第7話

 中村美鈴、欠席。

 分かり切っていたことだが、その表示を見て敏彦は溜息を吐いた。

 恐らくもう、美鈴が松野塾に来ることはない。

 つい一昨日、美鈴の担任である佐山と連れ立って、中村家を訪問した。

 事前にアポイントを取ったというのに、美鈴の母親の態度は非常に冷淡だった。インターフォン越しの会話だけで帰らされそうになったほどだ。

 さすがにそれだけでは帰れない、と佐山が言うと、美鈴の母親はわざとらしく大きな溜息をついて門を開けた。中村家の門には宏奈の言う通り、攻撃的な忍び返しがついていた。

「何度も言ってますけど、うちの子は体調が悪いんです。それ以外」

 棘のある口調がぴたりと止まる。

 美鈴の母親は、敏彦の顔をまじまじと見つめて固まってしまう。敏彦を最初に視界に入れた人間がこうなることはよくあった。

 しかし、さすが医師というべきなのか、すぐに元の険しい表情に戻って、

「……それ以外、ご説明さしあげることはないです。だいたい、単なる学習塾が家庭訪問って、おかしいと思わないのかしら。こちらも忙しいの。塾は続けさせます、それで満足でしょう」

「いえ、お電話でもお話ししたのですが、こちらの片山が、その……」

 佐山がおずおずと切り出す。美鈴の母親の威圧感に完全に委縮してしまっているようだった。敏彦は佐山の話を引き継ぐ。

「片山敏彦です。もう聞いていらっしゃるかもしれませんが、事故の日に」

「ああ、あなたね。ちっちゃな塾は大変ね。客寄せパンダみたいなのを用意しなきゃいけないんだから」

 揶揄されていることは分かりつつも無視して敏彦は続ける。

「美鈴さんとお話しすることはできませんか」

「話? 何を話すの? 僕がいるからまた塾に来てねとでも言うつもり? そんな必要ありません。あなたがご機嫌取りなんてしなくても続けさせますから安心してください」

「いえ、そんなことは。まあ、その話もしたいんですが。ご提案させていただきますけど、まったく来ないのに続けるのはお金の無駄ですし、休塾という手段もありますよ」

「うち、別に困ってないので!」

 美鈴の母親は敏彦の言葉でますますヒートアップしてしまったようだった。

「だいたい、あの日もどうして一緒にいたの? あなたも大けがしてたみたいだから言わなかったけど、おかしいでしょう。まさかあなたも『付き合ってます』とかそういうこと言うつもり? 気持ち悪い、美鈴は中学生ですよ!」

 あなたも――美鈴が言っていた家庭教師のことを思い出して、敏彦は気分が悪くなる。

 反論する間も与えず、美鈴の母親は興奮した様子で話し続けた。

「もうすぐ上の子たちが帰ってくるから長居されても迷惑です。帰ってください。人の家庭の問題に口出ししないで」

 その後は何を言っても取り付く島がなく、結局美鈴と会えずに帰ることになった。

 佐山曰く、中村家にとっては「塾に在籍している」という状態が大切なのであって、実際に成果が上がっているかどうかはあまり問題ではないのだという。

「あのお母さんも可哀想な人ではあるんですよ。どうも、子供のことは全部母親に任せてるって感じのご家庭みたいで。中村さんの上のお兄ちゃんは二人ともすごく優秀だから大丈夫だったみたいですけど、中村さん本人はあんな感じでしょう? 結構責められちゃってるみたいで。とりあえず松野塾に入れた感じなんですよ」

「まってまって、全部任せるって、あの母親も医師だし働いてるよね?」

 佐山は困ったように笑った。

「うーん、そういうの考えられない男性って結構いるみたいですよ」

 敏彦の父親は、敏彦が高校生の時に亡くなっている。彼もまた医師で、大学病院の心臓外科で働いていた。常に忙しく、一般的な家庭のように毎晩同じ時間に帰ってくるわけでもなかったが、一緒に過ごした記憶はきちんとある。敏彦は少なくとも両親の前で問題を起こしたことはなかったが、恐らく起こしても母親ひとりのせいにするようなことはなかっただろう。

「いろんな人がいるね」

 敏彦はそれだけ言って、他の言及を避けた。理解のできないことについてあれやこれやと議論をしても仕方がない。

 その後翠と合流して三人で飲食店に入り、中村家の様子について軽く報告をしたりしてから別れた。翠は中村家の事情についてはよく知っているようで、だから話を聞きに行っても無駄だと言ったのに、と言わんばかりの表情だった。

 美鈴からなにひとつ話を聞けなかったのは本当に残念だ。少なくとも、敏彦を襲った女と、宏奈が見たという背の高いバケモノとしか言いようのない女が同一の存在であるかくらいは知りたかったのだが。

 特に授業のない日でも、なんやかんやと理由をつけて敏彦に会いにくるような美鈴が断固面会拒否であることも、彼女の状態を示しているように思う。恐らく、敏彦の想像もつかないような方法であの女に脅されたのだ。

 とにかく、美鈴から話が聞けないと分かったのだから、次の行動に移らなくてはいけない。

「片山君」

 肩に手を置かれて反射的に体が跳ね上がる。翠だ。

「ちょっと、驚きすぎ」

 翠は鈴の鳴るような声で笑った。翠は容姿からは想像もつかないほど無邪気に笑う。きっと、こういうところをたまらなく可愛いと感じる男性も少なくないだろう。しかし、敏彦は彼女を疑ってしまっている。前までは好ましく思っていた幼い笑顔も恐ろしく感じる。

「すみません、ぼうっとしてて」

「そう……あ、また中村さんの」

 翠は目ざとく見つけて、パソコンの画面を指ではじいた。

「ちょっと気にしすぎじゃない? ご家庭の方針は仕方ないし、それ以上片山君にできることはないよね? もしかして、中村さんのこと」

「その発想はちょっと短絡的では」

 間に割って入ってきたのは佐山だった。

「翠先輩、中村母とおんなじこと言ってますよ。片山先生、それでちょっと傷付いてたんですから。なんかこういうの、めんどくさいですよね。男とか女とか気にしなきゃいけないの」

 翠の顔が強張っている。しばらく唇を震わせていたが、やがてすまなそうな表情で敏彦に目線を向ける。

「ごめんね、あんまりそればっかり考え込んでたら心配だよって言いたかっただけなの……」

「いえ、大丈夫です。心配してくださってありがとうございます」

 敏彦は形式的なお礼を言う。翠はその後もごめんね、ごめんね、と何度も言って自分の席に戻って行った。敏彦にとっては、この謝罪さえも粘着質に感じられて、あの手紙と翠を結びつける種になってしまうだけなのだが。

「なんかほんと、めんどくさいですよね」

 佐山が呟いた。

「相手は中学生なのに好きとか嫌いとかあるわけないですよね。単純に心配してるだけなのに、男と女だとこんなふうに邪推されて」

 単純に心配しているというわけではない敏彦は慰めの言葉を言う佐山に対して少し申し訳なく思ったが、曖昧に頷いた。

「でも、正直、気にしすぎなのはそうだと思います。恋愛ってことはないと思うんですけど、他に事件のことで気になることがあるから、中村さんに何か聞こうと思ってるんじゃないですか」

 敏彦はしばし逡巡した。

 手紙の女が翠である可能性がある、というのは敏彦の推測に過ぎないから当然話さないとしても、中村美鈴のことを気にしている理由を話すとなると、ストーカーのことは話さなくてはいけなくなる。翠だけではなく、職場の人間全員を疑わなくてはいけない今、不用意に話すことは避けたい。

 しかし、佐山の人の好さそうな顔を見ていると、そういった警戒心が薄れていく。男女問わず誰からも好かれているのが納得できる。

 佐山は敏彦が憧れてやまない「普通」の体現者だった。敏彦の言動は、良きにしろ悪しきにしろ、意図したそのままを受け取ってもらえることは少ない。

「佐山君みたいだったら、俺もラクだったよ」

 呟いてしまってから、嫉妬の混じった感じの良くない言葉だった、と反省する。

 佐山はよく聞いていなかったようで聞き返してきたが、なんでもない、と答えて、

「事故のとき、ちょっと落とし物しちゃってね。割と大事なものだから聞きたかっただけなんだ」

 中村さんのこと心配してないっていうと人聞きが悪いからこれオフレコね、と付け加えて微笑むと、佐山は溜息をついた。

「気に障ったらすみません……でも、なんか勘違いしちゃうの分かります、そうやってニコッてされると」

「いや、別に気に障るとかはないよ」

 本心だ。佐山に言われても、まったく不快感はなかった。心から褒められているのだと思う。不思議と、翠と関わることで生まれた不快感のようなものもなくなっている。敏彦はふたたび、佐山をうらやましく思った。


 次の日、敏彦の足は日本橋に向かっていた。

 大学時代の友人――といっても在学中は学年が違うこともあって話すこともなかったが、卒業後、たまたま参加したマイナーホラー映画の上映会で再会してから、親交を深めた三好という男に会うためだ。

 彼は現在分子生物学の研究者で、ある相談をしたところ、自分の研究室に招いてくれたのだ。

 持参してきたもののことを思うだけで吐き気がする。紙袋の取っ手をぎゅっと握り目を瞑っても、不快感は一切弱まることはない。

 紙袋の中には、経血がべったりと付着した生理用品が入っている。あの日、ドアから落ちてきて、敏彦の靴に張り付いたものだ。

 マスクが汗で顔に張り付く。顔を出して電車に乗ると顔によって様々なトラブルを起こしてしまう。普通に歩いているときと違って、電車には逃げ場がないからだ。それが分かっているから、自意識過剰の誹りを受けようと、敏彦は仕方なく、常に電車ではマスクを着用している。敏彦の顔を一目見ようとして電車の中で将棋倒し事故が起こったことなど、実際に見なければ信じられないかもしれない。中学生になった頃から着用していて、徐々に気にならなくなってきたマスクをひどく疎ましく思ってしまう。

 顔に張り付いたマスクは、どうしてもドアに張り付いていた生理用品を思い起こさせる。

 いっそ外してしまおうか、と考えるが、敏彦は目元だけでも十分に美しいのだ。

 先ほどから視線を感じる。一人ではない。自分に対する意図のある視線は、すぐに分かる。それがあの手紙の女のような不気味なものでなくてもだ。

 これ以上注目を集めてしまう前に、敏彦は車両を移動した。


 どうにも晴れない気持ちのまま、敏彦は目的地であるビルに到着する。一見大型デパートにも見え、実際下の階層にはいくつか店舗が入っている建物だ。三好はここで働いている。

 関係者用の入り口で名前を記載し、警備員に手渡された通行証を首にかける。エレベーターで十五階まで上ると、電話をしたわけでもないのに扉の前に三好が立っている。

「や、久しぶり」

 三好は顔の横でひらひらと手を振る。

「うん、久しぶり。今日はどうもありがとう」

 敏彦は三好を見上げながら言った。敏彦は175㎝、そこまで背が低いわけでもない。しかし、三好と話すときは首の後ろが辛くなる。

 本人は週三回ジムに行っているだけ、と言っていたが、かなり筋肉質で、とても研究者には見えない。体格に比して顔はかなり童顔で、敏彦は若手のスポーツ選手のようだと思っていた。

 三好は細い目をさらに細めて人懐っこい笑みを浮かべ、手招きした。

 フロアの内部はとても広かった。一般的なオフィスと違い、大学のようにいくつも教室のような部屋がある。三好はその中の一つを指さし、「ここ、俺の研究室」と言って入って行った。確かにプレートに三好の名前が書いてあった。一国一城の主だね、などと軽口を叩きつつ、敏彦も後に続く。

 入り口は狭かったが、意外にも奥行きがあって、奥にはもう一つ扉がある。この部屋には書類が大量に置かれているから、おそらく奥が実験室なのだろう、と敏彦は思った。

 三好はおもむろに両腕を机の上に置いて、ワイパーのように右に動かした。どさどさっと机の上のものが床に散乱する。

「結局これが一番片付くんだよね」

 余計に散らかっただけでは? と口を挟もうとして、三好が「片付けた」結果パソコンが出現したことに気付く。さらに三好が床に落ちたリモコンを拾い上げて操作すると、研究室の前方から大型のモニターがせりだしてきた。

「最先端って感じだね」

 まあね、と三好は軽く答えて、

「フェイスモーフって知ってる?」

 敏彦は頷いた。

 確か、海外のサービスで、複数の人間の顔写真から特徴を抽出して合成するアプリだ。猫や犬とも合成できる場合があり、一時期合成した画像をSNSにアップするのがとても流行っていた。

「まずフェイスモーフをベースにしてさ、三次元モデルが作れるようにしたんだよね」

 三好はどこから出してきたのか、大学時代の敏彦の写真と、三好自身の写真をパソコン上に表示する。三好がSTARTと描かれたボタンをクリックすると、瞬く間に男性型の立体的なモデルが表示された。

「うわ」

 よく見るとモデルは、髪型だけが三好の特徴的な癖毛に引っ張られたのか変わっているだけで、ほとんど敏彦と言っていい。画面の中でモデルが満面の笑みを浮かべる。鏡の中で自分に笑いかけられたような不気味さがあり、思わずうめき声が出る。

「片山くらい完璧な美形だとほとんど他の要素と混ざらないのは発見だったな。身長はやや高くなってるかな? 確かに平均に近づけば近づくほど人間は美しいと感じる傾向にあって……まあそれはいいとして、本来これは半々みたいな見た目になるんだけども」

 三好は止めないとずっと本題とは関係のないことを喋り続けそうだったので、敏彦は口を挟む。

「よくできてるなあ」

「ま、これは単に写真を立体にして動かせますよってだけで、本題じゃない。こんなのはちょっとやってみれば美術系の連中でもできるし。俺は、なんたって生物学者ですからね、これをベースに新しいサービスを展開したんだ」

 三好は画面を切り替えた。

「SNP――一塩基多型って分かるよな」

「専門家を前に『分かる』とは言えないな」

 敏彦もほんの少しなら知っている。決して正しくはない説明だが、非常に分かりやすく言えば個性を決定づける遺伝情報、というような感じだ。

 人間の遺伝情報を担う塩基配列は、99%以上が誰でも同じだ。しかし、残りの配列が違うことで、容姿や能力などに差異が生まれている。ある集団において塩基配列の違いが1%の頻度で出現しているとき、それを「一塩基多型」と呼ぶ。ちなみに1%に満たない場合、それは「変異」等と呼ばれる――

 三好の「正しい」説明を敏彦はしばらく聞いていたが、つくづく思う。優れたプレイヤーは優れた指導者とイコールではない。

 三好は敏彦の表情で察したのか、会話を切り上げて、

「人の体毛とかから、ほぼ完璧に外見を復元できるようになったんだよね」

「そういう技術があるって聞いたことあるけど、完璧っていうのは……」

 SNPは「体毛が多い傾向がある」とか、「心疾患になりやすい傾向がある」とか、「目が青い傾向がある」というような情報で、あくまで要因であり絶対そうであるという確証はない。遺伝工学の世界的権威が、人の特徴には様々な因子が関わっているため、毛髪などから本人と特定できるほどの外見を再現することは現在は不可能である、というような発表をしていたはずだ。中国で、ポイ捨てされたたばこの吸い殻や噛んだ後のガムなどから犯人の顔を再現し、驚くほど似通った写真を掲示板に貼って晒し者にする、というような試みもあったそうだが、「驚くほど似通った」はずの写真から犯人が特定されたという結果には至っていない。

 敏彦がそう言うと、三好は得意げに顎を触った。三好がキーボードに何か打ち込むと、先ほどとは別の三次元モデルが表示される。

 敏彦は思わず叫んだ。

 目と目の間が広く、眉毛がほぼない。突き出た額がコブダイを思わせる背の低い白人男性が仁王立ちしている。

 つい二週間前逮捕された、モンタナ州の通り魔事件の犯人、ジンバリストだった。老人ばかりを狙うという卑劣さに加えて、被害者が百人を下らないのではないかと言われており、日本でもかなり話題になった。細いキリのようなものでめった刺しにするという珍しくもない手段を取っていたが、三か月にわたってこれだけ大量の人間を襲っているのにも拘らずなかなか捕まらなかったため、アメリカのネット上では「透明人間の犯行」などと言われていたほどだ。どうもジンバリストは州交通局の職員で監視カメラの位置を完璧に把握していたため、これだけ長く逃げ続けられたというのが真相のようだが――まさか。

「これは……」

 写真から起こしたんだよな、と口に出す前に、

「いや。奴の体毛から再現したんだ。直接依頼があったから、ちょうど試してみたかったし。結果はこの通り。無事捕まったってわけ」

「本当に完璧じゃないか……」

 三好が嘘を言っているとは思えない。三好は本当に、この超越的なシステムを開発したのだ。

 学生時代から三好は天才だった。偏差値の高い人間が集まる大学でも群を抜いていた。学生のうちから「セル〔ライフサイエンス分野における世界最高峰の学術雑誌〕」に論文が掲載され、官費で海外のさまざまな施設に行き、勉強していた。

 だから、彼がこれを開発したことに疑いの余地はない。

 分かっていても恐ろしい。

 このような技術は、神の領域だ。

 三好に頼ったのは、たしかにこういう科学的アプローチを期待してのことだ。警察機関とも繋がりのある彼ならもしかして過去の犯罪者のデータと照合するなどできるかもしれないし、そこまではできなくても相手の性別や年齢くらいならば分かるとは思っていた。しかし、予想以上だった。

 SF小説などではよく聞くし、キリスト教系の反科学活動家などが主張しているのも聞いたことがある「遺伝子監視社会」――遺伝子によってなにもかも分かってしまい、遺伝子操作で人間を自由にデザインすることができる。やがて遺伝子操作によって生まれた適正者と呼ばれる支配層がすべてを決定する社会――空想だと思っていたそれが、そう遠くない未来に実現してしまうと実体を以てつきつけられたような気がした。

 三好は玩具を自慢する少年のような顔で敏彦を見ていたが、あっと声を上げた。

「一応言っとくけど、これ内緒ね。まだ試用段階ってことで。言いふらすようなタイプじゃないのは分かってるけど。極秘プロジェクトってやつで、報道機関にも流れてないし……ほぼ完璧だけど、完璧じゃないし」

 画面の中のジンバリストが笑う。テレビで見た逮捕直後の不敵な笑みと同じだ。これのどこが「ほぼ」なのだろう。

「なんか、自慢しすぎちゃったな。ごめん。片山の問題を解決しよう」

「ああ……」

 あまりにも無邪気な三好を内心恐ろしく思いながら、敏彦はバッグからファスナー付きのプラスチック袋を取り出した。中にはもちろん、例の生理用品が入っている。

「聞いてはいたけど気持ち悪いね」

 そう言いながらも、三好の表情には全く変化がない。ピンセットで引きずり出すとき、独特の鉄錆の臭いと、耐えがたい腐臭がマスク越しでも鼻を衝き、敏彦は吐きそうになったが、三好はやはり平然としていた。

「それにしても試料が古いな……ちょっと難しいかもな」

 三好は取り出した生理用品を自分のプラスチック袋に移しながら言った。

「ごめん、でも三好さんくらいにしか」

「片山が謝る必要はない。ま、なんとかやってみる。けどちょっと時間は貰いたいかも。難しいっていうのもあるし、申し訳ないけど色々抱えてて、順番があるんだ」

「申し訳ないなんて……むしろこんなすごいものを利用させてもらっていいのかなっていう」

「気にすんなって。久しぶりに連絡くれたから、それだけでも嬉しいよ俺は」

 三好は敏彦の肩を二回軽く叩いた。このところはホラー映画を観ていないし、したがってそういうイベントに参加もしていない。敏彦にとって三好は、共通の話題がないと連絡できないくらいの知人だった。そもそも、先に声をかけてきたのは三好だ。三好は敏彦の二学年上で、優秀さと、バスケットボール選手のような長身で、同じキャンパスの学生は誰でも彼のことを知っていた。当然敏彦も彼のことは知っていたが、まさか向こうから声をかけてくるとは思わなかった。敏彦は自らの度を越した美貌には自覚的だったが、三好には、勝手に美醜などという一般的な価値基準の枠外にいるイメージを持っていたから、彼にとっては自分もまた路傍の石であろうと思っていたのだ。

 映画が終わってからそのままを伝えると、三好は声を上げて笑った。予想より声が低くて驚いたのを覚えている。

「片山君のことを意識しない人間なんてこの世に一人もいないと思うよ」

 なんと答えようか迷っていると、

「まあ、外れ値同士仲良くしよう」

 そう言って、三好はその時も敏彦の肩を叩いた。

 その言葉通り、三好は敏彦に対して親切だった。ホラー関係のイベントがあれば必ず誘ってくれたし、融通が利くからと言って、一般人は立ち入れない場所に入れてくれることもあった。

 敏彦は特に何も返していない。気が乗らないという理由で数か月三好の連絡を無視し、それなのに彼の専門技能に頼ったりもしている。

 こうして考えるとあまりにも失礼な態度だった、と反省して、敏彦は三好に頭を下げた。

「ごめんなさい。本当にありがとうございます、色々」

「大げさだなあ」

 三好に何度か頭を下げて、研究室を後にした。

 建物の外に出た途端だった。背中に悪寒が走る。汚濁した経血のような、粘着質な視線。

 慌てて振り返っても、誰もいない。視線もすぐに感じなくなった。

「見られている」と感じるときは本当に見られていて、自意識過剰だったことなどないが、今回ばかりは気のせいかもしれない。三好の説明を聞いていただけで、特に何もしていないのに、ひどく疲れていた。

 今日は早く寝てしまおう、そう思って家に急ぐ。

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