第三章(6)…… 味方の懇願


 行きの行程よりも、帰りの道のりが短く感じるのは何故だろう。


 体感にして半分ほどの時間で、最寄り駅に戻ってきたような気がした。

 電車で移動し、乗り換えをする。梶山はあえて明るく振る舞い、駅についたらなんか食って帰ろう、と言った。


 修哉も、すぐに帰る気にはなれなかった。

 あんな異常なものを視て、無防備に受け入れてしまった。もう終わりだと思った。あんなふうに生きたまま、死を体感するなんて二度とごめんだ。


 胸の内がざわつく。まだしばらく、梶山の近くにいたほうがいい。もうすこし胸のうちが落ち着くまで。こいつといれば変なものは近づいてこないから。


 自宅からの最寄り駅に着いたときには、すでに八時を回っていた。

 駅近のファミレスに立ち寄り、窓際の席を陣取り、見慣れた景色を眺めて、ほっとする気分になった。


 アカネは背後に引っ込み、視界の横にも入らない。邪魔する気はない、という意思表示をしている。


 気力回復には肉だとばかりに、ハンバーグ定食とドリンクセットを頼む。料理を待ちながら、梶山は当たり障りのない話をした。話しにくい内容は、食事の後にするつもりなのだろうと察する。


 あえて触れようとしない梶山に、修哉は待ちの姿勢に入った。

 食事を終え、セルフサービスのドリンクを三度交換して、ようやく梶山が口を開いた。


「それでさ、さっき聞き込みでわかったことなんだけど」


 なにを混ぜたのかわからない色の液体が入った自作ドリンクを一口含み、飲み込んでから続ける。


「あんまりいい話じゃなかった」


 ああ、と修哉は頷いた。見せられたからわかる、とは到底言えなかったが、梶山の重たい口振りからもなんとなく想像がつく。


「あそこの母親、かなり目立ってたらしい。あの辺で頻繁に騒ぎを起こしてたとかで、ちょっとした有名人だった」

「騒ぎ?」

「痴話喧嘩をしょっちゅう大きな声でやらかしてて、近所迷惑だったって話」

「外で痴話喧嘩ってことは、再婚してないのか」


「内縁らしい。あくまでも噂だけど。息子のいないあいだに男を引っ張り込んでるって悪評が立ってる」

「……それは……またずいぶん……本当ならマジで嫌だな……」


 口ごもりながら感想を述べつつ、さきほどの光景が甦る。あんな崩れた肉塊も、生前はまともな人の姿をしていたはずだ。須藤兄弟の母親は、どんな人物だったのだろうか。


 昼にイベント会場で会った、須藤夫人を思い出す。

 あの夫人と性格が合わないとなると、そうとうキツい性分だったんじゃないか、という気がした。


 梶山は斜め下を見たまま、片手の人差し指と中指の二本を眼鏡のフレーム中央に当て、ずり落ちかかっている視野を押し上げて直した。


「あの家のじいちゃんに話を聞きに行っただろ。そしたら、お話好きなおばちゃんが隣から出てきちゃって」

 そりゃもういろいろ詳しく話してくれてさぁ、と感情に任せて大きな声を出し、梶山にしては珍しくうんざりした顔になる。


「じーちゃん勝手に引っ込んじまって、俺だけ残されちゃってさ。どうやって引き上げようかと参ったよ。俺、ああいう手合いの話をめっちゃ嬉しそうに話す人は苦手だ」


「オレも」

 すぐさま修哉も梶山に同意する。

「っていうか、オレは人付き合い全体がイマイチだけどな」


「俺はひとの話を聞くのは取材みたいで好きだけどな。ま、そういうのは向き不向きがあるもんだから、いいんじゃないの。悪口放題で実もない話を聞いてるのはつらいけどさ」

「そんなに酷かったのか」


 うーん、と唸り、梶山はグラスの中の氷をストローでくるくる回している。


「愛人だーとか凄え顔して言ってたよ。言ってたっていうより、吠えてた、だな。ホストにしちゃ、歳や身なりがくたびれてたらしいけど、わりと見栄えがする男とこれ見よがしにいちゃついてたって」


 見栄えのする中年ってどんなだろうなあ? と梶山に訊ねられて、修哉は首をひねった。


 最近は、四十代でおっさん、おばちゃんと称しても年齢の見分けがつかないのが多い。

 芸能人や対人仕事をするような、金に困らない層はお直しと称して軽い整形を施して、十も若い世代に入ってもひけを取らないし、一方で不摂生を重ねていると思いのほか老けてたりする。ネットの動画を眺めていると見た目の年齢だけでなく、性別を超え、美醜など化粧でどうとでもなるから見かけはまったくあてにならない。


 ともかく、と梶山は話を戻した。

「小さな子どもがいる家庭には悪影響しかなくて迷惑だし、成人した息子の手前、いい年してみっともないってさ」

「うわぁ……」


 ド正論である。たしかに年齢はどうであれ、表でいちゃつく程度を越えれば苦言のひとつも言いたくなるのはわかる。だが、それを梶山のような若造に悪意をたっぷり詰め込んで伝えてくるのも、どうかとも思う。


 溜まりに溜まった不満を、憂さ晴らしに吐き出す。吐き出された鬱憤は、強弱すらあれど伝わった側の気持ちを毒のごとく侵す。

 どのみち、どっちもどっち、という感想しか湧かない。


「別れるだの別れないだの、お金がどうこうとか、なんか大声で喚いてることもあったらしい。昼間から酒臭かったって話だし」


 須藤務の家庭は間違いなくすさんでいたのだろう。垣間見た光景を思い出す。足の踏み場がない、汚れた部屋。

 反動からなのか、今は人が暮らしているとは思えないほどの、ものが最小限となった部屋。


 あの住宅地に騒々しい異質が紛れ込んだならば、早々に厄介者の扱いを受けただろう。誰からも相手にされず、周囲から孤立していったに違いない。


「須藤の母親はあの場所に居着いたころから精神面で不安定なところがあったとかで、病院にも通ってたらしいんだ。息子のほうは至極真面目で、必死に支えてたらしい。仕事を掛け持ちして夜間も働いてたから、目の届かないところで騒ぎを起こす母親の後始末でしょっちゅう謝って回ってたってさ」


 溺愛していた息子を失い、夫を亡くした後の精神状態とはどんなものなのか。


 感情が乱れ、精神が崩れる。心が壊れる。本人は壊れていることに気づかない。気づけない。

 ぽっかりと大きな穴が空く。穴を埋めるために、外見だけの新しい男に溺れたか。わからないとは思わないが、もうひとりの息子が生き残っているのに、立ち直れない弱い母親にはいらだちを感じる。


 同居していた息子は、母親を憎んでいたのだろうか。関わりたくなくても、血が繋がってるだけで切り捨てられないものなのか。

 須藤務は面倒を見続けた。義務感だけで続くものなのか。周囲に迷惑を撒き散らす母親の醜態に、死んで欲しいと心底願ったか。それとも、母親への愛情だけでただ支え続けていられたのか。 


 自分だったら、と考えて、思いはつい最悪の方向へと至る。人ひとりが入るていどの箱のような、水を張った風呂桶に詰め込まれる。呼吸が止まる瞬間の、苦しさを思った。


 やるせない気持ちを溜め込みたくなくて、修哉は深い溜め息をついた。


「で、昨年発覚した母親の死因なんだけど」


 梶山は声を落として、修哉に顔を寄せた。


「息子の務が夜勤から帰ったら、すでに風呂場で死んでたらしい。溺死だったんだけど、処方されてた薬を摂取量を超えて飲んだあとがあったらしくて、表向きは事故になってるけど実際は自殺じゃないかって言ってた」

「――自殺?」

「救急車だけでなく警察も来て、大騒ぎになったらしい。あのあたりの住人はみんな知ってるって言ってたよ」


 陰鬱な空気が落ちた。


 おもわず修哉は梶山と同時に溜め息をついた。おたがいが気づいて、不謹慎ながら力なく笑い合う。


「母親の葬式が終わってすぐに引っ越していくかと思ったけど、須藤の息子はまだあの場に住んでる。大家に世話になってるから迷惑かけたくないし、十年暮らしてると馴染みの住人もいくらかいるとかで、もうしばらくここで暮らすつもりだって話してたのを聞いたって話だ」


 ――迷惑になるから、しばらくここで暮らす?


 修哉はあの部屋の、閑散とした寒々しい光景を思い浮かべた。

 あれは……、長く住まうような生活空間ではない。


 ま、そういうことだ、と梶山は渋い表情を捨てて、平坦な口調で言った。


「おばちゃん、事情通で大体のことはわかって助かったよな。で、シュウ。これからのことなんだけど」

 急に言葉が尖る。

「おまえ、絶対にひとりで動くなよ」


 眼鏡の奥から真剣な眼差しが飛んでくる。気迫に圧され、ぐっと息を飲み込む。

「いろいろ思うこととか、考えることがあるのはわかる。けど、一応警察が入って、ひととおり処理が済んでる件なんだから、ひとりで須藤に会いに行ったりするのはやめとけよ」

「……どうして」

「どうしてって」


 たとえば、と梶山が人差し指を立てる。


「白なら、――つまり、須藤兄が一連の死亡者に対して巻き込まれた側だった場合。まあ、これはさほど心配要らないと俺は考えてる。シュウが須藤兄に直接対決で川に投げ込まれた話をしたところで、謝るか居直るかにしてもまず想像の範疇に収まると思う」


 だけど、と梶山は声を低くした。


「もし、一連の件に対してぜんぶ手を出していて、うまく逃げ延びてるのだとしたら、だ。単にドえらい運がヤツに味方してるか、ヤツ自身がホンモノの切れ者だったとしたら――、後者だったらおまえひとりで対抗できる相手じゃねえぞ」


 指先を顔に突きつけられる。


 いち、に、と人指し指と中指を立て、ひとり目とふたり目は火災で死亡した須藤侑永とその父親を暗に示す。


「せっかく生き延びたのに、あいつの殺人リストの四人目――、いや」

 さん、と薬指を増やし――三人目は川に投げ込まれた修哉、よん、――四人目は須藤の母親を小指で表した。


 反対の手で薬指を折り曲げ、

「列に並んで、過去に順番が終わったはずの殺しの対象に、また舞い戻りたくないだろ」

 そう言って、薬指を立ててからまた曲げて見せた。


 手を引っ込め、真剣な声色に深刻さが帯びる。


「俺は自分が五人目になるようなヘマはしたくない。だから慎重にいきたい。手伝うのは約束する。だからシュウ、頼むから俺の知らないところで動くのだけはやめてくれ」


 説得されている。もはや懇願に聞こえた。ここで毅然と拒めるほど、修哉は相手の気持ちを無碍にできそうもない。


 溜め息まじりに返答する。

「……わかった」


「約束だぞ、絶対」


 念を入れられて、頷くしかなかった。


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