第四章(1)…… 生者と死者


 玄関扉の鍵を開けて中に入る。すでに居間の照明は消えていて、家全体が寝静まっている。


 洗面所の閉まった扉の隙間から暖色の照明が漏れていた。就寝前の身支度をしていたらしい和哉が、修哉の帰宅に気づいて出入り口から顔を覗かせ、おかえり、と小声で言った。

 ただいま、と返す。


「もうみんな寝てるよ」

 みんな、とは当然、両親のことだ。

「母さん早番だって。父さんはいつもどおり」


 両親は早寝早起きの習慣で生活が回っているが、修哉も和哉も宵っ張りのせいで家族間の活動時間にはズレがある。

 時刻は深夜の十二時を回ったところだった。


「わかった」と応じる。

 背後に視線を感じつつ、二階への階段を上がる。自室のドアを開けると、真っ暗な部屋がいつもと違う雰囲気なのに気づいた。

 照明を点ける。床に額をつけて伏した、大男のスーツ姿が部屋の中央にあった。

 一瞬、侵入者と思わしき姿にぎょっとして身構える。だが、見覚えのある服装と体つきに、相手が誰なのかわかって緊張が緩んだ。


「――グレさん」

 ドアを閉めるなり、小声で話す。


「兄さん、ご無事でなによりです」

 グレは頭を上げて立ち上がった。修哉と離れられないせいか常に浮遊状態にあるアカネと対照的に、グレは地面から浮かずに歩く。


 これはどうしてだろうな、と修哉は思った。個々にこだわりでもあるんだろうか。

 荷物を床に置き、子どもの頃から使っている学習用机の椅子を引いて座る。疲れた、という感覚がどっと降ってくる。


 修哉はグレに顔を向けた。

「さっきは助かりました。ありがとうございました」

 頭を下げてから、床に落とした視線を戻す。


 グレは面食らったような顔をしていた。アカネがグレの顔を覗き込んで含み笑いをしつつ、片手を口もとに添えて言う。


「やだ、なあに? グレったら照れてるの?」

「茶化さんでください。慣れんことで少し驚いただけです」

 

「ねえ、シュウはどこまで覚えてるの?」

「ぼんやりと」アカネとグレを視る。「自分がどうなってたかはよくわかりませんが、声は聞こえてました。あと、断片的に記憶が流れ込んできて」


 胃の辺りがひどく重たくなる。

 厭な光景を視た。なにもかもがぐちゃぐちゃに乱れた死の間際。生きているのに、最期を体感するとは思いもしなかった。


 自分とはかけ離れた世界にいた。なにもかもが混乱しているのに、普通――自分はまともだと思い込んでいる。気づけない。壊れた思考で憎悪を募らせ、雑言の数々に浸る。

 ほんの短い時間だったはずなのに、とても長く感じた。こちらに戻ってこられて良かったと心底安堵した。他人の記憶でよかった。あんな状態で日々を過ごすなんて耐えられない。あんな人生は厭だ。 


「あれは、話し合いのできる相手ではないと思います」


 胸が苦しくなる。修哉は深く吐息を漏らした。

 察したのか、グレが穏やかな口調で話を切り替える。


「ひとまず、いまはできることを考えましょうや」

 両手で制するしぐさをして、修哉の左手に握られたスマートフォンを指さす。

「まずは住所を調べてみてはどうでしょうか」


「えっ、住所?」

「アパートで見たはずです。メモにあった住所ですよ」

「なんでグレさん、それ知ってるんです?」

「だって一緒にいたもの」


 アカネの返答に、え、と修哉は驚いた。


「気づかなかった? 姿は見せないし大した力も使えないけど、あたしの後からずっと見てたわよ」

 アカネは壁際に立つグレに目を向けた。

「ちょいちょいこのへん引っ張ってくるから、うっとおしくて」と言い、右腕の脇裏あたりを左手でつまむ。


 グレは目線を下げ、申し訳なさそうな顔になった。

 つい想像してしまった。あの巨体でアカネの後ろに隠れて、なにかを訴えるとき、腕のあたりをつついていたのか。


 ずんぐり体型の、つぶらな目をした黒い熊をなぜか連想した。以前、中におっさんが入ってるんじゃないか、と思うような立ち姿で芸をする熊の動画を見た。ちょうどあんな感じだろうか。

 アカネの腕にちょっかいを出してしつこくじゃれついている。なんだろう、すごくしっくりくる。


「でもあれ、なにが書いてあったかわからなかったんですけど」

 修哉の想像を知りもせず、グレが口を開く。

「わかりますよ」

「えっ?」


 グレはすらすらと住所を言ってのけた。

 驚いて思わず「よくわかりましたね」と口にしていた。


「あの手の文字は散々目にしてきましたから。要は慣れですよ」

「そんなもんですか」


 スマートフォンの地図アプリに、グレから口伝えされた住所を打ち込む。検索すると位置情報で示しされたのは駅から徒歩で十分ほどの、観光地として賑わう地区の建築物だった。

 なにより、今までよく忘れずにいたものだと素直に感心する。オレなんか一文字も覚えてもいなかったのに。


「グレさん、すごいですね」

「見たままを視覚で覚える特技がありましてね。学はないですが、記憶力には自信があります」


 本心から出た言葉らしく、グレは誇らしげに胸を張ってみせた。

 地図から周辺写真に切り替えると、繁華街のはずれにある高層物だとわかる。


「これ、立体駐車場……?」

 なんでこんな場所の住所なんか、と思いながら修哉は画面を見つめた。グレが続ける。


「そういえば須藤務のアパートで見たカレンダーの丸印に、一カ所だけ書き込みがありましたが」

「ああ、あれ? 結局なんだかわからなかったのよね」

「じつは私、ずっと頭んなかであの書き込みの解読を試みてたんですがね」

 グレが空中に指で文字を書いて確かめる。

「あれは二十時を示してるんじゃありませんかね」


「え」

「数字を横書きにコロン――」空中に点をふたつ打って‥を書き「紙面から筆記具の先を離さずに書き殴ったらああなるんじゃないかと」


 容易に言ってのけるグレを見つめ、修哉とアカネは同じように空に線をたどってみた。

「ええ?」と「ああー!」の声が同時にあがる。


 いぶかしげな表情のままのアカネに対し、修哉は感心していた。

 のたくった線があまりに早く、文字と呼べないほどに乱れて、自分さえわかればいいという暗号に近い。

 あるいは正常な思考でないときに記して、書いた本人でさえ判読不能なのではないか。


「よくわかりましたね」

「残す情報なんて限られてるでしょう」

「それだったら、最初の文字7かもしれないし、1かもしれないじゃない?」とアカネが横槍を入れる。

「7はないにしても1の可能性はありますね。それだと午前の十時となりますが。ただなにかの取引を行うなら、午前中の人目が多い時間は避けたいところです。人の記憶に残るのはなにかと面倒だ」


 苦笑するグレに、アカネが「え、そういうものなの?」と疑わしげな表情を浮かべる。


「じゃあ、メモにあった住所の最後にあった記号っぽいやつは?」

 こうなれば、グレに頼ってしまったほうが早い。

「どんな文字だったか覚えてますか?」

「えっと……」


 ひらがなの、みに見えた。空に書いてみて、ふとひらめくものがあった。思い違いをしている。これはふたつの文字だ。数字と英字、ひとつずつが並んでいる。点が打たれた7、英字のF。あらためて酷い癖字だな、と思う。

 そうだよな、たしかに必要な情報だ。


「これって7階か」

「おそらくそうでしょう」とグレが言った。

「じゃあ、カレンダーの丸印がついてた日に、この住所の場所で待ってれば須藤務が現れるかもしれないの?」


 アカネの問いにグレが答える。「確実ではないですがね」


「でも待ち合わせるには、ずいぶん変わった場所よね?」

「経験上――」記憶を掘り起こす目で、グレは顎をさすりながら言う。「こういった場所を選ぶのは、他者から見られたくない後ろ暗い理由があったりするもんです」

「須藤務がなにか企んでて、ここで誰かと待ち合わせてる……とか?」


 グレがうなずく。

「まあ相手の弱味を握れたら拾いものって程度かもしれませんが、自分だったら下っ端走らせて探らせるでしょうな」


 なにか企んでて、というアカネの言葉が、修哉には妙に気にかかった。気持ちがざわつく。

 ふとアカネが自室のドアへと目をやる。


「アカネさん?」


 口もとに人差し指を寄せ、自室の閉じた扉の前に移動する。アカネがこちらを見る。そしてふたたびドアのほうへ視線を向けた。


「カズくんが外にいる」



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