に招く決断をしたのだ。

 四十一歳になる彼女は、十二年前に雄太の勤めていた同じ出版社で勤務していたという。説明によると雄太がシステム部門にいた当時、隣の部署だった彼女はそこで親しくなったようだ。その四年後に退職した雄太は、次にテレビ関係の下請け会社へ転職し、そこでもシステム関係の仕事についたと彼女は言った。この辺りは調査書で既に確認している内容と一致していたので間違いはない。

 その時期と前後してフリーになった彼女は、仕事関係で雄太と顔を会わす機会があったからか、引き続き連絡を取り合っていたと話してくれた。

その彼女が突然頭を下げて喋り始めたのだ。

「雄太さんが事故で死んだとは思えません。私は彼が殺されたのではないかと疑っています。けれど警察は聞く耳を持ってくれません。だから死の真相を明らかにする為にも、是非お姉様である白井先生に協力して頂けないかとお願いに参りました」

 とんでもない奇抜な主張に戸惑いながら、藤子は自分が知らない雄太について直接少しでも教えて貰えると期待し、彼女の言葉に耳を傾けてみようと思った。

 そこで尋ねてみたのだ。

「あなたは何故、雄太が殺されたと思うのですか」

すると彼女は信じ難い推測を口にしたのである。

「彼は仕事絡みで三年前に香港へ出張した際、現地で自由化運動をしている人達と知り合ったようです。私は正義感の強い彼が、現地で活動している人達と頻繁に連絡していたのではないかと思っています。その為に中国の国家安全維持法違反をする危険人物として目を付けられ、殺されてしまったのではないでしょうか」

 彼女が言った国家安全維持法とは、二〇一九年三月から一年以上香港で継続して行われた一連のデモを抑える為、中国が成立させた法律だ。発端は二〇一九年に逃亡犯条例改正案への反対運動で、その後民主化を訴える大規模なデモへと発展した。主催者の発表では最大二〇〇万人ともいわれ、国際世論まで巻き込んだ。

 そうした動きを封じる為に中国政府が動き、二〇二〇年六月三〇日に「香港国家安全維持法」を成立させ、即日施行された。だが問題はその中身だった。そこには四種類の国家安全に危害を及ぼす、犯罪行為と処罰が決められている。四種類とは、国家分裂罪・国家政権転覆罪・テロ活動罪・外国又は境外勢力と結託し国家安全に危害を及ぼす罪を指す。 

 中でも世界が反発したのは、永住者の身分を有さない者が香港特別行政区以外で、本法に規定する犯罪を実施した場合を記した三十八条だった。有罪となった場合、最高で終身刑または十年以上の懲役、積極的に参加した者は三年以上十年以下の懲役、その他参加者は三年以下の懲役、或いは拘留・保護観察処分となっている。

 これは外国人にも適用されることを意味していた。要するに、日本人が日本で国家安全維持法に違反した場合、中国の管轄権に入れば逮捕され、処罰を受ける可能性があるのだ。香港が好きな日本人は多く、コアなファンも少なくない。そういった人達により、香港の為に考え意見を述べ行動すれば、ある日突如として犯罪者にされてしまう恐れがあった。そうした場合、好きだった香港に渡る行為がリスクになるかもしれないのである。

 ただ現実的には、いちいち外国の案件を摘発していたらキリがない。また逮捕者の収容人数の問題だけでなく国際問題にも発展しかねない為、余程のことが無い限りは大丈夫だと言われていた。

 それでもこれは中国法の為、解釈権は中国にある。よっていつどこでその地雷を踏むかどうかは不明だ。その点がこの法律の難しさと言われていた。

 けれどもあくまで罰せられるのは、違反した人物が香港など中国に渡った場合に限られる。日本にいれば手を出さないのが普通だ。しかし彼女は、だからこそ口を封じられたのだと言い張った。中国から世界各国に派遣している公安のスパイが、秘密裏に動いてそうした危険分子を排除していると熱く語りだしたのである。

 曲がりなりにも藤子はプロの小説家だ。純文学と呼ばれるジャンルの物語を執筆しているとはいえ、推理小説やSF等の作品もそれ相応に読破して来た。よってスパイが登場する警察小説や、世界の情報機関同士が戦う物語にも触れている。その為そういう類の話に抵抗感はなく、一般の人よりも理解がある方だと思う。

 それでも現実問題として身近な話となれば、余りに突拍子もないと考えるのは当然だ。よって正直話半分で話を聞いていた。

 ところが彼女は言ったのだ。

「警察から戻された雄太さんの遺品は手元にありますか。もしその中に携帯があれば、ぜひその中身を見てください。そうすれば分かると思います」

 やたらと強く迫られたので、藤子は渋々隣の部屋へと向かった。

 雄太が所持していたほとんどの物は、兄に押し付けられ藤子の家で一時保管している。中でも彼の生活や過去に関わる遺品は、調査員達に渡していた。携帯もその一つだが、彼らを解雇した際全て返却された為、今はホテル住まいしている藤子の手元にあった。ロックは警察の手により解除されたのか、暗証番号なしで中味を確認出来るようになっている。

 そこで言われた通り操作してみると、驚いたことに実際発見したのだ。そこには香港から日本へ逃げて来た人達や現地の人達と、雄太が度々メールのやり取りをしていた形跡が残っていたのである。

 さらに和香が教えてくれたSNSを覗いてみると、彼が使用していたらしいアカウントを見つけた。そこに書き込まれた内容を遡って辿ったところ、確かに民主化運動に加担していた証拠となる文章が多数記載されていたのだ。

 よって彼女の夢物語のような話も、完全に否定できなくなってしまった。信じられないが、そういう可能性もあると考えざるを得なくなったのである。

 ただ一旦冷静になって考えた。この問題に首を突っ込み過ぎれば、本当だった場合は下手をすると自分の身にも危険が及ぶ。それに警察だって雄太の携帯の中身を見ているはずだ。つまりこうした内容を知った上で、事故として処理したに違いない。

 調査会社も把握していただろう。けれど彼女の言うような推測をして、人間関係を洗ったとの報告は受けていない。つまりは単に香港民主化運動を支援する、一定数の日本人の一人としかみなされていないのだ。

 それを今更殺されたかもしれないと警察に再捜査して貰うなど、まず無理だと考えた。それに実際マンションの住民二人が、雄太は何かに気を取られたのか足を滑らせ落ちる瞬間を目撃したと証言している。その為彼女の意向には沿えないと一旦は突っぱねた。

 それでも彼女は諦めなかった。

「それなら私が今までライターの仕事をしてきた繋がりで、親身になってくれる警察の人を紹介します。もしその方が、管轄外で既に解決済みとされている案件でも別途再捜査してくれると約束してくれたなら、協力して頂けますか。親族でもない私が頼んでも、その人は動いてくれません。しかしお姉さんからの依頼なら話は別です」

 そこまで言われると、藤子もさすがに断り辛くなった。そこでまず無理だろうとたかくくっていた為、もしそういう人がいて調べてくれるのなら協力すると告げたのだ。

 その日はそれで別れたのだが、早速翌日に田北たきたと名乗る刑事を伴い、彼女は再び訪ねて来た。そこで内容が内容だけに彼らを部屋の中に招き入れたところ、彼は口を開いた。

「デリケートな問題なので、表立っての再捜査はできません。ただ藤子さんの協力が頂けるのなら、人脈を駆使して私が裏で動くことは可能です」

 藤子は思い悩んだ。雄太の過去を知りたいと思っているのは間違いない。だから決して安くはない調査費用をこれまで支払ってきたのだ。しかしそれは余りにも雄太について知らなさ過ぎ無関心でいた自分に対する戒めと、せめてもの罪滅ぼしの意味合いが強かった。

 更に言えば二つ名を欲しいと思い筆名を持った藤子と、実際にパスポートを作って香港に渡る程本格的な他人名義を手に入れた雄太の間に、どんな共通点があったのかを探りたかっただけなのだ。

 けれど雄太の死の原因を突き止めるとなれば、少し話が違ってくる。こう言ってはなんだが、ようやく単なる事故で文書偽造を除く違法な行為をしていた証拠も見つかっていないと、自分が納得できる結果を既に得ていた。

 だが再捜査をすれば、何か知りたくない事実まで公になりはしないか。そんな不安に駆られた。そういう藤子の想いを察したらしい田北は、さらに話を続けた。

「私自身、今回の弟さんの件には何かあると考えています。その証拠に、余りにも不可思議な点が多々ありながら、早々に事故として処理されました。資産も相当な金額があったと聞いています。本来なら他人名義を使用していた背景についてもっと詳細に調べ、間違いなく事件性がないか確かめるはずです」

 痛い所を突かれた。それは藤子も疑問を持った点だ。しかし目撃証言があり、かつ他人名義についても警察がそれほど深く追及しないというのなら、そのまま認めざるを得なかったのである。

 そう反論すると彼は言った。

「もちろん藤子さんにとって、目をつむっていたかった事情が新たに出るかもしれません。ただ真実を明らかにしなければ、本当の意味で彼がこれまでどう生きて来たのかは理解できないでしょう。まして何故別人物になりすましていたのか、知る由もありません。あなたがリサーチ会社を使ってまで調査したのは、そういう事を含めてでは無かったのですか」

 彼の言葉に一瞬心を動かされた。それに警察が後ろ盾となってくれるのなら、万が一香港国家安全維持法に関係していたとしても、ある程度の身の安全は保障されるだろう。そう考えた一方で、年齢不詳な容貌に加え刑事らしく表情が読めない田北が信頼できる人なのか、藤子は疑問を感じた。

 さらに別の意味で、和香という人物にも何故か不信感を持ったのだ。彼女は実際雄太とどういう関係なのか。同僚と言っていたが、もしかすると恋人だったのかもしれない。七つ年下だから、知り合った当時彼女は二十九歳の頃だろう。

 もし二人が深い関係だったとしたら、ここまで死の真相に踏み込む理由も理解できる。ただそうでない場合はフリーライターという職業柄、単に興味深い取材内容として見ているのではないか。そう疑っても見た。

 そこで正直に質問してみた。

「あなたは本当に、雄太とは元同僚というだけの関係ですか」

 すると彼女はそう尋ねられるだろうと覚悟していたのか、よどみなく答えた。

「私は雄太さんを、人として尊敬していました。ですがあくまで異性の友人であり、絶対に男女関係はありません」

 そう断言した表情から、嘘は読み取れなかった。その為とりあえずその場は信じた振りをして、携帯以外にも捜査に役立ちそうなものを全て田北に渡し話を終わらせ別れた。その上で、藤子は以前クビにした沼橋ぬまはしという調査員に改めて連絡をしたのだ。それは彼女の素性を調べさせる為である。

 本来なら全く別のリサーチ会社に依頼していただろう。けれども扱っている案件が余りに特殊だ。守秘義務があるとはいえ、色んな所に情報をばらまく真似はできるだけ避けたい。そこで一度契約を解除したが、今度は無関係でないけれど別件の調査になる。しかも前回の反省を踏まえれば、今回こそ真面目に取り組むだろう。そう判断したのだ。

 案の定、呼び出して会った際の彼は平身低頭で、前回は申し訳ありませんでしたと謝罪した。さらに期待を裏切る真似は二度としませんと、土下座しかねない程の態度を取ったのである。そこで決断した。

「それならお願いします。もしまた余計な真似をしたら、あなた達がこれまで私を裏切った事情等をネットで拡散しますからね。これだけ世間から注目を浴びた私が発信するのだから、それなりの影響力はあるでしょう。そうなるとあなた達の会社は一気に信用を無くし、業界では生きていけなくなるかもしれませんよ」

 そうやって散々脅した上で依頼をした所、一週間ほど経った頃に至急報告したい件があると告げられ、中間調査書を受け取った。するとそこには、彼女が同性愛者だと分かる証拠がいくつも上がってきたのだ。

 そうした人達が出入りするお店で同じ嗜好を持つ方と唇を交わし、夜遅く二人で相手の自宅と思われる部屋へ入った様子が写真に取られていた。和香が出て来たのは翌朝になってからだった。

「前回の依頼で彼女の素性を調べる理由として、雄太さんと恋愛関係にあったかどうかを知りたいと仰っていましたよね。そうなると、この件については取り急ぎお知らせした方が良いと思い、ご連絡させていただきました」

 つまり雄太と男女関係は全く無いと断言したのは、限りなく真実に近かったのだと理解した。もちろん中にはバイセクシャルの人も存在する。だが彼女の場合、そうではないとの証言を得たという。さらに追加報告として、彼女は幼い頃から養護施設で育った苦労人だと分かった。

「父親は暴力を振るう男だったらしく、母親を殴り殺し服役していました。ですが今は既に亡くなっています。残された彼女は施設を出た後、奨学金を得ながら何とか大学まで卒業し、出版社へ勤務した後フリーライターになったようです」

 そう教えられた藤子は、同情ではない別の感情が湧いた。恵まれた環境で裕福に育った自分とは全く異なる状況で生きて来たと知り、これまで抱いていた疑念を捨てようとした。

 それでも藤子は迷った。彼女の話が本当なら、一歩間違えれば危険な目に会う可能性がある。それなのに恋人でもないかつての単なる同僚だった雄太の死に、何故あれだけこだわるのか。その点だけは疑問が残ったからだ。

 けれど雄太について余りに知らない自分とは違う。少なくとも十二年前から、彼がどんな人生を歩んだかを彼女は見ている。そこで最低でも、彼女が持つ雄太の情報を得ておくのは悪くないと思い直した。それに事故でなく殺されたと彼女が強く主張する根拠が、自由化運動以外にあるのかもしれない。

 そう感じた藤子は、彼女達の提案に乗ってみようと決心を固めた。その為これ以上、和香の調査は必要ないと沼橋に告げたのだ。また雄太の死の真相を探る仕事は、取り敢えず田北に任せた。その代わり、以前美奈代達が調査させた際受け取った報告書を手掛かりにして、和香と一緒に雄太の足跡を辿ってみようと決めたのである。

 これまで勤めていた会社に足を運び、彼女のように雄太と親しくしていた人物がいるか探し、まず話を聞こうと考えた。既にある程度は警察や調査会社、またはマスコミ等が聞き込み済みだろう。しかしその際、和香の存在は誰も探り当てていない。また香港の民主化運動に目を付けた者は誰一人いなかった。

 つまり取材等の手が及んでいない人達はまだ他にもいるはずだ。それに第三者にだと口が重くなっていた人でも、身内の藤子になら喋ろうという気になる場合だってあるだろう。そのような隠れた情報を再捜索するのが今回の目的だった。

 雄太はほぼ四年に一回のぺ―スでシステム関係の部署がある会社に転職していた経緯は、和香やリサーチ会社の調査で分かっている。死亡した時に勤めていた大手IT会社の関連子会社に昨年の六月から勤める前は、二〇一七年から警備会社で勤務。二〇一四年にテレビ関係の下請け会社、二〇一〇年に出版社のシステム部門へと転職を繰り返していた。この時和香と知りあったそうだ。

 その前は二〇〇六年に官公庁のシステム部門、二〇〇三年に大手運送会社のシステム部門、一九九六年に父親のコネで入った会社が倒産し金融関連の子会社へ入ったというのが彼の経歴だった。システム関係の職だったのが幸いし、不況の波を乗り越えその後約三〇年で八つの会社のシステム部門を渡り歩き、働き続けて来たのである。

 ここで一つ疑問が生じたので、藤子は和香に今後どう調査するかの打ち合わせを兼ね連絡をした際、尋ねてみた。

「あなたが雄太と知り合ったのは、出版社にいた頃でしたね。でもその後彼はテレビ関係の下請け会社に転職し、次に移った警備会社から渡部亮と名乗っていた。あなたはそれを知っていたの」

 電話の向こうで彼女は言った。

「いいえ。あくまで私とは、保曽井雄太の名で接していました。テレビ関係の下請け会社にいた頃は仕事でも繋がりがあったので、会社でも彼は本名で勤務していた事は私が証明できます。ただその後の警備会社へ転職してから、仕事上の繋がりは無くなりました。だから彼が別の名で勤務していたなんて、全く気付きませんでした」

 これまでの調査でも、雄太は途中から二つの名を使い始めた事実は明らかになっている。その為これまで関わった人達と完全に関係を絶っていたのなら、それなりの事情があったのだろうと思えた。

 しかし何故和香のような過去を知る人物との付き合いを残したまま、危険を犯してまで別名義を取得し、警備会社で働き出したのか不明だ。

 そうしなければならない何かがその前の職場で起こったのかを尋ねた。だがそのような事実は聞いていないと彼女は言った。それは調査報告書でも同じく発見できなかったと記載されている。もちろんプライベートで事件を起こした形跡もない。

 もし警察沙汰になっていれば彼が亡くなった際、高校時代の補導歴まで遡る必要が無かった事からもそれは証明されている。そこで調べるのは和香も余り知らないという、五年前から今の職場に至るまでの人間関係に絞るべきだろうとアドバイスされた。

 これまでのリサーチ会社による調査でも、それぞれの会社で十数人の交友関係を当たり同僚や上司等から話を聞いていた。だが似たり寄ったりの話しか得られていない。彼らによれば、それ程社交的だった印象はないという。ただそれはシステム部門という部署が持つ特徴でもあり、特別ではないようだ。

 チームプレーというより、個々でそれぞれに割り振られた作業を黙々とこなす仕事が多い職場らしい。その中でも積極的に周囲と交流を持っていたタイプではなかっただけだ。しかし飲みに誘えばついてきたから、付き合いが悪い訳でもないという。そうした中で何とか彼と交わしたプライベートの話を思い出させようと試みたそうだ。

 けれど皆が口を揃え、特別印象に残るエピソードはこれといって無いと言っていたらしい。また特別な趣味を持っていたとの記憶もないという。他に共通していたのは女性関係の話を聞いたところ、うっすらとありながらも真剣交際には至らなかった点だった。

 つまりそれなりに女性との交流はあったようだ。しかし深い付き合いにならなかった為、結婚までは至らなかったと思われる。そこでどういう女性と交流していたのか探ったが、具体的な名前を知っている人はおらず特定までは出来ていなかった。

 そうした報告を聞いても、特筆すべき事項ではないと藤子は感じた。彼は中肉中背で外見上も人並みと言って良く、もてるタイプではない。それに昔から余り要領がいい性格ではなかったし、どちらかと言えば不器用だった記憶がある。だから恋愛関係も上手くいかないまま時が過ぎていったに違いない。それは藤子自身にも心当たりがある。

 リサーチ社は雄太が最初に就職した会社や、そこが倒産して金融関連の子会社に辿り着いた頃まで遡り調べていた。それでも関係者が余り見つからず、収穫はほぼゼロと言っていい内容しか記載されていない。

敢えて挙げるならどの会社でも真面目にコツコツと働いていた事と、転職を繰り返したのは決して会社と揉めてではなく、ある日突然思い付いたかのように辞めた点だろう。そんな雄太の姿を想像し、彼は何を求め新たな会社に勤め何を楽しみにして生活していたのだろう、と思いを馳せた。

 藤子は中学から親元を離れ寮に入っていた事情もあり、実家に帰り彼や兄と顔を会わせたのは、お盆や正月位しかない。よって彼の姿をよく覚えているのは小学生の頃までだ。後はせいぜい帰省した際、少しずつ成長していく彼とどうでもいい会話を交わしたり、兄から間接的にちょっとしたエピソードを聞いたりした位だろう。

 そこで彼が高校生の時、ヤンチャなグループと付き合いがあると耳にした。またその頃、先輩達に無理やり連れていかれた集まりで、童貞を失った話を聞いた事を思い出す。年上の女性と半強制的に肉体関係を持たされ、幻滅したと兄に愚痴をこぼしていた経緯をこっそり盗み聞きしていた記憶が蘇った。もしかするとそうしたトラウマがあったから、女性との距離を縮められないままだったのかもしれない。

 後は小学校から高校の途中まで、彼はサッカーに夢中だった。その為運動神経は比較的よく、体力には自信があったと思う。ただ高校に入った部活に素行の悪い先輩や同級生がいた。そこから道を踏み外しそうになったが暴力事件をきっかけに、取り巻きの不良達の多くは学校を去ったらしい。彼はその後ようやく本来の真面目な自分を取り戻し、それでも何故か勉強が苦手だった為、高校卒業後は社会人になる道を選んだ。

 しかも父親のコネとはいえ、当時まだメジャーでは無かったパソコン関係の仕事を始めた。それを知った兄や藤子達は、将来性が見込める業種だから安心できると胸を撫で下ろした覚えがある。

 末っ子というだけの理由ではないが、上二人と比べれば比較的甘やかされて育ったと思う。その為藤子達とは異なり良い大学に入れようといった教育方針を、受けさせていなかったのかもしれない。藤子もそうだったが、恐らく出来の良かった兄と比較され、能力が及ばない事で卑屈になりはしないか懸念していた形跡がある。特に父はそう思っていたのではないか。

 だからこそ幼い頃はかなり体が弱く病気がちで、成長してからも運動等を苦手にしていた兄と相反し、様々なスポーツに取り組ませていたとも考えられる。その中で本人が最ものめり込んだのはサッカーだ。けれど当然だがプロの選手になれるレベルまでは至らず、せいぜいチーム内で目立つ程度にとどまっていた。

 それでも母が高卒だった為か雄太をかばい、良い学歴を得たり有名な会社に入ったりする事だけが、幸せな人生とは限らないと言い続けていた記憶は残っている。当時の藤子や兄は、それを単なる負け惜しみだと感じていた。

 しかしいざ自分が社会人となり多くの挫折を味わい、思い出すだけでも気分が悪くなる経験を重ねてきた今では、母の言葉が正しかったと思えるようになった。これは兄に対しても言える。藤子が言うのもなんだが、彼のおかれた現在の状況を見る限り決して幸福だとは思えない。彼の家庭がどういう状況か、それなりに把握していたからだ。

 それでも単身赴任するに至った経緯は聞いているが、そこに至るまでの嘘偽りない兄の本音や、会社で具体的にどういう扱いを受けそれに対しどのような想いをしたのか、本当の所は全く知らない。

 身内が兄しかいなくなり、今更ながら雄太について聞き及んでいない事実に気付かされ驚いているのだ。当たり前といえばそうかもしれない。それは彼らに限った事ではなかった。ざっとした経歴は聞いていたものの、藤子達の両親がどのような人生を送ったかなど尋ねた思い出なんて皆無だ。第一興味すら持たなかった。

 親や兄弟と言ってもそれぞれ別々の人格を持つ人間だ。しかも別の世帯で家庭や仕事を持てば独自の世界を持つ為、余り踏み込めないのも事実である。しかしそれ以前に関心があったかと聞かれれば、首を振るしかない。

 世間では互いの付き合った歴代の彼女、または彼氏を知っている程仲の良い家族もいるだろう。家に多くの友人を招く度に紹介したりして、どんな付き合い方をしているのか理解している兄弟だっているはずだ。

 けれど保曽井家は違う。藤子が小学校卒業後という早い時期に家を離れた事情もあるだろう。残された兄と弟の年の差が、七歳と大きい点も影響していたかもしれない。いや、違う。単にそれぞれの間で大きな溝があったのだ。それを飛び越えてまで、互いを理解しようと思わなかっただけだろう。

 そういう関係自体、間違っていたと否定するつもりはない。ただ雄太が亡くなってから、心境に変化が産まれたのは確かだ。自分の事で精一杯だった藤子は、他人について考える余裕などこれまで全くなかった。それは今を生きる、多くの人がそうではないかと思う。

 だが一昨年から起こったコロナ禍という人類にとって大きな災いが、それで良いのかと再考を促す大きな課題を突き付けてきた。何十万人もの人々が職を失い、多数の会社が倒産に追い込まれた。外国人労働者等も含め、社会に放り出されどうしようもない窮地きゅうちに立たされた人達による犯罪も発生。さらには自殺者数も高水準を保ったままだ。

 非常事態における国のリーダーまたは自治体の長が誰で、どのような政策を打ち出し行動するのか。それにより自分達を取り巻く環境がどれだけ悪化し改善するのかを、全世界の人々が身をもって体験させられたのである。さらに生活への影響だけでなく、命をも脅かされると痛感した。

 平和時では政治に関心が無くても、日々の暮らしに支障をきたすケースは無かっただろう。その為何事も無ければそれで良かったけれど、そうはいかないと多くの国民が感じたはずだ。自助を強制され、否応なく弱者が切り捨てられていく状況を目の当たりにしたからである。

 しかし全国民がそうだった訳ではない。想像力が欠如し、自己中心的な思考に嵌(はま)っている人にとってはあくまで他人事だ。当然第三者をおもんばかることはなく、自らの頭で考えることもなく、表面的な情報を鵜呑みしてフェィクニュースに踊らされた。

 そうして偏った思想や主義主張を正しいと認識してしまう浅はかな人達が、可視化されるようになった。非常時だからこそ、平和時では見られなかった周辺にいる人の本質が一気に表面化したのである。そこで衝突や軋轢が生じ、分裂や争いも起こった。

 藤子は会社という社会集団から外れ他人と距離を置いていた時期だった為、そうした出来事をネットニュースやテレビで傍観していた。

 よってそもそも他人と距離を取り、必要最小限の外出しかしていなかった引き籠り生活は、時代が自分に追いついてきたと錯覚する程の異様な光景に映った事を覚えている。それでもあらゆる場面で落胆し、怒りを感じた。そのエネルギーを筆にぶつけ、綴った作品も多くある。

 特にあの当時、致死率や重症化率が低いと言われていた若者は、他人が感染すれば医療体制がひっ迫し、怪我をした人や別の病気に罹った人に迷惑が掛かるなんて考えもしていない輩が散見された。

 よって自分自身がそうなる確率や大切な恋人や家族が救急車の中でたらいまわしにされ、命の危険に関わる事態に陥ってしまうケースも起こり得るなんて想像できるはずなどない。

 これは三回目のワクチン接種が行われた後も変わらない。コロナ禍が長く続き過ぎ、自粛疲れの反動が出たのだろう。また変異種がやや弱毒化傾向にあるとかって解釈し出した。

 すると感染の波が落ち着き始めたと思えばすぐに経済や日常生活を取り戻そうと人が動き出す。そうするとやがて新たな変異種による感染拡大が起これば、再び社会的弱者は弱者のままで居続ける。

 喉元過ぎれば熱さを忘れるとの言葉通り、折角目覚め始めた人々さえまた自分が生きることに忙しくなり始め、他人に目を向けなくなりつつあった。

 それでも幸か不幸か、藤子は社会的落伍者だと責めていた状況から突然世間から評価され、表面的な社会的地位が向上したのだ。その上容姿をもてはやされ、一時期はこれまでの劣等感を払しょくできたとほくそ笑んだのも事実である。

 けれど時が経つにつれ嬉しいと思う気持ちが起こった反面、ほんの一部分だけで評価される辛さや悲しみも感じ始めた。褒められる快感を味わいながらも、表面だけで人の良し悪しを判断する風潮に呆れた。馬鹿馬鹿しさから怒りを覚えるという複雑な感情に翻弄され、困惑するようになったのだ。

 そこから一瞬で逆風に晒され、頭を冷やす時間を否応なく与えられて今に至る。今回の事件は雄太を含む保曽井家についての過去を振り返る、良い機会なのかもしれない。

 前だけを見続けて来た生き方を見つめ直し、一度立ち止まって後ろを振り返ることは大事だ。会社を退職せざるを得なくなる程追い詰められた経験を経た藤子は、改めてそう思った。

 雄太の過去に何があり何を求めていたのかを探る行為は、自分の生き方について見直す大きなきっかけになるのではないか。一見成功し再出発できたかのように思えるが、これで本当に良かったのか。また雄太が藤子に残そうとした遺産をどう使えば彼の意志に沿えるのか。

これからの行動により、その答えが見つかるかもしれない。藤子はそう考えるようになっていた。



「俺の人生は、いつから狂い始めたんだ」

 忌引きびき休暇を終えシンガポールのオフィスに戻った慎一郎は、窓から見える高層ビル群を眺めながら呟いていた。

 仕事がある為、日本にいる妻に雄太の遺産等に関しては全て一任していた。といっても慎一郎の伝手で手配した弁護士がついている。だから大丈夫だろうと楽観視していたが、それは大きな間違いだった。あろうことか遺産以外の調査に必要だと追加依頼をかけた会社に、藤子のプライベートな情報を暴露したと聞いて耳を疑った。

 彼女はマスコミを動かせば効率が良いとの忠告を受けたからだと言い訳したが、あれは紛れもなく意図的な嫌がらせだ。美奈代が藤子に嫉妬する気持ちは多少なりとも理解できる。それでもさすがにやり過ぎた。そう諭した慎一郎を彼女は一蹴した。

「何を言っているの。本来ならあなたがやるべきことでしょう。それを私に丸投げしたのだから、文句何て言わないで頂戴。だったら今からでもあなたが窓口になればいいわ」

 出来ないと分かった上で激しく責め立てられた為、黙るしかなかった。海外にいても今はリモート等を通じてやり取りができる。時差も一時間しかない為不可能ではない。

 だが弁護士とのやり取りを、こちらの勤務時間が終わる夜間や休日にするのはまず無理だ。調査会社だって嫌がるだろう。そうなると主な情報の伝達はメールでしかできなくなる。

 それならばと、昼間に私用な交渉をする訳にもいかなかった。周囲に知られ本社の役員達の耳に入れば、次はさらなる僻地へと飛ばされてしまう恐れがあるからだ。

 今回のシンガポールへの異動は、四年前に新社長となった前専務の対抗馬の、前副社長派に属していた慎一郎に対する報復人事だった。争いに負けた前副社長は既に会社を去り、彼と関係が深かった役員や準ずる社員は例外なく主要ポストから外された。

 そんな状況下で、足元を見られる行動が取れるはずもない。彼女はそうした事情を理解しているからこそ黙っていろと強気に出られるのだ。

 態度が大きく変わったのは、部長から部長待遇に降格されたと聞いてからだが、あのような性格になったのは最近の話でない。彼女は元々、今回のような言動を取る要素を持ち合わせていた。それが慎一郎の社内的地位の低下をきっかけに表面化しただけだ。

 そうなるだろうと分かっていたからこれまで懸命に働き、上司から気に入られるよう動き回ってきた。彼女の高いプライドを傷つけないことで家庭内の威厳を保とうと、激しい昇進競争を勝ち抜いてきたのである。

 その試みが失敗し役員への昇進が絶たれたと知った彼女の怒りは、想像していた以上だった。現在の立場に陥った事で、慎一郎はこのような事態になるのを最も恐れていたのだと痛感させられた。

 しかしそんな彼女を伴侶に選んだのがそもそもの間違いだったのかとも考え、出会った頃を思い出してそうではないはずだと頭を振った。入社三年目の時、二つ年下の彼女が新人として隣の部署に配属された頃の記憶が蘇る。

 彼女はとても美人で愛嬌あいきょうがあり、当初から周囲の皆に可愛がられ人気があった。良い大学を卒業していて頭もよく、要領も良かった為か仕事も良く出来ると隣の課長や先輩達が褒めていたのをよく耳にした。

 その後しばらくして、彼女がコネ入社であるとの噂を聞いた。話によれば、父親が大手貿易企業の役員だと判明した。また既に他界していたが、彼女の祖父は元社長だったという。一族経営の会社では無いけれど、父親も将来は社長になると予想されていた。

 慎一郎達が勤める会社にとって大きな取引先だったから、彼女は入社できたらしい。そうささやかれていたのだ。つまり彼女と結婚できれば逆玉になる。そうした理由もあったのだろう。彼女にアプローチをする男性社員は数多く現れた。慎一郎もその一人だった。

 隣の課という物理的にも近い距離を利用し、若手限定の合同飲み会と称して彼女と接する機会を設けたのもその為である。もちろん表向きは彼女狙いだと悟られないよう、他の女性職員にも出来るだけ平等に接するよう心掛けた。

 そうしなければ異性全体を敵に回す。もしも彼女達に反感を買ってしまえば、仕事に大きく支障が出ると分かっていたからだ。嫉妬というものは恐ろしい。これは理屈ではない分、厄介だった。

 美奈代と付き合う作戦が失敗すれば、転勤があるとはいえこれからの長い社会人生活にどんな災いが降りかかるか等予測不可能だ。また彼女と恋人関係になれば、それはそれで多くの男性職員から妬まれることを覚悟しなければならない。

 余計な摩擦を避ける為に日頃から上司や先輩だけでなく、同僚や後輩ともできるだけ軋轢あつれきを生じないよう上手く振舞ってきた。慎一郎はそうした要領の良さを、幼い頃から自然と身につけていた。

 祖父や父の教育もあっただろう。また祖父の期待に応え大手銀行で出世した父の背中を、ずっと追い続けていたからかもしれない。ただ心の底では、境遇に影響を受けて生まれた別の思惑が潜んでいたのである。

 そんな仕事上のバランス感覚や親の職業や学歴等から、美奈代も総合的に判断したのだろう。その頃普及し始めていた携帯を持っていた二人はこっそりと番号を交換し合い、周囲に秘密で付き合い出した。そこから結婚に至るまではあっという間だった気がする。

 彼女は当初から長く仕事を続けるつもりなど無かった。コネで一流の会社に潜り込み、出世するだろう男を探していたのだ。親も早く良い人を見つけ家庭に入り、若い内に子供産んで孫の顔を見せてくれと願っていたという。よって彼女の妊娠が発覚した為、とんとん拍子で話は進んだ。

 彼女と一緒に会社の上司へ報告をした際はとても驚かれた。それ程社内で上手く立ち回り、気付かれないよう気を遣っていたからだ。正式に発表した後彼女は直ぐに会社を退職し二人は結婚式を挙げた。それを余りにも短期間で行った為、妙な噂が立ったり騒がれたりする事なく、二人が想像していたよりは祝福を受けた気がする。

 しかもその翌年には待望の長男である秀人が生れた為に、両家の親達は共に大喜びした。しかしどちらもあくまでサラリーマン家庭だったから、必ずしも後継ぎが必要な家系ではない。それでも男子だったからか特に美奈代の父は良くやったと彼女を褒め、また慎一郎君も頑張ってくれたと高く評価してくれたのだ。

 そのお陰もあったのだろう。当然それなりの実力を発揮していたからでもあるが、慎一郎は同期の中で出世頭となった。翌々年には長女の綾が生れ、今思えばあの頃が幸せの絶頂期だったかもしれない。

 窓から視線を移し、半個室となっている慎一郎が与えられた席に座る。パソコン画面の向こうは、ガラスの壁越しに映る部下達の姿があった。一見すると隔てられているように見えるけれど、壁の右側にはドアが無い。その為いつでも彼らはこちらを訪ねて来られる。慎一郎も気軽に席を立ち動き回ることが出来た。

 その代わり互いに何をしているのかは丸見えだ。仕事とは関係のないことを考えているなど気付かれてはいけない。その為気分転換のつもりで席の近くにあるサーバーを使い、コーヒーを淹れて椅子に座りながら再び回想にふけった。

 秀人が生れた年には藤子も大学を卒業し、就職難といわれていた中で無事中堅の保険会社の総合職で入社できた。唯一災難だったのが、弟の雄太の会社が倒産した事だろう。しかし元々高卒の彼が、父のコネで入社できただけでも幸運だったのだ。しかもその後再び父が関係する会社に再就職できたのだから、文句を言える立場ではない。

 不幸の始まりは、その父が突然事故で亡くなった頃からだろうか。遺産の分配で、高収入を得ていた慎一郎と藤子よりも、雄太の取り分が多かった為に一悶着があった。美奈代が不満を口にしたからだ。

 確かに独身の二人とは違って子供が二人いたし、その前年にはローンを組んでマンションを購入したばかりという事情もあった。

 けれどそれは、彼女の父が会社でのトップ争いに敗れたことも一因だった。しかも役員時における業績不振の責任を取り辞任させられ、退職金もほとんど支給されなかったらしい。

 しかしその後会社は倒産したのだからやむを得なかったのだろう。これまでずっと裕福な生活をしてきた彼女が、初めて経済的な面で影を差し始めた時期でもあった。

 それでも慎一郎は課長代理に昇進し、収入も雄太は当然だが藤子より多い事実を口実として母に説得されたのだ。何故そうなったかという心情的な背景なども理解できた為、最後は折れざるを得なかった。美奈代には、これでマンションのローン残債をほとんど払えるじゃないかと慰めた。

 けれど秀人は五歳で綾が三歳と手がかかる時だったので、育児に疲れていた事情もあったのだろう。あの頃から家庭や近所の人等を含め、様々な愚痴を聞かされるケースが一気に増えた。

 それから十年の間、仕事が忙しく家庭の事は全て美奈代任せにしていた。その間秀人は中学三年生、綾が中学一年生へと成長したけれど、二人共学校の成績がかんばしくなかった。

 美奈代も慎一郎と同じく中学から進学校に入学していた経歴から考えると、彼女にはそれが許せなかったのだろう。勉強しろと日頃からうるさく言えば言うほど反発され、相当苦労していたようだ。

 そうした不満を耳にしたくなかった為、毎日遅くまで仕事をしていた。土日も接待等で外出し、できるだけ家にいないよう工夫していた記憶がある。ただ慎一郎にだってそれなりの言い分があった。こう言っては何だが当初は彼女の父親の会社が重要取引先だったこともあり、上司から引き上げて貰ったのだ。

 それが一気に会社が傾き社長になれなかっただけでなく、不良債権を抱えて潰れたのだからこちらとしてはいい迷惑だった。それでも妻のコネだけで評価されたのではないと周囲に認められるよう、慎一郎も必死だったのだ。

 そういう立場に追い込んだのは、美奈代の父親のせいでもある。だったら家のことぐらい一人でしてくれたっていいではないか。本気であの頃はそう思っていた。だから自分の行動を正当化できたのだと思う。恐らく彼女もそうした経緯を察していたから、爆発させず抱え込んでいたに違いない。

 しかし災難は容赦なく、突然次々と襲ってくるものらしい。共に七十を過ぎていた美奈代の両親の世話は、彼女の兄と彼の嫁が担ってくれていた。その義兄が交通事故で亡くなったのだ。それに加え葬儀が終わり遺産を手に入れた義姉は、間もなくして姻族いんぞく関係かんけい終了届しゅうりょうとどけを出し二人の子供と共に姿を消した。つまり世で言う死後離婚である。

 美奈代の両親を介護する義務から抜け出したかったのだろう。また聞いた所、嫁姑関係が上手くいっていなかったらしい。それを機に美奈代は、両親の世話にも目を配らなければならなくなった。あれから慎一郎の家庭は少しずつだが確実に荒れていったのだ。

 秀人はどうにか大学へ進学し、家を離れ独り暮らしを始めた。だが卒業後は間違いなく就職活動に苦労するだろうレベルの学校だ。しかも私立だった為に学費もかなりかかる。その翌年に慎一郎の母が病死し再び遺産が入ったので、どうにか苦労せずに済む目処が立ったことだけが不幸中の幸いだった。

 しかしあの時も母が遺言で雄太に多く遺産分配するよう残していた為、美奈代は父の時とは比較にならないほど異議を唱えて顰蹙ひんしゅくを買った。当時長女の綾が高校卒業を控え、その後の進学に金がかかる時期だったからでもある。

 だが今度は以前と違い、気を遣わなければいけない母がいなかった為に余計だった。年下の藤子や学歴の低さや収入の少なさから前回同様遺産を多く分配された雄太が相手だったからか、遠慮など全くなかった。しかし恐らくそうなると予期していた母が法的にも有効な遺言をきちんと残していた為、争いは最小限で治まったのだ。

 けれども騒ぎはそれだけで済まなかった。藤子が体調を崩し、会社を退職したこともそうだ。けれど我が家にとって一大事だったのは、綾が内緒で付き合っていた五つ年上の男と結婚すると言い出した件である。理由はまだ娘は高三だっただけでなく、妊娠もしていたからだ。

 当然大学の進学も諦めざるを得なくなった。美奈代は当初激怒していたが、慎一郎はそれほど悲観していなかった。秀人と同じく勉強が苦手だった綾を無理に大学へ進学させても、その先苦労することは目に見えていた為だ。ならば好きな人と結婚した方が幸せなのではないかと思った。それに出来ちゃった婚は美奈代だって同じだ。

 確かに未成年で若すぎるが、五十手前の年で孫の顔を見られるのだからそれはそれで良いと考えた。それに結婚を反対して子供を中絶させる勇気は美奈代にも無い。また学生同士なら別だが、一応相手は安月給ながらも社会人だ。その為に経済的な不安がいくらか少なかった点も、最終的に許した要因になった。

 その二年後には大学を卒業した秀人を、当時部長だった慎一郎の権限で取引先にコネ入社させた。そこまでが慎一郎の会社におけるピークだった。その後派閥争いに負けた報復人事により部長待遇に降格させられ、翌年にはシンガポールへ飛ばされたからだ。

 本来であれば子供二人が手を離れたのを機に、美奈代と二人でゆっくり暮らす老後もいいかもしれない。そう前向きに考えられただろう。しかし綾の結婚生活が夫による浮気により三年で破綻し、三歳の幼い娘を連れ実家に戻って来ていた。だから慎一郎が思っていたようにはいかなくなったのである。

 何せ三歳の幼い娘、百花を抱えシングルマザーになった綾には社会人経験がない。といって別れた夫からは、十分な養育費などを貰える当てもなかった。そうなれば将来を見据えて働くしかない。しかし百花がいるので、誰かが面倒を見なければならなかった。そこで自分は五十二歳にして初めて単身赴任、しかも海外に飛び立つ羽目になったのである。

 長年のデフレにより先進国の中でかなり安くなった日本と比較すれば、シンガポールの物価は住宅費や光熱費、教育費や嗜好品等が高い。だがそこはさすがに一流商社と呼ばれるだけあって福利厚生がしっかりしている。会社から与えられた社宅は彼女達三人と一緒に暮らせる広さだった。一人住まいだが降格されたとはいえ部長待遇なので、家族がいつ来ても良い部屋を用意されていた。

 交通費や外食費は相当安い。国民の給与平均も日本の八割ほどだ。しかし幼稚園等は日本と比較すれば高い為、百花がまだ幼い内は美奈代が家で面倒を見ていれば、綾が働きに出ることもできただろう。それなら日本での生活スタイルと変わらない。

 綾の仕事先くらいは自分の伝手で紹介できた。日本語しか話せなくても、日本人だけのコミュニティだってある為何とかなったはずだ。それでも彼女達は日本での生活を選択したのである。

 ふと慎一郎の視界の端で影が動いた。我に返り慌ててパソコン画面を睨みながら、マウスをスクロールする。報告書を読んでいる振りをしていると、席に近づいてきた部下の女性が声をかけて来た。

「保曽井さん、今宜しいですか」

「ああ、いいよ。何の件かな」

「こちらの書類に目を通して、ハンコを頂けますか」

 最近ではデジタル化が進み、コロナ禍によるリモートワークの拡大が後押ししたおかげで、ほとんどの書類はパソコン上で電子署名ができるようになった。それでも完全に無くせないものがほんの一部だけ残っている。ここがシンガポールだとはいえ、日本の会社である点は変わらない。よってどうしてもハンコ文化を完全に無くせないのが現状だった。

「分かった。急ぎでなければそこに入れておいてくれ」

 決済待ちと書かれた箱を指す。軽く頭を下げた彼女は、書類を置いて席を離れて行った。チラリと内容を見れば確かに急ぎではないらしい。慎一郎の会社では以前よりペーパーレス化を推進する為、ハンコレス化も広がりつつあった。導入し始めた当初は、また野暮なものが増えたと苦々しく思った記憶がある。

 若手の頃はそれ程関係なかったが、中間管理職ともなれば書類に押印して頂く為、上司の席に訪問する行為自体が大きな仕事だった。つまらない書類一つでも、機嫌伺いをする良い機会になったからだ。

 しかし降格されてからそんな必要もなくなった。それどころか上司に会うのが苦痛だった。よって電子署名がさらに普及した今では、余計な仕事をせずに済むと感謝している。

 身勝手な奴だと自分でも思いながら、ぬるくなったコーヒーを飲み干し画面に視線を戻す。けれど全く頭が仕事モードにならない。そこで諦め、先程の続きを思い出した。

 人生にもしもなんてないのかもしれないが、それでも考えてしまう。もし綾が離婚せず家に戻っていなければ、美奈代は一緒に付いてきてくれたかもしれない。

 いやもしかすると、この歳になって海外で暮らすのは嫌だと言い出していた可能性だってある。会社での地位を落とした慎一郎に愛想を尽かし、下手すれば熟年離婚を切り出されたっておかしくなかった。

 例え別れたとしても、彼女は経済的に困らないだろう。これまで築いてきた保曽井家の財産を半分持っていくだけでは足りなくても、彼女には両親の財産があるからだ。高齢の両親を介護しながら、または施設に入れてしまっても、代々引き継いできた遺産を受け取れるのは彼女しかいない。

 もし慎一郎が見捨てられれば養育費を払う必要は無いものの、残った資産とその後得られる収入で暮らすことになる。子供達に面倒を看て貰うなんて全く期待できない。綾はもちろん秀人だって、自分の生活を維持するだけで精一杯なはずだ。よって生活は成り立ってもわびしい老後になるだろう。

 ならばもし自分が副社長派に属していなければどうなっていたか。いやそれなら同期の中で、最も早く部長に昇進することだって無かったかもしれない。役員になるまであと少しという立場に引き上げてくれたのは、散々前副社長に尽くしてきたからだ。そもそもそうせざるを得なくなったのは、美奈代の父が会社を追い出されたのが発端だ。

 それまで上司から目をかけられ、その期待に応えるべく努力を重ね順調に昇進してきた。その潮目が変わりかけたからこそこの人ならと目を付けた上司に取り入り、なりふり構わず労力をかけ、会社に貢献すべく身を削って来たのだ。

 それが功を奏し、上司は副社長にまで昇り詰めた。自分の人を見る目が間違い無かったと、あの時ほど舞い上がった事はない。だからこそ社長の椅子を賭けた争いに負けたと聞いた時、会社を辞めてしまおうかと悩んだ。しかし前副社長がそれを思い止まらせた。

「君にはまだ未来がある。諦めるのはまだ早い。今は苦しいだろうが、いずれまた新たな波が必ずくる。会社は生き物だ。何がきっかけで風向きが変わるか分からない。そういうものだ。それまで力を蓄えて置け」

 そう説得されたから屈辱的な降格人事を受け入れ、海外支店への異動が打診された際も、素直に従ったのだ。

 それにシンガポール支店への配属は、決して明確な左遷人事と言えなかった。というのも慎一郎が赴任した年、一人当たりの名目GDPはASEAN十か国の中でトップだった。東京二十三区より二割ほど大きい国土面積に、五七〇万人程度が暮らす他民族国家のシンガポールは、一九六六年にマレーシアから分離した国家だ。

 建国当初は貧しかったが、初代首相の驚異的なリーダーシップの下、僅か数十年で世界の先進工業国の一つに挙げられる程、目覚ましい経済発展を成し遂げてきた。しかし二〇一〇年代後半から経済成長率は徐々に鈍化し、二〇一九年には二〇〇九年のリーマンショック以来の低成長を記録した。

 理由としては、GDPの二割を占める製造業の不振が挙げられる。これまで高付加価値の製品等を周辺国に提供してきたが、米中貿易戦争のあおりもあり、売上及び利益が下降したからだ。中華系が人口の七割を占め、またシンガポール国籍を持つ華人と中国籍を維持して在住する華僑とは、明確に区別してきた歴史も影響している。 

 米国との繋がりは強固で、中国とも同等の関係を築いてきた結果が、ここにきて影を落とす結果を招いた。二〇一八年に、これ以上アメリカと中国という大国同士の緊張関係が続けば、アジア諸国はどちらにつくかの難しい選択を迫られるだろうと警告したほど、この国にとってはデリケートかつ大きな問題なのだ。

 とはいえ東南アジアのリーダー的存在である点は揺るがない。また政府としても新成長戦略を掲げ、ある種の安定成長期に入ったシンガポール経済は新局面を迎えていた。そうした状況下で、日本の商社としてはなんとしてもその時流に乗り、さらなる発展を後押ししながら共に進歩しなければならない。そのテコ入れの一環で慎一郎が選ばれたのだ。

 実際シンガポール支店長は本社の執行役員が勤めている。部長待遇扱いの慎一郎も、現地では副支店長に次ぐ役職を与えられた。よって前副社長の言葉通りここで結果を出せば、ラインへ復活するチャンスだってあり得た。

 しかも赴任がコロナ禍の前年だった点も幸いした。日本が第一波で緊急事態宣言を発令していた頃、シンガポールでも累計感染者数が同等のペースで増加し、人口比だとはるかに上回る東南アジア最悪と言われる程の感染率を記録していた。

 しかしその後都市のロックダウンを延長した上、積極的な追跡と人口に対する検査数の比率が世界最高クラスと呼ばれる程の徹底的な早期検出を試み、感染拡大を抑え込んだ。結果死亡者数は百人にも満たない、世界最小クラスの死亡率を記録。八月に第二波を迎えたけれど、その後日本が第三波、第四波により医療崩壊寸前にまで追い込まれていた頃、感染者数は最高でも五十人を越えず、平均十人前後に止めていた。

 しかしその後日本はオリンピックを開催した影響か、度重なる緊急事態宣言に慣れてしまった人々の流れは止まらず、変異株の影響も大きかった夏の第五派で壊滅的な打撃を受けた。シンガポールでも同時期に感染拡大し、二回目のワクチン接種率が九月上旬時点で八割近くを記録していたにもかかわらず、一日で八百人超の新規感染者が出た。これは日本の人口比で換算すると、二万人弱になる。

 さらにオミクロン株の流行により、日本同様爆発的な感染拡大をした。幸いだったのは日本より三回目のワクチン接種が進んでいた点だろう。しかも経済の回復も比較的早かった。

 よって二〇二二年度以降の成長率も期待できる為、このまま順調にいけば会社自体の業績アップに貢献出来るだろう。そうなれば本社に戻る事も可能となる。そうした手ごたえを掴んでいた。

 そう考えると日本を離れられたのは運が良かったのかもしれない。現地での現金支給も十分行われていたし、東京にいる家族も感染せず給料が減らされる事態もなかった。それどころか美奈代達は外食し辛くなった程度で大した苦労もしておらず、特別定額給付金の支給に喜んでいた程だ。

 一時期行われたGOTOイート等は利用していたようだが、両親や孫がいたからかGOTOトラベルが出来る程余裕はなかったらしい。その為美奈代が贅沢品に費やしていた分が貯蓄に回り、家計は潤ったくらいだ。

 それなら一体どこから間違っていたのだろう。やはり結婚相手に美奈代を選んだ時からだろうか。彼女の背後にある父親の存在に頼ろう等と考えなければ、今のようにはなっていなかったのだろうか。自分の実力だけで勝負していれば、また違った人生を送っていたかもしれない。

 ただ彼女との結婚は、本気で逆玉に乗ろうとした結果ではなかった。とはいっても、全く意図していなかったかと言えば嘘になる。周囲の同僚や先輩達の多くが虎視眈々こしたんたんと狙っている姿を見て、あわよくばと彼女に近づく計画を練ったことは事実だ。それでも積極的にアプローチするような素振りはわざと見せなかった。しかしそれが功を奏したらしい。

 家柄も良く美人で愛嬌のある彼女は、これまでもガツガツと迫ってくる男達が数多あまたいたという。そうした輩を振り払う事に疲れ、内心ではうんざりしていたようだ。その点慎一郎の振る舞いが新鮮に映ったと後に聞かされた。適度な距離を保ち、かつ他の女性職員への気遣いが出来る姿を見て好感を持ったらしい。

 また当時は慎一郎自身もそれなりに女性から人気があった。その為美奈代にとっても同性にうらやまれる相手として不足なく、やっかみを最小限に抑えて付き合えると思ったのだろう。さらに地方出身者でない点や、慎一郎の父親が大手銀行勤務である家柄も評価に影響した。いざ結婚となれば、両親に反対される要因があると難しいからだ。

 その為どちらかと言えば、積極的だったのは彼女の方だった。当然慎一郎としても拒絶する理由はない。それどころか作戦勝ちし、多くのライバル達を出し抜いたと優越感に浸っていた。やがて彼女の妊娠が発覚した為、結婚は完全な既定路線に乗ったのだ。

 しかし比較的とんとん拍子で進んだ中、懸念された点があった。それは母と弟の雄太の学歴だ。父や妹の藤子は問題なかったが、美奈代の家は彼女自身も含めて両親や兄、祖父母や親戚一同が高学歴の者ばかりだったからだろう。

 それでも妊娠した事実をくつがえすまでには至らず、二人は無事結婚できたのである。母達の学歴が二人の結婚の障害になりかけた話は、誰にも口にしたことはない。しかし態度には表れていたと思う。ただそれは美奈代や彼女の両親だけでなく、慎一郎自身も母達を見下していたからだ。

 保曽井家は祖父の代に、戦後間もなく東京に出て来た。美奈代の家庭には及ばないが、祖父の父に対する教育は熱心だったと聞く。そうした影響もあり、父も慎一郎達には厳しかった。当時は特に学歴や家柄が重きを置かれていた時代だったから余計だろう。よって長男である慎一郎には、相当期待がかけられた。そうした環境に誘発された藤子も、勉強は必死に頑張っていた。

 しかし雄太だけは違う。父もそれなりに喧しく言っていたと思うが、仕事に忙しくなった時期だった為かそれ以外の要因があったからか、家の事は母に任せっきりとなった。そうなると母は自分がそうだったからなのか、礼儀作法や躾には煩かったけれど、勉強に関しては余り口出ししていなかったように思う。

 それでも時折成績表を見て思い出したように口を挟む父に反発し、雄太は一時期素行の悪い連中と付き合い問題を起こした事がある。流石に懲りたのか、彼はその後大人しくなった。

 しかし苦手な勉強を克服するまでには至らず、大学進学を諦めると言い出した。これに父は猛烈に反対したが、母の説得を受けて就職の道を選んだ。それでも気に掛けていたのだろう。父は自分の目が届く取引先企業に頭を下げ、コネ入社させたのである。

 そんな雄太を慎一郎は心の中で馬鹿にし、また嫉妬していた。それは藤子だってある時期まで同じだったはずだ。それなのに何故雄太はあのような遺言を残したのだろう。年が離れていたこともあるが、表立ってあいつを罵ったりけなして苛めたりした覚えはない。それでも彼は、慎一郎や美奈代の思いを肌で感じていたのだろうか。

 その点藤子は会社を辞めてから完全に人が変わった。慎一郎とは違い、それなりのハンデがあったからだろう。どれだけ努力しても同期達には追い付けなかったようだ。頑張るほどに努力は報われなかった。

 会社は大手の同業者に吸収合併され、そうした環境がより鮮明になり嫌気が差したのかもしれない。また母親の死も、彼女の心に大きな穴を開けたきっかけになったと思われる。

 雄太はそんな藤子に同情したのだろうか。同じく独身を貫いてきた身として、共感する点が多かったからとも考えられた。いや決定的だったのは慎一郎がシンガポールに旅立つ際、見送りに来てくれた藤子に会った時の態度だろう。それを見たあいつ達から見放されてしまったに違いない。

 藤子が会社を辞めた理由や経緯は電話で聞いていたし、それからの体調がどうか等の確認もしていた。年賀状のやり取りや自分の会社での出来事などの話もして、度々連絡は取っていた。だが顔を会わせたのは、母の葬式以来四年振りだった。

 その際に驚いたのは藤子の変わりようだ。ダイエットを中心にエステや美容整形等、相当の労力とお金をかけたことは一目瞭然だった。

 そこで慎一郎は、せっかく来てくれたにもかかわらず藤子を責めたのだ。美奈代も一緒になって痛烈な言葉を浴びせていた。今思えば一人で海外に放り出される不安と不満により蓄積された鬱憤を、これ幸いにと吐き出してしまったのだと思う。

 美奈代も夫を単身赴任させるなど、邪険に扱っていないかと責められるかもしれない点を恐れていたに違いない。そこで現れた藤子の容姿を見て、攻撃される前に反撃したのではないだろうか。

 その為、二人共いつも以上に辛辣な言葉を発してしまった覚えがある。それを藤子は俯き黙って聞いていた。その姿を、雄太は呆れたように冷めた様子で見つめていた。何を言っても口では勝てないと、諦めていたからかもしれない。それを良い事にこちらの感情をぶつけるだけぶつけ、表向きは気まずい状態だった。だが心の中ではスッキリした思いで空港を出た記憶がある。

 苦い過去を思い出したからか、無意識の内に舌打ちをしていた。その音に自分が驚き、現実に引き戻され周りを見渡す。幸い誰も気づいていないようで、各々が黙々とパソコンに向かい、パタパタとキーボードを打っていた。

 このままではいけないと考え、トイレへ行こうと席を立つ。部下達の後ろを通り抜け、廊下に出て歩き個室へと入った。誰もいないことを確認していた為、そこで蓋をしたまま腰を下ろし再び舌打ちをする。

 慎一郎にだって言い分はあるのだ。彼らを認めれば、結婚し子供を二人産んで家庭を築き上げてきた中、様々な苦労を強いられた自分の存在意義を否定しかねない。勤労と納税は日本国憲法に定められた、国民三大義務の内の二つだ。勤労の権利を有し義務を負う。そこで法律の定めるところにより、納税の義務を負うのである。

 懸命に働き国の経済を豊かにすることが国の為ではないか。その結果生じる給与をできるだけ多く稼ぎ税金を納めれば納める程、国に貢献できる。それが義務というものだろう。また憲法にはうたっていないが、日本の発展を次世代へと繋ぐ為に子供をもうけることは、一種の義務だと自分は思っている。

 お国の為に己が成すべきことは何か。幼い頃から保曽井家の人間は皆、祖父にそう叩き込まれてきたはずだ。その教えを守り自分を犠牲にして最も懸命に邁進まいしんしてきたのは、藤子や雄太ではない。慎一郎より稼ぎが少なく、生産性のない時間を過ごした藤子や勝手気ままに独り身で生きてきた雄太のような二人を見下して、一体何が悪いというのだろう。

 そうして己の評価の方が高いという事実を確認し、存在価値を認めなければやっていけなかったのだからしょうがないではないか。自分が褒めてやらなければ誰が称賛してくれるというのか。祖父や両親はもうこの世におらず、妻や子供達には期待出来ないのだから。

 そこまで考えた慎一郎は我に返った。いつから自分達三人の仲は、このようになってしまったのだろう。雄太とは母が亡くなってから空港で顔を合わせたきりだ。藤子とも弟の葬式で会ったのは三年振りだった。しかしそれ以前も似たようなものである。

 秀人の時だけでなく、ひっそりと挙げた綾の結婚式にさえあの二人は出席しなかった。父が事故死した後、広い実家に一人で住んでいた母親がどうしているか見ていたのは慎一郎達が主だった。いや正確にいえば自分を除いた家族だ。秀人や綾が幼かった頃は孫の顔を見せるという名目で、美奈代に面倒を見させていた。

 自分は年末年始やお盆等で都合が合った時だけ、顔を会わせていたに過ぎない。藤子の場合は度重なる転勤で大阪や仙台または京都等にいた為、滅多に帰って来なかったはずだ。母が亡くなる二年前、大宮へ配属され近くなった時でさえ余り顔を出さなかったと聞いている。

 雄太も同様で、たまにひょっこり現れる程度だったらしい。その為三人一緒に生前の母親と顔を会わせたのは、父の葬式以降一度も無かったのではないだろうか。

 薄情と言われれば言い逃れは出来ない。だがそれだけ仕事で忙しかったのだ。自分の事で精一杯だった。藤子もそうだったに違いない。原因は他にもあっただろうが、結果的に心を病むほど疲労しきってしまったのはその証拠だ。

 では父の死以前ならどうだっただろうと振り返ってみる。そう考えると両親共いた頃は、年末年始とお盆の時期は必ず家族が揃っていたように思う。それは父が煩くそうさせていたからだった。藤子が小学校を卒業してから全寮制の中高一貫校に入っていたので、せめて年二回は皆で顔を会わせようと決めたのだ。

 逆に言えば慎一郎が高二で雄太が小五までしか、家族五人で過ごした時間は無かった事になる。つまりもうあの頃から、それぞれがバラバラの生活を送っていたのだ。

 慎一郎は将来良い大学へ入る為にと、進学校で日々勉強に励んでいた。藤子もそうだ。雄太だけが一人、別の我が道を歩んでいた。藤子とは中学受験まで勉強を教えたりして話していたと思う。だが雄太とは七つも年が離れていたせいにして、共通の話題がないと言い訳にしていた為、一緒に遊んだ記憶はほとんどない。

 もし彼が勉強も出来ていたとしたら、慎一郎は激しい嫉妬に苦しんでいただろう。幼い頃、こいつがいなければどんなにいいか、死んでしまったらいいのにと考えていたことが実際ある。そうした想いを消し両親からの寵愛を得ようと、必死に頑張っていたのだ。

 しかし成長するにつれ、学力の差が大きくなったおかげで彼を蔑むようなり、劣等感は薄らいでいった。再び敗北感を抱いたのは、両親が亡くなった際の遺産分配時だけだ。それ以外は、ずっと自尊心を保ち続けていたのである。

 振り返ってみると、雄太が慎一郎を頼れる兄貴だと思った事など一度もないはずだと気付かされた。就職も全て父のお膳立てだ。その上両親が亡くなる度に起こった遺産の分配で、必ず多く貰っていた弟を妬むような長男だったのだから仕方がない。

 表向きはそんなお金などなくても、自分でしっかり稼いでいるからと見栄を張っていた。文句を言う美奈代に対し、事を荒立てないよう宥める役目もした。

 だが心の中では、同じ思いをしていたのは否めない。特に母が亡くなった時は、子供達にお金がかかっていた頃だ。正直少しでも多く、喉から手が出るほど遺産が欲しいと思っていた。母もそうした事情はそれなりに把握していたはずだった。

 しかしそれを踏まえた上で、なるべく争いごとが起きないようにとあのような遺言状を残したのだ。これも信じたくはないけれど、結局雄太の方が母に愛されていた裏付けになったと言える。

 高卒の母を下に見ていたと見透かされていたのかもしれない。それは美奈代だって同じだったはずだ。その為孫を連れて何度も顔を出していた慎一郎達を、あざとい行為をする家族と見なしていた可能性もあった。

 その結果ずっと独身だったとはいえ、若くして亡くなった雄太の金融資産総額は、一流企業の部長にまでなった慎一郎より多かった。両親から得た遺産が占める割合は間違いなく多い。ただ専業主婦の妻と子供二人を養う過程で、慎一郎には支出も多かった。そうした生活スタイル自体大きく異なっている点は、差し引かなければならないだろう。

 しかし彼の過去の調査書を見て、想像以上に雄太が稼いでいたと知って驚かされた。高卒で、しかも最初に就職した会社が倒産するという災難に遭ったにもかかわらずだ。

 彼はバブル崩壊以降厳しかった日本経済の環境下を、逞しく生き残っていたのである。最初に着いた職種がシステムエンジニアだったことも大きかったのだろう。

 後にパソコンが世界中に普及し、ITバブルという言葉まで生まれるほどIT企業は乱立した。あらゆる企業がシステム部門無くして成り立たない時代に突入した点も追い風になったのかもしれない。雄太は職を転々としながら、確実に給与待遇が良い会社へとステップアップしていたようだ。

 報告書を見るまで、慎一郎はそうした実態を全く把握していなかった。また会社を変わったと耳にし、企業名を聞く度にまたかと呆れていたくらいなのだ。たいして有名でもなく大きくもない会社を転々と渡り歩いている姿を見て、早く一か所に身を落ち着ければいいのに、何をいつまでふらふらしているのだと蔑んでいた。

 しかし実態は全く違ったのだ。最終的に得ていた給与明細を見た所、さすがに慎一郎を超えてはいなかった。けれども有名企業の総合職だった藤子が休職前に得ていた額と、ほぼ近い数字だったのである。

 しかも最初の会社が倒産したという経験が影響したのか、日頃の生活はとても質素だったらしい。月々一定の金額を貯蓄し、堅実な運用をしていた成果があの多額の遺産を形成していたという。

 もちろん扶養家族がいなかった分の差はかなり大きい。それでも高卒の学歴しかなかった雄太が、五十手前で贅沢をしなければいつ仕事を辞めてもそれなりに生活できる富裕層まで昇りつめていた、との事実に驚愕させられた。

 お金があれば幸せというものではない。慎一郎には雄太が持っていないものがある。例えば大手企業の部長待遇という肩書、社会的地位と名誉と言い換えればいいだろうか。他には妻と子供だ。

 そこでまたふと思い直す。独身を貫き子供もいない彼や藤子は、果たして慎一郎より不幸だったのだろうか。世間的には高額所得者でかつ二人の子供を持っている方が評価されるだろう。ただそれが個々の人生において、幸福をもたらしていたかといえば話は別だ。

 現に自分は、いつから狂い出したのかと考えている。それ自体がまずおかしい。幸せな暮らしをしていれば、そんな思いをする必要などないはずだ。

 少なくとも心身に不調をきたし、二十年以上も勤めて来た会社を退職せざるを得なくなった藤子は、自分より不幸だと思っていた。しかし今やあいつは、芥山賞作家として世間的に大きな評価を得ている。自分の名誉や地位と比べてどちらが上かと問われた時、間違いなく自分の方が勝っているとは言い難い。

 だったら経済面はどうか。それもこれからの活躍次第だが、デビュー作から大ヒットとなり、印税は一億近くあるだろう。これまで得た収入による貯蓄や親の遺産がある分、慎一郎より上回っていてもおかしくない。

 雄太の件で騒ぎに巻き込まれ、今は大人しくしている。けれどほとぼりが冷めれば再びテレビ等に出て、また新たな作品を書けばそれなりに売れるはずだ。藤子は配偶者に悩まされる事もなく、子供の将来を心配する必要もない。

 それなのに、雄太の遺産まで全て手に入れるというのだ。こんな不公平な事が許されてよいものか。幼い頃から努力してきたのは間違いなく慎一郎の方だ。それなのに何故、今このような境遇を迎えているのか。やはり考えずにはいられない。どこで自分の人生の歯車がずれてしまったのか。その原因はどこにあるのだろう。

 過去を振り返った時、保曽井家で育ったことがそもそもの誤りだったのかもしれない。いやそれ以前に、この世へ誕生した時から不遇な人生を送ると決められていたのだ。

 慎一郎はこれまで何度も思ってきたが、改めて既に亡くなっている生みの親達に対し、恨みを抱かずにはいられなくなっていた。

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