第六章(1)…… 憑依するもの


 目の前にあるのは、白い車だった。


 近づくと、フロントガラス越しに運転席の男が見えた。背後から、誰かが首元を締め上げている。

 なんとしても腕をはずそうと必死の抵抗をしているが、やがて力尽きる。頭がぐらつき、がくんとうなだれる。


 後部座席のドアが開き、息が上がったままの男が上半身を傾けて車外へと出ようとする。

 運転席の男を押さえつけるのに力を使い果たしたのか、低い位置からのろのろと立ち上がる。扉の上部にやっと顔が覗く。それを認め、急激な感情が湧きあがる。


 あれは、あいつは——


 身体が動いていた。間髪入れずに駆け寄り、距離を縮める。

 男は前方に歩み寄り、運転席側ドアを開けてハンドル脇のキーを引き抜こうとしていた。


 こちらの足音に気づいても遅い。相手が振り返る間を与えない。身を屈めた背後からジャケットを全力でつかみ、引き起こした。


「何故だ!」

 叫んだ声が自分のものではなかった。


 だが気にすることもなく、相手をこちらに向かせると胸元をつかみ直し、力任せに車のフレームに打ち付けた。

 後頭部が金属部分に当たり、鈍い打撃音が響く。

 相手の顔が歪み、呻く声が漏れる。


「何故、嘘をついた!」

「——な……なんだ、てめえ」


 男はうろたえながら声を上げた。反抗的な目がこちらを見ている。思いのほか相手の身体は軽く、容易に扱える。

 質問に構わず、さらに声を張り上げる。


「何故、侑永を見殺しにした! おまえはあの子を」

 そこで息を吸い、声を落として続ける。

「憎んでいただろう」


 びくり、と相手の身体が震えるのがわかった。不審なものを見る目つきは変わらない。

「誰だ、おまえ」

「だれ——?」


 妙に視野の外側が暗く見えた。視界に映る動きは淡い残像を引きながら、中央部分だけ円形に接近して見える。男の顔——須藤務の表情、集中しているせいか、そこだけが浮き上がっている。


「そんなことはどうでもいい」

 眼球内に細かい虫が大量に湧いているかのように、視野全体が散り散りに乱れて定まりにくい。

 答えろ、と口から出た声は低く、凄みのある響きを放つ。


「なんであのとき侑永が家にいたのに、いないと言った?」


 須藤務は口を半開きにしたまま、答えない。「あの日、言われたとおりにしなかったのはどうしてだ? おまえが嘘をついたせいで侑永は煙に巻かれて死んだ。真っ黒に焦げて、生きているときの面影なんてちっとも……あんなにきれいな子だったのに、」 


 内側から溢れるのは憎しみ。

 絶えることのない怒りの情動。おまえのせいだ。呪い続ける。だからぜったい許さない。


「おまえが死ねばよかったのに」


 須藤務は小さく息を飲み、目を見張った。

 その唇が動き、反射で口走る。

 母さん、と言いかけて、我に返る。そんな馬鹿な、と言いたげな疑いの顔色が浮かび、強烈な警戒の気配が漂った。


「いったい誰に吹き込まれたのか知らねえが、好き勝手ぬかしてんじゃねえぞ」

 気味悪いやつだ、と吐き捨てる。

「侑永の最期は警察と身内しか見てねえんだ。知りもしねえヤツがいい加減なことをいうな」


 須藤務は全身に力をこめてつかまれた胸ぐらに抵抗し、車のフレームに押しつけられていた身体を起こした。

 相手が腹を立てているのがわかった。言い訳などではなく、信じ込んでいる現実を言葉にして吐き出す。


「そもそもあいつを殺したのは俺の母親だ」

 こちらを睨みつけてくる。「あの女は、自分の欲のためだけに家に火をつけた。火事があった晩は家族三人が家にいた。深夜で、とっくに寝静まっていて、燃えてるのに気づくのが遅れた。たまたま助け出された俺だけが助かった」


 堰を切ったかのように、須藤務はしゃべった。誰かに訊かれたときのために、ずっとまえから反論の材料を用意していたかのように。

「俺はなにも知らなかった。あの女は、母親のくせに息子と、妻でありながら自分の夫を殺そうとした。家族を消すためだけに放火しやがったんだ。なんで、そんなさなかに俺が便乗する必要がある。わざわざ侑永を殺さなきゃいけねえ理由が、いったいどこにあるってんだよ」


「おまえは、侑永の父親が違うのを知っていた」

 ああ、と須藤務はうなずいた。「そりゃ知ってる」


 薄い唇の端が歪む。

 無造作に切りそろえられた、乱れた前髪が影を落とす。

 痩せて、生気の薄い顔色は照明の下で灰色に見える。生きながら、死んでいる者。そんな印象だった。


 須藤務は嘲笑っている。

「いつも不思議に思ってたよ。母親からの、俺と弟の扱いがどうしてあんなに違うのかってな。たしかに、知ってやっと納得したよ。だけど」 


 両の眼が細まる。こちらを見上げる顔には悲痛があった。


「俺がそれを知ったのは、火事で弟が死んだ後だ」


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