第5話


 聡子と知り合ったのは、18歳。大学一年の頃だ。

 お互い、地方から上京して、右も左も、分からない者同士。

 語学のクラスが一緒で、同じサークルに入って、

 同じゼミに入った頃には、ごく当たり前に、身体の関係があった。

 相性は良いほうだったと思いたい。

 

 学生結婚をせがんだのは、聡子のほうだった。

 俺はもっと、遅くても良かった。

 理由を聞いても、はぐらかされてばかりで、仕舞いには、こう揺さぶってきた。


 (「私と結婚、したくないの?」)


 結婚した後、聡子を働かせたくなくて、

 遠山に後ろ指を指させないためだけに、残業を入れまくった。

 

 それが、聡子との縁が切れた理由。

 甲斐性がなかった。結婚生活をつまらなくさせてしまった。

 見た目だけはダンディで甲斐性のある、入江本部長代理に流れさせてしまった。


 そう、思っていた。

 つい、今日まで。

 

 違う、というのだろうか。

 何が、どう。

 

 今更。

 もう、今更だ。

 何も、かも。

 


 廻されたハイヤーを降りると、

 とっぷりと暮れた夜が、仮住まいの借家を音もなく包んでいる。

 東京では、これからまだ一仕事あったのに。


 いや。

 

 東京では、こんな音のない夜は、なかった。

 静まりかえった、光源ひとつない夜は。

 

 闇の中で、酔った手を手繰りながら、鍵を開ける。

 マンションなら、管理費で灯りがついていたろうに。


 ちっ。

 鍵穴に、うまく、刺さらない。

 あぁ、指先が震えてやがる。


 弱ったな。

 自分の部屋なのに、帰れないだなんて。

 

 ……帰れない、か。



 がちゃっ



 「……おじさん?」

 

 聡子。

 ……いや。

 

 「柚葉、か。」

 

 「そうだよ。

  ……遅かったね。」


 ああ。


 なんか、泣けてくる。

 俺のために、鍵を、開けてくれる人がいることが。

 

 「……ぇ。」

 

 「ありがとう、柚葉。助かった。

  入れなくなるところだった。」

 

 柚葉の太めの身体が、今は有り難い。

 

 「………おじ、さん……?」

 

 とんでもない。

 太めだなんて、何を言ってるんだ。

 

 「柚葉。

  がんばってるな。偉いな。

  見てるぞ。俺は、ちゃんと、見てるぞ。」

 

 聡子に、言ってやるべきだったのだろう。

 聡子を、もっと見ていれば良かったのだろうか。

 聡子の心を、もっと知っていれば、違ったのだろうか。

 

*


 酔っていた。

 接待から外れていたから。久しぶりに深酒をしたから。

 

 抱きしめてしまった。

 柚葉を。


 太っている女性だから、BMIが30近いから

 抱きしめても罪にならないなどという法があるはずがない。

 柚葉だって、立派な大人だ。法律上、成人している。

 血縁関係のない、縁のない女性を。

 

 純然たる痴漢行為だ。

 埼京線のヤニ臭い酔漢と何が違うのか。

 俺が、入江を嗤えるわけがない。


 謝るべきなのだろうが、

 どう、謝って良いか、まるで分からない。

 下手したら、逮捕されるかもしれない。誰にも、相談できない。

 

 「竹内課長。」

 

 !?

 

 「ど、どうされました?」

 

 は、はは。

 俺、ちょっと、どうかしてるな。

 

 「なんでもありません。

  ご用件は。」

 

 「は、はい。

  子育て休暇に関して、ご指示通り、

  論点整理を致しましたのでお持ち致しました。」

 

 「ありがとうございます。

  大変助かります。」

 

 仕事だ。

 仕事さえしていれば、忘れられる。

 聡子のことを、忘れられたように。


*


 ……ってわけには、いかないわ。

 

 「竹内君、どうしました?」

 

 部長が18時前に帰れる職場だもんなぁ…。

 業務効率、俺が調子にのって引き上げちゃったもんだから、

 研究所に残る理由が一つもない。


 「いえ。

  なんでもありません。」

 

 あ。

 

 「柚葉の件、ありがとうございました。

  助かりました。」

  

 借金取りの件を事前に知らされなければ、流石に少し戸惑った。

 ヤクザ相手に余裕ぶっこいていられたのは、事情が分かっていたから。

 

 「なによりでした。」

 

 柏木さんは、余計なことを言わない。

 社員に対して、とっつきにくい態度を貫いている。

 でも、それだけの人なら、地元の消防団に溶け込める筈がない。

 

 上司に恵まれるというのは、こうも幸せなことか。

 といって、柏木さんに相談できることでもない。

 

 「私も帰ります。」

 

 考えないといけない。

 柚葉のこと、聡子のこと、俺のこと。

 時間だけは、たっぷりあるのだから。


*


 「……お、おかえりなさい、有樹、おじさん。」 


 自己嫌悪。

 真夜中に酔っ払ったおっさんに抱きしめられたんだもんなぁ。

 

 あ。

 おっさん。

 

 もう、おっさんになっちゃってたんだ、俺。

 30歳だもんな。言い逃れ、できないもんな。

 

 「……ほんと悪かった。怖かったろ。」

 

 柚葉は、父親から暴行を受けていたから、

 オトコに近づかれるのは怖いはずなのに。

 ……なんてこと、しちまったんだ。

 

 「う、ううん。

  ぜ、ぜんぜん。」

 

 下を向いてるが、拒絶はしていない、と思う。

 気を使ってくれているのか。他のところに行けないからなのか。

 わからない。俺には。


 黄昏が、部屋の中を覆っていく。

 ふっくらとした柚葉の横顔を、薄橙色の淡い光が、ゆるやかに縁取っていく。


 「げ、ゲーム、……しよ?」


 そう、かもな。

 身体、動かしてれば、忘れられることも多い。

 一緒に動いているうちは、柚葉と笑っていられるのだから。

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