前を向かせてくれた人

月之影心

出会いと別れと再会と

 俺の名前は白石しらいし陽生はるき

 社会人2年目のサラリーマンをやっている。


 小さい頃から特に人より秀でた部分も無く、平凡な子供だったと思う。

 平凡と言っても『何をやっても普通』とはちょっと違って、自分で言うのも何だが『何をやっても人並み以上に出来る子』みたいな感じ。

 だからか……自分で普通にやっているつもりでも他の子より出来るものだから、段々と手を抜いたり努力というものをしなくなったり。


 ただ、普通にやっている程度では俺より上手く出来る子なんかもいくらでも居るわけで、『その子より上手くなりたい』と思うか思わないかで人生が変わったりするものだ。


 親父は俺に、


『上には上がある。現状で満足するな。』


 とよく言っていたが、


『上には上があるならいくら昇っていっても極める事なんか出来ないじゃないか。だったら今のままが楽でいい。』


 と子供ながらに悟ったような事を言って上を目指す意味を見出せないまま。

 要するに向上心というものを持たなかった俺は、小中高の12年を時の流れるままに過ごし、何となくのノリで大学へと進学した。




 話を少し戻す。


 俺には幼稚園の頃から一緒に過ごしてきた幼馴染が居る。

 蓮見はすみ彩羽いろは

 お互い一人っ子だった俺たちは、傍から見ればまるで兄妹のように仲が良かった。

 何処へ行くのも一緒、何をするのも一緒。

 お陰で小学生の頃は友達からよく嫌がらせを受けていたものだが、そんな事お構いなしに俺は常に彩羽と一緒だった。


 目鼻立ちのくっきりとしていた彩羽は、成長するにつれて誰もが認める美人になっていった。

 いや、幼い頃から見慣れていたというのを抜きにしても彩羽は他の子よりも可愛いと思っていて、中学生、高校生となって一緒に居て周りから羨望の眼差しを受けるようになって改めて彩羽の可愛らしさを実感していた。


 高校1年の時、


『サッカー部の先輩に告白された。』


 と彩羽が言った時は心底焦ったが、


『どうするんだ?』


 という問い掛けに、


『断るよ。』


 とあっさり言った時はほっとしたものだ。

 多分、俺は彩羽にはっきりとした恋愛感情は持っていなかったものの、彩羽が他の男と一緒に居る事を許容出来る程大人じゃなかったんだろう。


 高校3年になって、あれほどいつも一緒に居た俺と彩羽は、進路の事だとか勉強の事だとかで会う機会が激減した。

 俺は先にも言った通り、特に努力する事もなく無難に通ると思った大学を選び、俺に向上心を持たせる事を諦めていた担任からも『そこなら余裕』とお墨付きをもらっていたのでそこ一本に絞って後日あっさり合格する。

 彩羽は看護師を目指して俺の選んだ大学よりも難しいところを狙っていたので会う機会が減るのも当然だった。


 彩羽に久し振りに会ったのは高校の卒業式前日。


『久し振り。』


 と俺の家に来た彩羽は目に涙を浮かべていた。

 (ダメだったのか……)と思ったが、


『やったよ!』


 と合格通知を広げて見せてくれた時は自分の事のように喜んだ。

 だが同時に、お互い別々の道を歩む事が決まったわけで、ずっと一緒に過ごして来た彩羽と離れ離れになってしまう事だと気付いた時は少し寂しい気持ちになっていた。


(やっぱり俺は彩羽の事が好きなんだな……)


 そう確信したものの、結局自分の気持ちを伝える事無く、それぞれの大学生活を送る事になった。




 彩羽への気持ちを多少引き摺りつつ、俺は人生初の一人暮らしを楽しんでいた。

 朝起きるのは相変わらず苦手だったが、夜遅く帰っても休みの前日に夜更かししても誰にも文句を言われない生活は快適だった。


 両親の、


『住む場所と学費は気にするな。だが欲しい物があるなら自分で何とかしろ。』


 という方針があったので、最初にお袋からこっそり貰った10万と食費の名目で振り込んでくれる仕送りがある内にアルバイトを探した。


 車が好きだった俺は住んでいるアパートから歩いて5分くらいの所にあるガソリンスタンドでアルバイトをする事になった。

 中年夫婦が経営するそう大きく無いスタンドだったが、常連客が多いせいか毎日目の回るような忙しさ。

 それもその筈、経営者である旦那さんも奥さんも、常連客が来ればガソリンを入れて窓を拭きながら長い時にはその客と30分以上話し込む。

 その間にも次々とやってくる客を俺と先輩の二人で捌かなければならないのだからそりゃ忙しくもなる。

 一度先輩にその事を愚痴っぽく言ったら、


『社長や奥さんの井戸端会議があるから常連が離れない。俺たちはそれを邪魔しないように他の客を捌くのが仕事だよ。』


 と言われてからは文句を言うのを止めた。


 大学3年になった時、アルバイト先に紺色のスポーツカーでやって来る女性とよく話をするようになった。

 香坂こうさか里桜りお

 三つ年上の彼女は、この辺りでは知らない人は居ないくらいの大手商社で事務をしていた。


『香坂さん、タイヤの空気圧チェックしておきますね。』


『ありがとうございます。車の事全然分からないからいつも助かります。』


 ガソリンスタンドのアルバイトで年下相手なのにいつも丁寧な言葉遣いでお礼を言ってくれて、育ちの良さがその表情からも滲み出ていた彼女に、俺は次第に惹かれるようになっていた。


『車の事全然知らないのにスポーツカーなんだ。』


『分からないから見た目だけで選んだの。』


 慣れてきて気さくに話せるようになって、俺はアルバイト先で彼女に会うのが楽しみになっていた。

 と言っても、そんなに頻繁に給油しに来るわけではないので多い時で月に2回程度ではあったが。




『困った事があった時用の緊急連絡先。』


 俺は里桜に自分の携帯の番号を書いて伝票と一緒に渡した。

 半分は下心、半分は本当の緊急時に里桜の力になれるように。

 里桜はそれをちらっと見ると、俺に笑顔を見せて『ありがとう。』と言って車を発進させた。


 昔の自分を思えば結構大胆な行動だった気はしたが、それだけ里桜とはガソリンスタンドのアルバイトと客という以上の関係が欲しかったのだろう。

 電話番号を渡したその日の晩に里桜からショートメールが届いた時は歓喜して部屋の中で小躍りしたものだ。




 それから俺と里桜は、学校、バイト、仕事の休みを見付けては一緒に食事に行ったり買い物をしたりしていた。

 大手商社に勤めているだけあって里桜は頭が良かった。

 勉強も出来るのだろうけど、特に感じたのはその会話の力。

 学生の俺にも話を合わせてくれて、本筋を話した後にアドバイス的なワンポイントや補足の話題を付け足してくれる。


『前に付き合っていた人が嘘だらけの人だった。勤務先も住んでる所も。独身だって事も嘘だって分かった時に一気に冷めて面倒な事になる前に別れた。』


 そう言う里桜は、年上だったせいか物腰の柔らかさと同時に芯の強さを感じる口調だと感じていた。


『白石君は独身だよね?』


 当たり前の事を悪戯っぽく訊いてくる里桜に、俺はニッと笑顔を見せて、


『確かめに来る?』


 と、意味ありげに部屋に誘ってみた。

 里桜は一瞬俯いた後、頬をほんのり紅く染めて俺の顔を見て小さく頷いた。


 その日、俺は里桜を抱いた。

 俺は未経験童貞だったので、さながら『優しいお姉さんに手解きを受ける子供』だったのを覚えている。

 初体験の俺が里桜を満足はさせられなかったとは思うが、それでも事を終えて布団の中で俺の腕に包まれる里桜は嬉しそうだった。




 それから半年程経つと、俺も就職活動を始めるようになって一旦アルバイトは就職が決まるまで休みになった。

 これは俺から言い出したわけではない。

 社長の方針で『人生の転機となる場面はそれを最優先とせよ』との事。

 まぁ当たり前の事ではあるが、当時の俺は何故かそんな社長に男気を感じて深々と頭を下げたものだ。


 その頃になっても俺は『普通にやっていれば普通に就職出来るだろう』くらいにしか思っていなかったのだが、大学時代も普通に単位は取っていただけでそれ以外と言えばアルバイトくらいしかやっていなかったので、大抵面接でアピールする事が無くて惨敗が続いていた。


 同じゼミの学生にちらほらと内定が出てくるようになり、俺は徐々に焦りを感じるようになってきていた。

 里桜にも人生の先輩として色々教えてもらってはいたが、最終的には自分の力しか無いのだとも思い知らされていた。


 結局、選り好み出来るようなスキルも無く、ようやく地元の小さな印刷会社から内定が出たのはそろそろ夏休みに入ろうかという蝉の煩い季節だった。

 里桜は俺の就職が決まった事を祝ってはくれたが、表情は終始複雑だった。

 それもその筈、里桜の居る此処と俺の地元ではあまりにも遠すぎる。

 里桜の勤務先の好待遇を考えれば、俺が内定を辞退してここに残りこちらで改めて就職先を探すのがベストだとは思った。

 その事を里桜に話すと一応は怒りはしたのだが、里桜も内心は同じだったのだろう。


『2週間だけ離れてお互いに考えましょう。』


 俺も里桜も結論を出せないまま、冷静に考える時間を置こうという事になった。

 多少のモヤモヤを抱えつつ、次に会う日時の約束をして暫し離れた。




 だがこの2週間を、俺は今でも後悔している。




 里桜と会わずに1週間程経った頃、大学でゼミに顔を出して帰ろうとした時だった。

 手に持ったスマホがアドレス帳に載っていない番号の着信を伝えていた。

 通話アイコンをタップして耳に当てると、


『白石君かい?』


 と男性の声が聞こえてきた。

 里桜の父親だった。

 何度か会った事もあり、妙に俺の事を気に入ってくれていた人だ。


『里桜が……』


 気丈な声は小さく震えていた。

 俺は嫌な予感しかしなくなっていたが、取り敢えず今何処に居るのかだけ聞いて父親の言った『A大学病院』へとバイクを走らせた


 病院のロビーに入ると、入り口に一番近い椅子に里桜の父親が頭を抱えるようにして座っていた。


『遅くなりました。』


 声を掛けると里桜の父親は頭から手を離してゆっくり俺を見上げた。

 その目は真っ赤に充血していた。

 そして大きく鼻をすすると、


『よく来てくれたね。行こうか……』


 と言って立ち上がり、俺を促すように病院の奥へと向かった。


 向かった先の扉の上には『霊安室』と書かれてあった。

 俺は全身の力が抜けそうになるのを堪えつつ、父親に続いて部屋の中へ入った。


 部屋の奥には白いシーツを被せられたベッドがあり、その横に置かれた椅子には里桜の母親が座ってシーツの下に横たわる人物をじっと見ていたが、俺が来た事に気付くと力無い笑顔を見せて『来てくれてありがとう』とだけ言った。


『電柱に真っ直ぐ突っ込んで行っちゃったらしい。』


 里桜の父親の言葉を耳に入れつつ、俺はベッドに寝ているの唯一覗く口元を見て必死で里桜ではない所を探していた。

 事故の衝撃で折れてしまった鼻も、切れてしまっていた唇も、どれも里桜じゃないと頭の中で否定し続けた。

 だが、唇の左下にある小さな黒子と、枕元に置かれていた、里桜の誕生日にプレゼントしたオープンハートのネックレスが、俺の否定したい気持ちを現実に引き戻していた。


 俺は里桜の両親の方へ向き直ると床に膝を付き、両手を付いて深く頭を下げた。


『申し訳ございませんでした。俺が態度をはっきりさせなかったせいで里桜さんが事故に遭ってしまったんだと思います。本当にごめんなさい。』


 きっと里桜は俺との事をどうするか悩んでくれていたのだろう。

 そして運転中にも悩み、注意を削がれた折の事故だと思った。

 嗚咽混じりに詫びる俺に、里桜の父親が肩に手を置いて静かに言った。


『そんなに自分を責めちゃいけないよ。里桜もそんな事は思っていないから。』


 里桜の母親も椅子から立ち上がり、俺の方に来て肩をぽんぽんと叩いていた。

 俺は流れる涙を拭いもせず、里桜の両親の前に手を付いたまま声を殺して泣き続けていた。


 数日後、里桜の葬式に参列して再び里桜の両親に会ったが、一人娘を亡くした二人は憔悴しきっていたように見えた。

 母親の方はハンカチで顔を覆い、止めどなく零れる涙を何度も拭っていた。

 父親は気丈に振る舞っていたが、出棺の時に大声で『里桜!里桜ぉ!』と棺桶にすがって泣く姿を見て俺も涙を堪え切れなくなっていた。


 四十九日を終える頃、俺は線香を上げに里桜の実家を訪ねた時、里桜の父親から手帳を渡された。


『これは里桜が使っていた手帳なんだ。里桜は本当に白石君と一緒になりたかったんだねぇ。』


 手帳を開いてスケジュールを確認すると、事故のあった翌日の欄に『退職願提出』と書かれてあった。

 里桜は仕事を辞めて俺について来るつもりでいたようだ。

 他にも、その先に『予定』と書き添えつつも『荷物整理』や『引っ越し』という文字が並んでいて、次第に真っ直ぐ見られなくなっていった。


『里桜は君のせいで亡くなったわけじゃない。さぁ白石君、里桜の事を考えるのはここまでだ。この先は自分の人生を一生懸命生き抜く事に費やして欲しい。それが里桜の願いでもあるんだよ。』


 里桜の父親は穏やかな声でそう言った。

 俺はやるせない気持ちをどう表せばいいのか、どこに向ければいいのか、全く思い付かずにただ泣いていた。

 オープンハートのネックレスが掛けられた遺影の里桜が優しく微笑んでいた。




 その後、俺はそのまま抜け殻のようになりつつも、何とか大学を卒業して地元へ帰り、内定を受けていた企業に入社した。

 地元に帰る前に里桜の両親に挨拶に行ったら、いつも見せてくれていた穏やかな表情で『頑張りなさい。』と激励してくれた。


 研修を受けて少しずつ仕事に慣れていくにつれ時間的にも精神的にも余裕が出来てくるのだが、それは俺にとって里桜を思い出させる残酷な余裕だった。

 休憩時間になると自然と涙が溢れてくる。

 心配する上司や同僚には『花粉症』だとか『目にゴミが入った』とか言って誤魔化していた。




 そんな不安定な精神状態のままでも仕事を続けられたのは、幼馴染との再会に他ならない。




 仕事を終えて帰宅すると、部屋に彩羽が顔を出した。


『久し振り。』


 と言って部屋に入ってきた彩羽は、俺の顔を見るなり、


『何かあったの?』


 と、挨拶もそこそこに俺の頭の中を見透かしてきた。

 彩羽とは大学の4年間、一度も連絡すら取っていないし、会う事自体4年以上ぶりということになる。

 当然、里桜の事も存在自体知らない筈だ。

 にも関わらず、俺の顔を見て『何かあった』と感じたと言うのだから、付き合いの長い幼馴染というのは恐ろしい。


『ちょっと疲れてるだけだよ。』


 と言う俺に、


『そう?でも何かあって抱え込んでいるならいつでも聞くからね。』


 と、以前と変わらない可愛らしい顔で言ってくれた。


 だが今の俺にはその彩羽の優しさを受け止めるだけの心の容量は無かった。

 彩羽に向けた目が見る見る潤み、やがて涙となって頬を伝う。

 一瞬ぎょっとしたように目を見開いた彩羽だが、すぐに柔らかい笑顔になって俺の頭を抱え込むように抱いてきた。


『辛い事あったのかな?言って吐き出しちゃいなよ。』


 俺は彩羽の背中に腕を回して胸に顔を埋めると、声を上げて泣いた。

 彩羽は俺が泣き止むまでずっと頭を撫でてくれていた。


 たっぷり30分は彩羽の胸に抱かれて泣いた。

 ようやく落ち着いて彩羽から離れた俺は、里桜の事をぽつりぽつりと話し始めた。

 彩羽は俺がしゃくり上げながら途切れ途切れに話す間、相槌を打ちつつも黙って最後まで聞いていた。


『辛かったね。』


 耳元で囁くようにそう言った彩羽の声は、少しだけ悲しみを和らげてくれた。


『聞いてくれてありがとう。』


『ううん。こっちこそ話してくれてありがとう。』


 体を離して俺の顔を覗き込む彩羽の笑顔を見て、(いつまでもこのままじゃ駄目なのかもな……)と思うようになっていた。


 それから少しずつではあったが、俺は彩羽と学生時代のように一緒に過ごす事が増えてきた。

 と言っても、目標通り夢を叶えて看護師となった彩羽は夜勤や急患の影響で休みや帰宅時間が不規則だった為、仕事終わりの彩羽に余力があれば彩羽の方から俺の部屋に顔を出す程度の事ではあったが。




 社会人1年目の年末休暇を使って里桜の墓参りに行った。

 最初は里桜の両親にも挨拶して行くつもりだったが、俺を見れば嫌でも里桜の事を思い出してしまうだろうと思い、顔を出すのを止めておいた。


 帰宅してその話を彩羽にしたら、彩羽はまるで子供をあやすように『良く出来ました』と言って頭を撫でてきた。

 そして、


『でもはるくんは里桜さんの事、忘れちゃダメだよ?』


 と言っていた。


『忘れるわけないだろ。』


 と言う俺に、


『忘れないまま、もっと前を向けるようにならないとね。』


 と発言。

 『どういう事?』と尋ねても『ふふふっ』とはぐらかすだけだったので、深掘りすることなく『そうだな。』とだけ返しておいた。




 社会人2年目に入った5月の連休、珍しく連休が取れたという彩羽が俺を旅行に誘ってきた。

 なかなか無い機会だったので俺は二つ返事で了承。

 既に彩羽は行き先を決めていたようで、目の前にパンフレットを広げて楽しそうにしていた。

 行き先は電車で1時間少々の距離にある温泉で、子供の頃にうちと彩羽の家族との6人で2度程行った事のある場所だ。


『何でまたそこなの?』


『近いし安いから。移動時間掛かったらその分のんびりする時間減るでしょ。』


 至極ご尤も。

 彩羽の正論と一緒に昔を思い出した俺は、無意識の内に笑顔になっていたようだ。


『おっ、やっと笑顔だね。』


 彩羽に言われるまで気付いていなかった。


『陽くんは笑顔が一番。』


 余程の容姿でなければ誰だって笑顔が一番だよな……と思いつつ、俺は彩羽にどれだけ笑顔を見せていなかったのだろうかと少し反省した。


『少しは前を向けたかな?』


 不意に彩羽が俺の顔を覗き込みながら尋ねてくる。


『前?あーうん……正直、里桜の事を忘れる事は出来ないから……』


 彩羽は少し呆れたような表情。


『当然。里桜さんの事は忘れちゃダメだからそれでいいの。里桜さんの事を忘れないまま、前を向けましたか?って事よ。』


 今の俺が、以前の俺と比べて前を向いているか……と言うなら、間違いなく向いていると思う。

 それが彩羽のお陰であることは否定出来ない。


『うん。前を向いていると思う。』


 彩羽はニコニコしながら俺の顔を凝視。


『彩羽に凄く感謝してる。』


『わぉ。』


 彩羽がわざとらしく両手を広げて驚いた顔を見せる。


『いつも俺に”前を向け”って言い続けてくれた彩羽には本当に感謝してる。彩羽が居なかったら多分、子供の頃と同じようにただ流れてただけの気がする。彩羽のお陰で俺は前を見る事が出来るようになったんだと思う。』


 彩羽が俺の鼻の頭を人差し指でツンっと弾く。


『陽くんが前を向いて進まないと、里桜さんが陽くんと出会った意味が無くなっちゃうと思うの。だから陽くんが今、前に進もうと思えてる事が、ようやく里桜さんの”生きた証”になったんじゃないかな。』


 俺は目頭が熱くなるのを感じて彩羽から顔を逸らした。

 俺の隣で彩羽は『良かったよぉ』とか言いながら鼻をぐずぐず言わせている。

 彩羽も俺の為に色々考えてくれてたもんな。


『なぁ彩羽、もう少し俺が前に進む手伝いをしてくれないか?』


 彩羽は睫毛に涙の粒を付けたまま笑顔で俺の顔を見上げている。


『そう来たかぁ。』


 彩羽が俺の腕に腕を絡ませてくる。


『でも”もう少し”では引き受けたくないな。』


 俺は両腕を広げると彩羽を腕の中に閉じ込める。


『じゃあ”ずっと”にする。ずっと手伝ってくれないか?』


 俺の腕の中で彩羽がふぅ~っと大きく息を吐く。


『分かった。任せてよ。』




 彩羽はこう言った。


『里桜さんを失ったのは不幸だけど、陽くんはそれを上塗りして幸せになろうなんて思えない人だよね。でもそういうのも含めて”陽くん”なんだから、上塗りせずに横に積み上げていけばいいんだよ。里桜さんはこっち、私はこっち……ってね。』


 その言葉に俺はどれだけ元気付けられた事か。


 今度、彩羽と一緒に里桜の墓参りに行こう。


 そして里桜に紹介しようと思う。


『俺に前を向かせてくれた人と一緒になる事にしました。』


 って。

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