晴れ渡った南国の空のように、真っ青なポリバケツ。俺はたった今、その蓋の上に、食ったばかりの物を残らずぶちまけているところだ。

 いつもなら、ほろ酔い気分で家に着いている時間だ。しかし今夜は、こんなひと気のない雑居ビルの影で、ゴミ臭いバケツと向き合っている。

 俺の上司が、……千切れた残飯のキャベツか、それ以下の価値しかないクズが、醜い愛欲の果てに切り捨てられた首の後始末として、俺に山のような残務を押し付けたからだ。あの腐ったキャベツは、いつか殺してやろうと思っていたのに、勝手に俺の手の届かない所へ消えてしまった。

 それにしても、憂さ晴らしのつもりで、いつもより飲み過ぎた。ひと通り胃の中を空にして立ち上がろうとすると、何かが首に巻き付いた。

「お兄さん、大丈夫?」

 注連縄のような極太の腕が、俺の肩を締め上げる。

「結構飲んだんだねえ。あらら、バケツもこんなに汚しちゃって」

 振り向くと、巨大なナッツ入りチョコレートが宙に浮かんでいるような、黒光りする顔面が目の前にあった。知らない男だ。ヤニ臭い息が頬にかかる。

「財布出して」

 恐喝か。くそ、失敗した。吐き気につられて、こんな路地に入るべきじゃなかった。財布は鞄の中だ。しかし、酒のせいで、頭が回らない。

 もたもたしていると、絡み付いた腕が離れた。体勢を整える間もなく、頭髪を毟られる感触と同時に、俺はバケツの蓋に鼻から突っ込んでいた。

 何が起こったかわからないまま、続けてもう一発、さらにもう一発。鼻から頭の先に焼けた杭が貫通したような熱が広がる。唇の周りにぬるい液体が流れるのがわかる。そして、もう一発。男の拳とバケツの蓋に挟まれた俺の顔は、万力で潰されたようにひしゃげ、汚物と血にまみれてのたうった。

「汚ねえなあ」

 そう言いながら男は、鍋の蓋を開けるように俺の頭を持ち上げ、もう一本の太い腕で、剥き出しになったみぞおちを思い切り突き上げた。気道が潰れたかと思うほどの衝撃で息が止まり、代わりに喉の奥に詰まっていた晩飯の残りが泡となって噴き出た。髪を掴んでいた手が離れ、支えを失った俺は一瞬宙を漂い、直後に鉄塊のようなブーツに脇腹を抉られ、ポリバケツと踊りながら吹っ飛んだ。

「一万……三千。しけてんな」

 辛うじて片目を開くと、男が俺の財布を放り投げて、カードケースから紙切れを抜き出すのが見える。

「お、名刺見っけ。これ、あんたの? 何の会社?」

 喋りたくもないが、どちらにしろ声も出ない。受け取った名刺は全て会社に保管してあるから、きっと俺のだ。

「ま、いいや」

 男はバスケのシュートさながらに、カードケースを倒れたポリバケツに投げ入れてから、散歩でもするように立ち去った。

 ようやく肺が空気を受け入れ始めると、俺はふらつきながら荷物を拾い集め、そのまま再びへたり込んだ。悪いことは続くと言うが、ここまで最悪な日も珍しい。腐った生ゴミで顔を洗ったような酷い臭いで、今にも卒倒しそうだ。溢れる血が鼻の奥を堰き止めて、呼吸もままならない。蹴られた脇腹がじりじりと痺れる。酔いが覚めたらもっと痛むのだろうか。くそ。これも全て、あの腐ったキャベツのせいだ。

 そう思いながら、俺は酩酊と疲労に絡め取られ、目を閉じた。


「大丈夫?」

 意識が途絶えそうになった時、誰かが声を掛けた。

 ……今度は何だ。重い瞼を上げ声の方を見ると、女が立っている。賑やかな通りを十分も歩けば百人は擦れ違うだろう、ありふれた若い女だ。女は黒目だけ動かして俺と散らばったゴミを眺めると、俺のすぐ横に座り込んだ。

「痛い?」

 やけに馴れ馴れしい。気に掛けるような物言いだが、まるでその気がないのは、冷たく凍ったように無関心な表情でわかる。心配ではなく、興味か、いや、どちらでもないだろう。何の感情もないただの挨拶だ。

 男の仲間だろうか。金も奪って、用は済んだはずだ。まだ何か続きがあるのか?

「手酷くやられたね」

「……もう何も、持ってない」

 自分の声とは思えないがさついた音が喉から漏れる。

 瞬きもせず、俺の目を直視し続ける女の目。どこにでもいる、際立った特徴もない扁平な顔立ち。だからこそ、ぴくりとも動かないその表情が、かえって得体の知れない人形のようにも見える。

「さっきの男とは関係ないよ」

 まるで俺の心の声と対話するように、女は言葉を続ける。

「当然警戒するだろうね。でも大丈夫。落ち着いて」

「用があるなら……、さっさと言ってくれ」

 声を出すのも億劫だし、関わり合う気は一切なかったが、黙っていてもこの女は消えてくれない気がする。俺の目を見据えたまま、女はゆっくりと立ち上がった。

「それじゃあ、さっさと言おう。あんたと、取引がしたいの」

 取引? 何の話だ。知らない間に、この女に弱みでも握られているのか。だが、思い当たることもないし、失って困る物も思い付かない。さっきの男とは無関係だと言っていたが、それだって到底信じられた話ではない。

「何が言いたいか知らんが、金はない」

「金はいらない」

 何なんだ、鬱陶しい。こんな面倒な女はほっといて早々に立ち去るのが懸命だ。しかし、立ち上がろうとすると脇腹が強烈に痛む。

 ……仕方がない。適当にあしらっておけば、いずれは消えるだろう。

「最初が一番大変なんだよね」

 女は独り言のように続ける。

「何か、こう、ぱっと交渉に入れる手段はないものかと、いつも考える」

 ピアノを弾くように、女の指が動く。その瞬間、俺の目の前で、女の足が、ゆっくりと地面から離れる。ピアノではない。あの手は、バランスを取っているのだ。

 そのまま、女は地面から一メートルほど浮き上がり、静止した。

「だから、最近はこうやって、実際に見て理解してもらうことにしてる」

 女は空中から、一つのポリバケツを指さした。俺が視線を向ける間もなく、バケツから炎の柱が勢いよく立ち上がり、すぐに消えた。吹き飛んだ蓋が、時間差で地面に落ちて、乾いた音を立てて転がった。

 手品か。いや、そんな陳腐な物ではない。何かはわからないが、俺の理解の外にある、極めて危険な何かだ。

 一気に酔いが引いていく。代わりに全身を浸していくこの感覚は、恐怖か。

「さて、それじゃあ本題に入りたいんだけど、いいかしら?」

 唖然とする俺を見下ろしながら、女は作り物のような笑みを浮かべた。



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